学位論文要旨



No 128911
著者(漢字) 小山,貴裕
著者(英字)
著者(カナ) オヤマ,タカヒロ
標題(和) HOCOラジカルおよびHOCOを含む錯体のマイクロ波分光
標題(洋) Microwave spectroscopy of the HOCO radical and complexes containing HOCO
報告番号 128911
報告番号 甲28911
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1222号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 染田,清彦
 東京大学 教授 真船,文隆
 東京大学 准教授 長谷川,宗良
内容要旨 要旨を表示する

【実験背景】

COのOHによる酸化反応は、大気化学において大変注目されている反応である。

OH + CO → CO2 + H (1)

ここでOHは大気の酸化剤として、大気中で起こる様々な反応に関与している重要な化学種である。また、COは都市部で起こる大気汚染の原因となる有害な分子である。これら二つの化学種の大気中での濃度が反応(1)によって実質的に支配されていると考えられている。この反応の途中にはHOCOと呼ばれる中間体が生成する。図1に示すとおり、HOCOにはcis型とtrans型が存在し、trans型が最安定構造となっている。HOCOにはまわりの安定な分子と衝突して安定化する経路も存在する。

HOCO* + M → HOCO + M* (2)

この安定化経路は反応(1)が示す圧力依存性の原因となっている[1]。また反応(2)の途中にはHOCOと安定分子との錯体が存在し、それが (1)に影響を与えていると考えられる。例えばH2Oの存在下で(1)の反応速度が増加する現象が確認され、その原因としてHOCOとH2Oとの錯体形成の可能性が示唆されている[2]。同様の錯体形成はNOおよびO2に対しても考えられている[3]。これらHOCOに関連する広範囲な系に対する理解、そして大気中でのCO2生成過程の正確な理論モデルの構築には、実験室レベルで関連分子を生成し、高分解測定に基づいた詳細な分子構造の決定が不可欠である。さらにHOCOを含む錯体については理論研究のみで、実験的な研究はまったく行われていなかった。これはcis型およびHOCOを含む錯体がtrans型に比べてエネルギー的に不安定であり、通常の実験手法では観測することが難しいためであると考えられている。そこで私たちはこのような現状を打破するべく、不安定分子に対して強力な高分解分光法である、パルス放電ノズル(PDN)超音速ジェット法と組み合わせたフーリエ変換マイクロ波(FTMW)分光法を用いて、HOCOのcis型、およびHOCOを含む錯体の純回転遷移の観測を行った。

【cis-HOCOの観測】

HOCOの気相中での高分解能測定は、これまで最安定状態のtrans型のみしか報告されておらず、準安定状態のcis型については精度的に不十分な固体マトリクス中の赤外分光の観測しかなかった。

試料気体はCOをArで12%まで希釈した混合気体を水の入った液だめに通し水蒸気を含ませたものを使用した。これをPDNで背圧6.0 atm、放電電圧2.0 kVでチェンバー内に噴射することで超音速ジェット中にcis-HOCOを生成させた。

ab initio計算で予想された分子構造を元に純回転遷移を予想し観測を行った。最終的に4本の回転遷移を観測することができた。さらに重水素置換体であるcis-DOCOについても観測を行い、こちらは5本の回転遷移を観測した。観測された吸収線は二重項非対称コマ分子のハミルトニアンを用いて解析した。決定された分子定数は、ab initio計算の予想値と良い一致を示した。さらに今回、舟戸らによって報告されているtrans型の観測データについても再解析を行った[4]。今回、重水素置換体も観測したことで、これら同位体種の回転定数を元にcis型のr0構造を実験的に初めて決定することができた。決定された構造を図1に示す。これらの構造パラメータはab initio計算によって予想された値と良い一致を示した。

また得られたスペクトルを既に測定されているtrans-HOCOの対応するスペクトルと比較したところ、その強度比はcis型とtrans型で 1.0 : 4.5となった(図2)。ここでスペクトルの強度は双極子モーメントの二乗および分子の生成量に依存する。ab inito計算からa軸の双極子モーメントは1.3 Debyeと 2.5 Debyeと推定され、その二乗の比が強度比とほぼ一致したことから、今まで気相中で観測されなかったcis型もtrans型と同程度生成していることが示された。

決定されたフェルミ接触相互作用定数は、二つの構造異性体で異なった値を示した。この定数は水素原子上の不対電子密度に関連する定数である。このことから構造異性体間で、水素原子上の不対電子密度が異なることが示された。

【CO-trans-HOCO錯体の観測】

CO-trans-HOCO錯体は反応(1)の反応分子であるCOと最安定な中間体(trans-HOCO)との錯体であり、反応(1)に影響を与えると推測される。しかし、この錯体は今まで理論計算すら無い状態であった。そこで私たちはab initio計算を用いて構造を予想し、回転遷移の観測を行った。

この錯体の生成方法はHOCOのものとほぼ同じである。最終的に24本の回転遷移が観測された。得られた吸収線は二重項非対称コマ分子のハミルトニアンを用いて解析した。決定された回転定数を元にtrans-HOCOとCOの間の距離および角度を決定した(図3)。今回決定されたH-CO距離、2.165Åは、類似の構造を持つCO-H2O錯体のH-CO距離2.41Åと比べてかなり短い値となった。これはCO-trans-HOCO錯体が通常の錯体に比べてより強い結合を持つ証拠であり、COとの錯体形成がHOCOの安定化に与える影響は、他の安定分子と比較しても大きいと言える。

この錯体のフェルミ接触相互作用定数の値(-6.7 MHz)は、モノマーのtrans-HOCOの値(-6.9 MHz)とほとんど変わらなかった。これはCOとの錯体形成でtrans-HOCOの水素原子上の不対電子密度は変化しないことを示している。

【H2O-trans-HOCO錯体の観測】

AloisioらはH2O-HOCO錯体の安定構造としてサイクリックなH2O-cis-HOCO型を提案した[2]。しかし、私たちが行ったab initio計算によると直線型H2O-trans-HOCOの方が200 cm(-1)ほどエネルギー的に安定であると予想された(図4)。そこでこれら二つの構造を想定し観測を行った。

この錯体についても、HOCOと同じ生成方法を用いた。ただし、本実験では、液溜めをペルテェ素子で冷却し、サンプルガス中の水蒸気量を抑えた。実験の結果、私たちの予想通り直線型H2O-trans-HOCO由来のスペクトルだけが観測された。また、観測された吸収線は、二種類のスペクトルで構成される(図5)。この錯体ではH2O分子の内部運動によって等価な2つの水素原子の交換が可能であり(図6)、それにより振動準位の分裂が起きる。観測されたスペクトルは、この分裂した二つの準位(A'とA")に対応する吸収線として帰属することができた。これらのラインもまた二重項非対称コマ分子のハミルトニアンを用いて解析した。決定された回転定数を元にtrans-HOCOとH2Oの間の水素結合距離を決定した。決定された水素結合距離(1.823Å)は水二量体の結合距離(2.019Å)に比べかなり短い。このことは、この錯体が典型的な通常の水素結合より強い水素結合を持つことを示唆している。実際、水二量体の結合エネルギーが5.0 kcal/molなのに対して、H2O-trans-HOCO錯体の結合エネルギーはab initio計算から8.8 kcal/molと算出された。

また、フェルミ接触相互作用定数の値(-3.33 MHz)は、モノマーの半分の値となった。これは水との錯体形成でtrans-HOCOの水素原子上の不対電子密度が変化したことを示している。

A"状態についても同様の解析を行ったが、観測されたK-型二重項分裂がKa=0の遷移に対して非対称に現れ、うまく解析できなかった。そこで、摂動の影響を受けているものと思われるラインを除き解析を行った。決定された分子定数は、A'の分子定数と良い一致を示した。

[1] I. W. M. Smith and R. Zellner, J. Chem. Soc., Faraday Trans. 69 (2), 1617 (1973)[2] S. Aloisio and J. S. Francisco, J. Phys. Chem. A, 104, 404 (2000)[3] G. Poggi and J. S. Francisco, J. Chem. Phys. 120, 5073 (2004)[4] 船戸 渉, 修士論文, 東京大学 (2005)

図1 cis型のr0構造。*印の値は

ab initio計算の値に固定。比較のためtrans型のr0構造も載せる。

図2 a-type遷移のスペクトル強度の比較。

図3 CO-trans-HOCO錯体のr0構造。

モノマーの構造はそれぞれのre構造に固定。

図4 H2O-HOCOの構造計算。

モノマーの構造はそれぞれのre構造に固定。

図5 観測された二種類のスペクトルの一部

図6 H2O-trans-HOCO錯体の水素交換反応に関連するポテンシャル。

審査要旨 要旨を表示する

一酸化炭素(CO)がOHラジカルによって酸化されて二酸化炭素になる反応は、炭化水素の酸化反応の最終ステップとなる反応であり、燃焼化学で極めて重要な反応である。また、この反応は大気化学でも重要である。大気化学では、大気中の様々な微量成分がOHラジカルにより酸化される反応が鍵となっているが、大気中のOHラジカルの存在量を規定しているのが、このOHとCOとの反応であるとされている。この反応は、複雑なステップを経て進行すると考えられているが、その中で重要な役割を果たしているのがHOCOラジカルである。このラジカルは、非直線な平面構造をとり、trans-型とcis-型の二つの異性体を持つ。反応はこの二つの異性体を経由して進むと考えられているが、これまで気相の分光では、trans-型のみが検出されていた。本研究では、cis-型の異性体のスペクトルを初めて観測し、その構造を精密に決定することに成功した。これまでの研究では,気相中でcis-型が検出されていなかったにもかかわらず、本研究で用いた超音速ビーム中では二つの異性体はほぼ同量生成していることも明らかにした。

更に本研究では、このHOCOラジカル単体のみならず、このラジカルを含む分子錯体を2種類検出し、その構造を明らかにした。その一つは、上記の反応系の反応物である一酸化炭素とHOCOとの錯体であり、もう一つの系は水分子とHOCOとの錯体である。特に、一酸化炭素とOHラジカルの反応に対して水分子の存在がその反応速度に大きな影響を与えていることが知られており、これには水分子とHOCOとの錯体形成が寄与しているとされていた。そのため、その分光学的検出が期待されていたものであり、本研究で初めてその存在を確認することができたことの意義は大きい。いずれの錯体も閉殻分子同士が結合した類似錯体に比べ、分子間結合距離がかなり短くなっていることが見いだされ、このようなラジカル錯体の特異性の一端を明らかにしている。

論文は全体で5章からなり、第1章は一般的な導入にあてられている。ここではHOCOを含むフリーラジカル、更にフリーラジカルを含むラジカル錯体の分光学的な研究の意義が示され、その中で特に、OH+COの反応の意義、その反応の理解に対してHOCOラジカルの研究の重要性が位置づけられている。第2章は実験装置の説明に当てられており、純回転スペクトルの観測に用いたフーリエ変換マイクロ波分光法と、その分光法と組み合わせて使用する二重共鳴分光法の詳細が説明されている。また、研究対象となったラジカル、ラジカル錯体の生成・検出の鍵となった、パルス放電ノズルと、それを用いた不安定分子種の生成法の説明がなされている。

第3章以降は実際の結果が示されている。まず第3章は、cis-HOCOの実験、解析と得られた結果に基づく議論にあてられている。実験に先立って行われた高精度の分子軌道計算を援用し、trans-型も含め二つの異性体の構造を精密に決定している。また、決定した超微細相互作用定数から、二つの異性体の間の不対電子軌道の違いを論じている。第4章はCO-HOCO錯体の実験、解析と得られた結果に基づく議論にあてられている。この錯体ではtrans-HOCOのOHの先にCO分子の炭素原子がOH基の方向に向け結合していることを明らかにし、分子間の結合距離を決定した。さらに、第5章ではH2O-HOCOの実験、解析と得られた結果に基づく議論が示されている。この錯体もtrans-HOCOのOH基の先に水分子が、水の酸素原子の孤立電子対を向けた形で結合していることを明らかにした。この錯体の場合は、水分子が大振幅運動をしており、水分子の二つの水素原子が交換可能で等価な核として振る舞っていることを、観測したスペクトルから明らかにした。

このように、本研究は、大気化学や燃焼化学で重要と考えられているフリ-ラジカルと、それを含む分子錯体を取り上げ、その詳細を明らかにしたもので、その学術的な価値は極めて高いと評価できる。なお、これらの研究結果のうち、単体のHOCOの研究成果とHOCOとCOとの錯体の研究成果は、すでにそれぞれ1報ずつの論文として印刷公表されている。引き続きHOCOとH2Oとの錯体の研究結果を1報の論文として投稿準備中である。これらの結果は、遠藤泰樹、住吉吉英、船戸渉との共同研究であるが、ほとんどすべての内容は論文提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

よって審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位請求論文として合格であると認定する。

UTokyo Repositoryリンク