学位論文要旨



No 128902
著者(漢字) 張,厚殷
著者(英字)
著者(カナ) チャン,フウン
標題(和) 韓国の地域産業政策における地方自治体の役割に関する研究 : 大邱広域市を事例として
標題(洋)
報告番号 128902
報告番号 甲28902
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1213号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 梶田,真
 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 松原,宏
 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 法政大学 教授 朴,倧玄
内容要旨 要旨を表示する

グローバリゼーションとローカライゼーションが同時に進展し,地域経済の重要性が高まっていく中,世界各地で地方分権政策が推進されており,地方自治体の自律性が強化されている.韓国でも,地方自治制度が本格的に復活した1995年以降,地方分権化が進められ,地方自治体の役割が大きく拡大した.産業政策においても地方自治体の役割に変化がみられている.近年の先進国の産業政策では,グローバルな競争力を持った地域を育成する上で知識とイノベーションの創出が重視されており,新地域主義(new regionalism)の考え方に基づいた政策が推進されている.このような産業政策では,地域クラスター単位での環境整備が重視され,地域レベルでの産業政策の必要性が叫ばれるようになった.韓国では1990年代後半以降,産業クラスター政策をはじめとした新地域主義の考え方を援用した諸政策が,地域産業政策の名称で推進されている.

本研究では,地域産業政策を,理念的に「地方自治体を中心に地域主導によって地域の産業を育成・発展させることで,地域の経済活性化と競争力強化を図ることを目的とした政策」として定義する.

韓国の地域産業政策は,1999年の知識経済部の地域戦略産業振興事業からスタートし,各政権によって新たな事業が推進され,積み重ねてきた.現在の李明博政権での地域産業政策は,広域自治体・基礎自治体・広域経済圏という異なる地域スケールにおける地域戦略産業振興事業・地域縁故産業育成事業・広域経済圏先導産業育成事業が主要事業として行われている.

韓国語の文献を中心とした既存研究の問題点として,(1)マクロな資料に基づいた巨視的な分析が中心であり,地域の側におけるローカルな要因分析が欠けている,(2)研究の焦点が専ら中央政府主導の政策や補助事業にあてられ,地方自治体の独自の政策と事業に関する研究が不足している,という2点を指摘できる.これらの問題を克服するためには,対象地域の幅広い地域的文脈を踏まえたケーススタディが必要である.

そこで,本研究では,フィールドワークに基づいた事例分析を通じて,韓国の地域産業政策における地方自治体の役割を,大邱広域市で推進された3つの事業の政策過程を丁寧に跡づけ,分析していくことにより,(1)韓国の地域産業政策における新たな中央政府と地方自治体の役割分担のあり方,(2)地域産業政策の推進主体としての地方自治体の能力を強化するための施策,(3)効果的な官民パートナーシップの構築による地域産業政策を推進していくための地方自治体の課題,を考察することを目的とする.

第1に,地域産業政策の中核を占めている中央政府の補助事業の事例として大邱ミラノプロジェクトを取り上げ,この事業の段階別の分析を通じて,事業評価を行うとともに事業展開における大邱広域市の役割とその変化を考察した.大邱ミラノプロジェクトは,韓国最初の地域産業政策として大邱地域と韓国の経済発展を牽引してきた繊維産業を再生することを目的に実施され,現在は第3段階の事業が推進されている.この事業を推進した結果,大邱地域の繊維産業の構造調整が進み,生き残った地域繊維企業が研究開発能力などを高め,競争力を強化させたことは評価できるが,全体としてみれば繊維企業の研究開発能力は低く,産学官連携が不足しているなど,問題も数多く残されている.

また,大邱ミラノプロジェクトの進展とともに,大邱広域市は,事業の計画・執行・評価の各政策段階に積極的に参加するようになった.第1段階の大邱広域市は事業執行機関の一つに過ぎなかったがが,第2段階以降は大邱戦略産業企画団の運営を通じてその役割を拡大させている.大邱戦略産業企画団は,政策企画の実績と企画能力を蓄積し,政策評価・管理の専門性を獲得している.また,第3段階からは,年間の事業執行計画である「地域産業振興計画」が策定され,ボトムアップ方式による計画策定作業を通じて,政策能力の向上と地域アクター間の連携強化が図られ,中央政府と大邱広域市の間の協力関係も強化されている.しかしその一方で,依然として大邱広域市の権限が限定的な水準にとどまっているため,その能力が十分に発揮できない状態にあることも明らかになった.

第2に,地方自治体の独自事業の事例として大邱ビジネスサービス産業育成事業を取り上げ,この事業の展開過程を跡づけるとともに,この事業が十分な成功を収めることができなかった要因を検討した.地域経済におけるビジネスサービス産業の重要性を認識した大邱広域市は,ビジネスサービス産業を地域特化産業の一つに選定し,2005年の「ビジネスサービス産業の育成基盤構築事業」から本格的に大邱ビジネスサービス産業育成事業を推進している.しかし実際に行われたのは,『大邱ビジネスサービス産業の育成方法』の報告書の発刊とモデル事業の「経営コンサルティング・診断支援事業」だけであり,ほとんど実質的な成果をあげることはできなかった.この要因としては,(1)具体的な補助金獲得のための戦略がなかったにもかかわらず,中央政府からの補助金を前提とした事業計画を策定した点,(2)大邱広域市の実績作りと箱物行政によって,ビジネスサービスセンター建設などのインフラ整備が事業の中心となった点,(3)中央政府と同様に,事業推進において縦割り行政の問題が生じた点,(4)大邱地域ではビジネスサービス産業の需要基盤と供給基盤がともに弱く,大きな成果をあげることができなかった点,の4点が挙げられる.この事例分析の結果,大邱広域市が独自に地域産業政策を企画・計画・推進するようになったこと自体が大きな成果としてあげられるが,独自事業が十分な成果をあげるためには政策立案能力と事業運営能力を高めていく必要があることが示された.

第3に,官民パートナーシップ方式で推進された地域産業政策の事例として,大邱鳳舞(ボンム)地方産業団地開発事業を取り上げ,この事業の推進過程の分析を通じて,官民パートナーシップ事業の推進における大邱広域市の役割と事業の成功要因を考察した.大邱鳳舞地方産業団地開発事業は,第1段階の大邱ミラノプロジェクトの「ファッションアパレルバレー事業」として1999年に開始されたが,当初の市直営による公営開発方式の下ではなかなか事業が進展しなかった.2005年に大邱広域市は,韓国式の官民パートナーシップ型事業である「民官合同公募型PF事業」に開発方式を変更し,複合新都市の開発を目的とした「イシアポリス造成事業」に事業を改めた.現在,事業は順調に推進されている.この事業を軌道に乗せることを可能にした主たる要因は,(1)大邱広域市が事業推進に積極的な姿勢を見せ,全面的な行政支援を行った点,(2)民間企業の9社が事業の継続に向けて柔軟な対応をした点,(3)事業推進組織である(株)イシアポリスが官と民との仲裁者の役割を担い,事業段階に応じて組織構成を柔軟に再編した点,(4)各アクターがそれぞれに与えられた役割を果たした結果,信頼関係が構築され,緊密な協力が行われた点,の4点であることが明らかになった.この事例分析を通じて,信頼関係の構築を通じて形成された官民パートナーシップが地域産業政策の推進において大きな可能性を持っていることが示された.

以上のように,本研究が取り上げた3つの事例は,大邱広域市が地域産業政策の実施を通じて確実に事業経験を積み重ね,政策推進能力を向上させ,役割を拡大させてきたことを示している.しかし,まだ政策推進能力が不足している部分も多く,さらなる能力強化が必要であることも明らかになった.そのために必要な大邱広域市の取り組みとして,(1)地域実態に対する正確な分析し,地域の実情に即し実現可能な地域産業の中長期的なビジョンと具体的な戦略を設定する,(2)コーディネーターとして地域アクターの間のネットワークを強化する,(3)事業が実際に地域の産業や経済の発展をもたらしたのかをローカルな視点から評価する,(4)行政組織内に地域産業政策を専門的に担う部署を設置する,(5)財政基盤を強化する,などが挙げられる.

今後,現在の地方自治体の政策推進能力の到達点を踏まえて,地方自治体が主導する地域産業政策を実現していくためには,中央政府からの権限移譲と地方自治体を中心とした政策推進体系への再構築を図っていく必要がある.第1に,中央政府の補助事業の見直しが必要である.中長期的には,中央政府が地域産業政策のガイドラインの提示と,地域毎の事業全体の総合評価・調整・コンサルティングを行い,地方自治体は,主体的に事業を計画・実施し,事業プログラムの評価・管理・調整を行う,という役割分担を明確にしていく必要がある.第2に,地方自治体の独自事業の拡充が求められる.現在,地方自治体の独自事業は規模が小さく,その多くが中央政府の補助金獲得のためのパイロット事業であるが,地方自治体が地域の実情に即した政策を展開していくためには,地方自治体が必要であると考える独自事業として実施できるだけのまとまった財源を保障することが重要である.その一方で,地方自治体のモラルハザードの問題を防止するための仕組みづくりとして,地域住民による監視体制を強化することも重要である.第3に,官民パートナーシップによる地域産業政策の強化である.地方自治体には,(1)政策の計画・執行過程における民間部門の裁量性を高め,彼らの採算性確保に対して十分な配慮を行うことによって民間部門の参加を促進させる,(2)民間部門が積極的に事業を推進できるように行政的な支援や補助を行う一方で,事業の公共性をチェックする役割を果たす,という2点が求められる.

審査要旨 要旨を表示する

近年,産業政策の焦点が地域の競争力に置かれるようになり,産業クラスター政策などが世界的に注目を集めるようになっている.韓国でも1999年より地域産業政策の名の下で同様の政策展開がみられている.しかし,韓国では1961年以降,34年にわたって地方自治が停止されており,首長公選制の導入によって地方自治が復活した1995年からまだ17年しか経過していない.本研究では,中央集権的な政府間関係と政策体系を特徴としてきた韓国において,こうした政策が地方自治体によってどのような形で実施されているのか,そしてこの間に産業政策に関してどの程度の政策推進能力を蓄積してきたのかを大邱広域市でのケーススタディを通じて検証することを試みている.

本論文は全9章で構成される.

まず,Iでは本研究の背景となっている問題関心と政策動向が述べられる.IIでは,韓国における地方分権化および地域産業政策の展開が整理されると共に,現行の政策体系が説明される.IIIでは,韓国の地域産業政策の既存研究の成果が検討され,その課題が示される.中央集権的な性格が強い韓国の政府間関係の影響もあって,既存研究のほとんどは中央政府の政策もしくは中央政府と地方自治体の関係性に関する研究であり,地方自治体に焦点を当てて地域産業政策の実態を実証的に分析した研究がほとんどみられないことが指摘される.また,地方自治体に焦点をあてた研究を実施していく上で,地域の様々な文脈をふまえたインテンシヴなケーススタディが有効であることも主張される.IVでは,大邱広域市の概要を述べた上で次章以降の3つの事例事業の位置づけが示される.

VからVIIは本研究の骨子となる大邱広域市の3つの事業のケーススタディで構成される.

Vでは,韓国における地域産業政策の先駆けであり,大規模な中央政府の補助事業である大邱ミラノプロジェクトの分析が行われる.この事業は1999年以降,3つの段階を経て現在まで継続されている.大邱ミラノプロジェクトでは,段階が進むにつれて事業実施の様々な面において大邱広域市への権限の委譲が進んでいる.本章では,事例分析の結果を踏まえて,大邱広域市が主導的に政策を推進し,様々な地域アクターと協力しながら経験を蓄積していく中で企画・立案や事業運営・管理の能力を高めていく過程を具体的に示した点が重要な貢献として挙げられる.

VIでは,国からの補助金を利用せず,大邱広域市が独自に実施した産業政策の事例として大邱ビジネスサービス産業育成事業が取り上げられる.国の製造業中心の産業政策に対して,ビジネスサービス産業育成の必要性を痛感していた大邱広域市は独自にこの産業の育成事業を展開する.しかし,最終的にこの事業は失敗に終わった.この事業の分析では(1)大邱広域市が自ら産業政策を立案・実施するようになったことは大きな前進であるがまだ企画・立案能力が不足していること,(2)現状において大邱広域市の独自事業は中央政府の補助事業を獲得するための呼び水的な性格が強く,その一因が大邱広域市が自ら本格的な事業を実施できるだけの財政基盤を持っていないことにあること,が明らかになった.本章の分析は,既存研究でほとんど取り上げられることのなかった地方自治体による独自事業の失敗事例の丁寧な検証を通じて,現状における地方自治体の事業推進能力の限界を具体的な形で提示した貴重な成果である.

VIIでは,韓国型の官民パートナーシップ事業(PPP/Public-Private Partnership)である官民PF(Project Finance)事業の数少ない成功例であると評価されている大邱鳳舞地方産業団地開発事業の推進過程が検討される.分析の結果,(1)官民PF事業の成功のためには,民間事業者に裁量の余地を与え,採算性が確保できる計画を策定できるようにする必要があること,(2)官民が議論を積み重ね,互いに譲歩することで困難な状況を克服してきた過程が強力な信頼関係を作り出し,事業の推進において重要な役割を果たしたこと,が明らかになった.官民パートナーシップの成功事例の事業推進プロセスを丁寧に跡づける作業を通じて,事業の「進め方」の重要性を指摘した点が重要な成果として挙げられる.

VIIIでは,3つの事業の事例分析の結果をふまえて地域産業政策において地方自治体がどのような形で政策推進能力を高め,現在どのような段階にあるのかを検討した.地域産業政策の経験と補助事業における権限委譲を通じて地方自治体は確実に政策推進能力を高めているが,VIの事例で見られたように,まだ十分な能力を備えていない部分も多い.その一方で,現在の地方自治体の政策推進能力に見合った権限や財源が与えられていないことも指摘される.IXでは本研究で得られた知見を整理すると共に,課題を克服していくための政策提言が行われる.

本研究は,既存研究ではみられなかった,地方自治体に焦点をあてて地域産業政策の実態を検討した意欲的な研究であり,大邱広域市でのケーススタディをふまえて,地方自治体がより主導的な役割を担っていくために必要な課題とその克服のための具体的な政策を示すことに成功している.本研究は,経済地理学をはじめとして地域経済学,地方財政学などにも大きな貢献をなすものである.

よって,本論文は博士(学術)の学位論文として相応しいものであると審査委員会は認め,合格と判定する.

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