学位論文要旨



No 128928
著者(漢字) 市川,豪
著者(英字)
著者(カナ) イチカワ,ゴウ
標題(和) ピクセル検出器を用いた超冷中性子の重力によって束縛された量子状態の観測
標題(洋) Observation of Gravitationally Bound Quantum States of Ultracold Neutrons Using a Pixelated Detector
報告番号 128928
報告番号 甲28928
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5905号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 川本,辰男
 東京大学 教授 森,俊則
 東京大学 教授 山本,明
 東京大学 准教授 松尾,泰
 東京大学 教授 宮武,宇也
内容要旨 要旨を表示する

非常に低速な中性子は、原子核ポテンシャルの及ぶ領域より非常に長い波長を持っているため、物質からは実効的なフェルミポテンシャルのみを感じることになる。一般的な物質のフェルミポテンシャルは、およそ200 neVである。フェルミポテンシャルよりも小さい運動エネルギーを持つ中性子は、あらゆる入射角に対して物質表面で全反射することになる。このような、速度数m/s程度の中性子は超冷中性子と呼ばれており、この特徴を使った様々な実験に利用されている。

粒子が、重力ポテンシャルと粒子を反射する床からなる系に置かれると、古典的にはバウンドを繰り返すことになる。このポテンシャルをシュレディンガー方程式に代入し、量子力学で扱うと、束縛状態の波動関数はAiry関数を用いて表すことが出来る。存在確率分布は、周期が粒子質量の-1/3乗に比例した特徴的な濃淡を持つ。超冷中性子は、物質表面で全反射し、電荷を持たず、寿命が長く、質量が小さいため、この束縛状態の存在確率分布を測定するために非常に適している。存在確率分布の濃淡の周期は、中性子に対して約6 μmと求められる。中性子の重力による束縛状態の固有エネルギーと固有関数を、図1に示す。

2002年、世界最高強度の超冷中性子源を持つフランスのラウエ-ランジュバン研究所(ILL)において、V. V. Nesvizhevskyらのグループによって重力による束縛状態がはじめて観測された。超冷中性子を床と天井にはさまれた狭いガイドに通し、その中で天井に当たるような中性子は取り除かれ、生き残ってガイドから出てきた中性子のイベント数を数える実験であった。古典的には、中性子の直径より大きくガイドが開いていれば中性子が出てくるはずだが、およそ12 μm以上開かなければカウントが増えないという結果だった。これは、閾値以下のガイドの幅では、基底状態の中性子も吸収されることを意味し、重力による束縛状態の存在の証拠と言える。また、彼らはガイドの幅を固定し、中性子の高さ分布を測定する実験も行った。検出器の位置分解能の不足から、そのままでは決定的な結果が得られず、後にマイナスの段差を使って障害となる基底状態の中性子数を減らすことで、分布の濃淡を観測していた。

この研究の目的は、基底状態の中性子数について恣意的な操作を加えることなく、高い位置分解能によって、直接的な方法で位置分布を測定することである。そのために、サブミクロンの位置分解能を持つ測定器システムを開発した。このシステムは、3つの主要な装置から構成されている(図2)。

1. 高い主量子数を持つ量子状態を取り除く、平滑な床面と粗い天井で作られたガイド。超冷中性子は、床面の上で重力による束縛状態に落ち着く。ガイド内を通る中性子は鉛直方向に比べて水平方向に1000倍程度高い運動エネルギーを持っているため、天井(高さ100 μm)に衝突するほど高いエネルギーを持つ準位は、粗い天井面にあたると鉛直方向に運動エネルギーを受け取る。鉛直方向に大きな速度を持った中性子は多数回ガラス面に衝突することで、吸収・散乱によって取り除かれる。

2. 高さ分布を拡大する、中性子拡大ロッド。超冷中性子は、物体表面で全反射するため、円柱面によって凸面鏡のように分布を拡大することが出来る。この拡大ロッドによって、分布を20倍程度に拡大する。不規則な散乱を起こさないため、中性子の波長に比べ十分に精密に研磨されたガラスロッドを製作した。さらに、その表面に高いフェルミポテンシャルを持つニッケルを蒸着することで、超冷中性子ビームに含まれるほとんどの速度の中性子を反射することを可能にした。

3. 超冷中性子をμmオーダーの分解能で検出するピクセル検出器。裏面入射型CCD検出器をベースにした超冷中性子用のピクセル検出器を開発した。電荷を持たない中性子を検出するために、検出面の上に中性子を荷電粒子に変換する200 nmの(10)B薄膜を蒸着した。中性子は(10)B薄膜の中で7Liやα粒子に変換され、その荷電粒子がCCDによって検出される。ピクセル検出器の位置分解能は、約3 μmと確認された。

以上の装置によって、超冷中性子の重力による束縛状態の高さ分布を、サブミクロンの精度で観測する測定器を開発した。

2011年、ILLにおいて、上記実験装置を用いて重力による束縛状態の高さ分布を観測する実験を行った。拡大ロッドを使って17日間の測定を行った。拡大機構の有効性を確認するために、拡大ロッドを使わない測定も3日間行った。

取得されたデータ分布を、量子力学に基づいたモンテカルロシミュレーションを用いて取得されたイベント分布と比較した。最尤法によって、シミュレーションのパラメータの最尤推定量を求めた。パラメータは、測定器の設置に対するものの他、ガイド内での量子準位の時間変化に対する現象論的なものを取り入れた。ロッドによる拡大の部分をすべて量子力学的に取り扱うのは非常に困難であるため、半古典的な計算を行った。そのために、量子力学の位相空間上の準確率分布を与える、ウィグナー関数を使った。ガイド出口での超冷中性子の位相空間上での重みをウィグナー関数で与え、各位相空間上の点と拡大後のピクセル検出器への入射位置との対応を、古典的な粒子描像による計算で与えた。最も尤度の高いパラメータを使って計算されたカイ二乗の値は、量子力学とデータの一致を示しており、また、パラメータの値は、拡大ロッドを使わないデータから得られたパラメータと矛盾しない結果を示した。データとモンテカルロのイベント分布を図3に示す。量子力学に特有の存在確率分布の濃淡も、データと量子力学によるモンテカルロでよく一致しており、これは古典力学に基づいたモンテカルロシミュレーションでは得られない結果である。この実験で、重力による束縛状態の高さ分布を、段差によって基底状態の占める割合を操作することなくサブミクロンの精度で観測することに、世界で初めて成功した。

図 1 中性子の重力による束縛状態の固有エネルギーと固有関数。

図 2 実験装置の概略図。

図 3 データとモンテカルロの分布の比較。分布全体(左)と立ち上がり部分(右)。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は4 章からなる。

第1 章はイントロダクションであり、超冷中性子の特性や、その重力場での量子力学的な束縛状態の性質について論じている。波長の長い超冷中性子は、水平に置かれ平面に磨かれたガラスの表面で全反射させることができる。一方、中性子は電気的に中性なため、重力だけを感じる状況に置くことができ、ガラス表面の反射と重力のポテンシャルの間に閉じ込めて、その量子状態を観測することができる。重力はとても弱いため、中性子の量子化された高さ分布の構造はμm のオーダーであり、マクロなサイズに量子力学的な効果が現れるところが特徴のひとつである。この章では、重力による束縛状態を観測する目的でおこなわれた以前の研究について議論してその限界を説明し、本研究のめざすものを明かにしている。

第2 章は実験方法と装置の説明である。実験に用いられた超冷中性子源について説明した後、本研究のユニークな実験装置について詳しく解説されている。観測しようとする存在確率の濃度パターンのサイズは数μm 程度であり、それを見るためにはμm 以下の位置分解能を実現することが必要である。本研究では、(10)B のコーティングにより超冷中性子に感度を持たせたCCD ピクセル検出器とガラス円筒の表面反射により微細な位置の違いを10-20 倍に拡大するシステム(拡大ロッド)を組合せて目的とする分解能を実現している。

第3 章では、実験の結果が示され、それを量子力学で解釈するための詳しい計算の過程が展開されている。測定結果には特徴的な高さ方向の濃度パターンが明かに見えている。これが、検出器感度の不均一性や拡大ロッド表面の不完全性など測定器の問題に起因するものでないことがいくつかの方法で確かめられている。理論計算では、この検出器システムの中で起っている物理プロセスを詳細に検討し、量子力学と必要に応じて古典力学を適切に組み合わせ、システムの中で実現してる量子力学的な束縛状態を計算し、それが検出器の上にどのように現れるかを詳しく議論している。特に、拡大ロッドの振舞いを記述するために位相空間でのWigner 関数を用いた計算はとても重要である。これらの計算は最終的にモンテカルロシミュレーションに実装され、いくつかの不明なパラメータ(検出器の位置の誤差、内部での中性子の吸収など)をLikelihood fit をおこなって決定した。さらに、純粋に古典力学のシミュレーションもおこなって量子力学の結果と比較し、明かに量子力学の結果が実験データを良く再現することも確かめた。結果として、この研究により重力により束縛された中性子の量子化された縦方向の位置分布を初めて直接観測することに成功した。これにより、論文中では顕わには議論されていないが、量子力学的なスケールにおいて重力相互作用をテストし、また未知の力の存在の検証などの興味深い研究への一歩を進めたと言えるだろう。

第4 章は、まとめと結論である。

本論文で議論されている研究は駒宮、神谷との共同研究であるが、実験の実行、データの解析、それを解釈するための理論計算などすべてを論文提出者が主体となっておこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。特に、量子力学に基く計算を構築する過程で多くの工夫と努力のあとがうかがわれる。この論文の内容は、審査員全員十分納得する研究結果であり、論文提出者の物理学の知識も博士(理学)を受けるに十分である。したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク