学位論文要旨



No 129006
著者(漢字) 吉田,和史
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,カズシ
標題(和) 線虫C. elegansの化学感覚を制御する神経回路メカニズムの解析
標題(洋) Analysis of neural circuit mechanisms regulating chemical sensation in C. elegans
報告番号 129006
報告番号 甲29006
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5983号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 教授 飯野,雄一
 東京大学 准教授 榎森,康文
 東京大学 講師 小島,大輔
内容要旨 要旨を表示する

動物は化学物質や温度、光など外界からの様々な刺激を感覚神経で受容し、その情報を神経回路上で処理することにより、それぞれの刺激に対して適切な応答を行っている。さらに、これらの応答は刺激の種類や強度によって変化することが知られている。しかし、ヒトを含む高等動物は非常に複雑な神経系を有しているために、神経回路上での情報処理機構を明らかにすることは困難である。

線虫C. elegansは、302個からなる神経細胞とそれらの間の神経接続が明らかにされているために、情報処理の神経回路メカニズムを解析するのに最適なモデル生物である。また、線虫は100種類以上の化学物質に対して誘引行動もしくは忌避行動を示し、その行動を詳細に解析する系が確立されている。そこで、私は、線虫の行動を指標とした化学感覚を制御する神経回路メカニズムの解析を行うことで、動物の行動の動作原理を理解しようと考えた。

線虫はNaClを味覚神経ASEで受容し、介在神経を含む神経回路を介してシグナルを伝達し、誘引行動を引き起こす。線虫のNaClへの誘引行動にはピルエット機構と風見鶏機構という2つの行動戦略が重要であることが報告されている。ピルエット機構(クリノキネシスとも呼ばれている)では、ピルエット行動と呼ばれる方向転換を行う行動の頻度を調節し、NaClの濃度が低くなると進行方向を修正する。もう一方の風見鶏機構(クリノタクシスとも呼ばれている)では、カーブ行動の角度を調節し、NaClの濃度の高い方にカーブするようにバイアスをかける。また、これら2つの行動応答には味覚神経ASEと下流の介在神経AIZが関与することが示されている。しかし、これらの行動戦略の基盤となる神経回路の全ては明らかとなっていない。そこで本研究では、化学感覚の情報処理過程を理解するために、特定の神経を破壊した線虫のNaClに対する行動を測定し、2つの行動戦略を制御する神経回路の同定を行った。

NaClに誘引されるときの2つの行動応答を制御する候補神経細胞として、感覚神経ASEとシナプス接続する介在神経を調べた。介在神経AIAとAIBをそれぞれ単独で破壊すると、ピルエット応答が減弱した。一方で、介在神経AIA、AIB、AIYをそれぞれ単独で破壊しても風見鶏応答は正常だったが、介在神経AIBとAIYを同時に破壊すると風見鶏応答が減弱した。これらの結果から、ピルエット応答は介在神経AIAとAIBにより制御されていることが明らかになり、風見鶏応答は介在神経AIBとAIYにより冗長に制御されていることが示された。

次に、介在神経AIZとシナプス接続している神経や、2つの行動戦略への関与が予想される神経について調べた。ピルエット行動に必要だと予測されるコマンド介在神経AVAを破壊すると、ピルエット応答にのみ欠陥がみられた。また、AIZ神経とシナプス接続しており、首振り運動を制御する運動神経SMBを破壊すると、ピルエット応答、風見鶏応答の両方に欠陥がみられた。これらの結果から、ピルエット応答に必要なコマンド介在神経と、2つの行動応答に必要な運動神経の存在が明らかになった。

以上の解析により、NaClへの誘引行動を実現している2つの行動戦略の制御には、部分的に異なる神経回路が使われていると考えられる(図1)。

前述のように、動物は外界からの刺激に対して特定の応答を示すが、その応答は刺激の強度に依存して変化することが知られている。嗅覚系では、匂いの濃度に依存して嗜好性が変化する。例えば、匂い物質インドールは、低濃度ではジャスミンのような花の香りがするが、高濃度では糞便臭がする。線虫の嗅覚系でも同様に、低濃度で誘引行動を示す匂い物質に対して、高濃度では忌避行動を示す現象が報告されている。しかし、刺激強度に依存した行動変化の神経・分子メカニズムについてはあまりわかっていない。そこで本研究では、線虫の匂いの濃度に依存した行動変化を調節する神経回路・分子メカニズムの解析を行った。

匂いの濃度に依存した行動変化はどのような行動メカニズムにより調節されているのだろうか。低濃度の匂いへの誘引行動には、前述の2つの行動戦略が匂いに近寄るように働くことが知られている。そこで、高濃度の匂いに対する忌避行動を行う際の2つの行動戦略を解析した。その結果、ピルエット機構は匂いから遠ざかるように働いていたが、一方で、風見鶏機構は匂いに近寄るように作用していた。従って、匂いの濃度による誘引行動から忌避行動への走性行動の切り替えは、主にピルエット機構によって実現されていることがわかった。

それでは、匂いに対する行動を調節する2つの行動戦略はどのような分子メカニズムにより制御されているのだろうか。匂いのシグナルを伝達するGタンパク質のαサブユニットをコードするodr-3の変異体は、匂い物質イソアミルアルコールの濃度に依存した行動の変化に欠陥を示すことが知られている。行動解析の結果、ODR-3は匂いの濃度の違いによって変化する2つの行動戦略の制御に重要であることがわかった。また、低濃度のイソアミルアルコールへの誘引行動の際、ODR-3は誘引性の匂いを受容する感覚神経AWCで機能することが報告されている。そこで、高濃度のイソアミルアルコールに対する忌避行動の際のODR-3の機能細胞を特定するために、細胞特異的レスキュー実験と細胞特異的ノックダウン実験を行った。その結果、ODR-3は忌避物質を受容する感覚神経ASHで高濃度のイソアミルアルコールのシグナルを伝達していることが示された。これらのことから、ODR-3は匂いの濃度によって異なる感覚神経で匂いのシグナルを伝達していると考えられる。

匂いの濃度に依存した行動変化を制御する神経回路を同定するために、特定の神経を破壊した線虫の行動を測定した。低濃度のイソアミルアルコールへの誘引行動には感覚神経AWCが必要であることが知られている。一方、高濃度のイソアミルアルコールに対する忌避行動には、忌避物質を受容する感覚神経ASH、AWB、ADLが必要で、中でもASH神経が特に重要であることが明らかとなった。これらの結果から、匂いの濃度の違いにより起こる誘引行動と忌避行動には、それぞれ異なる組み合わせの感覚神経が必要であることが示された。

上記の感覚神経で実際に匂いの濃度に依存した応答の変化がみられるかを調べるために、Ca(2+)イメージングを行った。その結果、感覚神経AWCは低濃度の匂いには応答するが、高濃度のときは応答しないことが明らかとなった。神経伝達物質の放出が阻害された変異体では、AWC神経は高濃度の匂いにも応答を示したことから、他の神経からの抑制によりAWC神経は高濃度の匂いに応答しなくなっていると考えられる。一方、感覚神経ASHとADLは、高濃度の匂いにのみ応答することが分かった。また、感覚神経AWBは高濃度の匂いに対して、忌避性の匂いに対する応答と同様の応答パターンを示した。

以上の解析より、匂いの濃度情報が感覚神経における応答の差異を生み出すことで行動が切り替えられていると考えられ、線虫における匂いの濃度情報処理の主要な部分は、感覚神経レベルで処理されていることが示唆された(図2)。

本研究では、線虫の味覚と嗅覚に関わる行動を制御する神経回路メカニズムを探索した。味覚系において、2つの行動戦略に必要な塩の情報は主に単一の感覚神経で受容されるが、それより下流の介在神経や運動神経では、部分的に共通の神経回路が用いられ、ピルエット行動とカーブ行動がそれぞれ出力されていると考えられる。嗅覚系においては、匂いの濃度によって感覚神経の応答に差異が生み出されることで、行動を切り替えられていると考えられる。本研究により、化学物質が受容されてから行動出力に至るまでの情報処理は、感覚神経や介在神経、運動神経といった様々なクラスの神経で行われており、刺激の種類や強度によって情報処理の様式も異なることを明らかにすることができた。今後、線虫の行動を指標にした神経回路レベルの解析により、化学感覚の情報処理メカニズムの更なる理解が期待される。

図1 NaCIへの誘引行動を調節する2つの行動戦略を制御する神経回路モデル

図2 匂いの濃度に依存した行動の変化を制御する神経回路モデル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、化学感覚の情報処理メカニズムについて述べたもので、4章からなる。第1章は序論であり、本研究の主題の背景を概説している。具体的には、研究材料として用いた線虫C. elegansを中心に、様々なモデル生物の現在までに明らかとなっている化学感覚の分子・神経メカニズムが説明されている。また、線虫の化学走性がどのような行動メカニズムによって達成されているのかについても述べられている。第2章は材料と方法である。本論文では、神経細胞を破壊した線虫の化学走性を測定することで、化学感覚に関わる神経回路の同定を行っており、第2章ではその際に用いた神経破壊の方法、線虫の追尾システムの説明や行動解析の方法などが詳細に説明されている。第3章ではNaClへの誘引行動を制御する神経回路に関する結果と考察が述べられている。NaClへの誘引行動は2つの行動戦略により達成されており、2つの行動戦略に必要なNaClの情報は主に単一の感覚神経で受容されていることが知られている。この章では、特定の神経細胞を破壊した線虫のNaClへの行動を測定することで、感覚神経より下流の神経回路の同定を試みている。その結果、NaClへの誘引行動の際の2つの行動戦略には、部分的に異なる介在神経と運動神経が関与していることを明らかにしている。第4章では匂い物質の濃度に依存した行動変化を制御する神経回路に関する結果と考察が述べられている。線虫が、低濃度で誘引行動を示す匂い物質に対して、高濃度では忌避行動を示すという現象が報告されている。次に、匂いの濃度による行動の変化がどのような行動メカニズムにより制御されているのかを調べている。行動解析の結果、方向転換の頻度を調節する行動戦略が、匂いの濃度の違いによる行動変化を主に調節していることが示されている。次に、神経破壊実験により匂いの濃度に依存した行動変化に関わる神経細胞の同定を試みている。その結果、匂いの濃度によって関与する感覚神経の組み合わせが異なることを明らかにしている。さらに、これらの感覚神経のCa2+イメージングを行った結果、線虫では、匂いの濃度によって感覚神経の応答に差異が生み出されることで、行動が切り替えられていることが示唆された。

本論文により、線虫において化学物質が受容されてから行動出力に至るまでの情報処理は、感覚神経や介在神経、運動神経といった様々なクラスの神経で行われており、刺激の種類や強度によって情報処理の様式も異なることが示唆された。特に、NaClへの誘引行動の際には、2つの行動戦略の制御に部分的に異なる神経回路が使われていることが示唆され、線虫の化学走性を制御する神経回路基盤の解明に大きく貢献した。また、線虫において、匂いの濃度情報は主に感覚神経レベルで処理されていることが示唆された。これは、ショウジョウバエにおける情報処理メカニズムとは異なるものであり、新たに匂いの濃度情報の処理メカニズムを明らかにしたという点で意義のある発見であるといえる。したがって、本論文は学位論文として十分な内容を含んでいると判断された。

なお、本論文の主たる部分は広津崇亮氏、田川崇展氏、小田茂和氏、若林篤光氏、石原健氏、飯野雄一氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を立案・実行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

審査時点での本論文は、行動解析に関する説明が充分ではなかったため、審査委員会では説明の追記を要求した。これを受けて論文申請者は、第2章の材料と方法と図のレジェンドに十分な説明を付け足した。また、実験結果から示唆される神経メカニズムについて一部、不適切な言及が認められたため本文の改変を要求した。改変後の論文では正確な表現がなされており、審査委員は全員一致で合格と判断した。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク