学位論文要旨



No 128904
著者(漢字) 植村,円香
著者(英字)
著者(カナ) ウエムラ,マドカ
標題(和) 農村の高齢化に伴う特産品産地の変容に関する地理学的研究
標題(洋)
報告番号 128904
報告番号 甲28904
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1215号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 松原,宏
 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 東京大学 准教授 梶田,真
 明治大学 教授 小田切,徳美
内容要旨 要旨を表示する

高度経済成長期以降,若年後継者を中心とした農外への労働力の流出によって,農業就業人口の減少とそれに伴う就業者の高齢化がみられる.1980年代以降,基幹的農業従事者に占める65歳以上の割合は増加し,2005年の時点で過半数を超えた.こうした高齢化の背景のひとつとして,高齢期離職就農者の増加が挙げられる.高齢期離職就農者とは,「60歳以上の離職就農者」のことであり, UターンやIターンではなく,兼業農家の世帯主が定年退職など高齢期に離職就農する者が多い.青壮年層の就農が期待できない地域では,高齢者が主力な担い手となりつつあり,高齢者のなかでも青壮年期から農業に専従していた者だけでなく,高齢期離職就農者が増加するなど新たな動きがみられるため,高齢者農業の実態を捉えることは極めて重要である.

しかし,農政や既存研究では,高齢者は農業の担い手として捉えられてこなかった.それは,高齢者が農業を生計維持の手段とする青壮年層とは異なり,年金を主要な生計手段とし,農地維持や生きがいといった非経済的な目的で農業を行うという特徴をもつからである.また,高齢者は単に栽培面積を減少するだけでなく,高齢者の条件に適した選択作物として,省力的・粗放的な作物を選択することが指摘されている.このような高齢者農業の特徴を踏まえると,高齢者が青壮年層とは異なる農作物を選択することで,産地は高齢者に適した作物へと変容する可能性がある.そこで,本論文では農家の高齢化に伴う産地の変容について明らかにした.

なお,本論文では,高齢者が選択する可能性のある作物として特産品に注目した.特産品は,地域固有の競争力のある商品であるため,高価格・高付加価値を期待できるが,単一の特産品のみではまとまった収入が見込めず,それだけでは生産維持が困難であるため,他の作物との複合経営や農外就業の副業としての生産がなされる.特産品はこのような性格上,青壮年層の主要作物にはなりにくく,高齢者に適した作物であると考えられる.

そこで,事例の選定にあたっては,すでに高齢者による特産品産地の形成がみられる地域を前提条件とし,主要な特産品生産者が青壮年期から農業に従事してきた者か,高齢期離職就農者かという点に注目する.さらに,高齢期離職就農者のなかでも世帯主の就農以前の職種によって年金受給額が異なり,それによって就農目的や就農後の営農状況が異なるため,高齢期離職就農者の世帯主が正規雇用か非正規雇用かという点にも注目する.

事例の選定にあたっては,現在の主要な特産品生産農家のうち世帯主が,(1)青壮年期から農業に従事してきた「専業的農家」,(2)兼業先で正規雇用されていた高齢期離職就農者のいる農家,(3)兼業先で非正規雇用であった高齢期離職就農者のいる農家の3事例を選定する.分析としては,農家の農業経営の変化を時系列的に捉えることで,農家が特産品に取組む理由を明らかにする.こうした時系列に基づく分析は,農家の農業経営の変化が経済動向や市場動向,さらには産地の取組み等の農家世帯外の要因によるか,あるいは農家世帯員の加齢や農業就業者数の変化などの農家世帯員の要因によるかを捉えることができる点で有効である.

(1)「専業的農家」が主な特産品生産農家である事例として,長野県飯田市・高森町の干し柿生産を挙げる.飯田市・高森町の農家は,りんごとなしを主軸にももやかき(干し柿)を組み合わせた果樹複合経営を行っていた.近年,加齢の過程で農作業時期が集中していたりんごとかき(干し柿)のうち,りんごを減少させ,かき(干し柿)を増加させていた.その要因は,干し柿の皮むき機の導入によって作業の効率化が進んだこと,加齢に伴って農業の所得が高いが,労働集約的なりんごから撤退せざるを得なかったことが挙げられる.現在の主要な干し柿生産農家は,専業的農家のため生計維持の手段として農業経営を行っているが,加齢により農作業時期が集中していたりんごとかきの作業を省力化・効率化させるために戦略的にかきへ移行した.

(2)高齢期離職就農者のうち世帯主が正規雇用として兼業先に勤めていた農家の事例として,愛媛県越智郡上島町岩城島の柑橘生産を挙げる.岩城島の農家は,世帯主が造船業に従事し,妻が主にみかんと八朔を栽培する兼業農家だった.1972年にみかん価格の下落に伴い,岩城島ではレモンをはじめ様々な品種が導入されたが,実際にそうした品種を農家が栽培するのは,世帯主が定年退職を迎えて就農する2000年前後であった.新しい品種は,みかんや八朔などの既存品種と比べて栽培技術が難しく,単価が高いものの収穫量が少ないために収益性が低いにもかかわらず,高齢期離職就農者に積極的に導入されていた.それは,世帯主が主に島内の造船関連会社に正規雇用されていたため,定年退職後に国民年金と厚生年金を受給していたことと関連する.このように年金を主要な生計手段とする高齢期離職就農者は,新品種を導入することで,みかんや既存品種よりも難しい栽培技術に挑戦することや,親戚に裾分けすると喜ばれることがインセンティブとなっていることが明らかになった.

(3)高齢期離職就農者のうち世帯主が非正規雇用として兼業先に勤めていた農家を事例として,東京都利島村のツバキ実生産を挙げる.利島村の農家は,主に70歳代の高齢期離職就農者のいる農家である.世帯主の就農以前は,港湾工事や道路整備などの建設業に断続的に従事しながら,妻がツバキ実生産や他の農作物を栽培することで生計を立てていた.世帯主の就農後は,国民年金を基盤としてツバキ実を生産することで生計を確固たるものとしてきた.しかし,ツバキ実の生産適地が限られているため,高齢期離職就農者のいる農家は,上の世代がツバキ実から撤退したあとに,ツバキ林を借り受けることで生産を拡大していた.この場合,高齢期離職就農者がツバキ実生産を拡大する要因は,「上の世代のツバキ実生産からの撤退」であるといえる.また,拡大する目的は,所得確保とう面が強いが,「ツバキの実を拾う作業が健康によい」という生きがいの面もみられた.

上記の事例から,世帯主が青壮年時の就業状況によって,高齢者が特産品を従事する目的や生産の実態が異なることが明らかになった.こうした高齢者が特産品を担う理由を,生産性の概念に当てはめてみる.生産性には,効率,合理性,あるいは能率を従事し,経済的利益を優先的に配慮した「経済的生産性」のほかに,物質的な豊かさだけでなく身体的,精神的あるいは人間関係的な豊かさを射程にいれた「社会的生産性」がある.人間は年齢を重ねても生産性を持っているが,中年期には経済的生産性を志向し,定年退職など人生の転機を経て,高齢期に社会的生産性を志向する.高齢者が社会的生産性を志向することが可能なのは,年金を生活の生計維持の基盤としているからである.しかし,すべての高齢者は社会的生産性のみを追求するわけではなく,地域の産業構造の違いによって志向する生産性が異なる.本論文で検討してきた事例を生産性の概念に当てはめると以下のように説明することができる.

長野県飯田市・高森町の干し柿生産の事例では,青壮年期から専業的に農業に従事していた世帯主は,生計維持の手段として干し柿生産を拡大していた点で経済的生産性が高いといえる.一方,愛媛県越智郡上島町岩城島の事例では,世帯主が正規雇用として兼業先に従事していたため,世帯主の定年退職後に年金を生計維持の基盤とし,生きがいとして農業に従事している点で,社会的生産性が高いといえる.また,東京都利島村の事例では,世帯主が非正規雇用として兼業先に従事していたため,世帯主の定年退職後に国民年金とツバキ実生産を生計維持の手段としていた.しかし,高齢化に伴ってツバキ実を拡大する目的は,生計維持だけでなく健康維持という面もあり,経済的生産性と社会的生産性の双方が志向されていた.このように,高齢者は,経済的生産性だけでなく社会的生産性に目を向けることができるからこそ,高齢者による特産品産地の形成が可能になっていることが明らかになった.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,地域に特徴的な農業産品を生産する特産品産地を取り上げ,農家の高齢化が進行する中で,その存立構造が変化してきた過程を実証的に解明することを通じて,高齢者を担い手として積極的に位置づける新たな地域農業の可能性を探ろうとしたものである.

高度経済成長期以降の農村では,若年後継者を中心とした農外への労働力の流出によって農業就業人口が減少し,それに伴って就農者の高齢化が進行した.加えて,兼業農家の世帯主が定年退職を機に就農する高齢期離職就農者が増加していることも高齢化を加速している.青壮年層の就農が期待できない地域では,高齢者が農業生産の主要な担い手となりつつあるが,これまでの農業研究や農業政策において,高齢者は農業の担い手として消極的な位置づけしか与えられてこなかった.

今日,特産品は需要の伸びが期待できる農業分野として注目されているが,収益性が比較的高い反面,生産規模を拡大しにくいために,青壮年層の専業農家では経営の存立が難しい場合もある.そうした場合でも高齢農家では生計の条件が異なるために,経営を存続できる可能性がある.ただし,上記のような高齢者農業の特徴から,特定の特産品産地においても,高齢者が青壮年層と異なる農作物を選択するため,就農者の高齢化に伴って,当該産地が高齢者に適した作物構成を基礎とした新しい形態に変容することがありうる.そこで,本論文では,農家の高齢化の中で,特産品産地がどのような存立構造を有し,どのような変容を遂げつつあるのかを明らかにし,それを踏まえて,今後の新たな地域農業の方向性を論じた.

本論文は,5章から構成されている.I章では,既存研究とこれまでの農業政策における高齢者農業の位置づけを整理した上で,本研究の問題意識・目的および研究方法を提示した.II章では,現在の主要な特産品生産農家のうち世帯主が青壮年期から農業に従事してきた専業農家が多い長野県飯田市・高森町の干し柿産地を取り上げ,りんごや干し柿を組み合わせた果樹複合経営を行ってきた専業農家が,加齢の過程で労働集約的なりんご生産から撤退し,労働投入が少なくて済む干し柿生産へ移行していることを見出した.このように専業の特産品農家でも高齢化に伴って,品目をシフトさせることがあることはこれまであまり知られておらず,意義ある指摘である.III章では,世帯主が兼業先で正規雇用されていた高齢期離職就農者の多い愛媛県上島町岩城島のレモンをはじめとする柑橘産地を取り上げた.ここでは,造船関連企業に正規雇用されていた世帯主が定年退職後に高齢期就農した後,年金を主要な生計手段としながら,新品種を含めた多様な柑橘生産を行っており,それが彼らの生きがいにもつながっていることが指摘されている.このような高齢者の生計基盤と就農目的の多様化の関係は重要な知見である.IV章では,世帯主が兼業先で非正規雇用であった高齢期離職就農者の多い東京都利島村のツバキ実生産を取り上げ,建設業などに断続的に従事していた世帯主が農業に復帰した後,国民年金を基礎としツバキ実生産を補助として生計維持を図っている実態を検討した.この事例では,加齢の進行に伴って農業からも引退した高齢者のツバキ林を,より若い高齢者が引き継いで規模拡大を図って生計を充実させている.これは高齢者による地域農業の継承の可能性という点で貴重な知見である.V章では,老年学におけるプロダクティブ・エイジングの観点を導入し,世帯主の青壮年期の就農状況が異なるII章,III章,IV章の事例の比較検討を行った.そこでは,高齢期離職就農者が年金と農業所得を組み合わせることによって,農業の経済性を追求するだけではなく,他者への貢献といった社会的な面にも目を向けることが可能になり,それが特産品農業の維持につながっていることが論じられている.さらに,農業就業者の高齢化によって,必ずしも生計維持を主目的としない農業が増加する中で,今後の農業政策では,単に農業所得の拡大のみを目指すのではない「脱生計農業」の視点が重要となることを指摘した.こうした指摘は,今後の地域農業の議論において高齢者に積極的な役割を与えるという重要な論点を提起している.

以上のように,本論文は,特産品産地の詳細な実態調査から,高齢者農業に経済的な面に限らない積極的な位置づけを与える実証的根拠を提示し,新しい地域農業の方向性を提起した点で,農業地理学,老年学などの分野においての学術的貢献が認められ,今後の農業政策や高齢者政策の展開にも寄与すると考えられる.よって,本審査委員会は,博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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