学位論文要旨



No 128891
著者(漢字) 金子,沙永
著者(英字)
著者(カナ) カネコ,サエ
標題(和) 明るさ同時対比および色同時対比の時空間特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 128891
報告番号 甲28891
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1202号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 村上,郁也
 東京大学 教授 岡ノ谷,一夫
 東京大学 教授 中澤,公孝
 東京大学 教授 新井,仁之
 東京大学 准教授 四本,裕子
内容要旨 要旨を表示する

序論:我々ヒトは外界についての情報を得るために視覚入力を用いているが,我々が"見ている"と感じるものは外界そのものではなく,眼に入力された情報から外界を推定した結果である。視覚システムはこの推定を行うために様々な手がかりを利用している。この手がかりの1つに空間的な文脈があることを示唆する錯視現象が明るさ同時対比・色同時対比である。同時対比とはある刺激(テスト刺激)の見え方がその周辺にある刺激(誘導刺激)の特性と逆方向に偏って知覚される現象で,周囲が明るいと暗く,暗いと明るく(明るさ同時対比),また周囲が赤いとより緑に,緑だとより赤に(色同時対比)テスト刺激の見え方が変化する。De Valois et al.(1986)やRossi & Paradiso(1996)といった先行研究は,周期的に輝度・色が時間変調する誘導刺激からの同時対比効果がテスト刺激に見られるのは変調が2.5 Hz程度までの低い周波数である場合に限られることを示した。ここから,同時対比は刺激の速い時間変化に追従できない,遅い処理過程であると考えられてきた。一方で近年の研究は,瞬間呈示された刺激にも明るさ同時対比が見られることを示している(Robinson & de Sa, 2008)。これは同時対比の時間特性が速い可能性を示唆している。本研究は特に同時対比を生むような処理過程の中でも,速い応答特性を持ったものの存在証拠に焦点を当てた研究を行う。

研究1:まず,そもそも同時対比が刺激呈示時間の非常に短い瞬間呈示の場合にも見られるのかどうか検討した。Robinson & de Sa (2008) は,最短58 msの呈示時間でも明るさ同時対比が知覚されることを報告している。より短い呈示時間でも同様に同時対比が生じる可能性についても彼らは指摘しているが,データは得られていない。またBlakeslee & McCourt (2008)の研究も同様に明るさ同時対比がほとんど時間遅れなく生じることを示唆しているが,この実験は,直接的に明るさ知覚を測定したものではない。そのため,実際の知覚や呈示時間と錯視の強さの関係などが不明である。またこれらの先行研究はどちらも色同時対比には言及していない。そこで研究1では明るさ同時対比(実験1),色同時対比(実験2)の両方について,互いにほぼ同一の実験環境で測定した。実験では瞬間呈示条件(CRTディスプレイの1フレーム約10 ms)と定常呈示条件(500 ms)でのテスト刺激の見えの明るさ・色を比較した。被験者は,繰り返し呈示されるテスト刺激の見えの明るさ・色と等しく感じられるまで比較刺激の輝度・色を調整した。色同時対比の実験で用いた誘導・テスト・比較刺激の色はすべて等輝度であった。その結果,明るさ同時対比・色同時対比のどちらも瞬間呈示条件での同時対比が定常呈示の場合よりも強いということがわかった。この結果から,同時対比には遅い処理過程だけでなく瞬間呈示された刺激に応答できる速い処理過程も何らかの形で関わっているということを示すことができた。また色同時対比に関しても明るさ同時対比と同様の結果が得られたことは,両者の処理に共通のアルゴリズムが存在することを示唆している。

研究2:次に,テスト刺激と誘導刺激が空間的に隣接しているかいないかが瞬間呈示で見られる同時対比にどのような影響をもたらすかを調べた。古典的な同時対比の背景にある神経機構として,しばしば中心周辺拮抗型の受容野を持つ神経細胞の側抑制が候補に挙げられてきた。側抑制は比較的狭い範囲で生じる効果であり,単独で同時対比の効果全てを説明することは出来ないものの,1つの重要な要因であることは広く知られてきた。この研究では,テスト刺激と誘導刺激の間に空間的なギャップ(0-1°)をはさみ,錯視量がどのように変化するかを調べた。これにより瞬間呈示での同時対比の局所的な要因の寄与度を調べた。もし錯視が完全に局所的な要因(エッジ部のコントラスト)に依存するものであれば,テスト刺激と誘導刺激を離すことにより錯視量は大幅に減少すると予測される。実験の結果,明るさ同時対比・色同時対比のどちらにおいても,瞬間呈示での錯視量はギャップの幅が広くなるに伴って減少することが示された。ここから瞬間呈示での同時対比が,テスト刺激と誘導刺激の境界部のコントラストに強く依存しているということが明らかになった。定常呈示条件については,明るさ同時対比ではギャップ幅によらず一定の錯視量が得られたのに対して,色同時対比では瞬間呈示条件と同様にギャップ幅が広くなるほど錯視量が減少した。この結果により,明るさ同時対比には呈示時間によって空間特性の異なる複数の処理機構が関与していること,色同時対比はその限りではなく,局所的な相互作用が呈示時間によらず重要であるということが示された。

研究3:研究1により,誘導刺激が短時間呈示されると同時対比の効果が強まるということが示された。研究1では呈示時間2条件のみの比較をしていた。同時対比の時間特性をより詳細に調べるため,研究3では刺激の呈示時間を系統的に操作し,明るさ同時対比・色同時対比の錯視量の変化を調べた。呈示時間は10 msから640 msまでの7条件で操作した。誘導刺激には異なる輝度(明るさ同時対比)もしくは異なる等輝度色(色同時対比)各4条件を用いた。実験の結果,錯視量は用いたほぼすべての明るさ・色で類似した呈示時間依存性を示していた。錯視量は呈示時間が最も短い条件で最大を示し,その後呈示時間が長くなるにつれて急激に指数関数的に減衰した。減衰の速さを表す時定数τを得るため,被験者・誘導刺激条件ごとに錯視量のデータに対して指数関数のフィッティングを行った。τは最短の呈示時間で最大値を示す錯視量が一定の値まで減衰するのに要する呈示時間の長さを示している。フィッティングの結果,個人差が大きいものの,τの値はおよそ100 ms未満という小さい値を示した。明るさ同時対比・色同時対比それぞれの誘導刺激4条件の間には有意なτの値の違いは見られなかった。両実験に参加した被験者3名の結果での比較を行ったところ,明るさ同時対比でのτの方が色同時対比でのτよりも平均で約56 ms長かった。明るさ同時対比と色同時対比の実験では細かな実験刺激上の相違があったが,追加実験によりこれらの違いでτの違いを説明することはできないと確認した。この研究により先行研究では明らかでなかった錯視量の減衰の様相が判明した。

総合考察:本研究は同時対比の時間特性に関して,必ずしもDe Valois et al.(1986)やRossi & Paradiso (1996)から考えられてきた遅いものではなく,瞬間呈示される速い刺激にも応答できるものであると示した。先行研究は,刺激が知覚に上るまでの間のどこかで高時間周波数情報が失われ,知覚に対応するような遅さが生まれていることを示している。1つの可能性として,同時対比処理の最初の段階である局所的な相互作用において,低時間周波数の輝度・色情報のみが扱われ,それ以外の情報はそれ以降の処理から除外されるというものがある。しかし,今回の結果は明らかに瞬間呈示のような過渡的な信号が,少なくとも局所的な相互作用を引き起こしていることを示しており,この可能性を否定している。したがって,知覚の遅さを生むようなボトルネックはある程度処理が進んだ,局所的相互作用の後に存在すると考えなくてはならない。このボトルネックがどのように実装されているのかというのは今後の研究で追及すべき問題である。

研究1から3で得られた明るさ同時対比と色同時対比の共通点・相違点を考慮し両者の特性の違いを説明するモデルをたてた。明るさ同時対比は極性の異なる指数関数の線形加算で,色同時対比は1つの指数関数で表現した。両者が,呈示時間の短いとき最大値を示し,呈示時間に伴って減衰する共通の指数関数を持ち,明るさ同時対比のみが呈示時間と共に増加し100 ms程度で漸近値に達するような指数増加関数を第二の要素として持っているというモデルである。このモデルは実際に両実験に共通して参加した被験者から得られたデータによく適合した。第二の要素が加わることで明るさ同時対比のτが色同時対比の場合よりも長くなることも説明可能となった。

本研究は明るさ・色知覚の初期処理に関して,入力光の不十分な情報からどのように最終的な知覚を構成するのかを論じた。同じ同時対比の中でも速い特性のものと遅い特性のものとがあり,錯視の強弱も異なるということがわかった。これらの処理にはそれぞれ異なる目的があって,その目的にとって最も効率の良い処理がなされているのだと考えられる。物体認知という観点では,表面特性としての明るさ・色がわかることが重要である。そのために,物体の表面特性が素早く変化するようなことは現実環境ではあまりないことであるという知識に基づく処理の制約があり,それが遅い特性に反映されていると思われる。一方で今回明らかになったような強い同時対比を起こす速いメカニズムは,エッジを強調することで物体検出を促進する役割があるのだと考えられる。

これまでの先行研究と本研究結果を併せて考えるに,明るさや色知覚は対象の局所的な隣接する領域との関係性から広範囲での文脈まで,大小さまざまなスケールでの時空間的文脈を考慮して徐々に修正されつつ決定される動的なプロセスの結果だと考えられる。これは視覚系がその時々で処理の優先性を考慮して適応的に情報を処理していることを示唆している。今後,このような動的特性がどれだけ広く見られるものなのか,他の視覚属性に関しても追究することが望まれる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、人間の視覚系の処理過程について心理物理学的アプローチにて行った研究に関するものである。具体的には、ある場所に呈示された図形の明るさ・色の知覚がそれと同時に周辺領域に存在する視覚情報によってどのように影響されるかという、同時対比の古典的錯視現象の時空間特性を定量化し、またそのような特性をもつ現象の脳内計算原理はどのようなものかを論じた研究である。結論として、同時対比を生み出す錯覚誘導図形である周辺刺激は定常呈示しているよりもむしろ瞬間呈示した方が、生起される明るさ・色の同時対比が顕著に増大する、という発見が得られた。

第1の研究では、実験1では明るさ同時対比、実験2では色同時対比に関して、誘導刺激を瞬間呈示する条件と定常呈示する条件とを設け、知覚される明るさ・色をマッチング法にて定量化した。その結果、明るさ・色のいずれにおいても、瞬間呈示条件での同時対比が定常呈示の場合よりも強かった。

第2の研究では、このような対比の増強効果に空間パラメーター依存性があるかが調べられた。すなわち、対比効果が生じるテスト刺激と対比を誘導する誘導刺激の間に空間的な間隙を設けて、第1の研究で見られた増強効果が保持されるかどうかをみた。実験3では明るさ同時対比、実験4では色同時対比に関して、間隙のサイズをいくつか設定して明るさ・色のマッチング実験を行った。その結果、明るさ・色ともに、間隙を大きくすると瞬間呈示条件における対比の増強効果は減少した。定常呈示条件については、明るさ同時対比では間隙のサイズによらず一定の錯視量が得られたが、色同時対比ではやはり間隙のサイズが大きくなると錯視量が減少した。したがって、明るさ同時対比に関しては呈示時間によって空間特性の異なる複数の処理過程の関与が示され、色同時対比に関しては局所的な作用が呈示時間によらず重要であることが示された。

第3の研究では、刺激の呈示時間をさらに細かく変化させたときの錯視量の変化の様子が調べられた。実験5では明るさ同時対比、実験6では色同時対比に関して、錯覚誘導刺激の呈示時間を7段階に操作し、明るさ・色のマッチング実験を行った。その結果、定数関数と指数減衰関数の和で表される理論式であてはめることができ、その時定数を比較したところ、明るさ同時対比に対して色同時対比の方が呈示時間の関数として急しゅんに減衰することが示された。

本博士論文は、明るさ・色知覚における文脈効果を定量的に調べ、特に同時対比という古典的錯覚現象であって膨大な先行研究が存在するにもかかわらず、いまだ明らかにされていなかった時間特性に関して、短時間呈示の際に限り非常に顕著な錯覚増強効果があることを見出した点に特色がある。また、明るさ・色同時対比は従来時間的に遅いと言われていたことをくつがえし、錯視の生起の遅さの本質について、低次処理過程ではない高次段階の関与が議論された。それぞれの実験に関して、明確な研究動機の下に注意深い手続きで実験が行われ、明解な意味をもつ実験データが示されて、視覚系内部の情報処理過程について意義深い提案がなされた。これらの研究群を行うに到った研究動機は論文の最初の章に丁寧な序論で語られ、またこれらの研究成果の意義と他の研究知見との関係性は最後の章に詳述されている。本審査会においては、審査委員の試問に対してすべて適切な返答がなされ、いずれの審査委員からも軽微な点以外の改稿要求点は指摘されず、全員一致で本論文が合格とされ、軽微な点はすでに修正済みである。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク