学位論文要旨



No 129024
著者(漢字) 川本,智史
著者(英字)
著者(カナ) カワモト,サトシ
標題(和) 前期オスマン朝の宮殿建築の展開に関する研究 : 儀礼空間の形成を中心に
標題(洋)
報告番号 129024
報告番号 甲29024
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7915号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤井,恵介
 東京大学 准教授 加藤,耕一
 東京大学 名誉教授 鈴木,董
 東京外国語大学 教授 林,佳世子
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、14~16世紀のオスマン朝の宮殿群造営の過程を考察の対象とするものである。第一に前オスマン期を含めた宮殿空間の変遷、とりわけ儀礼空間の確立過程が検討される。第二にこれを手掛かりとしてイスタンブルにおける宮殿群の建設とその機能の分析を行い、前近代オスマン朝宮殿群の全体像の提示を目的とする。

今日までの前近代オスマン朝の宮殿に関する既往研究においては、2つの問題点を指摘することができる。

第一に研究があまりにもトプカプ宮殿に偏重していたという点である。とりわけオスマン建築史の泰斗であるNecipogluがトプカプ宮殿に関するほぼ完璧といってもよい研究を行ったため、皮肉にも現在に至るまでの宮殿研究はその強力な影響下から抜け出せずにいる。15~16世紀のオスマン朝ではトプカプ宮殿以外にも、イスタンブル旧宮殿や、エディルネ旧宮殿、エディルネ新宮殿、そしてイスタンブル郊外の離宮群が存在していたことが知られている。これら宮殿が各々どのような空間と機能を有し、トプカプ宮殿とはどのように関係していたのかを統括的に言及した研究は私見の限りでは確認できない。

第二の問題点として、豊富な研究を有するにもかかわらず、トプカプ宮殿がどのような前提のもとで成立したのかがほとんど考察されてこなかった点を挙げられる。今日までメフメト2世のカーヌーンナーメ(法令集成)を主な根拠として、トプカプ宮殿は先行する宮殿とはプランとコンセプトの点で全く異なった、純粋にメフメト2世の創意による新式の宮殿であるとされてきた。だが既往研究においては、トプカプ宮殿が建設された以前の宮殿に対して十分な検討が加えられたとは到底いえず、トプカプ宮殿の「独創性」あるいはその起源については依然として議論の余地が残されている。

以上のような背景を踏まえて、本論文は大きく二部構成とする。17世紀初頭までのオスマン朝の宮殿を題材としてその空間と機能を論じ、トプカプ宮殿以外の宮殿群の包括的理解を目指すものである。最終的には宮殿が群として機能し、それぞれ固有の役割と歴史を有していたことを明らかとする。

まず序章「トルコ建築史・都市史研究史」では現在までのオスマン建築史・都市史研究を概観し、研究者による積極的な文献史料の利用が始まっている背景に触れた。そのため本論文も考察に当たっては、基本的に文献史料に基づく実証研究を志向した。

第一部は、上の第二の問題点であるトプカプ宮殿成立までの過程をたどる。

第1章「ルーム・セルジューク朝宮廷の移動と宮殿」では、同時期のペルシャ語年代記を基本史料として、オスマン朝登場以前の12~14世紀にアナトリアを支配したルーム・セルジューク朝宮廷の移動と宮殿建築が論じられた。ここから、遊牧王権の性格を色濃く残す宮廷が領内を季節移動していたこと、そして宮廷の行動形態に適応した宮殿や庭園、駅亭などの建造物が各地に建設されたことが判明した。宮殿建築は都市内部の小規模なものと、都市郊外の広大な庭園型に大きく二分されると結論付けられ、本論文の主題となる前近代オスマン朝の宮殿群との比較の対象とされる。

第2章「エディルネ旧宮殿の成立」では、エディルネ旧宮殿こそトプカプ宮殿の祖型となった宮殿であることが、オスマン語年代記とヨーロッパ人の記録の検討から明らかとなった。エディルネ旧宮殿は15世紀初頭に建設された儀礼用中庭を備えた宮殿であり、1433年にここを訪れたブロキエールの記述からある程度宮殿の空間を復元することが可能であった。敷地全体が壁で囲まれ、列柱廊を備えた中庭とその背後にスルタンの居住区画がある点から、トプカプ宮殿とかなり類似した空間構成であったことが理解できる。さらに中庭での儀礼形態も後世のトプカプ宮殿でのものに類似しており、メフメト2世によって儀礼形式が確立され、それに即した建築空間がトプカプ宮殿として完成したとする従来の説が否定されるに至った。

第二部では1453年以降のコンスタンティノポリス征服以降の時期を検討対象とし、第一の問題点である、同時代に存在したトプカプ宮殿以外の宮殿群の空間と機能の分析を行う。

第3章「征服以後のイスタンブルとエディルネ」は、1453年のコンスタンティノポリス征服以降の約70年間を対象として、スルタンと宮廷の所在地を、オスマン語年代記等を用いて考察を行った。ここからメフメト2世にはイスタンブルを首都化しようとする意思が強く、エディルネにはあまり滞在しなかったが、後継者のバヤズィト2世とセリム1世はエディルネに相当期間滞在し、エディルネは実質的な副都として機能していたと結論付けられた。また宮廷の台所台帳の記録より、スルタンが長期間にわたって都市外の牧地に滞在していた、そして時には祝宴が開かれていたことも証明し、ルーム・セルジューク朝やサファヴィー朝など遊牧王権が慣習としていた牧地滞在とその儀礼的活用がオスマン朝でも続いていたと結論付けた。

第4章「トプカプ宮殿の空間と儀礼」ではトプカプ宮殿での主要な儀礼を紹介して、第二中庭、閣議の間、上奏の間がどのような機会に利用されていたかを解説するものである。本論文全体での比較の対象とされるトプカプ宮殿に関する理解を一層深めるねらいがある。

第5章「イスタンブル旧宮殿とハレム」は、トプカプ宮殿建設以前1450年末代にイスタンブルに建設されたイスタンブル旧宮殿を論じた。イスタンブル再建の過程で、ふたつの宮殿が相前後して建設された理由については、今日まで明確な解答が与えられていない。存在する文献・絵画史料を悉皆的に検討し、イスタンブル旧宮殿の建設目的と内部の建造物に関する考察を行った。その結果、イスタンブル旧宮殿は当初よりハレムの宮殿として計画されていたこと、そのため政治的機能はほとんど付与されず、エディルネ旧宮殿で成立した儀礼用中庭が存在しなかったことが明らかとなった。

第6章「イスタンブルにおける離宮群」は、16世紀後半から17世紀前半にかけて、スルタンと宮廷が頻繁に利用したユスキュダル離宮とダウト・パシャ離宮を中心とした、イスタンブル近郊の離宮・庭園群の機能と空間の考察を行った。庭園はスルタンの行楽目的の一時滞在施設であると解釈されてきたが、年代記史料の分析から数カ月間に及ぶ長期滞在の事例も散見され、また謁見などの儀礼が行われる建造物も整備されていたことがわかった。さらに離宮のあるユスキュダルとダウト・パシャは、遠征軍が出征前に大規模な祝祭を行われており、オスマン朝における都市儀礼の場として極めて象徴的な意味合いを持つ空間であったことが論じられた。

以上の内容より、従来のトプカプ宮殿を中心とした前近代オスマン朝の宮殿像に一定の修正が必要とされる。

メフメト2世の「独創性」こそがトプカプ宮殿の空間を生んだとする見解は、エディルネ旧宮殿こそが儀礼用中庭を有する原初の宮殿であり、トプカプ宮殿はそのイスタンブルにおける後継の宮殿であったことが明らかとなった。15世紀前半オスマン朝の宮廷・政治制度の発展がエディルネ旧宮殿における新たな儀礼空間を必要としたと推測され、建築史的考察から制度史への一石を投じることも可能であろう。またイスタンブル旧宮殿がハレム専用の宮殿として創設されたとの結論からは、15世紀のオスマン朝がそれぞれの機能に応じた異なった宮殿を建設していたことがうかがわれる。政治的機能が集約されたトプカプ宮殿以外に、イスタンブル旧宮殿やブルサ、ディメトカの宮殿があったことは、オスマン朝の宮殿の多様性を物語るものである。同様にイスタンブル近郊に多数存在した離宮・庭園の存在は、オスマン朝宮廷の宮殿・都市空間に対するアプローチの一端を明らかとする。特に17世紀初頭に郊外の空地において大規模な祝祭が行われていた事例からは、15世紀以前の宮廷儀礼の伝統が脈々と受け継がれ、スルタンの政治的役割が後退した時代でも重要な国家的儀礼として再構築されていたことが理解される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は14~16世紀のオスマン朝の宮殿群の歴史的変遷の過程を限られた史料を駆使しながら明らかにした建築史研究である。オスマン建築史研究は従来モスクやバザールなどに焦点をあて蓄積されてきたが、宮殿建築は史料的制約もあって不明な点が多く、トプカプ宮殿のみが取り上げられるという状況にあった。本研究はこうした先行研究の欠落を埋めるだけでなく、「宮殿群」という概念からオスマン宮殿建築史をトータルにとらえる重要な試金石となっている。

本論は序章において既往のトルコ建築史・都市史研究の回顧と展望を行ったのち、本論文のねらいが述べられる。

本論は大きくイスタンブル以前の宮殿を取り扱う第一部と、イスタンブル以後の第二部からなり、第一部ではルーム・セルジューク朝の宮廷移動を扱った第一章とエディルネ旧宮殿を復元的に考察した第二章からなる。第二部は第三章から第六章までの4つの章でイスタンブル以後の宮殿(群)が順次明らかにされ、最後の結章において全体的な総括と展望が示される。

序章ではトルコ建築史・都市史が及ぶ範囲の広さと限定の困難さが指摘される一方で、きわめて手際よく従来のオスマン朝の建築史・都市史がカバーされている。建築史の分野でほとんどこの種の仕事がなかったことを考えると、筆者のスコープの広さが了解される。本研究レビューは建築史学会の学会誌『建築史学』の学界展望に寄稿したのが初出であり、そののち一部修正を加えて本論の冒頭に収められたものであり、著者の力量をうかがうに十分な内容を有している。

第一部の2つの章では、ひとつの到達点とされるトプカプ宮殿成立までのプロセスを明らかにすることに挑戦している。第一章はオスマン朝登場前夜のルーム・セルジューク朝宮殿の移動の問題が取り上げられる。遊牧王権の空間的挙動を移動という観点から切り込んだきわめて刺激的な論点を含む部分である。ただし、史料的な制約から移動・定着の空間的特性そのものまでは踏み込まれていないことが悔やまれるが、今後さらに都市史的に展開可能な魅力的なテーマである。

第二章が本論の白眉となる部分である。この章では研究史上おそらくはじめてといえる事実の一部が解明されている。すなわちイスタンブル成立以前のオスマン朝の首都であったエディルネに存在した新旧2つの宮殿のうち、不明であった旧宮殿の空間構成を限られた史料を駆使して復元した、きわめて意義深い研究である。分析の結果、著者はエディルネ旧宮殿は15世紀初頭に建設された儀礼用の中庭を備えた宮殿であり、その後の宮殿の祖型ともいうべき空間構成をもっていたことが明らかになった。

第二部はイスタンブル成立後の宮殿(群)の歴史的変遷を跡づけたものであり、第三章では年代記などの難解な史料を用いつつスルタンと宮廷の所在地を明らかにし、メフメト2世にはイスタンブルを首都化する意図が強かったことエディルネにはほとんど滞在しなかったこと、スルタンは長期間都市外の牧地にいて、いまだ遊牧民の心性は残存していたとの結論を得ている。

第四章はトプカプ宮殿での主要な儀礼を通して、中庭、閣議の間、上奏の間の使用法について従来より一歩踏み込んだ議論を展開している。

第五章はイスタンブル旧宮殿を取り扱い、二つの宮殿が相次いで建設された謎に迫る。著者の見解によると、イスタンブル旧宮殿はスルタンの私的宮殿としての性格が強く、ハレムを収める機能を有していたのではないかという仮説が述べられている。この仮説は十分に証明されてはいないが、ひとつの可能性としてありうるだろう。

最終章の第六章では、16世紀後半から17世紀前半にかけて展開したイスタンブル近郊の離宮・庭園群が取り上げられ、宮殿群としての存在形態の端緒の部分が触れられている。17世紀以降の展開についてはここでは触れられていない。今後の課題となるだろう。

結章では以上の6章からなる前期オスマン朝宮殿の通史的展開について独自の見通しが述べられるとともに、残された課題についても的確に言及されている。

本論文は既往研究でほとんど明らかにされなかったエディルネ旧宮殿の復元的研究という研究上の到達点をひとつの軸として、その前後の宮殿建築の存在形態を通史的に捉えうる視角をはじめて提示したという点において、きわめて大きな意義を有している。著者が自覚するように今後の課題としてエディルネ新宮殿への新しい観点からの分析やトプカプ宮殿の再検討などをとおして、15~17世紀のオスマン朝の性格そのものを建築史から逆照射できる可能性を秘めている。論文は明快そのものであり、史料の取り扱い、行論も高度な水準に達しているといえる。

以上、本論は既往の研究蓄積を踏まえつつ、オスマン朝宮殿建築史に新境地を拓いた研究であり、博士(工学)にふさわしい業績と評価することができる。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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