学位論文要旨



No 128896
著者(漢字) 小林,正法
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,マサノリ
標題(和) ネガティブ記憶の意図的・非意図的抑制 : 抑制が忘却を導く条件
標題(洋) Intentional and Unintentional Suppression of Negative Memory : When Suppression Leads to Forgetting
報告番号 128896
報告番号 甲28896
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1207号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丹野,義彦
 東京大学 教授 石垣,琢麿
 東京大学 教授 中澤,公孝
 東京大学 准教授 村上,郁也
 東京大学 講師 齋藤,慈子
内容要旨 要旨を表示する

1.背景

ネガティブな出来事を記憶していることは,類似した状況に将来遭遇した際に素早い反応(flight or fright)を促すため,生態学的に重要な意味を持つ。しかしながら,ネガティブな記憶が不適応的な状況を強める場合もある。例えば,うつ病においては,ネガティブな記憶を思い出すこと(ネガティブな記憶の侵入)によって,ネガティブ気分が誘導され,その誘導されたネガティブ気分が気分一致バイアスを通じて,ネガティブ気分を持続させるという負の循環が見られる(e.g. Teasdale, 1988)。このような点から,ネガティブな記憶を思い出さないようにすること(抑制)は,精神的な健康に繋がると考えられる。

2.目的

本博士論文では抑制に対する意図性に着目し,抑制意図の有無別(意図的抑制,非意図的抑制)にネガティブ記憶の抑制が可能かどうかを検討する。

記憶の意図的な抑制手法には,Think/no-think課題による意図的抑制(Anderson & Green, 2001)を用いた。Think/no-think課題による意図的抑制とは,抑制対象の手がかり提示に対して,抑制対象を意図的に抑制することで抑制が生じる現象である。

一方で,記憶の非意図的な抑制手法には,検索誘導性忘却(Retrieval-Induced Forgetting; 以下,RIF; Anderson, Bjork, & Bjork, 1994)を用いた。RIFは,ある記憶(検索対象)の検索が関連する他の記憶(抑制対象)を非意図的に抑制するという現象である。

3.博士論文の構成

博士論文は全4章から構成される(表1)。

4.第1章 ネガティブ記憶の意図的抑制

第1章では,記憶の意図的抑制に有効な方略を検討した。抑制対象の手がかりに直面した際に,手がかりと関連する事柄を抑制中に考える方略(思考生成方略)が記憶の意図的抑制を高めるという報告があるが(Lambart et al., 2010),この方略を与えた状況と方略を与えない状況で抑制効果を直接比較した検討は行われていない。そこで,第1章では思考生成方略を与えた場合と与えない場合(方略なし)で記憶の意図的抑制効果を比較し,思考生成方略の有効性を検証した。実験1ではニュートラル語記憶,実験2ではネガティブ語記憶を抑制対象とした検討を行った。

実験1 ニュートラル語記憶の意図的抑制において,思考生成方略の有効性を検証した。実験1の結果,思考生成方略を与えた群でのみニュートラル語記憶の意図的抑制効果が確認された。

実験2 実験2でネガティブ語記憶の意図的抑制に思考生成方略が有効かどうかを検討した。その結果,実験1と同様に思考生成方略を与えた群でのみ意図的抑制効果が確認された(図1)。

総合考察 実験1,2の結果から,方略を与えない場合に比べ,思考生成方略がニュートラル,ネガティブ単語記憶の意図的抑制に有効であることがわかった。ある記憶を思い出すことがそれと関連する記憶を抑制するという知見(Anderson et al., 1994)から,抑制対象の手がかりと関連する思考内容を生成することが,(同じ手がかりという共通性を持つ)抑制対象自体の制止(inhibition)を導いたと考えられる。しかし,この結果については,思考内容の生成が思考内容の記憶表象を活性化し,活性化された思考内容が抑制対象よりも先に検索されたことで,抑制対象の検索が干渉(interference)されたという説明も可能である。したがって,思考生成方略による意図的抑制効果が制止と干渉のどちらに起因するのかを検証する研究が今後期待される。

5.第2章 ネガティブ記憶の意図的抑制

第2章では,ネガティブ語記憶のRIFについての検討を行った。これまでの研究(e.g. Dehli & Brennen, 2008; Bamul & Kuhbandner, 2009)ではネガティブ語記憶のRIFの成否が一致していなかった。加えて,元々のRIF研究(Anderson et al., 1994)で用いた語幹再生テストにより,純粋なネガティブ語のRIFが可能かどうかを検証した研究はこれまで行われていなかった。同様に,先行研究ではエピソード記憶の検索によるネガティブ語記憶のRIFのみが扱われており,意味記憶の検索がネガティブ語記憶のRIFを導くかどうかは不明なままであった。そこで,第2章ではエピソード記憶の検索がネガティブ語記憶の忘却を導くかどうかを語幹再生テストにより検討した後(実験3),意味記憶の検索がネガティブ語記憶の忘却を導くかどうかを調べた(実験4)。さらに,ネガティブ語記憶のRIFが実験3または4,もしくは両方で確認されなかった場合,ネガティブ語記憶のRIFにおける境界条件を明らかにするため,更なる実験を行うこととした。

実験3 実験3の結果,エピソード記憶の検索によるネガティブ語記憶の忘却は確認されなかった。ネガティブ語記憶のRIFを阻害した要因として,エピソード統合(Anderson et al., 2000)と意味的統合(Goodmon & Anderson, 2011)が挙げられる。前者は参加者が学習時に検索対象と抑制対象を関連付けて覚えることで生じる検索対象と抑制対象の統合であり,後者は意味的な類似性の高さによる検索対象と抑制対象の統合である。検索対象と抑制対象の類似性が高い場合はRIFが生じないとされていることから(Anderson et al., 2000),ネガティブ語の高い相互関連性が(Kensinger, 2004),これらの統合を生じさせた結果,ネガティブ語のRIFが阻害された可能性がある。加えて,ベースライン項目と検索対象に類似性がある場合でもベースラインの低下が生じ,RIFが阻害されることがわかっている(Anderson, 2003)。ネガティブ語は,ネガティブ感情という共通した感情価を持つため,ベースライン項目と検索対象に類似性が存在し,ベースラインの低下を導き,ネガティブ語記憶のRIFが阻害された可能性も見られた。

実験4 実験4では,意味記憶の検索がネガティブ語記憶の忘却を導くかどうかを調べた。実験4では,検索対象は学習されず,意味記憶から検索されるという手続きを用いた。そのため,学習時に検索対象と抑制対象を統合すること(エピ-ソード統合)は困難だと考えられる。よって,エピソード統合がネガティブ語のRIFの阻害要因であるならば,実験4ではネガティブ語のRIFが確認されると予測される。一方,意味的統合は検索対象と抑制対象の意味的関連性の高さから生じるため,検索対象を学習させない場合でも意味的統合が生じる可能性が高い。よって,意味的統合がネガティブ語のRIFを阻害するとすれば,実験4においてもネガティブ語のRIFが生じないと予測される。

実験4の結果,ネガティブ語のRIFが確認され,エピソード統合がネガティブのRIFを阻害することが示唆された。しかし,エピソード記憶の検索(実験3)と意味記憶の検索(実験4)の実験手続きでは,検索対象が学習されない点と検索対象がテストされない点の2点が異なっていた。そのため,検索対象がテストされない条件でエピソード記憶の検索によるネガティブ語のRIFが生じるかを調べる必要がある。また,検索対象が未学習である点は,エピソード統合を阻害するだけでなく,検索対象と抑制対象が同じ学習文脈(context)を共有しない状態を生み出していた。エピソード統合がネガティブ語のRIFの阻害要因であると決定づけるためには,エピソード統合を阻害しながらも検索対象と抑制対象が同じ学習文脈を共有する条件で,ネガティブ語のRIFが生じるかを吟味する必要がある。そこで,実験5により,この2点を検討した。

実験5 検索対象をテストしない条件(実験5-1)と,偶発学習によりエピソード統合を阻害しながらも検索対象と抑制対象が同じ学習文脈を共有する条件(実験5-2)でネガティブ語のRIFが生じるかどうかを調べた。

実験の結果,実験5-1ではネガティブ語記憶のRIFは確認されなかったが,実験5-2ではRIFが確認された。この結果は,エピソード統合がネガティブ語記憶のRIFを阻害する可能性を支持する。

総合考察 第2章では様々な条件下でネガティブ語記憶のRIFが生じるかどうかを検討した。4つの実験の結果(表2),学習時に検索対象と抑制対象のエピソード統合がネガティブ語のRIFが阻害することが明らかになった。またネガティブ語の意味的類似性の高さがエピソード統合を促進することが示唆された。

6.総括

本博士論文は,ネガティブ語記憶の抑制が有効な状況を明らかにした。すなわち,思考生成方略がネガティブ語の意図的抑制に有効であること,エピソード統合を防ぐことがネガティブ語の非意図的抑制を導くことが示された。この結果は,状況が限定されるものの,抑制対象と関連する記憶を思い出すことがネガティブ語記憶の抑制に有効であることを示唆している。

表1. 博士論文の構成

図1.実験2における群(方略なし,思考生成)ごとの記憶成績. エラーバーは標準誤差を示す

表2. 第2章の各実験に含まれるRIFへの影響要因と実験結果のまとめ

審査要旨 要旨を表示する

ネガティブな出来事の記憶は精神的な健康と大きな関係がある。ネガティブな記憶をなかなか忘れられないことが心理的な不適応をもたらすことは、うつ病やPTSD(外傷後ストレス障害)などでも認められる。うつ病においては、ネガティブな記憶を思い出すこと(ネガティブな記憶の侵入)によって、ネガティブ気分が誘導され、その誘導されたネガティブ気分が気分一致バイアスを通じて、ネガティブ気分を持続させるという負の循環が見られる。こうしたことから、ネガティブな記憶を思い出さないようにすること(抑制)は、精神的な健康を増進する意義を持つ可能性がある。

本論文は、ネガティブ記憶の抑制が可能かどうかを認知心理学の実験から検討したものであ。その際に、抑制に対する意図性に着目し、抑制意図の有無別(意図的抑制、非意図的抑制)に検討した。記憶の意図的な抑制手法には、Think/no-think課題による意図的抑制を用いた。Think/no-think課題による意図的抑制とは、抑制対象の手がかり提示に対して、抑制対象を意図的に抑制することで抑制が生じる現象である。一方で、記憶の非意図的な抑制手法には、検索誘導性忘却を用いた。この現象は、ある記憶(検索対象)の検索が関連する他の記憶(抑制対象)を非意図的に抑制するというものである。

本論文は、2つの研究と6つの実験から構成されており、第1章(研究1)では記憶の意図的抑制現象を扱い、第2章(研究2)では記憶の非意図的抑制現象を扱った。その後、総合考察として両現象の共通点に対する議論を行った。

第1章(研究1)では、実験1、2を通してニュートラル単語記憶、ネガティブ単語記憶のそれぞれに対する意図的抑制を扱った。そこでは、思考生成方略と呼ばれる「抑制対象の記憶の手がかりに直面した際に、手がかりから(抑制対象とは)異なる思考内容を連想し、考える」という方略の効果を検討した。実験1では、ニュートラル語記憶の意図的抑制において、「方略なし」群と「思考生成方略」群の比較を行い、思考生成方略の有効性を検証した。その結果、思考生成方略を与えた群でのみニュートラル語記憶の意図的抑制効果が確認された。抑制対象をネガティブ語記憶とした実験2でも同様に、思考生成方略群でのみ意図的抑制効果が確認された。この結果から、方略を与えない場合に比べ、思考生成方略がニュートラル、ネガティブ単語記憶の意図的抑制に有効であることが明らかにされた。

第2章(研究2)では、実験3、4、5を通してネガティブ単語記憶の非意図的抑制を扱った。実験3では、エピソード記憶の検索によるネガティブ単語記憶の検索誘導性忘却を検討した。この実験では、検索対象がエピソード記憶となっていた。実験3の結果、エピソード記憶の検索によるネガティブ単語記憶の抑制は確認されなかった。これまでの先行研究ではエピソード検索によるネガティブ単語の検索誘導性忘却が可能とするものと、不可能とするものが存在し、結果が混在していた。実験3の結果から、ネガティブ単語記憶の非意図的抑制が困難であることが示された。続く実験4では、意味記憶の検索によるネガティブ単語記憶の検索誘導性忘却を検討した。この実験では検索対象が意味記憶となっていた。実験4の結果、ネガティブ単語記憶の検索誘導性忘却が確認され、意味記憶の検索はネガティブ単語記憶の非意図的抑制を導くことが明らかにされた。さらに、実験5では、実験3、4の実験手続きの違いに着目し、ネガティブ単語記憶の検索誘導性忘却における境界条件を明らかにするという目的で実験5-1、5-2を行った。実験5-1では検索対象をテストしないという条件での検討、実験5-2では偶発学習を用いた検討をそれぞれ行った。実験5の結果、学習時にネガティブ単語同士を結びつけて学習するという「エピソード統合」を偶発学習により阻害した場合(実験5-2)、ネガティブ単語の検索誘導性忘却が見られることがわかった。研究2の一連の実験から、エピソード統合によって検索対象と抑制対象の類似性が高まることがネガティブ単語の検索誘導性忘却が阻害することが明らかになった。

本論文においては、次の点が高く評価された。

1.記憶の抑制において抑制意図に注目し、抑制に対する意図がある場合とない場合のそれぞれで記憶の抑制を実現する手法を検討するという多面的なアプローチを行ったことである。そのうえで、抑制に対する意図がある場合(意図的抑制)、ない場合(非意図的抑制)ともに、抑制対象と関連する思考内容を考える(思い出す)ことが抑制に有効であることが明らかになった。しかし、抑制対象の相互関連性が高い思考内容を考えた場合は抑制が生じないという可能性も得られた。

2.非意図的抑制についての先行研究では結果が混在していたが、本研究では、多くの実験的検討を通して、ネガティブ記憶の抑制を阻害する要因を初めて特定した。このことは心理学的に高く評価された。

3.本研究は実験室的な基礎研究であるが、ネガティブな記憶の抑制を実現させる心理学的方法について確実な知見を与え、臨床心理学的な治療や予防の技法へと応用する道を開いたことも評価された。

なお、第1章の一部は「教育心理学研究」誌に公表済み、第2章の一部は「Memory」誌に公表済みである。

これらの成果により、本論文は、博士(学術)の学位に値するものであると、審査員全員が判定した。

UTokyo Repositoryリンク