学位論文要旨



No 128900
著者(漢字) 林,明明
著者(英字)
著者(カナ) リン,ミンミン
標題(和) 学習後ストレスが単語記憶に及ぼす影響
標題(洋) Effects of Post-Learning Stress on Memory of Words
報告番号 128900
報告番号 甲28900
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1211号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丹野,義彦
 東京大学 教授 石垣,琢麿
 東京大学 教授 岡ノ谷,一夫
 東京大学 教授 深代,千之
 東京大学 准教授 四本,裕子
内容要旨 要旨を表示する

問題と目的

ストレスは必ずヒトのパフォーマンスにネガティブな影響を与えるのだろうか?記憶の分野においては,慢性的なストレス(chronic stress)や記憶検索前の一過性の急性ストレス(acute stress)を体験した場合には記憶は損なわれるが,記憶固定段階に急性ストレスが作用した場合は逆に記憶向上し得ることが報告されている(Wolf, 2009)。しかし,感情的な刺激(ただしネガティブ刺激のみ使用)のみの選択的な記憶向上効果が報告される一方(Cahill et al., 2003; Smeets et al., 2008),ニュートラルな刺激の向上効果も得られており(Preuss & Wolf, 2009; Yonelinas et al., 2011),学習後ストレスの記憶向上効果に感情記憶への選択的作用があるかは未だ不明確である。

そこで本研究では,学習後ストレス(post-learning stress)の手法を用いて,学習後のストレスは記憶成績を向上させるのか,また向上効果が得られた場合,学習後ストレスは感情刺激に対して選択的作用があるかを検討した。また,先行研究では刺激の学習から検索テストまで数時間~数日の長い遅延時間を置いており,実験室外環境よる記憶への影響が懸念されるため,本研究ではまず短い遅延時間を置いて,統制された実験室環境内で記憶の測定を行った。本研究中のすべての実験は東京大学「ヒトを対象とした実験研究に関する倫理審査委員会」の承認を受けて実施した。

研究1-1-1

目的: 覚醒度を統制した上で,学習後ストレスがニュートラル・ポジティブ・ネガティブな感情価を持つ漢字二字熟語の記憶へ与える影響を検討した。

方法: 対象は大学生38名(女性18名,男性20名,平均年齢19.2),ストレス条件・コントロール条件それぞれ19名であった。学習刺激は五島・太田(2001)より漢字二字熟語24語(ニュートラル語8語・ポジティブ語8語・ネガティブ語8語)を用いた。感情価間で単語の覚醒度,使用頻度,学習容易性,心象性に差はなかった。また,系列位置効果を防ぐため24語の前後にフィラー語3語(各感情価1語ずつ)を挿入し,計30語をPC画面上に提示した。参加者は画面上に提示した単語を学習した後,記憶リハーサルを防ぐための妨害課題を5分間行った。ストレス群の参加者には妨害課題の間にストレス負荷として5分間のホワイトノイズ80dBを課した。一方,コントロール群では何も音はなかった。さらに10分間の妨害課題の後,参加者は覚えた単語刺激の遅延再生および再認テストを行った。

結果・考察: 2(ストレス:ストレス vs. コントロール)×3(感情価:ニュートラル語 vs. ポジティブ語 vs. ネガティブ語)の2要因分散分析の結果,遅延再生テストでは有意なストレスの効果は見られなかった。一方,再認テストでは,ストレス群(M = .68, SD = .20)はコントロール群(M = .56, SD = .26)よりも有意に成績が高いストレスの主効果が得られた(F(1, 36) = 5.42, p < .05)(FIGURE 1)。しかし,3つの感情価による差は認められず,感情価によらず全体の記憶成績がストレスにより向上したという結果が得られた。有意な向上効果は再認テストの成績のみに認められたため,ストレスが直接再認成績を向上させたのか,再認前の再生テストによる間接的な影響かは不明である。そこで追加実験として研究1-1-2を行った。

研究1-1-2

目的: 研究1-1-1と同じ刺激を用いて,再認テストのみを行うことによって学習後ストレスが直接再認成績を向上させるか検討する。

方法: 対象は大学生22名(女性12名,男性10名,平均年齢19.4),ストレス条件およびコントロール群11名ずつであった。学習刺激は研究1-1-1と同様であり,手続きでは遅延再生テストは無く再認テストのみ課された。

結果・考察: 分散分析の結果,有意な主効果や交互作用は認められなかった。ストレス群における記憶向上効果は得られず,コントロール群(M = 0.73, SD = 0.17)の記憶成績がストレス群(M = 0.61, SD = 0.21)よりも高い傾向があった(F(1, 20) = 4.21, p =.053)。研究1-1-1とは異なり,学習後ストレスによる再認記憶の向上は認められなかった。しかし,研究1-1-1のコントロール群(M = .56, SD = .26)より研究1-1-2のコントロール群(M = 0.73, SD = 0.17)の成績が高く,参加者による記憶成績のベースラインが異なっていた可能性が考えられる。そこで次の研究では群間の記憶の個人差を統制した検討を行った。

研究1-2

目的: 記憶の個人差による影響を統制するため,自由再生テストを2回実施し,その間の記憶の低下(memory-decrease)を用いて学習後ストレスの効果を検討した。

方法: 対象は大学生36名(女性17名,男性19名,平均年齢19.1),ストレス条件・コントロール条件18名ずつであった。単語刺激は研究1-1と同様であり,学習課題の後,1回目の自由再生テスト(直後再生)を行った。5分間の妨害課題の最中にストレス群ではホワイトノイズ80dBを課した。さらに10分間の妨害課題の後,2回目の自由再生テスト(遅延再生)・再認テストを行った。遅延再生の正答割合から直後再生の正答割合を引いた差分をmemory-decreaseとした。

結果・考察: Memory-decreaseの成績について分散分析の結果,有意なストレスの主効果が認められ(F(1,34) = 4.35, p < .05),ストレス群はコントロール群に比べて記憶成績が向上した(FIGURE 2)。しかし,感情価の主効果や交互作用はなく,また再認成績においても差は認められなかった。研究1-1-1と同様の感情価によらない学習後ストレスの記憶向上効果が得られた。研究1全体では学習刺激の覚醒度をすべて統制したために,感情刺激への選択的作用が観測されなかった可能性も考えられる。そこで次の実験では,単語の覚醒度を操作することによって,学習後ストレスによるニュートラル記憶および感情記憶への影響を検討した。

研究2-1

目的: 学習刺激の覚醒度を操作し,高覚醒のポジティブ・ネガティブおよび低覚醒のニュートラルの感情価を持つ漢字二字熟語を用いて,学習後ストレスによる効果を検討した。

方法: 対象は大学生27名(女性11名,男性16名,平均年齢18.9),ストレス群14名・コントロール群13名であった。学習刺激は漢字二字熟語を24語,単語の覚醒度をポジティブ語・ネガティブ語のほうがニュートラル語よりも有意に高くなるよう操作した。手続きは研究1-2と同様に直後再生・遅延再生の2回のテスト・および再認テストを用いた。

結果・考察: 分散分析の結果,再生成績memory-decreaseにおいてはストレスの効果は認められなかった(ストレス群:M = -0.05, SD = 0.06, コントロール群:M = -0.02, SD = 0.06)。また,再認成績においてもストレス群における記憶向上は有意ではなく(ストレス群:M = 0.75, SD = 0.12, コントロール群:M = 0.67, SD = 0.12, F(1,25)= 3.33, p= .08),また,交互作用も認められなかった。研究2-1では高覚醒感情刺激を用いたが,感情刺激への選択的な効果は認められず,覚醒度の効果は観測されなかった。しかし,感情語とニュートラル語の成績は長い時間を経て差が生じる可能性があり,次の実験では先行研究と同様の長時間遅延による影響を検討した。

研究2-2

目的: 研究2-1と同様に高覚醒感情語および低覚醒ニュートラル語を用いて,学習から検索テストまで長時間遅延を置いた条件のもとで,学習後ストレスによる影響を検討した。

方法: 対象は大学生26名(女性9名,男性17名,平均年齢19.4),ストレス群・コントロール群13名ずつであった。学習刺激は研究2-1と同様であり,学習課題後に直後再生テストを行い,5分間の妨害課題を行った。ストレス操作はホワイトノイズ80dBによって妨害課題中に課し,参加者は24時間後に再び実験室へ戻り遅延再生テスト行った。

結果・考察: 分散分析の結果,memory-decreaseの成績において,ストレス×感情価の交互作用が有意であり(F(2,48) = 3.55, p <.05),下位検定および多重比較の結果,コントロール群内ではネガティブ語成績がニュートラル語より高い感情価の影響は見られたが(p< .05),ニュートラル語のみにおいてストレス群の成績がコントロール群より高い記憶向上効果が認められた (p< .05)。感情語の覚醒度を高く操作し,長時間の遅延を置いた条件においても感情記憶への選択的作用はなく,学習後ストレスによるニュートラル記憶の成績向上が見られた。

総合考察・結論

学習後ストレスが単語記憶へ及ぼす影響について,刺激や実験条件を統制し検討を行った。その結果,単語の再生テストおよび再生後に行った再認テストにてストレス群の記憶成績がコントロール群に比べて高い傾向が得られた。また先行研究で報告された感情記憶への選択的向上は見られなかったため,本研究のように条件を統制した場合,ニュートラルな記憶や感情価によらない全体的な記憶成績を学習後ストレスが向上し得ることが示唆された。

FIGURE 1. Mean recognition performance in Study1-1-1. Error bars indicate +1 SE.(*p< .05)

FIGURE 2. Mean memory-decrease score in Study1-2. Error bars indicate +1 SE. (*p> .05 )

FIGURE 3. Mean memory-decrease score in Study2-2. Error bars indicate +1 SE. (*p< .05)

審査要旨 要旨を表示する

ストレスは、一般的にヒトのパフォーマンスにネガティブな影響を与える。慢性的なストレスや思い出す直前にストレスを体験した場合、記憶成績が低下することが報告されている。しかし、近年、学習の後にストレスを体験した場合、逆に記憶成績が向上するという「学習後ストレスによる記憶向上効果」が報告されるようになった。本博士論文は、学習課題後にストレスを課した際、単語記憶へどのように影響するのかについて系統的な検討を行ったものである。

本論文は4章から構成される。第1章では、研究の背景について、記憶の符号化・固定・検索の処理段階およびストレスホルモンの関連、また先行研究で得られた記憶成績の認知的指標についてまとめた。先行研究においては、学習の前にストレスを課したり、記憶検索の前にストレスを課したりする手続きを用いて、ストレスが感情的な刺激に対して選択的に作用することが報告されている。本論文でとりあげる「学習後ストレス」においても、感情刺激への選択的作用が考えられたが、先行研究では、学習後ストレスによりネガティブな感情刺激の記憶が向上したとの報告がある一方、ニュートラルな記憶の向上も報告されており、結果が一貫していない。そこで、本研究では刺激の感情価(ポジティブ・ネガティブ・ニュートラル)に注目し、学習後ストレスによる記憶向上効果および感情刺激への選択的作用があるか検討することにした。また、先行研究においては、数時間から数日までの長時間の効果についてのみ報告しているため、本研究では学習後15分という短い遅延時間についても検討することにより、即時的な記憶への作用があるかを調べることにした。

第2章では、ポジティブ・ネガティブ・ニュートラルな漢字二字熟語を用いて学習後ストレスの影響を検討した。まず研究1-1-1では、単語刺激の学習後に、ストレス条件群において騒音ストレスであるホワイトノイズを5分間ストレス負荷として課した。10分後に、自由に思い出す「再生課題」と、学習時の単語および新規語を判断する「再認課題」を行った。その結果、ストレス無しのコントロール条件に比べてストレス条件の再認成績が高く、学習後ストレスによる記憶向上効果が得られた。また、感情価(ポジティブ・ネガティブ・ニュートラル)に差はなかった。このことから、学習後15分という短い時間においても、ストレスによるポジティブな効果を確認することができた。

研究1-1-2では、研究1-1-1で用いた再生課題を除き、再認課題のみによる検討を行った。その結果、再認成績においてストレス群の記憶向上は認められなかった。このことから、再生課題を行ったことで記憶向上効果が生じたと考えられた。

研究1-2では、15分間における再生課題の「低下量」を記憶の指標として実験をおこなった。その結果、ストレス群ではコントロール群よりも記憶の低下が少なく、学習後ストレスの効果により記憶が減衰しにくいことが明らかとなった。また研究1-2においても感情価による差はなかった。

第3章では、学習後ストレスの効果おいて刺激の覚醒度の影響があるかを検討するため、覚醒度(喚起される興奮の度合いが高い)を操作し、高覚醒のポジティブ・ネガティブな単語および低覚醒なニュートラル単語を使用した。研究2-1では研究1と同様に学習後15分の短い遅延時間、研究2-2では学習から24時間後の長い遅延時間後にテストを行った。研究2-1ではストレスの効果は認められなかったが、2-2では低覚醒のニュートラル語においてのみ学習後ストレスの記憶向上効果が観測された。

第4章では、学習後ストレスの記憶向上効果について総合的に考察した。

本論文においては、以下の諸点が高く評価された。

これまでネガティブな影響を与えると考えられたストレスに対して、記憶成績を向上させるというポジティブな効果の実証に挑戦したことが本論文の大きな特徴である。先行研究においては、テスト課題の種類や刺激の感情の種類などの実験条件を操作した系統的な検討が不十分であったのに対して、本論文では、認知心理学的手法を用いて、いろいろな実験条件を設けて系統的に検討し、5つの実験を積み重ねることにより総合的に検討したことは高く評価された。

また、本論文によって、騒音ストレスという日常的に経験することがある比較的マイルドなストレスにおいても、一部の条件では記憶成績を向上させる効果を確認できたこと、学習後ストレスの研究では初めて短い時間(学習課題後15分)において記憶向上効果を認めたことなど、先行研究では得られなかった新しい知見が得られた。さらに、刺激の感情価(ポジティブ・ネガティブ・ニュートラル)や、刺激語の覚醒度(刺激によって喚起される興奮の度合い)を操作して実験をおこなった結果、これらの要因による選択的な作用という点からは記憶向上効果を統一的に説明できないことも明らかとなった。どのような要因が記憶向上効果をもたらすかという解明は今後に残された。

さらに、今後、生理的な指標や脳画像など認知心理学以外の指標を用いた研究で記憶向上効果を確かめることが望ましく、その点では発展性が高いことも本審査会で指摘された。例えば、運動エクササイズなど他分野においてもストレス語の認知パフォーマンス向上が報告されており、他分野との協同的な研究も期待できる。

以上の研究の実施にあたって、倫理的な配慮は十分なされていると確認された。

なお、研究1-1-1はPsychology誌上に公表済みである。

以上の成果により、本論文は博士(学術)の学位に値するものであると、審査員全員が判定した。

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