学位論文要旨



No 129050
著者(漢字) 三好,信哉
著者(英字)
著者(カナ) ミヨシ,ノブヤ
標題(和) 固体表面における水分子の散乱挙動
標題(洋)
報告番号 129050
報告番号 甲29050
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7941号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 教授 丸山,茂夫
 東京大学 教授 大久保,達也
 東京大学 教授 鈴木,雄二
 東京大学 教授 高木,周
内容要旨 要旨を表示する

近年,微細構造物の作成技術の進歩に伴い,マイクロ・ナノデバイスの研究が盛んに行われており,nmオーダーの空間での物質,熱等の輸送現象の理解が求められている.例えば,固体高分子形燃料電池の開発では,Micro Porous Layer(MPL)と呼ばれる細孔径10~100 nmの炭素系多孔質膜を用いることで,電極で生成される水蒸気の輸送特性が向上することが示されたことから,ナノ空間における水蒸気輸送に関する研究が盛んに行われている.系の代表長さがnmオーダーになると,系の体積に対する表面積の割合が高まるため,界面現象が重要となる.ナノスケールにおける輸送現象では,気体分子同士の衝突と比較して,気体分子-固体表面間の衝突が顕著になるため,気体分子-固体表面間相互作用の理解が重要になる.しかし,水分子と固体表面の相互作用は工学上,重要であるにも関わらず,輸送現象の解明において必要となる散乱挙動などの動的な特性に関する知見は少ない.気体-固体間相互作用の動的な性質を調べる代表的な手法として分子線散乱実験が挙げられる.本研究では分子線法を用いて,固体表面上での水分子の散乱挙動に関する知見を得ることを目的としている.固体表面には代表的な炭素系素材であるグラファイトを用いた.分子線散乱法を用いた従来の研究の多くは,表面化学反応の解明を主な目的としており,気体分子の入射エネルギーは200~1000 meV程度とされてきた.一方,室温環境下において固体表面に入射する気体分子の入射エネルギーは50 meV程度であるため,ナノ空間における流動現象を解析する際は,低エネルギー(100 meV以下)で入射する気体分子の散乱挙動に関する知見が求められている.水分子のグラファイト表面への吸着エネルギーはおおよそ100 meV程度であるため,吸着エネルギーと比較して低い並進エネルギーで入射した場合,表面ポテンシャルの影響を強く受けた散乱になることが予想されるが,そのような状況における気体分子の散乱挙動に関しては解明すべき点が数多く残されている.そこで本研究では,入射エネルギーを100 meV以下に下げた水分子線を用いて散乱実験を行い,水分子のグラファイト表面での散乱挙動に関する知見を得た.更に,古典分子動力学シミュレーションを用いて,ダイナミクスに関する詳細な解析を行った.

分子線散乱実験は超高真空装置内において行った.水分子線の生成は,液体の水が入った容器を90°Cに加熱することで生成した水蒸気を,ノズル先端の50マイクロメートルのオリフィスから噴出させることで行った.散乱計測を行う主室内におけるm/e = 20のバックグラウンド信号はm/e = 18での信号と比較して大幅に低い.そこで,S/N比の高い測定を行うために分子量20の重水(D2O)を使用した.分子線の並進エネルギーはシードビーム法により35~130 meVの範囲で制御した.気体-固体表面間ポテンシャルの影響を調べるためD2Oと同じ質量を持つNe原子線を用いた散乱実験も行った.シードを行わない場合の並進エネルギーは64 meVであり,Krによってシードすることで,並進エネルギーを27 meVに下げた.グラファイト表面にはhighly oriented pyrolytic graphite (HOPG, ZYB-grade, Panasonic)を使用し,表面温度は室温(300 K)の下,実験を行った.

まず,入射分子の速度ベクトルと表面法線ベクトルを含むin-plane面内で計測を行った.散乱分子の飛行時間分布を測定し既知の関数を用いてフィッティングを行うことで,質量流束と平均並進エネルギーの散乱角度分布を得た.入射角は40°である.並進エネルギー64, 130 meVの場合は分布がlobular散乱であるのに対し,並進エネルギー35 meVの条件では表面法線方向への流束も大きくなり,cosine散乱に近づいた.流束の最大値を示す散乱角度に着目すると,入射エネルギーを下げるにつれ,最大散乱角度は減少した.入射エネルギーが,表面と熱平衡状態になった際のエネルギー(52 meV)より小さい場合,全体として気体分子は固体表面からエネルギーを受け取るため,最大散乱角度は鏡面反射方向より小さくなる.逆に,入射時の並進エネルギーが表面の熱エネルギーより高い場合,気体分子から固体表面にエネルギーが移動するため,最大散乱角度は鏡面反射方向よりも大きくなる.次に散乱分子の平均並進エネルギーの散乱角への依存性に着目する.並進エネルギー64, 130 meVの入射条件では散乱角度が30~80°の範囲で,散乱角度が小さくなるほど平均並進エネルギーが増加している.一方,並進エネルギー35 meVの入射条件では,散乱角度20~70°の範囲で並進エネルギーの散乱角度への依存性は小さく,表面の熱エネルギーに近い値となっている. 並進エネルギー35 meVと64 meVの入射条件で,散乱角度が 40°以上の範囲での散乱分子の並進エネルギーを比較すると,低いエネルギーで入射しているにも関わらず,35 meVの場合の方が高い並進エネルギーを持って散乱していることから,入射エネルギーが低下することで,散乱過程に変化が生じていることが伺える.

次に,out-of-planeにおける散乱計測の結果を説明する.散乱角を固定し,質量流束,平均並進エネルギーの方位角分布を測定した.入射エネルギー130 meVの場合,分布はin-plane付近に集中するのに対し,入射エネルギー35 meVの場合はout-of-planeへも多くの分子が散乱した.また入射エネルギー35 meVの場合,散乱分子の並進エネルギーの散乱方向への依存性は小さいことが示された.以上の,in-planeにおける散乱角度分布とout-of-planeにおける方位角分布から,35 meVで入射した水分子はグラファイト表面への適応が進み,拡散的散乱挙動になることが明らかになった.

分子線散乱実験の最後に,気体分子-固体表面間ポテンシャルが散乱挙動に与える影響を調べるため,D2Oと同じ質量を持つNeの散乱実験を行った.Ne原子線の並進エネルギーは27, 64 meVとした.重水(D2O)と同様に質量流束と平均並進エネルギーの,in-plane面内の散乱角度分布とout-of-planeにおける方位角分布を測定した.in-plane面内の流束分布は入射エネルギーを27 meVに下げても,lobular散乱を示し,out-of-planeへの散乱の広がりは小さいことが示された.in-plane面内での散乱後の並進エネルギーに着目すると, 27 meVと64 meVの場合で傾向に違いは無く,並進エネルギーは散乱角度に依存し,散乱角が 20°以上の範囲で,散乱角が小さくなるほど並進エネルギーが増加する結果が得られた.

以上のin-plane面内及びout-of-planeにおける散乱計測から,入射する水分子の並進エネルギーを130 meVから35 meVへと下げることで,水分子の固体表面への適応が進む一方で,Neの場合は27 meVとしても表面への適応は進まないことが明らかになった.水分子-グラファイト間の吸着エネルギーは100~200 meVと,Ne(吸着エネルギー30 meV)と比較して高い値を持つため,吸着エネルギーと比較して低い並進エネルギーで入射した水分子は,衝突後,表面とのポテンシャルから抜け出すのに十分な並進エネルギーを得ることができず,表面と複数回衝突を繰り返す過程で適応が進むと考えられる.適応が進む過程で, lobular散乱からcosine散乱へ近づき,散乱分子の並進エネルギーは散乱方向への依存性を失い,表面と熱平衡状態になった場合のエネルギーに近づく.

最後に古典分子動力学シミュレーションによる散乱過程の解析を行った.グラファイトを構成する炭素原子間の相互作用にはBrennerポテンシャルを使用し,異なる層に位置する炭素原子間にはLJポテンシャルを使用した.水分子は剛体モデル(SPC)を使用し,水分子-グラファイト間の相互作用にはLJポテンシャル(炭素-酸素,炭素-水素間)と電荷-四重極子モデルを使用した.分子線散乱実験とほぼ同じ入射エネルギーで異なる12000個の初期条件に対して動力学計算を行い,散乱過程の解析を行った.その結果,入射エネルギー35,130 meVの場合は,共に大部分(70%以上)の入射分子が複数回衝突過程を経ることが分かった.また衝突回数が一回のみの直接散乱成分は比較的in-plane付近に散乱し,out-of-planeへの広がりは複数回衝突過程を経た分子によるものであることが明らかになった.以上の結果を踏まえ,複数回衝突成分の表面滞在中の挙動及び散乱挙動に着目した.表面滞在時間は入射エネルギー130 meVの場合は約16 ps,35 meVの場合は約18 psとなり,入射エネルギーへの依存性は小さい.一方,表面滞在中の移動距離に関しては入射エネルギーへの依存性が確認された.x方向(入射方向)に関しては,入射時の運動量が大きいほど,移動距離が大きくなる.一方で,y方向(x方向に垂直な方向)は入射エネルギーに依存せず,35, 130 meVの場合で,同程度の移動距離となった.表面滞在後に脱離した分子群の速度分布x,y,z(表面法線方向)方向に分解して解析した結果,x方向は入射時の履歴が残る一方で,y,z方向に関しては入射エネルギーに依存しないことが示された.以上の結果から,入射エネルギーが130 meVから35 meVに低下すると,散乱分子のy方向の速度分布は変化せず,x方向(入射方向)の速度が低下するため,散乱方向の指向性が低下し,out-of-planeへ多くの分子が散乱することが明らかになった.

分子線散乱実験及び分子動力学シミュレーションの結論を以下にまとめる.吸着エネルギーに対して低いエネルギーで入射した水分子は固体表面に長時間滞在する過程で適応が進み,拡散的な散乱になることが示された.また,入射エネルギー35~130 meVの範囲では散乱分子のy, z方向速度の入射エネルギーへの依存性が小さいため,低エネルギーで入射した際に拡散的な散乱挙動を示すことが明らかになった.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,工学上重要な問題の一つである水分子と固体表面の相互作用に焦点を置き,分子線散乱実験および古典分子動力学(MD)シミュレーションによって,代表的な炭素系素材であるグラファイト表面における水分子の散乱挙動を解明することを目的としている.

水分子と固体表面の相互作用は,電気化学,不均一触媒,表面の濡れ,更には腐食問題など様々な現象と密接に関連していることから,これまでに精力的に研究が行われてきた.また近年は,表面の影響が顕著に表れるナノ空間材料を用いた水分子輸送の制御などに関しても盛んに研究が行われている.例えば次世代のエネルギー生成デバイスとして期待される固体高分子型燃料電池では,マイクロポーラス層と呼ばれる細孔径10~100 nmの炭素系ナノ細孔を用いることで,電極で生成される水蒸気の輸送特性が向上することが報告されている.代表長さが数十nm程度のナノ空間においては,気体分子の衝突相手の大部分は固体表面となることから,気体-固体表面間相互作用,特に散乱挙動の理解は輸送特性の定量的な予測を行うためには必要不可欠である.しかし,従来の水-固体表面間相互作用の研究の多くは吸着層の構造や吸着エネルギーなど,静的な特性を対象としたものが多く,輸送現象の他にも結晶成長などと関連する,表面における拡散,散乱などのダイナミクスに関しては解明すべき点が数多く残されている.よって,実験的アプローチに加えMDシミュレーションなど,分子スケールのシミュレーションを相補的に行い,固体表面における水分子のダイナミクスに関する理解を深めることは重要な取り組みであると言える.

ダイナミクス研究の代表的な手法である分子線散乱実験は,多くの研究が表面化学反応の理解や表面ポテンシャル構造の理解を目的としているため,入射分子の並進エネルギーは200 meV~1000 meV程度とされてきた.しかし,室温環境下では大部分の水分子が100 meV以下の並進エネルギーで表面に入射するため,従来の研究であまり調べられていない,低いエネルギーで入射する水分子の挙動を定量的に把握する必要がある.そこで本論文では入射エネルギー35~130 meVの条件で散乱実験を行っている.水分子のグラファイト表面への吸着エネルギーは100~150 meV程度であるため,100 meV以下の並進エネルギーで入射した場合,表面ポテンシャルの影響が顕著になり,大部分の水分子は,表面に長時間滞在した後に拡散的に散乱する.本論文では,入射分子線のベクトルと表面法線ベクトルを含むin-plane面内に加え,in-plane面外,即ちout-of-planeでも計測を行い,散乱挙動の全貌を把握することを目指している.また,吸着,表面滞在,脱離という一連のプロセスの解析をMDシミュレーションによって行っている.

本論文は"固体表面における水分子の散乱挙動"と題し,全5章から構成されている.

第1章は"序論"であり,研究の背景,従来の研究を紹介した上で本論文の位置づけを示し,室温環境下における水分子の散乱挙動を解明することの意義を述べている.

第2章は"実験手法"として本論文で用いた超音速分子線技術と飛行時間法に関する解説が行われている.今回行われた分子線散乱実験の特徴として,out-of-planeにおける計測が挙げられる.従来の研究の多くは,装置上の制約からin-plane面内の計測に限られている.そこで,本章ではout-of-planeでの計測方法に関する詳細が示されている.また,シードビーム法によって生成された,入射エネルギー35~130 meVの水分子線の特性評価の結果も示している.

第3章では"古典分子動力学法"としてMDシミュレーションに関する基礎事項(相互作用モデル,計算手法,初期状態の生成方法)が説明されている.用いたポテンシャルモデルの評価として,ポテンシャルエネルギー曲線が示されており,水分子の配向への依存性に関して,密度汎関数理論に基づいた量子化学計算と同様の傾向が得られている.

第4章は"グラファイト表面における散乱現象"として分子線散乱実験,及びMDシミュレーションの結果と考察が示されている.分子線散乱実験では散乱分子の質量流束と並進エネルギーの角度依存性を計測した結果,入射エネルギーが64,130 meVの場合はin-plane面内はlobular散乱となり,out-of-planeへの散乱の広がりは小さいことが示されている.一方,吸着エネルギーと比較して低い入射エネルギー(35 meV)の場合,表面法線方向,及びout-of-planeへの散乱分子が増加し,拡散的な散乱挙動になることを明らかにしている.MDシミュレーションによる解析では,入射エネルギー35~130 meVの範囲で,大部分の分子は表面に長時間(16~18 ps)滞在した後に散乱すること,表面滞在中の適応過程や散乱分子の特性が,法線,接線方向,更にはそれら二つの方向に垂直な方向ごとに異なることが明らかにされている.

第5章は"結論"であり,第4章にて示された知見から,水分子は,希ガスや窒素,酸素と比較してグラファイト表面への吸着エネルギーが大きいため,室温程度の環境では,指向性の高い散乱から拡散的な散乱まで,変化に富んだ挙動を示すという結論が述べられている.

以上に示したように,本論文では分子線散乱実験とMDシミュレーションによって,工学上重要な,室温程度の環境下における水分子のダイナミクス(散乱挙動,表面拡散)を明らかにした点で評価に値する.本研究で得られた知見は,表面ポテンシャルの影響を考慮した散乱モデルを構築することで,ナノ空間における流動現象の解析への応用が可能となる.またその他にも,分子動力学シミュレーションに用いる水-炭素間相互作用モデルの構築など,様々な問題への幅広い応用が期待される.

よって本論文は博士(工学)学位請求論文として合格と認められる.

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