学位論文要旨



No 128919
著者(漢字) 中田,芳史
著者(英字)
著者(カナ) ナカタ,ヨシフミ
標題(和) 多体ハミルトニアン系の量子情報的解析
標題(洋) Analysis of many-body Hamiltonian systems in quantum information
報告番号 128919
報告番号 甲28919
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5896号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 羽田野,直道
 東京大学 教授 小芦,雅斗
 東京大学 教授 勝本,信吾
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 川島,直輝
内容要旨 要旨を表示する

量子状態を用いた情報通信および情報処理を目的として開拓された量子情報は、その発展の中で多くの新概念を生み出し、情報通信や情報処理に限定しない、量子状態を解析するためのより一般的な手法を提供することとなった。近年は、量子情報において発展した解析手法を量子多体系に応用することで、量子情報と量子多体物理学の相互発展が加速している。本学位論文では、この流れをより一層加速させることを目的として、量子多体ハミルトニアン系を量子情報的な観点から解析した。

本学位論文は二つの主題からなる。第一の主題は、量子情報で発展した量子状態のランダムサンプリング法を用いて、量子多体系における量子状態の普遍的な性質を探る研究である。この主題は、量子情報の手法を用いて量子多体系の理解を深化させることを目的の一つとしている。第二の主題は、量子多体系における共同現象を活用して量子計算のエラーに対する頑強性を高める研究である。この主題では、量子多体物理学において得られた知見や解析手法を量子情報処理に応用し、新たな量子計算スキームの可能性を探ることを目的とする。これら二つの主題に取り組んだ本学位論文では、量子情報と量子多体物理学の双方向の研究を行うことで両者の関係をより密にし、量子多体系の包括的理解および研究発展を促す将来的な方向性を提示した。以下では、各主題に関して研究背景、動機、および得られた結果を簡潔に説明する。

量子情報では、しばしばヒルベルト空間から量子純粋状態を一様ランダムにサンプリングすることで、与えられたヒルベルト空間内の純粋状態が典型的に持つ性質を解析することがある。サンプリングされた状態アンサンブルはランダム状態アンサンブル(randomstates)と呼ばれている。これまでにランダム状態アンサンブルの解析から得られた結果としては、量子多体系におけるほぼ全ての純粋状態は非常に大きなエンタングルメント(量子非局所相関)を有すること(typical entanglement)、そのエンタングルメントに由来して、熱浴に接した系においては、全系の状態が純粋状態であったとしても、部分系ではカノニカル状態が普遍的に実現すること(canonical typicality)などが挙げられる。また、ランダム状態アンサンブルを用いた量子情報処理プロトコルも数多く知られている。

しかし、通常、量子多体系は対称性や運動方程式による拘束条件を有するため、全ての純粋状態が一様に実現する訳ではない。そのため、一様なランダムサンプリングを用いて得られた典型的な性質を、量子多体系における普遍的性質とみなすことの妥当性には大きな問題があった。我々はこの点に着目し、拘束条件を考慮したランダム状態アンサンブルを解析することによって拘束条件付きのランダムサンプリング法を提唱した。特に、閉じた系におけるハミルトニアン動力学では、初期状態をハミルトニアンの固有状態で展開した係数の位相のみが変化する点に着目し、「位相ランダム状態アンサンブル(phase-randomstates)」を定義した。位相ランダム状態アンサンブルは、正規直交基底と係数の振幅の組が与えられたときに、その係数の位相が一様ランダムに分布しているアンサンブルとして定義され、閉じた系において実現する量子状態の典型的な性質を調べることを第一目的としている。

我々は、特にエンタングルメントの観点から位相ランダム状態アンサンブルを解析し、位相ランダム状態アンサンブルが持つ平均エンタングルメントの解析公式を導出した。解析公式を用いることで、位相ランダム状態アンサンブルの平均エンタングルメントが正規直交基底と係数の振幅にどのように依存するかを調べ、特に非直観的な場合として、エンタングルメントを持たない状態からなる正規直交基底に対応する位相ランダム状態アンサンブルが非常に大きな平均エンタングルメントを有することを示した。この結果は位相エルゴード性を仮定することによって量子多体系に応用することができ、イジング系などの古典的なハミルトニアン系において初期状態がエンタングルメントを持たない状態であったとしても、時間発展の結果、巨大なエンタングルメントが生成されることを意味している。その他にも、熱浴と系の間の相互作用が微少でも大きなデコヒーレンスにつながる場合があることや、ハミルトニアン動力学に従う時間発展のシミュレーション可能性、位相エルゴード性が成立するまでに必要な時間スケールを求めることなどに成功した。

次に我々は、位相ランダム状態アンサンブルを用いた量子情報処理プロトコルを提唱することを目的として、量子回路を用いた位相ランダム状態アンサンブルの効率的な生成方法を解析した。我々は、位相ランダム回路と呼ばれる量子回路を用いることによって、位相ランダム状態アンサンブルを効率的に生成できることを証明した。位相ランダム回路は簡易な回路であるため、実験的に実装しやすいと考えられる。さらに、位相ランダム回路を応用して、ランダム状態アンサンブルも近似的に生成できること、古典的なハミルトニアンの熱平衡状態をハミルトニアン系自体を準備することなく実験系で実現する方法を示した。近似的ランダム状態アンサンブルを利用した量子情報処理プロトコルは数多く知られているため、位相ランダム回路は様々な量子情報処理プロトコルに応用可能である。

第二の主題として、量子多体物理学において培われた知見・手法を応用することによって、多体系の共同現象を活用した量子計算のエラー耐性の向上に関する研究を行った。量子計算においては計算中に起こる不可避な微少エラーが積算することによって、最終的に計算の失敗が誘発される。従って、計算エラーを逐次訂正する方法論の構築は、量子計算機実装に向けた重要課題の一つである。そのための方法は「量子エラー訂正符号」と呼ばれており、現在に至るまで数多くの研究がなされてきた。本研究では、量子計算の中でも特に「測定に基づく量子計算(measurement-based quantum computation: MBQC)」に着目し、有限温度においてMBQC を実行する際の熱雑音エラーに関する研究を行った。

MBQC とは、多体系のエンタングル純粋状態に1量子ビット(量子二準位系)射影測定を連続して行うことによって量子計算を実装する方法である。MBQC によって量子計算を実装するためには適切なエンタングル純粋状態を準備する必要があるため、MBQC は量子計算実行可能性を、用いられる量子状態の物理的性質と関連づける。MBQC によって任意の量子計算を実行するために必要な量子状態は「ユニバーサル量子状態」と呼ばれており、例えば二次元正方格子上のAffleck-Kennedy-Lieb-Tasaki 模型の基底状態などからユニバーサル量子状態を生成できることが知られている。しかし、実際にMBQC を実装する際には有限温度の影響を考慮することが必要である。これまでに、ユニバーサル量子状態として熱平衡状態を用いることが可能な多体ハミルトニアンは幾つか提唱されてきたが、量子エラー訂正符号をうまく用いることで熱雑音エラーを訂正し、有限温度でもMBQC を実行可能にするものであった。

我々は、既存の研究とは全く異なるアプローチとして、量子多体系の共同現象を利用することによって、熱雑音エラーに対するMBQC の頑強性を物理的に向上させることが可能であることを示した。このことを示すために、具体的に「相互作用のないクラスターハミルトニアン(free Cluster Hamiltonian: fCH)」と「相互作用クラスターハミルトニアン(interacting Cluster Hamiltonian: iCH)」を導入した。これらのモデルにおける「相互作用」は特別な形の相互作用の有無を意味しており、どちらのハミルトニアンも多体相互作用を含んでいる。ただし、この種の多体相互作用は実験的にシミュレート可能であることが知られており、近年は実験でも実現されている。fCH およびiCH の基底状態はユニバーサル量子状態であるため、絶対零度であれば、それぞれのハミルトニアン系でMBQC を実装することが可能である。有限温度においては、fCH は相転移を起こさないがiCH は相転移を起こすため、両者の熱平衡状態を用いたMBQC の実行可能性を考察することで、臨界温度以下での多体共同現象がMBQCの熱雑音エラー耐性をどのように向上させるかを解析することができる。その結果、我々は、iCH の場合には臨界温度以下で現れる対称性を破る熱平衡状態を用いることで、MBQC の熱雑音エラー耐性が劇的に向上することを示すことに成功した。

このエラー耐性の向上は、直観的には以下のように理解できる。通常、磁化や相関関数などの熱力学的オブザーバブルの期待値に着目する限りでは、対称性を破る熱平衡状態は基底状態と似た性質を持つことが広く知られている。このアナロジーから、基底状態がユニバーサル量子状態であるようなハミルトニアンにおいては、臨界温度以下の対称性を破る熱平衡状態もユニバーサル量子状態に類似する性質を示すことが期待される。厳密には、MBQC における熱雑音エラーは熱力学的オブザーバブルの期待値ではないため、この類似性が成立するか否かは非自明であるが、本研究では、MBQC の熱雑音エラーの分布が対応するイジングハミルトニアンにおけるスピンフリップの分布と一対一に対応することを示すことによって、直観的理解を厳密に正当化した。

図1.ランダム状態アンサンブルと位相ランダム状態アンサンブルがヒルベルト空間内での分布を表した模式図。灰色の領域がヒルベルト空間を表す。

図2:二次元格子上でのiCH の熱平衡状態を用いたMBQC の実装例。丸印はキュービット(スピン1/2 などの量子二準位系)を表す。図(a)の赤色の領域は対称性の破れの方向を知るために測定され、黄色の領域がMBQC に用いられる。図(b)の黄色の線上にあるキュービットを適切なパウリ基底で測定することで量子計算が実行される。

審査要旨 要旨を表示する

中田芳史氏は本論文において、量子情報理論の分野で二つの新しい提案をしました。一つは、ヒルベルト空間内の量子状態のアンサンブルとして、位相のみをランダムに分布させる「位相ランダム状態アンサンブル」の提案です。もう一つは、測定ベースの量子計算に用いる状態を準備するために、強相関多体系のハミルトニアンを用いる提案です。いずれも量子情報理論における非常に基本的な提案であり、それらが果たして有意義な提案であるかどうかは、提案そのものだけからは直ちに明らかではありません。

しかるに、特に二つ目の提案については、その後の研究で著しい有用性が確認されています。また、一つ目の提案についても、カノニカル分布に関する議論や、現在の実験技術による量子情報処理プロトコルの実用化において今後の発展が大いに期待できます。いずれの提案も新しいトピックを作り出す礎となる重要性を持っており、本論文が物理の発展に寄与した重要な成果です。

本論文は4部構成になっています。第1部の第1章では論文全体を概観し、同第2章では量子情報理論の基礎を手際よく概観しています。第2部と第3部が本論文の主要提案を述べている部分です。第4部の第8章と第9章は、それぞれ第2部と第3部のまとめを記述しています。以下で第2部と第3部について、より詳しく述べます。

第2部は「位相ランダム状態アンサンブル」の提案のための第3章・第4章・第5章から成っています。まず第3章では従来のランダム状態アンサンブルを概観し、いよいよ第4章において位相ランダム状態アンサンブルを提案しています。第5章では位相ランダム状態アンサンブルを発生させるための量子回路を議論しています。

従来から考えられていた量子状態のアンサンブルである「ランダム状態アンサンブル」は、ヒルベルト空間内に一様に分布しています。それに対して、中田氏が提案した「位相ランダム状態アンサンブル」は、位相のみが分布している状態群です。これは、ある特定の初期状態に対する時間発展上に現れる状態のアンサンブルと考えることができます。中田氏は、位相ランダム状態のエンタングルメントが初期状態の振幅の分布にどのように依存するかを明らかにしました。そこから、量子多体系の数値計算によく用いられる行列積状態が、実際にはどのような場合に有用であるかを示唆しました。また、従来のランダム状態アンサンブルでは、その中の典型的な状態が部分空間でカノニカル分布を与えることが知られていますが、中田氏は位相ランダム状態アンサンブルにおいて同じことが起こるための十分条件を具体的に導きました。

中田氏はさらに、既存の実験技術を用いて効率的に位相ランダム状態を近似生成できることを証明しました。これを用いて、多くの量子情報処理で使われるランダム状態を容易に生成でき、また量子シミュレーター内で熱平衡状態が実現可能であることも示

しました。この方法は現在の実験技術で実装可能であり、量子情報処理の実用化の観点から量子情報理論の進展に大きく貢献しています。

第3部は測定ベースの量子計算において強相関多体系を用いる提案のための第6章・第7章から成っています。第6章で測定ベースの量子計算を概観し、いよいよ第7章で強相関多体系を用いる手法を提案しています。

測定ベースの量子計算では、あるエンタングルした純粋状態に次々にプログラムされた測定を行うことによって答えを得ます。最初に用意する純粋状態をユニバーサル状態と呼びます。従来の多くの研究では、ユニバーサル状態を用意するために、ユニバーサル状態を基底状態とする最も簡単な無相関系のハミルトニアンを用いていました。それに対して中田氏は、ユニバーサル状態を低温で自発的対称性の破れた熱平衡状態とする、強相関系のハミルトニアンを用いることを提案しました。この提案は、相関が強い方が熱雑音に強い量子計算が行えるとの直観に基づいています。中田氏は実際に、ゲート忠実度が強相関系のハミルトニアンを用いた時の低温において大きくなっていることを確認しました。その後の、中田氏と他研究者の共同研究によって、エラー訂正を組み合わせると、強相関系の低温相でゲート忠実度が著しく改善されることが明らかにされており、これによって中田氏の直観が裏付けられました。

本論文の以上の2つの提案は、新トピックを拓く基礎的な成果であり、物理学に対して新しくかつ有用な貢献をしています。本論文は村尾美緒氏、Peter S. Turner氏、藤井啓祐氏との共同研究に基づいていますが、主要な部分は中田芳史氏が主体的に研究を進めて得られた成果です。以上により、論文提出者の中田芳史氏に博士(理学)の学位を授与できると認めます。

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