学位論文要旨



No 128940
著者(漢字) 椎野,竜哉
著者(英字)
著者(カナ) シイノ,タツヤ
標題(和) THz帯分光観測のための低雑音HEBミクサ受信機の開発
標題(洋) Development of a low noise HEB mixer receiver for spectroscopic observations in the THz band
報告番号 128940
報告番号 甲28940
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5917号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 満田,和久
 東京大学 教授 小形,正男
 東京大学 講師 中澤,知洋
 東京大学 准教授 山崎,典子
 東京大学 准教授 島野,亮
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

THz帯(1~10THz)の電磁波は遠赤外領域とサブミリ波領域の間に位置し、エレクトロニクスとフォトニクスのどちらにとっても技術的フロンティアとなっている。そのため、これまで利用が遅れてきたが、近年の急速な技術進歩によって、工学、医学、理学の様々な基礎・応用分野で注目されるようになってきた。電波天文学においてもこの領域の観測に対する関心は高まりつつある。

THz帯には、星間分子雲中における分子形成の要となる基本的な原子や分子のスペクトルが多数あり、これらの観測により、星間雲の化学進化の根幹を捉えることができると期待されている。2010年に打ち上げられたHerschel宇宙望遠鏡はTHz帯でのパイオニア的観測を数多く行い、新しい星間分子を多数発見するなど、この領域での分光観測の重要性を改めて示した。THz帯は大気の吸収が激しく、地上からの観測は難しい。しかし、0.8-1.0,1.3-1.5THz帯にはわずかに大気の窓があり、高所に設置した大口径望遠鏡で高空間分解能観測が可能である。本学位論文では、このような地上からのTHz帯分光観測を念頭におき、THz帯の低雑音受信機の開発を行った。

THz帯で最も有望なヘテロダイン検出素子は、HEB(Hot Electron Bolometer)ミクサである。HEBミクサの心臓部は数nm程度の厚みの超伝導細線である。そこに局部発振(LO:Loca1 Oscillator)信号と宇宙からの信号(RF)を同時に入射すると、それらの差周波(中間周波数IF:Intermediate Frequency)の周期で超伝導の破壊による電気抵抗変化が生じる。それを電流変化として取り出すことでTHz帯の信号を周波数変換して検出できる。ここで、超伝導の破壊で生じた熱電子を素早く冷却することが低雑音化、IF帯域の拡張のために重要である。その冷却機構には、電子一格子相互作用を利用して格子振動を介して基板に熱を逃がす格子冷却と、熱電子を常伝導金属の電極に拡散させる拡散冷却がある。前者では電子一格子相互作用の大きいNbNやNbTiNが使われ、後者では電子の拡散係数が大きいNbが用いられる。また、HEB素子と電磁波の結合方法には導波管型、準光学型の2つがある。導波管型には使用できる基板が石英にほぼ限られるという制約があるが、ビーム形状が厳密に計算可能である点で天文観測用途に非常に適している。本研究室では10年前より格子冷却型の導波管HEBミクサの開発を進めており、12nmの厚みのNbTiNを用いて、0.8THz帯で500K、1.5THz帯で1700Kと、ある程度の性能を達成してきた。格子冷却型HEBミクサでは、超伝導薄膜の膜厚を薄くすることが本質的と考えられており、他のグループの素子に比べて2-4倍の膜厚で上記の性能が得られたことは意外であった。本研究ではこの理由を追求するとともに、より低雑音な実用的HEBミクサ受信機を開発することを目指した。

2.AIN緩衝層を用いたHEBミクサの開発

超伝導薄膜の成膜にはスパッタ法を用いる。スパッタで成膜された超伝導薄膜は一般に、薄くするに従って超伝導転移温度(Tc)が低下し、我々の装置ではミクサに最適とされる数nm厚のNbTiN薄膜は製作できなかった。そこで、良質な超伝導薄膜を得るために、単結晶AIN膜を石英基板とNbTiN薄膜との問に緩衝層として導入し、NbTiNのTcを上昇させることを考えた。AlN薄膜は窒素雰囲気中でAlをスパッタして成膜した。この際、スパッタ条件を最適化すると単結晶AlN薄膜が得られる。このAlN膜を緩衝層として用いると、8nmのNbTiN薄膜で7.9Kから11.1KにTcが上昇することがわかった(図1)。また、NbTiNと同じ結晶構造を持つNbNについても同様に緩衝層を使用し、同程度のTcの上昇を得た。

AINは六方晶系のWurtzite構造であり、NaC1構造のNbTiNやNbNとは一見格子マッチングが悪い。しかし、AINの001面がNbTiNやNbNの111面に非常に近い原子間隔になっており、そのためAINが緩衝層として有効に働くことが考えられる。実際にAINの結晶性を悪化させると、Tcの改善幅が急激に下がることがわかり、この考えが実験的に裏付けられた。

AIN緩衝層の導入により4nm程度の膜厚でもHEBミクサの製作が可能になった。そこで、NbTiN/AIN薄膜、また、NbN/AIN薄膜を用いたHEBミクサを製作し、性能評価を行った。NbTiN/AlNミクサでは良い結果が得られなかったが、NbN/AINミクサでは6nmのNbN薄膜を用いたミクサで、0.8THzで450K、1.5THzで1100Kという雑音温度を達成した。これは他のグループの結果と比肩する雑音性能である。これまで導波管型のHEBミクサには基板選択上の制約から通常NbTiNが用いられてきた。しかし、AlN緩衝層を用いれば、石英基板上に良好なNbN薄膜を形成でき、それを用いて導波管型HEBミクサが実現できることを示したことは、HEBミクサの開発自由度を拡げる意味で大きな意義がある。また、原因は不明であるが、ミクサ雑音が超伝導細線のサイズ(縦×横)に顕著に依存しており、低雑音化にはそれらの最適化が非常に重要であることを明らかにした。

3.拡散冷却を併用した格子冷却HEBミクサの開発

このように、6nmまで薄膜化した超伝導膜を用いてHEBミクサを製作し、一定の性能を得たが、一層の低雑音化は困難であった。そこで、薄膜化だけが低雑音化の鍵ではないと考え、比較的厚いNbTiN薄膜を用いてHEBミクサを製作した。NbN/AlNミクサの開発において、超伝導細線のサイズ(縦×横)が雑音性能を大きく左右することがわかっていたので、NbTiNを用いたHEBミクサにおいても様々なサイズで性能を比較した。その結果、厚さ10.8nm、細線長さ0.2μm、細線幅1.5μmの0.8THz帯ミクサで350Kという性能が得られた。これは量子雑音の約9倍で、この周波数帯では世界レベルの低雑音ミクサである。また、同様に10.8nmの薄膜を用いた1.5THz帯ミクサで490Kを達成した。これは量子雑音の約7倍であり、世界一の低雑音性能である(図2)。このミクサの長さは0.15μm、幅は1.Oμmであった。格子冷却だけを考えると、この細線厚みでの雑音性能は説明できない。そこで、冷却のメカニズムを調べる実験を行った。

超伝導の破壊で生じる熱電子の冷却時間(τ(mix))は、中間周波(IF)利得帯域幅の測定から調べることができる。IF利得帯域幅は変換効率が1/2になるIF周波数で定義される。実験的に求めたIF利得帯域幅(fo)からelectrothermal feedbackの効果を補正した利得帯域幅(fθ)から冷却時間が求められる。

ここでτ(ph)は格子冷却による冷却時間、τ(diff)は拡散冷却による冷却時間である。τ(diff)は細線の長さ(L)に依存するが、τ(ph)は依存しないため、異なる細線長についてfθを測定してτ(diff)とτ(ph)をそれぞれ求めた。ここで、τ(ph)は電子温度に依存するが、本研究では簡単のために、熱浴の温度を上昇させ、I-V曲線が動作状態と同じバイアス点を通るときの熱浴の温度を近似的な電子温度とみなし、議論を行った。測定されたバンド幅、及び見積もられたそれぞれの冷却時間を以下に示す。

これらの値から、0.20μmより短い細線の場合、熱電子はむしろ拡散によって冷却されていることがわかった。上記の他に、我々のシステムで製作可能な限界に近い0.1μmの長さのミクサを製作したところ、実測で3GHzを超える利得帯域幅が得られた。本来NbTiNは格子冷却型であるが、細線を短くすることで拡散冷却が有効になる。我々が極めて低雑音なHEBミクサを製作できたのは、拡散冷却により変換利得が上昇し、IF系の雑音が下がったため、また、細線サイズの最適化によりミクサ雑音が下がったためであると考えられる。

4.ASTE10m望遠鏡での試験観測

本研究で開発した低雑音HEBミクサを使ってASTE(Atacama SubmillimeterTelescope Experiment)10m望遠鏡に搭載する受信機を設計・製作した。周波数帯域はH2D+やHDOなどの重要なスペクトルが多数ある0.8-0.9,1.3-1.5THzである。光学系はガウス光学を使って設計し、ビームサイズが0.9THzで7.8",1.35THzで6.5"となるよう主鏡の内側7-8mの領域のみを使用した。LO信号はデュワーの外から準光学的にデュワー内に導き、ワイヤグリッドでRFと結合した。2011年夏にこの受信機を実際にASTE望遠鏡に初めて搭載し、試験観測を行った。月および木星からの連続波の受信に引き続き、OrionA分子雲の方向で(13)COJ=8-7のスペクトルを検出した(図3)。これにより、開発した受信機が天文観測に用いることができることが立証された。

図1NbTiN,NbTiN/AlNのR-T曲線

図2受信機雑音性能の比較

図3(13)CO J=8-7のスペクトル

審査要旨 要旨を表示する

テラヘルツ (1~10 THz) 帯の電磁波は遠赤外領域とサブミリ波領域の間に位置し,エレクトロニクスとフォトニクスのどちらにとっても技術的フロンティアとなっている.また,テラヘルツ帯には星間分子雲中における分子形成の要となる基本的な原子や分子のスペクトル線が多数あり,星間雲の化学進化の根幹を捉えることができる天文学・宇宙物理学の重要な観測帯であると認識されている.テラヘルツ帯は大気による吸収の影響を強く受けるが,0.8-1.0,1.3-1.5 THz帯に大気の窓があり,高地に設置した大口径望遠鏡により高空間分解能観測が可能である.本学位論文では地上からの テラヘルツ 帯分光観測を念頭に, テラヘルツ帯の低雑音受信機の研究開発を行った.

本論文は6章と二つのAppendixからなる.第1章ではイントロダクションとして テラヘルツ帯の検出装置,特に本論文の研究テーマである約4Kの温度で動作するHot Electron Bolomber (HEB)ミクサの動作原理,これまでのHEBミクサ研究のまとめと本論文の目的,論文全体の流れを記述している.第2章では,HEBミキサーの製作方法と評価方法をまとめ,第3章では本研究で行ったHEBミクサの研究開発の実験的成果を記述している.本論文の大きな成果として1.5GHz帯ミクサの史上最高の感度を達成しているが,第4章では低温物性物理に基づいて,優れた感度を達成できた理由を考察している.第5章では本論文で開発したHEBミクサを南米チリのASTE電波望遠鏡の焦点面に搭載し,天体からのテラヘルツ波の分光観測を行った結果が記述されている.最後の第7章では,論文の結果をまとめている.

HEBミクサの心臓部は10nm 程度の厚さの超伝導細線である.超伝導遷移端上にある細線に局部発振信号と望遠鏡からの信号を同時に入射すると温度変化を生じ,二つの信号の差の中間周波数での電気抵抗変化が生じる.それによって 望遠鏡からの信号を周波数変換する.すでにHEBミクサとして動作する素子は海外の研究機関や論文提出者の所属する研究室で開発され動作は実証されている.本論文では,地上大口径望遠鏡による実用的なTHz帯分光観測を実現するために,量子雑音 (hν/k) の 5-10 倍程度の雑音温度の低雑音と, 1-8 GHz の広いI/F周波数帯域を目標に研究を行った.

HEBミクサの超伝導細線から熱浴への熱伝導 G はHEBミクサの応答の速度を左右し,それを通じて中間周波帯への変換ゲインとその周波数帯域の広さに影響を与える.そこで,論文提出者は二つの目標を達成する方法として G を大きくすることを目標とすることにした. G としては大きく分けて超伝導細線から基板への熱伝導(フォノン冷却),超伝導細線から電極への熱伝導(拡散冷却)の二つが関与する.これまでに開発されたHEBでは前者が支配的であると考えられてきたが,論文提出者は二つの熱伝導経路のそれぞれについて熱伝導を大きくする研究を行った.

フォノン冷却の効率をあげるためには,超電導細線をより薄くすることが考えられる.しかし超電導薄膜を薄くすると,一般的に超電導転移温度の低下と常伝導抵抗の増加を招き,不利となる.論文提出者は基板と超伝導材料の間にバッファーレイアーをいれることで薄くても膜質がよくなる可能性を調べた.その結果,AlNがNbNに対して有効なバッファーレイアーであることを発見し,10nm以下の厚みのよい超伝導細線を製作することに成功した.次に,拡散冷却の効率をよくするために,厚さ12nmの超伝導薄膜で様々な大きさの超伝導細線をもつHEBミクサを製作しその性能を調べた.その結果,雑音温度が極小となる巾と長さの組み合わせがあることを発見した.これらの成果により目標とする雑音温度と周波数帯域巾を達成するHEBミクサを実現することができた.特に,1.5GHz帯では拡散冷却の増大を狙った素子により世界最高の低雑音を実現した.論文提出者はこの優れた性能を達成した素子では実際に拡散冷却が支配的な熱伝導課程であることを実験的に示した.雑音温度が極小となる巾と長さの組み合わせが存在する理由については完全には理解することができなかったが,拡散冷却による動作温度の変化による変換ゲインの変化,ジョンソン雑音と熱揺らぎ雑音以外の不明雑音の存在の二つの可能性を指摘した.

最後に論文提出者は,開発したHEBミクサを組み込んだミクサブロックを製作し,それを南米チリのASTE望遠鏡の焦点面に搭載して天体からの観測を行った.その結果,オリオン座Aからの 13CO J=8-7 輝線スペクトルを検出するなど,天体の観測に使用可能であることを実証した.

以上,論文提出者は,テラヘルツ帯の分光観測の最も有望な観測手段であると考えられるHEBミクサの性能の改善を行い,超電導薄膜の製作方法や雑音温度の検出器依存性に新しい知見を得るとともに,1.5GHz帯で世界最高の低雑音を実現した.本論文はHEBミクサ研究の新たな方向性を示すとともに,地上からの宇宙テラヘルツ帯の分光観測に新たな可能性を拓く研究であり,今後の電波天文学の研究に大きく貢献する新規かつ意義の大きな研究であり,博士(理学)の学位に相応しいものである.

また本論文の研究は,山本教授らとの共同研究であるが,素子の設計,超伝導薄膜の製作方法の立案,素子評価,ASTE望遠鏡での観測にいたるまで,論文提出者が主体となって行ったことを確認している,このため論文提出者の主体性と寄与は博士論文として認めるのに十分であると判断する.

したがって,本論文提出者に博士(理学)の学位を授与できると認める.

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