学位論文要旨



No 129027
著者(漢字) 渡邊,大志
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,タイシ
標題(和) 近代東京港湾の都市史的研究 : 水と陸の境界の倉庫群の配布をめぐって
標題(洋)
報告番号 129027
報告番号 甲29027
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7918号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤井,恵介
 東京大学 准教授 加藤,耕一
 東京大学 准教授 横山,ゆりか
 東京大学 教授 西村,幸夫
内容要旨 要旨を表示する

1.本論文の命題

本論文の直接的主題は、東京港の倉庫の配布の歴史から東京の近代の都市構造を明らかにすることにある。

その上で、(1)港湾、(2)国際標準の倉庫(コンテナ)、(3)分節、(4)配布、を都市の見えない構造とし、その架構によって新たな都市モデルを構築しようと試みている。

従来の研究では、主に営業倉庫や倉庫業のノウハウについて論じ、又は技術的側面から扱う研究は経済学や経営学などにおいて一翼を築いている 1。一方で都市史、建築史において倉庫に着目した研究は極めて少ない。その中で本論文は、伊藤毅の提唱する広義の都市インフラ概念 2を応用して倉庫を捉えるものとした。これにより、分節構造と伝統都市というメタフィジカルな都市インフラ論と継承的身体性をともなう空間論の両義性を持って、倉庫群の配布の歴史を都市形成の構造とみなそうとするものである。

2.世界/国内の港の中での東京港の位置づけ

本論文では東京港を現在の港湾管理者が東京都である範囲と定義している。東京港を京浜港や京葉港と区別して扱うことは、一都市一港という構図を明晰にし、その都市構造をより鮮明にできる。

わが国の近代が明治維新によってもたらされ、市区改正計画などの首都の近代化が図られていく中で、東京港はついに壮大なマスタープランを描くことが許されなかった 3。すなわち、隅田川口改良工事という小護岸工事を端緒とせざるを得なかった東京港の戦前は、交易を中心とした首都の中央市場を臨港である横浜港に譲り、内港に徹してきた。

一方で、1970年(昭和45)前後にコンテナリゼーションの導入を運輸省が主導すると、これを契機に大井埠頭を新設した東京港は現在ではわが国でコンテナ貨物取扱量第一位の港となるにまで国内での地位を高めている 4。

世界的にも、東京港ほど首都の港でありながら長く虐げられてきた歴史を持ちつつ、現在では世界有数のメトロポリスを支える主港として国際的な交易を担う例を見ない。東京港の近代は世界でも特異な近代と言える。

3.構成と内容

第1章は、倉庫群が配布される港湾の都市構造上の位置を明らかにすることを目的として、明治期の築港計画のいくつかを扱う。

一般に隅田川口改良工事は当時の出来事として切り取られた歴史の中で検証されることが多く 5、明治期の築港理念は一連の東京港築港計画の頓挫とともに失われたとされる。さらに先行する多くの研究が時系列的に事実を列挙するに留まっており、星亨の死を東京築港計画の終焉と結論づけている。

これに対して、本章はその後の一連の河川工事を詳らかにすることで明治期の築港理念が現在に至る東京の港湾に潜んでいることを明らかにする。

そのために、本章では以下の3つの柱を立てた。

まず明治期東京の築港計画から港湾近代化の三類型を見出す(第一節)。すなわち、(1)陸上のインフラ計画としての築港、(2)メディアの中の築港、(3)埠頭の配布によって分節された築港、である。

この三類型を経た上で、これらが融合しつつ都市と港湾を剥離させた根本から、隅田川口改良工事を読み直していく(第2節、第3節)。これによって従来積極的に評価されて来なかった同工事に代表される東京築港の衰退を、現在に至る近代港湾の骨格を形成した過程として再評価する視角が生まれる。

そして、先の3類型を引き継ごうとした隅田川改良工事の実践は荒川放水路工事及び東京湾浚渫工事と併せて考えられていくことで、水際線をその両側を構成する都市イデアの境界線とみなす第4の類型をもたらしたことを示す(第四節)。

以上により、本章は従来明治期当初の築港理念が失われていった結果とされる隅田川口改良工事を、現代に至る近代築港の新たな類型を生んだ原動力とみなし、明治期の築港モデルを現代の東京港に依然として潜むイデアとして都市史観点からその評価を改めようとするものである。

第2章では、それまで陸と海の接続ラインであったわが国の埠頭の転形構造から、戦後の大井埠頭建設の都市史的位置を示す。

明治期以降内港に甘んじてきた東京港の戦後では、米国発のコンテナリゼーションの導入がそれまでの東京港の占める位置を押し上げた。コンテナという国際標準は、船舶をフルコンテナ船のサイズに規格化し、港湾空間を荷役やバースの整備等によって規格化した。しかし、最も重要なことはコンテナ自身が一時的に二次産品を保管可能な仮設の容器として海から陸へ摩擦なく上がることで従来の倉庫の必要性を失わせ、その配布構造を全く変えてしまった点にある。

そのため、コンテナを摩擦無く海から陸へと接続する回路を設計可能とするための港湾行政改革が必要とされた。そこで当時の運輸省は旧来の港湾法の網を無効化する外貿埠頭公団法を制定した。これにより、海運と港運という二項対立な業界間の境界線としての二次元な海岸線を、コンテナ専用埠頭とすることで世界との関係によって地球状に海と陸を接続する三次元のラインへと昇華した(第1節)。

その上で、大井埠頭建設過程が第一航路と大井埠頭の基部を縦貫して対岸である13号地へ横断する湾岸道路によって構成される立体十字の構造を東京港にもたらした。これによって、明治期の隅田川口改良工事による埋立地の造成以降、その埠頭を南西方向にフィンガー状に突き出していた東京港の埠頭の構図は、南東方向へ極力長いラインを見せる方向へ変形し、東京港全体の構成にパラダイムシフトを促した(第2節)(図1)。

さらに、その際の旧国鉄用地の確保による旧来のインフラ概念と新たなコンテナバース背後の倉庫の配布による大井埠頭空間内部の港湾の近代化に対するイデオロギーの微差が、背後地周辺のそれぞれの都市構造となった(第3節)。その上で、具体的に大井埠頭空間を介して東京港の近代の骨格を構成することが持つ近代都市形成に対する普遍性を記述した(第4節)。

こうしてコンテナリゼーションは一河川港でしかなかった東京港と東京の主従関係を逆転し、それまで都市の周縁とみなされてきた港湾から都市を形作っていく核として大井埠頭建設は機能した。

第3章では、コンテナリゼーション導入以降の東京港の転換期となった1980年代における言説の中の臨海部を復元し、港湾空間を都市空間化しようとした臨海副都心構想の断念の果てに更新された世界都市概念の内実を示す。

第1節は、1980年代の臨海部に関する言説史を俯瞰し、世界都市博覧会の中止を契機として東京の「フロンティア」が変化していくルーツ(初源)を探った。まず、(1)ジャーナリズムにおいて東京構造論としてのウォーターフロント論が、臨海部開発論の端緒としてすり替えられていった(第1項)。そして、(2)ジャーナリズムで組み立てられたその構造はそのままアカデミーに移植された(第2項)。さらに、(3)これを受けて当時の行政内部で臨海副都心構想による最初の世界都市概念が発芽した(第3項)。

第2節では、(1)世界都市博覧会の中止以前の世界都市概念の実態を明らかにし(第1項)、(2)都市博の中止がその世界都市概念を変質させたことを示す(第2節第2項)。その結果、(3)世界との関わりの中での分節された構造を持つ世界都市像が東京の臨海部にもたらされた。

以上によって、バブル崩壊以降も海を介して世界経済システムにおける情報化と結びついた港湾(都市の臨海部)の構造を唯物的に伝える遺構(メディア)として倉庫が捉えられる論拠を示した。

そして、第4章において世界都市博覧会と臨海副都心構想の主舞台とされた青海埠頭の都市博中止以降に着目する。

すなわち、第1節では(1)コンテナ化以降の港湾空間における在来船事業と国際輸送業務がそれぞれ異なる合理化方法を見出し(第1項、第2項)、(2)それによる港湾労働空間の変化が都市構造に寄与した(第3項)。その上で、(3)第一航路を大井埠頭と挟む近代港湾の要地でありながら、臨海副都心構想の主舞台として都市空間化されかけた青海埠頭における港湾機能の空間的展開を(1)と(2)を満たすモデルとみなす(第4項)。

世界都市博覧会の中止は、1970年代のコンテナリゼーション導入以来、網羅的に地球を覆うネットワークとして捉えられた倉庫の配布構造にふたたび大きな変革をもたらした。その結果、個別のネットワーク(航路)にそれぞれ所属する倉庫群が世界の港湾との接続関係から再編成された。

第2節では、港湾と並行して都市内部では(1)トランクルーム業への倉庫業の転身が、非商品である家財道具等を取り扱うようになったことで個人ごとに異なる倉庫に保管された貨物を把握する分節的なネットワークを生み、これがオンライン化と結びついて都市倉庫から自動倉庫が誕生した(第1項)。さらに、(2)この分節的ネットワークの考え方が、新港湾事業法による青海埠頭の運営方式と結びつき(第2項)、(3)これによって倉庫の配布構造もまた分節されたネットワークの連続とすることが促されて、二〇世紀的な「都市」という単位もまた分節された。そして、複数の分節されたネットワークに所属するものの集合として、再編された新たな都市モデルを倉庫の配布構造の変化から示した(第3項)。

このことは経済都市において資本の交通の表象である倉庫が、情報化時代の都市のメディアとみなす概念とそこで荷役労働者が依然として作業を行う唯物的空間を併せ持った都市のインフラストラクチャーであることに他ならない。

以上により、分節されたネットワークの連続に明滅する仮設的な集合形態として高度に情報化された都市の未来において、倉庫群は依然として近代港湾・近代都市の分節的なネットワーク構造同士を接合し、現実の都市の港湾空間に群立する。

この結論をもって全4章の小結となすことで、現代から明治期東京港湾を眺めることを端緒とする本論文は、倉庫の配布構造を都市の未来としてのイデアとみなすものである。

脚注は以下の通り。

1. そのうち本稿で主題とするわが国でのコンテナリゼーションの導入については、清野馨・堂柿栄輔「コンテナ輸送システムの導入と港湾運送事業法に関する史的研究」(土木学会論文集No.716 23-36頁、2002.10.)がある。

2. 吉田伸之、伊藤毅編『伝統都市(1)イデア』、『伝統都市(2)権力とヘゲモニー』、『伝統都市(3)インフラ』、『伝統都市(4)分節構造』 東京大学出版、2010年。特に『伝統都市(3)インフラ』の伊藤毅「序 都市インフラと伝統都市」。都市イデアなど古来続いてきた不可視の都市構造を賦活し、かつ、分節されたインフラの複層から新たな都市象を呈示しようとする。

3. 東京都編『都史紀要二五 市区改正と品海築港計画』東京都、1976年。

4. 2007年の国内主要港の外貿コンテナ取扱個数は、東京港が3,720,462TEUで第1位、第2位の横浜港が3,182,089TEUであった。第3位以降は、名古屋港、神戸港、大阪港の順であった。

5. その代表的なものに東京都公文書館編『都史紀要25-市区改正と品海築港計画-』がある。その他多くの研究も明治期にあった独立した事象として扱うものが大半である。

図1: 東京港第一次改訂港湾計画において現れた立体十字と第二次改訂で修正された航路・埋立地・陸路平面図

図2:都市の把握モデルマトリックス

審査要旨 要旨を表示する

本研究は明治以降、1980年代にいたる近代東京の港湾を巡るさまざまなステーク・ホルダーの動向を丁寧に読み解きつつ、当該地域の都市史的変遷を水と陸の境界に立地する「1倉庫」という存在を鍵言葉として明らかにしたものである。従来、都市史の分野では港町研究として蓄積されてきたが、主として空間や社会集団を単純化して論ずるものが多いなかで、本論は会議録などの一次史料を博捜し、異なる利害をもつさまざまな力学のせめぎ合いにまで踏み込んで、さらに「失敗」とされてきた東京の近代港の歴史にもうひとつの新たな歴史解釈の道筋を見いだした点に意義がある。な試金石となっている。

本論は序章において既往のトルコ建築史・都市史研究の回顧と展望を行ったのち、本論文のねらいが述べられる。

本論は大きく本論となる4つの章と別立ての附論からなり、本論の前後は研究史・研究視角を示した「はじめに」と全体を総括した「おわりに」によって挟まれる。

「はじめに」において、著者はいかに従来の港町研究が港そのものの構造に踏み込んでいない点を指摘しつつ、「倉庫」という水と陸のライン上に位置する存在の物的あるいはメタ概念的な存在を港のインフラとして捉え、その「配布」構造から港町(ここでは東京港)を捉え直す重要性を強調している。また世界にさまざまに存在する港のなかで、巨大都市メガロポリスにおける港の特異性についても注意を喚起している。

第一章は明治期の東京築港計画を再考する。東京の築港問題は近代東京の負の部分としてつねに失敗計画として捉えられてきたが、著者はこの解釈に大筋において同意するものの、むしろ第二章で取り扱う大井埠頭の整備が戦後を俟たねばならない前提条件が明治期の築港計画の推移のなかに内在していた点を明らかにした。すなわち品川沖と隅田川口で揺れ動きつつ頓挫した東京築港計画の歴史的変遷は逆説的に隅田川口の重要性を明示したのである。

つづく第二章が本論の中核をなす部分である。第二章ではそれまで陸と海の接続ラインが不明確であった東京に対して、戦後はじめて埠頭という境界が挿入される過程を膨大な議会資料などの一次史料を駆使して論じた、渾身の一章である。世界はすでにコンテナリゼーションが広範に普及しており、その世界的物流システムから取り残されていた東京はコンテナ導入とセットで東京大井の埠頭建設に踏み切る。この港湾の構造変化はそれまでの利権関係や空間構造を根底からリセットするほどのインパクトを内在していたのであって、コンテナ埠頭建設を巡って数多くのステーク・ホルダーたちは自らの権益の保存と拡大に狙って複雑な駆け引きが行われる。最終的には「若狭裁定」と俗称される妥協案によって埠頭建設が実現するが、本論はこのプロセスをきわめて丁寧に追跡し、港が本来的に有する力学関係のあり方と空間構造を捉えたところに新規性が認められる。

第三章はコンテナリゼーション成立後の東京港の現代都市化のプロセスが取り扱われる。具体的には1980年代のバブル経済の膨張とともに喧伝された世界都市としての東京がとりわけ東京ウォーター・フロント論として展開した。本章では世界都市博の中止とともに退潮していく東京港論が、逆に次の章の青海埠頭の問題を準備したという著者独自の見解を提示している。

第四章は世界都市博と臨海都心構想の焦点となった青海埠頭の都市博中止後の動きを追跡した部分である。進歩と発展の夢に浮かされた東京港はふたたび現実に戻り、着実に埠頭機能を中心とした港本来の姿をとりもどしていく。このように本論は第一章-第二章、第三章-第四章がそれぞれ対となった構造で叙述されており、近代以降の東京港の変転を単なる成功か失敗かという二律背反的なとらえ方ではなく、弁証法的転生として描き直した点に大きな特徴があり、それが本論の現代都市へのメッセージともなっている。

附論は現在、アメリカなどを中心として急展開する物なき物流の動向を睨みつつ、都市本来の存在形態へと回帰する方途に言及が加えられている。

以上、本論は明治の東京築港問題の失敗としてしか捉えられてこなかった東京港の都市史的過程を明治-戦後-昭和後半という3つの時代を通じて捉え直した、東京都市史の重要な貢献である。分析に収集された史料は膨大な数に達し、これらにすべて目を通しつつ冷徹な視線で東京港の都市史を描ききった力量は大いに評価できる。すなわち東京都市史に新境地を拓いた研究であり、博士(工学)にふさわしい業績と評価することができる。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク