学位論文要旨



No 129042
著者(漢字) 松井,大輔
著者(英字)
著者(カナ) マツイ,ダイスケ
標題(和) 歴史保全型まちづくりに対する行政関与に関する研究 : 住民・市民関与との相互関係の変化に着目して
標題(洋)
報告番号 129042
報告番号 甲29042
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7933号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 出口,敦
 東京大学 准教授 窪田,亜矢
 東京大学 准教授 小泉,秀樹
 東京大学 准教授 大月,敏雄
内容要旨 要旨を表示する

戦後日本の歴史保全型まちづくりは、経済を最優先に開発を進めてきた行政や企業に抗う反体制の運動として誕生した。その後、行政の歴史的環境保全や市民参加への理解が向上したこともあり、歴史保全型まちづくりは都市計画の一つの手法として認識されるまでに展開したと言える。展開に伴い、歴史保全型まちづくりに行政が関与する機会が増加する中で、その課題も表層的な対立や無関心といったものから、協働の下で起こる過度の関与、打算・形式的な関与などにシフトしている。このような課題は、歴史保全型まちづくりを取り巻く状況の変化に対応した行政関与のリテラシーが未だ作られていないことに要因があると考えられる。そして、これが歴史保全型まちづくりの更なる展開のボトルネックになっており、ここで一度、歴史保全型まちづくりに対する行政関与を再検討する必要があると考える。

そこで本論文は、歴史保全型まちづくりの変化に対応した実践的な行政関与の理論枠組を提案することを目的とする。論文は二部構成となっており、第I部では歴史保全型まちづくりの全国的展開を整理し、その中に見られる住民・市民関与と行政関与の実態と相互関係を明らかにすることで、行政関与の理論枠組を仮説的に提案する。さらに第II部では八女福島、横浜の関内・山手、新宿の神楽坂を事例に第I部で提案した仮説を実証する。具体的には地区における歴史保全型まちづくりの経緯を整理し、住民・市民関与と行政関与の相互関係の実態と変遷を分析することで、理論枠組の実践手法と効果を明らかにしていく。各章の要旨は以下の通りである。

序章では上記の背景と目的とともに、研究の視座として住民・市民関与と行政関与の相互関係に着目することを示した。これまでの都市計画分野では住民・市民関与に関する研究が圧倒的に多く、一方で行政関与に関する研究は等閑にされてきたことを指摘できる。例えば、有名な「市民参加のはしご」では市民の対極にいるはずの行政の姿が描かれていない。また、このモデルはまちづくりや官民協働の多様性を表現するものでないことも指摘できる。このような点に配慮しつつ、歴史保全型まちづくりの正確な実態を捉えながら理論枠組を構築していくことを説明している。

第1章と第2章では歴史保全型まちづくりの展開経緯を整理し、その中から住民・市民関与の実態を抽出し、類型化を行っている。その結果、歴史保全型まちづくりに対する住民・市民関与の主体は「個人としての関与」「地区住民による組織」「地区内外の市民組織」「市民組織の専門化」「専門性の地区への内在化」の五つに分類できた。公共性を帯びていく過程と専門性を帯びていく過程の二種類の変化を経験して、複合的な住民・市民関与の体制が築かれてきたと言える。「市民参加のはしご」が一つの目標に向かう不可逆的かつ直列的なモデルであるのに対して、ここで整理した住民・市民関与の主体の類型は地区状況に応じて可逆的であり、並列的で目的の異なる主体が併存し得るという特徴を持つ。前者は「はしご」をメタファーとして用いるが、これに対して後者は必要とする主体を自由に選択する「エレベーター」に暗喩できる概念であると言える。

第3章では行政関与の実態を明らかにし、前章までの分析を踏まえて住民・市民関与との相互関係を分析した。行政関与の実態については歴史保全型まちづくりの展開から、住民・市民関与に直接的な影響を与える関与として「財政支援」「技術援助」「人足提供」「情報提供」、間接的な影響を与える関与として「活動内容後援」「活動運営後援」の計六種類に分類できた。さらに、住民・市民関与との相互関係については、行政関与の種類毎に住民・市民関与の主体と連動した行政関与の変容があったことを確認できた。つまり、行政関与とは決して一面的なものではなく、多様な関与のかたちが存在してきたのだということを指摘できる。

以上、第1章から第3章が第I部である。第I部では「市民参加のはしご」を起点に住民・市民関与と行政関与の実態と相互関係を分析してきた。その結果、歴史保全型まちづくりに対する行政関与が住民・市民関与のレベルに応じた多彩な側面を持つことが明らかになったと言える。住民・市民関与の主体の類型が持つ特徴を鑑みると、行政関与の種類ごとの内容もまた可逆的かつ並列的という特徴を持つと考えられる。したがって、以上の分析より導出される行政関与の理論は「地区状況に応じて行政関与が選択される」という関わり方であり、その結果として「地区内に複数のかたちの行政関与が存在」し得るということである。つまり、住民・市民関与の状況と必要な行政関与の種類を照合して行政関与が選択されるという理論であり、住民・市民関与と行政関与の相互関係図が理論枠組として見取り図の役割を果たすことを仮説的に提案した。

第II部は第I部の仮説を実証し、行政関与の選択の実践手法と効果について言及した。行政関与の選択による変容の方向性が異なる三つの事例を分析対象として選出した。

第4章では八女福島を事例に、行政関与の変容の実態と動機及び促進要因、利点について論じている。八女福島の歴史保全型まちづくりに対する行政関与は積極的に住民・市民関与に働きかけるという姿勢を維持したまま、行政主導型のまちづくりから住民・市民関与への専門性の移行を経て、建築と不動産に関わる専門性の分担という関与に変化してきたと言える。この変化の中で行政関与の継続性や住民側の担い手不足という地区課題は解決され、住民・市民の行政への信頼向上などの効果を上げた。また、歴史保全型まちづくりの主体は住民・市民であるという認識の下で行政関与の試行錯誤が繰り返されたことや、住民・市民と行政の先導者同士の連携により地区課題が正確に把握されたことなどが行政関与の変容を促進したと考えられる。

第5章は横浜の関内・山手における考察である。関内・山手の歴史保全型まちづくりに対する行政関与は庁内連携による洋館保存から所有者と連携した近代建築保存へと展開し、住民・市民側の活用の担い手不足が明らかになったことで行政自らが活用の主体性を発揮する関与へと変容した。この中で、「歴史を生かしたまちづくり要綱」が制定され、住民・市民関与との連携に積極性の違いを付けたことで、所有者による活用を促進すると同時に、経営的判断に囚われず保存に必要な情報を収集できるという仕組みが構築された。このような行政関与の変容が、その後の創造都市政策などへの展開を円滑にしたと考えられる。促進要因としては都市デザイン室の存在が大きく、設立当初から調整を目的とした組織がまちづくり要綱を通して情報収集能力を得たことで、地区課題を正確に把握し、行政関与の選択に活かすことができたのだと評価できる。

第6章は神楽坂の事例である。神楽坂の歴史保全型まちづくりも先の二つの事例と同様、行政主導によって始められたが、住民・市民関与の主体が成長するに伴って消極的な関与へと変容していった点が特徴である。これにより、歴史保全型まちづくりにおける行政負担は軽減し、官民協働で課題として指摘されている行政と住民・市民の主従関係が生まれなかった。これらが効果であると評価できる。当初から住民・市民関与の育成が試みられていたこと、公共的な役割を住民・市民が担うことに行政が寛容であったこと、地区の人材が豊富であったことなどが行政関与の変容を促進する要因になったと考えられる。

第7章は本論文の結論である。ここまでの議論を踏まえて、今後の歴史保全型まちづくりに対する行政関与について考察を行った。まず、第I部で示した「地区状況に応じて選択され、可逆的かつ並列的に変容する行政関与」という仮説は、第II部における分析を通して地区レベルでも展開されることを実証できたと考える。地区レベルの分析を通して、行政関与の選択は住民・市民関与の主体の変化や建築・不動産といった歴史的環境を保全するための専門性の担い手不足のような地区課題を動機として発生していること、さらに結果的には地区課題を解決するだけでなく、多様な主体による歴史保全型まちづくりを実現し、保存の実績を上げていることが明らかになった。また、住民・市民関与の主体性への恒常的な意識や行政の公共性に対する柔軟な発想、地区状況を行政関与の選択と変容に反映できるような触媒の存在などが、行政関与の選択を促進する要因になると考えられる。以上のように、歴史保全型まちづくりに対する行政関与の選択肢を可視化したことは、これまで法制度に基づき画一的だった、あるいは場当たり的で職員の熱意の有無に左右されてきた歴史保全型まちづくりにおける行政関与に対して、多様性と即地性を配慮しながら変容していくという道筋を示したという点で有効であると考える。この行政関与の選択を他地区において実現するには、住民・市民関与や地区状況を正確に捉える体制と、これを理論枠組に反映して行政関与の選択を行う制度枠組、さらには地区状況に対する行政関与の適切性を評価するフォローアップの仕組みが必要であると考える。

最後に、歴史保全型まちづくりに対する行政関与は多種多様である。したがって、さらに分析事例を増やし、理論枠組の正確性を高めていくことが必要だろう。これが今後の研究課題であり、本研究はその検討の枠組を提示した基礎的研究として位置づけることができる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦後の歴史保全型まちづくりにおける行政関与のすがたを住民・市民との関係性に着目しながら検討し、現時点での行政関与のあり方を提案することを目的としている。

論文は、研究の目的、構成および既往研究の成果と本論文の位置づけを述べた序章に続き、二つのパートから成っている。第1部は、日本における戦後の歴史保全型まちづくりに対する行政関与の歴史をあとづけるパートである。第1部は3つの章から成っている。

第1章は、1980年までの日本における歴史保全型まちづくりを草創期ととらえ、これをさらに1950年、1975年というふたつの画期によって3つに区分し、それぞれの時期における主体間の関係とその変遷を明らかにしている。

第2章は、歴史保全型まちづくりが全国展開を見せ始める1980年以降の歴史を2000年までとそれ以降の2期に分け、それぞれの時期における主体間の関係とその変遷を明らかにしている。

以上のふたつの章を通じて、社会的背景の変化と住民・市民と行政との関係が連動して相互的に変化してきており、関係の内容も、関係を規定している制度そのものも変化してきていることを明らかにしている。そのなかで、いわゆる「市民参加のはしご」の視点の不可逆性、直列性という正確を示し、同視点の一面性を論じている。

第3章は、歴史保全まちづくりにおける行政関与に着目し、その分類を試み、さらに住民・市民関与との関係、行政関与のあり方を考察している。

つづく第2部は歴史保全型まちづくりにおける行政関与の現段階を事例分析をもとに明らかにしたパートである。異なる事例研究の3つの章から成っている。

第4章は、八女市福島地区を取り上げ、行政主導による住民・市民関与の進展に伴い、行政関与そのものが変容していく過程を明らかにしている。

第5章は、横浜市関内地区を取り上げ、政策を基軸とした選択性の高い行政関与への変容のプロセスを描き出している。

第6章は、新宿区神楽坂地区を取り上げ、行政が住民・市民活動の公共性に対して肝要な態度を取ったところから過剰な行政関与が控えられたことにより、より自立性の高い官民関係が構築されたプロセスを明らかにしている。

以上の議論を踏まえて、最終結論を述べる第7章では、歴史保全型まちづくりにおいては「市民参加のはしご」とは異なり、行政関与の内容が住民・市民関与の体制の階層と行政関与の内容というふたつの軸によるマトリックスとしてしめすことができることを明らかにし、事案に応じたフレキシブルな階層が構築されていくことを具体的に明らかにしている。さらに第2部における事例研究から、変容する行政関与を実現するための要素の確保が重要であること、そのためには変容の要因を正しく分析することによって問題が明らかになること、行政対応の変容を受け入れることのできる柔軟性を行政自体が獲得することの重要性が明示されている。

以上、本論文は、日本における戦後の歴史保全型まちづくりの展開と現段階を広範な資料によって実証的にまとめ、行政関与という視点を導入することによってこうしたまちづくりの特質と意義を明確に示し、行政関与の多様な深化プロセスを総合的に示すことに我が国で初めて成功している。その論点は高い有用性を有しており、優れた論文として高く評価することができる。

よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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