No | 128894 | |
著者(漢字) | 稲葉,優希 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | イナバ,ユキ | |
標題(和) | ヒトの多方向移動動作における運動制御及びバイオメカニクス研究 | |
標題(洋) | Biomechanics and Motor Control of Multidirectional Locomotion in Humans | |
報告番号 | 128894 | |
報告番号 | 甲28894 | |
学位授与日 | 2013.03.25 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第1205号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 広域科学 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 第1章:序論 ヒトの身体は、重心が狭い支持基底面に対して高い位置に存在するため、力学的に不安定である。したがって、ヒトが移動動作を遂行する際には、そのように不安定な構造をしている身体を緻密に制御し、全身を協調させて動作を行わなければならない。移動動作は常に前方に遂行されるわけではなく、目的に応じて横や斜め方向にも行われる。前方への移動と比較して、横や斜め方向への移動は矢状面以外での動作が大きくなり、力学的により不安定な動作であるといえるが、ヒトはそれらの動作を通常問題なく行うことができる。 前方以外の方向への移動は、日常生活だけでなくスポーツ場面においても頻繁にみられる。たとえば、バスケットボールやサッカーなどのスポーツにおいて、横や斜め方向に素早く移動する能力は、勝敗を左右し得る重要な要因である。しかし、ヒトの横や斜め方向への移動動作がどのように制御され、全身がどのように協調することにより成り立っているかについては明らかになっていない点が多い。そこで、本博士論文では、ヒトの多方向移動動作、主に横や斜め方向への移動動作において全身がどのように制御され、協調しているかを明らかにすることを目的とした。身体運動は、筋が中枢神経系で生成された運動指令に従い力を発揮した結果である。したがって、最終的に行われた運動を測定し、定量することによって、運動制御方略を明らかにできると考えられる。そこで、本博士論文では結果として出力された動作、特に多方向移動動作を運動学的及び力学的に定量化することによって、全身の協調方略及び運動制御方略を検討した。多方向移動動作は、移動方向の制御及びスピード・距離の制御という二つの観点から捉えることができる。本博士論文の第2、第3章では移動方向の調節メカニズムを、第4章では目的方向への推進力獲得のメカニズムを明らかにし、第5章において総括論議を行った。 第2章:多方向移動動作における予測的姿勢調節 主動作が実際に行われる以前に筋活動や足圧中心(COP)位置を調節することは予測的姿勢調節(Anticipatory Postural Adjustment: APA)と呼ばれ、主動作を遂行することによって起きる外乱を最小限に抑える役割を果たす。前方への歩行開始や前方への踏み出し動作においても、転倒せずにスムーズに身体重心(COM)を前方へ加速するために、踏み出し動作で先行する足の踵が離地するまでにAPAが行われると言われている(Breniere and Do, 1991)。APAは動作の非常に早い段階で行われる調節であり、運動プログラムを反映するといわれている(Crenna and Frigo, 1991)。そこで、多方向移動動作においてもAPAによって移動方向の調節が行われる可能性があると考え、第2章ではAPAを観察することにより多方向移動動作における移動方向調節方略を明らかにすることを目的とした。被験者に静止立位状態から2つのスピード条件((1)自然なスピード(2)できる限り速く)で前方・斜め3方向・横方向の計5方向への踏み出し動作を行わせ、APA期(動作開始から先行する足の踵が離地するまで)の筋活動、関節モーメント及びCOPの軌跡を解析した。前方へ移動する際には、APA期において立位姿勢を維持するために活動していたヒラメ筋の活動が減少する局面が現れ、前脛骨筋の活動が増大する。一方、横方向へ移動する際には、APA期においてヒラメ筋の活動を継続させて、更に前脛骨筋の活動を減少させることにより、COPの後方移動量を減少させていた。また、前方への移動動作において、COPは先行する足側へ一旦移動することが示されていたが、横方向へ移動する場合には先行する足側へのCOPの移動も消滅した。このように、APA期という動作の非常に早い段階においてCOP移動方向を変化させることにより、COPとCOMの間に生じるずれの方向と大きさを調節することにより、COMを目的とする方向へ加速させていることが明らかとなった。 第3章:倒立振り子モデルを用いた移動方向調節機序の検討 第3章では、第2章で観察されたAPA期の移動方向調節が、動作全体(動作開始から支持脚が離地するまで)における移動方向の決定に対してどの程度の影響を及ぼしているかを検討するために、単セグメントの倒立振り子モデルによるCOM移動軌跡の予測を行った。このモデルには第2章で定義されたAPA期終了時点でのCOMの位置と速度を初期条件として与え、それ以降のCOMの軌跡は4次のルンゲクッタ法を用いて予測した。この倒立振り子モデルには、APA期以降の積極的な筋活動による移動方向調節は反映されない。それにも関わらずこの非常に単純な倒立振り子モデルによって踏み出し動作遂行中の水平面上のCOM軌跡を予測することが出来た。これは特に、動作を速く行うように指示した場合に顕著であり、素早く横・斜め方向へ踏み出す動作においては、APA期という非常に早い段階で移動方向を決定するための積極的な制御がほぼ終了していることが明らかとなった。それらの動作においては、APA期以降には追加の移動方向調節はほとんど行われず、身体はAPA期以降、重力の影響により振り子が倒れる方向に加速されていることが分かった。また、速くステップする条件においては蹴り足において積極的な床への力発揮を行っているにも関わらず、倒立振り子モデルが実際のCOM軌跡を予測できたことから、APA期以降に重力の影響によりCOMが加速される方向と一致した方向への力発揮が行われることが明らかとなった。 第4章:横方向への推進力獲得メカニズムの解明 第4章では、前方以外の方向への移動動作における推進力獲得メカニズムを検討した。前方以外への動作の代表として横方向への移動動作を扱った。横方向への移動動作においては、前方への移動動作と比較して前額面上の動き、特に股関節外転動作が大きくなる。しかし、下肢のどの関節のどの軸周りの関節モーメントが横方向への推進力の獲得に貢献しているかは不明であった。そこで、意図的に推進力を大きくしなければならない状態、つまり移動距離を増大させたときに下肢各関節の3次元関節モーメントがどのように変化するかを観察することによって、各関節モーメントの推進力獲得への貢献を検討した。その結果、まず、股・膝・足関節の屈曲・伸展動作及び股関節外転動作は移動距離の増大に伴い増加することが確認された。その際、各関節の伸展(底屈)モーメント及びその仕事は距離の増大に伴い増加したが、股関節外転モーメント及びその仕事の増加率は伸展の仕事と比較すると低かった。したがって、横方向への移動動作では、動作としては股関節外転が特徴的に大きくなるが、関節モーメント及び仕事量を観察すると、横方向への推進力獲得に貢献しているのは各関節の伸展モーメント及びその仕事であることが明らかになった。 股関節外転の仕事は推進力獲得に直接は貢献していないと考えられたが、動作初期に股関節外転モーメント及びその仕事の発揮がみられた。動作全体をCOMが下方へ移動していく反動動作局面と、COMが最下点に達してから蹴り足が離地するまでのプッシュオフ局面に分けて観察すると、反動動作局面終了時点でのCOM位置が移動距離によって異なることが観察された。以上の結果より、反動動作局面においては股関節外転の仕事を行うことにより、COMが最下点に達するまでに移動距離に応じた姿勢調節を行い、プッシュオフ局面においては主に伸展の仕事により推進力を獲得することによって横方向への移動動作が遂行されることが明らかとなった。 第5章:総括論議 以上の結果をまとめると、ヒトは様々な方向へ移動する際、移動方向の調節を動作の非常に早い段階(APA期)に終了させており、APAによる調節だけでは獲得できない推進力は下肢各関節の伸展モーメント発揮によって獲得していることが明らかとなった。前方への歩行動作においても、重力に抗して常に筋を緻密に活動させて、力学的に不安定な身体を支持しなければヒトは転倒してしまう。しかし、ヒトは重力を利用して身体を加速させているともいえる。運動方程式からも、関節の角加速度が筋トルクだけでなく重力トルクからも生成されることがわかる。たとえば、歩行においては、位置エネルギーと運動エネルギーの変換を繰り返すことによって前方へ推進するため、少ない筋活動で推進することができる(Cavagna et al., 1963)。本研究のような多方向踏み出し動作においても、動作の早い段階のCOPとCOMの間のずれが少ない局面では積極的に筋活動を調節してCOPとCOMの間に意図的にずれを生じさせるが、その後、重力の影響によるCOMの加速が大きくなる局面では、積極的な移動方向の調節は行われていなかった。つまり、筋を積極的に制御するのは動作の初期段階だけであり、その後は重力の影響を利用して目的方向へ移動するような制御方略が採用されていたといえる。ただし、スポーツ場面のように、更に大きな推進力を獲得する必要がある際には、下肢伸展モーメントを増大させる必要があるが、その結果発揮される床反力は、動作初期段階での積極的な筋活動により"投げ出された"結果生じる加速方向と一致することが確認された。積極的な力発揮方向が、重力の影響下で身体が傾斜する方向と一致していれば、筋による力発揮はより効果的となる。つまり、ヒトは動作の早い段階で移動方向を決定させ、その方向に沿って外部への力発揮を行うことで、効果的に目的方向への加速度を獲得する方略を用いて多方向移動動作を遂行することが明らかとなった。 | |
審査要旨 | ヒトの多方向への移動動作は、日常生活だけでなくスポーツ場面においても頻繁にみられる。例えば、バスケットボールやサッカーなどのスポーツにおいて、横や斜め方向に素早く移動する能力は、勝敗を左右し得る重要な要因である。しかし、ヒトの多方向への移動動作がどのように制御され、全身がどのように協調することにより成り立っているかについては明らかになっていない点が多い。本研究では、ヒトの多方向移動動作、主に横や斜め方向への移動動作における全身の制御や協調について明らかにしており、その内容は以下のようにまとめられる。 【研究I】多方向移動動作における予測的姿勢調節 主動作が開始される以前の筋活動や足圧中心(COP)の動きは、予測的姿勢調節と呼ばれ、スムーズに身体重心(COM)を前方へ加速し、外乱を最小限に抑える役割を果たす。この予測的姿勢調節は、動作の非常に早い段階で行われ、運動プログラムを反映するといわれている。しかし、多方向移動に関する予測的姿勢調節に関する研究は未だみられない。そこで、研究Iでは、静止立位からの水平面上の多方向移動動作を対象に、移動方向調節方略を明らかにした。被験者に異なるスピード条件「(1)自然なスピード(2)できる限り速く」で、前方・斜め3方向・横方向の計5方向への踏み出し動作を行わせ、動作の初期局面で観察される筋活動・関節モーメント及びそれに伴ってコントロールされるCOMとCOPの軌跡を検討した。その結果、横方向へ移動において、前脛骨筋の活動及びヒラメ筋の活動が減少する局面が現れ、前脛骨筋の活動が増大する。一方、横方向へ移動する際には、予測的姿勢調節期においてヒラメ筋を継続的に活動させて、更に前脛骨筋の活動を減少させることにより、COPの後方移動量を減少させていた。また、前方への移動動作において、COPは先行する足側へ一旦移動することが示されていたが、横方向へ移動する場合には先行する足側へのCOPの移動も消滅した。このように、COPとCOMの間に生じる'ずれ'の方向と大きさを筋活動によって調節することにより、COMを目的とする方向へ加速させていることが明らかとなった。 【研究II】倒立振り子モデルを用いた移動方向調節機序の検討 研究IIでは、移動方向を決定する機序を解明するために、単セグメントの倒立振り子モデルによる、COM移動軌跡の予測を行った。このモデルは、予測的姿勢調節期終了時点でのCOMの位置と速度を初期条件として与え、それ以降のCOMの軌跡は4次のルンゲクッタ法を用いて予測するというものである。その結果、踏み出し動作遂行中の水平面上のCOMの軌跡を予測することができ、特に動作を素早く行う場合に顕著であった。つまり、素早く横・斜め方向へ踏み出す動作においては、予測的姿勢調節期という非常に早い段階で移動方向を決定するための積極的な制御がほぼ終了していることが明らかとなった。換言すると、予測的姿勢調節期以降には追加の移動方向調節はほとんど行われず、身体は予測的姿勢調節期以降、重力の影響により振り子が倒れる方向に加速されていることが分かった。また、速くステップする条件においては蹴り足において積極的な床への力発揮を行っているにも関わらず、倒立振り子モデルが実際のCOMの軌跡を予測できたことから、それは予測的姿勢調節期以降に重力で加速される方向と一致した方向への床への力発揮であったと考えられた。 【研究III】横方向への推進力獲得メカニズムの解明 次に、多方向への移動動作における推進力獲得メカニズムを明らかにするために、まず前方への移動動作と比較して前額面上の動き、股関節外転動作が大きくなる横方向への移動動作を検討した。この横方向への移動動作の機序、つまり、下肢のどの関節のどの軸周りの関節モーメントが横方向への推進力の獲得に貢献しているかは明らかにされていない。そこで、横方向への移動距離を増大させた時の下肢3関節の関節モーメントの推進力獲得への貢献を検討した。その結果、まず、股関節・膝関節・足関節の屈曲・伸展動作及び股関節外転動作は移動距離の増大に伴い増加することが確認された。その際の各関節の各軸周りに発揮される関節モーメント、関節仕事量を定量すると、各関節の伸展モーメント(底屈モーメント)及びそれらによる仕事量は距離の増大に伴い増加するが、股関節外転モーメントおよびその仕事量は増加しないことが明らかになった。したがって、本研究によって、横方向への移動動作において、動作としては股関節外転が特徴的に大きくなるが、横方向への推進力獲得に貢献しているのは各関節の伸展モーメント及びその仕事であることが明らかになった。 稲葉優希氏の博士論文は、次のように総括できる。ヒトは様々な方向へ移動する際、移動方向及び速度の調節を動作の非常に早い段階、すなわち先行する足の踵が離地するタイミングまでに決定させており、その段階の調節だけでは獲得できない推進力は各関節の伸展モーメント発揮によって獲得していることが明らかとなった。ただし、スポーツ場面などにおいて必要とされるように、更に大きな推進力を獲得する必要がある際には、下肢伸展モーメントを増大させなければならないが、その結果発揮される床反力は、動作初期段階での積極的な筋活動により"投げ出された"結果生じる加速方向と一致することが確認された。積極的な力発揮方向が、重力の影響下で身体が傾斜する方向と一致していれば、筋による力発揮はより効果的となるということである。これらの一連の研究から得られた知見は、ヒトの多方向への移動に関わるバイオメカニクスおよび神経制御において極めて重要な研究であり、身体運動科学の分野における意義は非常に大きい。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。 | |
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