学位論文要旨



No 128967
著者(漢字) 金子,仁
著者(英字)
著者(カナ) カネコ,ヒトシ
標題(和) 黒潮および黒潮続流域における乱流強度と硝酸塩乱流鉛直輸送に関する観測的研究
標題(洋) Observational studies on turbulence and associated vertical nitrate flux around the Kuroshio and the Kuroshio Extension
報告番号 128967
報告番号 甲28967
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5944号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 岡,英太郎
 東京大学 教授 日比谷,紀之
 東京大学 准教授 東塚,知己
 東京大学 准教授 羽角,博康
 東京大学 教授 安田,一郎
 東京大学 教授 新野,宏
内容要旨 要旨を表示する

日本南岸を流れる黒潮および房総沖から東へと続く黒潮続流(以下黒潮)は北太平洋の亜熱帯循環の一部であり、その強い流れによって多くの熱・塩分・栄養塩などの物質や生物が輸送されている。黒潮の流れの最も強い「流軸」からその北側にかけては、水温や密度などの南北勾配が大きな「前線」を形成している。前線部では、春季の表層密度成層以後も流軸に沿ってしばしば高密度の植物プランクトンが帯状に分布し、そこでの植物プランクトン分布の変動は餌環境として魚類資源変動にも影響する [Nishikawa et al., 2012]。この植物プランクトンの高密度帯状分布は、春季の密度成層以降も、前線部では光合成に必要な栄養塩の供給が存在することを示唆している。他海域における近年の研究から、前線部の乱流混合に伴う栄養塩鉛直供給の重要性が指摘されている (湾流: Hales et al. [2009]; カリフォルニア海流: Johnston et al. [2011]) が、黒潮については乱流混合による栄養塩鉛直輸送の現場観測に基づいた知見は殆どなく、高密度植物プランクトンの帯状分布との対応も不明であった。黒潮域における乱流鉛直輸送はまた、亜熱帯循環に沿った水平的な栄養塩輸送 [Guo et al., 2012] や亜寒帯に起源をもつ北太平洋中層水の黒潮域における形成 [Yasuda et al., 1996; Yasuda, 1997] などと関連して、北太平洋の海盆規模の物質循環に対しても重要であると考えられる。そこで本研究は、重要な栄養塩のひとつである硝酸塩に着目し、乱流混合に伴う鉛直輸送 (硝酸塩乱流鉛直フラックス) の黒潮横断方向の分布について、 北西太平洋の広域観測を含め実測に基づき定量化を行った。硝酸塩乱流鉛直フラックスは (1)乱流強度の直接観測から求めた鉛直拡散係数、と (2)硝酸塩鉛直高解像度観測によって得られた硝酸塩の鉛直勾配、の掛け合わせによって求めた。その結果、黒潮前線部の表層から中層にかけて、有意に強化された乱流鉛直混合が存在し、春季の植物プランクトンの要求量に匹敵する硝酸塩乱流鉛直フラックスが、表層から中層にかけて鉛直連続的に存在していたことが明らかとなった。従って乱流鉛直輸送が春季の黒潮前線部の植物プランクトン生産維持に貢献していることが示された。また、黒潮が単に亜熱帯循環の境界領域ではなく、栄養塩や物質の顕著な鉛直輸送を担っている海域であることが示唆された。

本論文ではまず、北西太平洋の硝酸塩乱流鉛直フラックス分布の定量評価を目的とし、北緯11.5度から45度間を東経155度線に沿って夏季に実施された、乱流強度と硝酸塩分布の鉛直高解像度観測 (図1a) のデータを解析した。南北密度勾配の大きい黒潮続流および亜熱帯反流などの前線域では、その他の海域に比べ高い硝酸塩乱流鉛直輸送が見いだされた。硝酸塩乱流鉛直輸送のピーク(鉛直極大)には二種類あり、ひとつは亜表層の植物プランクトン密度極大の直下、もうひとつは中層の硝酸塩躍層の周辺であった。前者は植物プランクトン極大濃度と正の相関がみられ、後者は北太平洋中層水の分布と対応していた。亜表層の乱流強度は密度の南北勾配と有意な正の相関があり、また前線域 (黒潮続流・亜熱帯反流) では硝酸塩乱流鉛直フラックスに対する乱流の寄与が大きかったことから、前線域における硝酸塩乱流鉛直輸送の強化が示唆された。一方、亜熱帯モード水の分布海域 (黒潮続流域と亜熱帯反流域の間の海域) では、表層や中層での乱流強度・硝酸塩乱流鉛直フラックスは、ともに黒潮続流域に比べて小さかった。以上の結果は、黒潮続流域の表層から中層にかけて、北西太平洋の中でも活発な乱流鉛直輸送が生じていることを示唆していた (2章)。

強い乱流が見いだされた黒潮続流域は、流軸の南北で水塊及び流速構造が大きく異なるため、流軸を挟んで乱流や硝酸塩鉛直フラックス分布も大きく異なっている可能性がある。そこで次に、高密度の植物プランクトン分布が最も明瞭に現れる春季に、黒潮域で2007–2009年、2011年にわたって取得された水平分解能 15 海里程度の強流横断観測のデータ (図1b) を用いて、乱流強度の指標となるエネルギー散逸率と鉛直拡散係数の流軸横断方向-深度断面での平均構造を抽出した (図2)。平均化の際には、流軸(表面流速最大位置)からの相対位置で規格化する流軸座標系を用いた。乱流強度は、流速の絶対値とは必ずしも対応せず、流速の鉛直勾配(鉛直シア)と対応し (図3a)、海面から150 m 深では、流軸の南北 50 kmの範囲で、その外側よりも有意に大きな値をとった (図2b, d)。流軸の南北で乱流強度とシア強度との関係は異なっていた。密度の大きな南北勾配が存在する流軸北側では、乱流強度と地衡流の鉛直勾配の間には有意な正相関があった(図3b, 十字)が、流軸南側での強い乱流・流速シアは地衡流鉛直勾配とは対応していなかった (図3b, 丸印)。この結果から流軸の南北で異なる乱流強化機構が機能していることが示唆された。流軸の北側では、大きな地衡流鉛直勾配を通じて強乱流を引き起こすと指摘されている対称不安定 [Hoskins, 1974; D'Asaro et al., 2011] が表層付近 (40 m 以浅) で示唆されたこと、また黒潮と同様の前線構造をもつ湾流やフロリダ海流における乱流強化の知見 [Hales et al., 2009; Johnston et al., 2011] と整合的であったことから、流軸北側の前線構造そのものが普遍的な強乱流につながっている可能性が高いことが示された (3章)。

さらに 2008, 2009, 2011年春季の乱流と硝酸塩の同時観測データに流軸座標系を適用し、黒潮流軸横断方向-深度断面での平均硝酸塩乱流鉛直フラックス分布を調べた。その結果、黒潮流軸の北側では、0–250 m 深での強い乱流に伴い、周辺よりも1オーダー以上大きい O(10–6) mmol N m–2 s–1 の硝酸塩乱流鉛直フラックスが鉛直方向に連続的に分布し、 硝酸塩が中層から生物生産層下部まで、

乱流混合によって輸送されていることが明らかとなった (図4a)。この高い硝酸塩乱流鉛直フラックスが分布した流軸の北側の 25–50 km の表層では、植物プランクトンが高密度で分布しており、春季の流軸に沿った高濃度植物プランクトン帯状分布に対応するものと考えられた。生物生産層底部 (1%光深度) における硝酸塩乱流鉛直フラックスは、既往研究による生物手法によって求められた春季の植物プランクトン新生産による平均硝酸塩消費速度 [Yokouchi et al., 2006] と同程度であることから、流軸北側の前線部の硝酸塩乱流鉛直フラックスが春季の新生産を維持しうることが示された。また中規模渦の鉛直移流による硝酸塩供給 [McGillicuddy et al. 2003] とも同程度と見積もられ、定量的にも重要であることが示された。一方、植物プランクトン密度の低い黒潮流軸の南側では、表層乱流強度は大きいが、硝酸塩鉛直勾配が小さく、硝酸塩乱流鉛直フラックスが小さかった。生物生産層への硝酸塩乱流鉛直フラックスと生物生産層内の鉛直積算植物プランクトン密度には正の相関がみられ (図4c)、活発な乱流鉛直供給が生じている海域では植物プランクトン現存量も高いことが明らかになった (4章)。

本研究は、黒潮流軸北側の前線域の表層から中層にかけて強乱流が存在し、それに伴う大きな硝酸塩鉛直輸送が、流軸に沿った春季の高密度植物プランクトン分布の維持に寄与することを実測に基づいて示した (図5)。この強乱流および硝酸塩鉛直輸送は、亜熱帯循環に沿った水平栄養塩輸送や、北太平洋中層水を通じた亜寒帯から亜熱帯への栄養塩輸送と関連して、黒潮域における栄養塩鉛直分配を担う重要なプロセスであると考えられる。

図1: 観測海域. (a) 北西太平洋縦断観測 (2章) (b) 黒潮強流横断観測 (3, 4章). 丸印は乱流観測実施点, 十字は水温, 塩分, 深度の観測を実施した点. 図中の矢印は黒潮の流れを模式的に表したもの.

図2: 乱流強度のコンポジット分布 (a) 乱流運動エネルギー散逸率 εのコンポジット断面, (b) εの鉛直 100 m 平均値, (c) 鉛直拡散係数 Kρのコンポジット断面, (d) Kρの鉛直 100 m 平均値. (a) および (c) の実 (破) 線は相対渦度 (流速), (b) および (d) の太 (細) 線は平均値 (95% 信頼区間).

図3: 散布図. (a) 超音波流速計による流速の鉛直勾配 (シア) の二乗 (横軸) と乱流運動エネルギー散逸率. (b) 地衡流の鉛直勾配の二乗と乱流運動エネルギー散逸率. マーカーの色は深度 (橙: 50–150 m, 青: 150–250 m, 灰: 250–500m). パネル上の r は対数空間における相関係数とその 95% 信頼区間. (a) の黒実線および破線は対数空間における最小二乗フィッティングおよびその factor of 2 (1/2–2倍). 灰色の破線は乱流計の検出下限.

図4: (a) 硝酸塩乱流鉛直フラックス, (b) クロロフィル a 濃度のコンポジット断面分布. 橙色の線は表層生物生産層の底部 (1% 光深度). 白破線は硝酸塩の鉛直勾配. 黒線は 図2 と同じ. (c) 生物生産層底部における硝酸塩乱流鉛直フラックスと鉛直積算クロロフィルa 濃度の散布図. 十字線の長さは 95% 信頼区間を表す.

図5. 黒潮横断方向の乱流および硝酸塩乱流鉛直フラックスとクロロフィルa 分布の模式図.

審査要旨 要旨を表示する

黒潮流軸北側の水温が急変する前線部には、植物プランクトンが高密度で分布することが知られており、餌環境を通じて魚類資源変動にも関わっている可能性が指摘されている。しかし、黒潮の前線部における高い生物生産を支える栄養塩供給過程については、主要因の一つである乱流鉛直混合による栄養塩鉛直輸送の観測がなされておらず原因は不明であった。本研究は、北西太平洋亜熱帯海域での生物生産の制限要因である硝酸塩の鉛直輸送について、乱流強度と硝酸塩鉛直フラックスの黒潮流軸横断方向の分布を実測に基づいて定量化し、前線部における表層から亜表層にかけての強い乱流と硝酸塩鉛直輸送が、黒潮北側前線部での高い生物生産の維持に重要な役割を果たしていることを示した。

本論文は5章で構成されている。第1章は導入であり、乱流鉛直混合を通じた栄養塩鉛直輸送過程の重要性と黒潮・続流域での知見について、他前線域における既存研究と対比しながら総括され、本論文の目的が示される。第2章では、本研究を始める端緒となった北西太平洋を広く南北に横断する乱流と硝酸塩の直接観測に基づき、広域での乱流と硝酸塩鉛直フラックス分布が示され、黒潮続流域での強い乱流と硝酸塩鉛直輸送の存在が指摘される。これを受けて、第3章では、黒潮強流帯付近の詳細な観測に基づき、黒潮流軸を横切る乱流強度分布と流速・密度構造との関係が明らかにされ、第4章では黒潮強流帯を横切る硝酸塩乱流鉛直フラックスの分布が示される。第5章では総合考察として、本研究の位置付けと今後の課題が述べられている。

第2章では、北緯10度から45度間を東経155度線に沿って夏季に実施された、鉛直高解像度で観測された乱流エネルギー散逸率で代表される乱流強度と硝酸塩観測から、黒潮続流域の0–500m深で、黒潮続流強流域の南北に比べて強い乱流の存在を明らかにした。この強い乱流に伴い、亜熱帯循環海域に比べ1オーダー大きい乱流による硝酸塩供給速度(硝酸塩乱流鉛直フラックス)が、亜表層クロロフィル極大下部から中層深度に存在したことから、黒潮続流強流域での乱流による硝酸塩鉛直輸送過程が示唆された。一方、黒潮続流強流域の南に位置する亜熱帯モード水が分布する海域では、表層から中層での乱流強度・硝酸塩乱流鉛直フラックスが、ともに黒潮続流強流域に比べて小さかった。これらの結果は、黒潮前線域が、乱流及び硝酸塩供給におけるホットスポットになっている可能性を示唆していた。この強い乱流が見出された黒潮前線域は、黒潮流軸(最大流速位置)の南北で水塊及び流速構造が大きく異なるため、黒潮流軸を挟んで乱流や硝酸塩鉛直フラックス分布も大きく異なっている可能性があった。

第3章では、春季に黒潮強流域で数年にわたって取得された強流横断観測のデータに、流軸(表面流速最大位置)からの相対距離で平均をとる流軸座標系を適用し、流軸横断方向-深度断面での流速・水塊と乱流強度の平均構造を抽出した。乱流強度は、流速の絶対値とは必ずしも対応せず、流速の鉛直勾配(鉛直シア)と相関し、海面から150m深では、流軸の南北40kmの範囲で、その外側よりも有意に大きな値をとった。流軸の南北で乱流強度と流速場との関係は異なり、大きな密度の南北勾配(前線)が存在する流軸北側では、強い乱流は大きな地衡流鉛直勾配と対応して分布していた。一方、流軸南側では乱流・流速シアはともに強いが、地衡流鉛直勾配は小さく、強い流速シアは非地衡流成分に占められており、乱流強化過程は流軸の南北で異なっていることが推測された。

第4章では、春季の乱流と硝酸塩の同時観測データに、3章と同様の流軸座標系を適用し、黒潮流軸横断方向-深度断面での平均硝酸塩乱流鉛直フラックス分布を明らかにした。植物プランクトンが高密度で分布した黒潮流軸の北側では、0-250m深での強い乱流に伴い、硝酸塩が高濃度で分布する中層から光合成が可能な生物生産層下部まで、周辺よりも1オーダー大きいO(10–6) mmol N m–2 s–1 の硝酸塩乱流鉛直フラックスが鉛直方向に連続的に分布し、硝酸塩が、乱流鉛直輸送によって中層から生物生産に効率的に輸送されていることが明らかとなった。生物生産層への硝酸塩鉛直輸送速度は、既往研究による生物手法によって求められた春季の植物プランクトン新生産による硝酸塩消費速度と同程度であることから、流軸北側の黒潮前線域での強い乱流と硝酸塩鉛直フラックスが、生物生産に寄与していることが明らかとなった。一方、黒潮流軸の南側では、表層乱流強度は大きいが、硝酸塩鉛直勾配が小さく、硝酸塩乱流鉛直フラックスが小さくことが、低い植物プランクトン密度につながることが示唆された。

以上、本研究は、黒潮流軸周辺での春季の乱流鉛直混合と硝酸塩鉛直輸送の分布を定量的に明らかにし、黒潮流軸北側前線域での中層から表層における強い乱流による大きな硝酸塩鉛直輸送が、黒潮流軸に沿って維持される高い植物プランクトン分布の維持に寄与することを示した。この強乱流および硝酸塩鉛直輸送は、亜熱帯循環に沿った水平栄養塩輸送や、北太平洋中層水を通じた亜寒帯域から亜熱帯域への栄養塩輸送と関連して、黒潮域における栄養塩鉛直分配を担う重要なプロセスであると考えられ、今後の発展が期待できる。本論文の成果は、生物地球化学及び海洋物理学の境界領域の研究として評価され、本学の学位論文として十分な水準に達していると判断できる。なお、本論文の 第2―4章は指導教員の安田一郎教授他との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであり、その寄与は十分であると判断できる。したがって,審査員一同は、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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