学位論文要旨



No 128918
著者(漢字) 上田,直子
著者(英字)
著者(カナ) ウエダ,ナオコ
標題(和) 援助とソーシャル・キャピタル : 中米シャーガス病対策からの考察
標題(洋)
報告番号 128918
報告番号 甲28918
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(国際貢献)
学位記番号 博総合第1229号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 教授 丸山,真人
 東京大学 教授 中西,徹
 長崎大学 教授 竹内,勤
 アジア経済研究所 上席主任研究員 佐藤,寛
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の目的

開発途上国への援助は、それを受け取る途上国の人々の意識と行動の変容に持続的な成果をもたらすか。援助プロジェクトという外部からの一時的な介入が去った後にも、プロジェクトの成果がその地において展開し続けることは可能か。可能な場合、それを可能とする援助の方法はどのようなものなのか。

上記の問いかけに対し本研究は、JICA(国際協力機構、以下"JICA")による中米ホンジュラス共和国の寄生虫感染症"シャーガス病対策プロジェクト"で取り組まれた感染媒介虫対策において、援助プロジェクト終了後も援助成果の持続的展開が可能となった実例をソーシャル・キャピタルの視点から検証し、持続性を有する援助とソーシャル・キャピタルの関係を明らかにすることを目的とする。

2.論文の構成

まず第1章において本研究の問題意識と論点、全体的な枠組みを提示した。次いで第5章以降のプロジェクト分析の背景として、第2章にて援助と開発に関する国際的潮流を、第3章でソーシャル・キャピタル(以下"SC")に関する先行研究を概観した。

第4章でシャーガス病の疫学状況と社会的位置づけ、対策とその進展状況などを概観した後に、第5章では"JICAホンジュラス シャーガス病対策プロジェクト"(以下"プロジェクト")の介入を精査し、第6章で援助とSC、プロジェクトによるSCの変容とセンチメントについての考察を試みた後に、終章での結語に至る。

3.論 点

ある社会や地域において、援助に限らず外部から意図的にもたらされた新しい社会的な動きや制度が定着し持続していくことの成否は、その動きをめぐる価値観、意識や規範、ネットワークなどのSCが、その動きの参加者ひとりひとりの日常に容易に内面化するか否かによって決まると考えられる。

本研究は、プロジェクトが、シャーガス病の感染媒介虫対策の領域において、上記の過程を経て新たな制度の定着と持続をもたらしたことを明らかにするものである。

プロジェクトは、その介入対象地域において、住民どうし、住民と保健行政との間、また複層の保健行政の内部で、感染媒介虫をめぐる"応答 1の交換 2"の制度の定着と持続にむけたSCを構築した。また"応答の交換"の制度は、既存のSC(一般的互酬性、利他性、協調行動をもたらす社会構造やネットワークなど)を援助成果の持続にむけて強化し、新たなSC(応答性、シナジーなど)の形成、発展を促進した。そしてそれらSCの変容の基盤として、感染媒介虫対策をめぐる現場の人々ひとりひとりの感情(センチメント 3、以下"センチメント")の変化が重要な役割を果たしていることに注目し、センチメントの変化に支えられたSCの変容が"応答の交換"の制度を強めたことを示した。

3.1. シャーガス病とその対策

シャーガス病とは、WHOにより"NTDs(Neglected Tropical Diseases:顧みられない熱帯病)"の一つとされる中南米の寄生虫症で、病原虫を運ぶ感染媒介虫(カメムシの一種"サシガメ"、以下"サシガメ")が貧困層の住居に生息するため、感染者が地方部貧困層に集中する"貧困の病"とも呼ばれる社会的疾病である 4 。2008年の推定死亡者数は1万人とされ、中南米地域の感染症としてはもっとも重篤かつ深刻な疾病とみなされている 5。

新規感染の8割以上がサシガメ媒介だが、輸血、母子感染、臓器移植などによっても感染し、最近は人々の移動により北米や欧州諸国、日本でも感染者が増加しつつあり、世界的な感染拡大が懸念されている。

サシガメ対策は、家屋への殺虫剤散布である攻撃フェーズと、家屋内でサシガメが減少した状態を維持するためのサシガメ再発生監視段階の監視フェーズにわけられ、2000年以降JICAはグァテマラにはじまりホンジュラス、エル・サルバドル、ニカラグアなど中米数カ国においてサシガメ対策を主とする技術協力プロジェクトを行ってきた。それはWHO/PAHO(米州保健機構)と連携し、対象諸国の保健省、県保健局、住民レベルにはたらきかけ、攻撃フェーズ→監視フェーズの2段階の実践を通じて各国で持続的な"住民参加型サシガメ監視体制"を構築したものであった。

3.2. "応答の交換"をもたらしたプロジェクトの手法

本研究において、ホンジュラスでのシャーガス病対策プロジェクトが (1)可視的な成果をもたらす活動を通じ、(2)JICA側要員がホンジュラス側要員の現場での活動に同伴して、(3)複層でのCapacity Developmentを進めたことが、住民から保健行政の上層部に至るまでの"応答の交換"の制度を形成し、援助成果の持続性をもたらしたことを提示した。

そして上記(1)~(3)を実践したプロジェクトの活動の内容と効果などについて検討を行った。具体的には、複層の人材にむけた大規模な研修、住民保健ボランティアへの継続的な啓発、学校保健アプローチなどの様々な機会を通じた現場関係者や住民への啓発活動と地域資源の動員、各県保健局代表による定期的な評価会開催について考察した 6。

3.3. 住民参加型サシガメ監視体制:"応答の交換"とその持続性

住民参加型サシガメ監視体制とは、主体的な住民参加にもとづき昆虫学・疫学の両側面からサシガメの家屋内再発生を監視する仕組みで、家屋でサシガメを発見した場合にはサシガメ個体を行政に届ける活動を住民保健ボランティアを中心に根付かせていったものである。住民によるサシガメの発見・届出に対し、行政は対応基準に沿って対応(殺虫剤散布指示など)を行うが、この仕組みを住民と行政間の"応答の交換" 7の制度ととらえた。

住民と行政の間に発生した"応答の交換"制度確立の重要な条件のひとつはその持続性であり、そのためには双方に応答を継続させる内発的動機をつくり出すことが重要である。

3.4. "応答の交換"を支えるセンチメント: 内発的動機をもたらすもの

行政側には疾病対策の進展がもたらす自信と意欲、住民側には物質的・金銭的インセンティブ、あるいは奉仕の喜びや嬉しさのような個人のセンチメントなど様々な要素が想像できるが、ここでは主に"応答の交換"制度成立の鍵を握る住民保健ボランティアの内発的動機につながるセンチメントについて考察した。

センチメントの背景として、介入地域の多くを占める先住民集落の特性、女性に優位性のある住民参加型サシガメ監視体制と女性のエンパワーメントの関連にもふれた。

(1)喜び:他者への奉仕の喜び、研修で新たな知識を得ることや学ぶことによるエンパワーメントの喜び、我が子や村の子ども達の顔色がよくなり元気になっていくのを見守る喜び、新しい人や組織とのつながりやネットワークに参加する喜びなどが語られた。 8,9

(2)達成感:行政とのコンタクトや"応答の交換"に参加することにより得られる達成感 10、コミュニティからの支持、謝意に対する満足のような外部との関係性における満足や達成感と、サシガメ対策自体がもたらす個人内面の満足、達成感がみられた。

(3)名誉:他人が自分の言葉に耳を傾けるようになった、他人が自分を信頼し、自分は頼りにされ尊敬される、名誉のある存在になったという変化がみられた 11。エンパワーメントの文脈において、新たなパワーを自分がコントロールしている、あるいは自分がもっていた潜在的パワーに気づくという自己統制感に通じる自信も観察された。

3.5. センチメントとソーシャル・キャピタル

上記センチメントは内発的動機を呼び起こし、内発的動機の継続は"応答の交換"の持続にむけたSCをもたらした。

そのSCを、(1)協調行為をもたらす社会構造と一般的互酬性、利他性、(2)応答性とシナジー にわけ、SCの"個人の規範、個人どうしの信頼や一般的互酬性、協調行動を起こさせる社会構造、個人と集団、あるいは集団内部/集団どうしのネットワーク"の側面に注目し"個人を起点とし、合理的個人に協調行動をとらせる社会構造総体としてのSC 12"と、それを補足する概念として"Institutional arrangement 13"の概念を用い、制度とSCの循環についても考察した。"人々の協調行動によって社会の効率を高める働きをする社会制度としてのSC 14"概念およびシナジー 15の観点も援用した。

SC概念との親和性の観点から、センチメントを生成する"感情規範 16"についても考察した。

4.結 語

援助プロジェクトが、それを受け取る途上国の人々のあいだに援助成果の持続性をもたらすSCを変容(あるいは構築、形成)することは、本プロジェクトにおいては可能であった。そして本研究では、そのSCを変容させ人々のなかで循環させる原動力としての"応答の交換"制度に注目した。またそれらSCにより"応答の交換"が成立し強められたとも考えることもでき、その基盤には、これまで意識外におかれていた現場の人々のセンチメントが存在する。本プロジェクトにおいては、3.2.に示した手法 17により、これらの過程を経て持続的な住民参加型サシガメ監視体制が確立し、人々がシャーガス病の脅威から解放されていくことが期待できる 18。

援助成果の持続性とSCの観点からも、援助現場での人々のセンチメントに今こそ我々はむきあうべきであろう。その対峙は、援助受入国の人々だけではなく、介入の過程で循環し、援助提供側の我々のセンチメントにも新たな光をあてる。そのセンチメントの循環が双方にもたらす空間こそ"convivialite/共愉・自立共生"であり、これからの開発や援助が目指すべき新たな地平なのではないだろうか。

1 本研究での「応答」の定義: 入力や要求をうけとったアクターが、公平に、責任(responsibility)をもってその入力に応答し、出力を生み出すこと。

2 本研究での「交換」: 実際に人々の間で交換されるのは捕獲されたサシガメ個体や殺虫剤散布指示、技術・情報の提供、無償の労働奉仕、啓発活動、予算配布・実行・評価などの行政活動、消耗品、そしてセンチメントなど多岐のレベルにわたるものである。

3 "感情"は、根源的な身体的感覚をあらわす"emotion"と、より理性的で社会関係においてもたらされる"sentiment"に分類される。援助という社会変化の現場での"感情"に注目する本研究では、後者を用いた。

4 慢性化すると完治は難しく、個人のみならず社会経済的にも負担が大きく、さらなる貧困の原因となる。推定感染者数は中南米地域を中心に世界で約1,000万人、慢性感染者の3~4割が心疾患などを発病し感染後数年から数十年で急死するといわれる。

5 同地域でのシャーガス病のDALY(Disability-Adjusted Life Years Lost: 疾病による障害補正生存年)はマラリア、デング熱、肝炎を上回る。

6 国家レベル、中央レベルでの介入はJICA専門家が主に担った。県レベル、住民レベルへのはたらきかけにおける青年海外協力隊(JOCV)の貢献についても述べた。

7 住民どうし、あるいは保健行政内部などさまざまなレベルでも"応答の交換"が観察されたが、ここでは省略する。

8 パウラ 49歳 主婦 コマヤグア県エル・ロサリオ市

「ボランティア活動を行うことにより新しい知識を学び、コミュニティの役に立つのが嬉しい。」

9 アニバル 31歳 男性 農業 インティブカ県ドローレス市

「ボランティアで得たものは、自分たちと子どもの健康に関する正しい知識とコミュニティの役に立つことの満足感だ。夜中に具合の悪くなった近所の子どもが連れてこられ、翌朝に保健施設に連れて行くまで、解熱剤を与えてなんとか体調をもたせたこともある。ボランティアをやることにより仕事時間が減るわけだが、コミュニティの役にたつことのほうが自分にとっては重要と思っている。天国の神様が自分を認めてくださるようにボランティアを続ける。サシガメが減り、コミュニティの子どもが元気になってきたことを見るのが一番大切な経験だ。」

10 エスメラルダ 45歳 主婦 コマヤグア県エル・ロサリオ市

「サシガメをみつけたら保健所に届けている。そうすると保健所から殺虫剤散布指示や啓発などの反応がかえってくることに満足している。次も届けようという気持になる。」

11 マルガリータ 44歳 主婦 コマヤグア県エル・ロデオ市

「講話の時に皆が自分の話を黙ってきいていてくれる時、自分が尊敬されていると感じることができる。これはボランティア以外では味わえない実感です。」

12 Coleman, J.,"Social capital in the Creation of Human Capital", American Journal of Sociology, 1998.

Coleman, J., Foundation of Social Theory, Harvard University Press, 1990.

13 オストロムのSC:グループが、現在と将来の協調行動における問題を克服するための能力を強める、グループ成員間の関係と、彼らが共有する価値の総体。制度はSCの単なるoutcomeではなく、SCの一種である。そして、ある時点でのSCへの投資は次の時点でのあらたなSCを産出する。そして制度はSCに影響を与え、またそれらに影響されるという循環を形成する。Ostrom, E.,"What is Social Capital?" in Bartkus V.O. eds. Social Capital, Reaching 0ut,Reaching In, Edward Elgar Publishing Inc., 2009.

Institutional arrangement:共有地使用を追求したいという個人の利己的動機が、将来にむけた共有地の保持にむけて競合他者との調整の循環を経ることにより社会全体では利他の機能を持つ。Ostrom, E.,"Institutional Arrangement for Resolving the Commons Dilemma, Some Contending Approaches", in B.M.McCay eds. The Question of the Commons -The Culture and Ecology of Communal Resources, University of Arizona press, 1990.

14 パットナム『哲学する民主主義-伝統と改革の市民的構造』NTT出版、2001年など。

15 シナジー(State-Society Synergy):行政(公務員)と市民の間で発生する協力行動が行政による政策実践と住民の参画の効果を上げ、両者の関係も強化するような関係性。Evans,P.,"Government Action, Social Capital and Development : Reviewing the Evidence of Synergy" , State-Society Synergy: Government and Social Capital in Development, UCBerkely,1997.

16 ホックシールドの主張した"感情規範"は、生理的感情(emotion)を社会的感情(sentiment)に転化させる"フィルター、あるいは(社会的な)装置"とも考えられる。ホックシールド『管理される心-感情が商品になるとき』世界思想社、1999年。

17 本論では、"応答の交換"の制度とそれを成立、持続させたこの手法の他領域への適用可能性についても述べた。本プロジェクトで形成、強化されたSCがホンジュラスにおいて生活改善運動など新たな動きに発展しつつある状況についても触れた。

18 2010年11月ホンジュラスではWHO/PAHO評価団により外来種サシガメによる新規感染の中断が認定された。

審査要旨 要旨を表示する

上田直子氏の「援助とソーシャル・キャピタル~中米シャーガス病対策からの考察」は、開発途上国への援助において、援助プロジェクトという外部からの一時的な介入が去った後にも、プロジェクトの成果がその地において展開し続けることが可能か、またそれを可能とする方法はどのようなものか、という問いに答えようとするものである。

この問いに答えるために、本論文は国際協力機構JICAによる中米ホンジュラス共和国の寄生虫感染症であるシャーガス病対策プロジェクトを調査対象とし、そのプロジェクトが終了した後も援助展開が可能であり続けた理由を、ソーシャル・キャピタルという理論装置を用いて検証している。

本論文は全7章からなる。そのうち、第1章「本研究の意義と目的」、第7章「結語:成果の持続に向けたソーシャル・キャピタルへ」に挟まれた5つの章が本研究の主部をなす。まず第2章「途上国援助と感染症対策」では、援助をめぐる国際的な潮流を辿り、本研究における主たる理論装置であるソーシャル・キャピタルが重視されるに至る経緯を明らかにした後、開発援助のうちで本論文が対象とする保健分野における援助の特徴と意義を示す。

第3章「ソーシャル・キャピタル」は本論文の理論的枠組みを示すものであり、ソーシャル・キャピタル概念に関わる代表的な論者による議論を整理した後、それに対する批判と新たな可能性を呈示している。そしてこの章の後半では、ソーシャル・キャピタルが持続性の面で援助プロジェクトに貢献し、本論文の対象である保健分野の援助において重要であることを明らかにする。

第4章「シャーガス病とその対策」は、「顧みられない熱帯病NTDs」の一つであるシャーガス病という感染症についてまとめた部分であり、シャーガス病とその媒介昆虫であるサシガメについて概観した後、その疾病の社会的な位置づけと、シャーガス病対策とその歴史について詳細に紹介している。

第5章「JICAシャーガス病対策プロジェクト」は本論文が対象とする援助プロジェクトの内容を示す部分である。プロジェクトが展開するに至る前史、プロジェクトの展開過程の詳細を呈示するとともに、プロジェクトが貫いた「可視性」「現場への同伴」「複層での能力開発」「応答の交換」について論ずる。

第6章「プロジェクトのソーシャル・キャピタル」では、開発援助とソーシャル・キャピタルの関係について、これまで実施されたさまざまな開発援助プロジェクトを材料に検討する。そして、本論文において最終的にキーとなる概念として「応答の交換」を抽出し、その適用可能性について論じている。

そして最終の第7章「結語」をもって論文を締め括っている。

本審査委員会が認める本論文の意義は、第一にプロジェクトという素材を具体的かつ丁寧に扱い、それを理論的に検討することによって他の開発援助プロジェクトとって適用可能にするという姿勢を貫いていること、第二に自らプロジェクトにコミットしながらもそれから一歩距離をとり、自らが当事者でありかつ調査者であるという立場を明確に自覚した研究であること、第三に一般論ではなく特定の事例にその適用範囲を限定する具体的な研究としたことによってソーシャル・キャピタル論の発展に寄与する素材を提供したこと、そして第四に「顧みられない熱帯病NTDs」であるシャーガス病を対象にすることによって、この疾病に関する新しい概念を提供したことが、感染症研究の将来に資することが大きいこと、である。

ただ、本論文に全く問題がないわけではない。審査委員からは、さまざまな概念を使用していながら概念間の関係の整理が不足していること、シャーガス病対策の事実関係の把握に不十分な点が見られること、という指摘があった。しかしながら、これらの問題も本論文のもつ学術的貢献を大きく損なうものではなく、本審査委員会は全員一致で博士(国際貢献)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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