学位論文要旨



No 129115
著者(漢字) 橋口,幸治
著者(英字)
著者(カナ) ハシグチ,コウジ
標題(和) 中赤外領域の遷移を用いたレーザー冷却とその応用
標題(洋)
報告番号 129115
報告番号 甲29115
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第8006号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 香取,秀俊
 東京大学 特任教授 三尾,典克
 東京大学 准教授 井上,慎
 東京大学 准教授 小林,洋平
 東京大学 准教授 長谷川,秀一
内容要旨 要旨を表示する

レーザーが実用化されて半世紀、その進歩は目を見張るほどである。それにより様々な技術が生まれてきたが、今回注目したいのは、レーザーを原子に照射することで原子を止める、原子を冷やす技術、「レーザー冷却」である。レーザー冷却は、光と原子の相互作用により、原子に動きを妨げる力を加え続けることによって、原子を止める技術である。原子を止めることによって、観測する際に生じるドップラーシフトの影響を少なくすることができ、それにより、原子のスペクトルなどを正確に調べることができる。

正確な原子スペクトルの観測は、光格子時計などの周波数標準の開発に繋がる。今回は、ストロンチウム原子の中赤外領域の遷移(5s5p3P2 - 5s4d3D3)を用いたレーザー冷却を行うことで、ストロンチウム原子(Sr)光格子時計の精度の向上を試みる。

今回、この遷移に注目した理由は以下の3点である。

・遷移波長が長いため、冷却限界温度である反跳温度が低い

レーザー冷却においては、自然放出をエネルギー散逸過程に用いているため、原子の運動量変化は光子の運動量で量子化されている。そのため、光子1個の反跳エネルギー以下にまで冷却できない。反跳エネルギーは遷移波長の2乗に反比例するため、波長が長いほど冷却到達温度は低くできる。(今回の遷移では反跳温度は約13nK)

・5s4d3D3準位の寿命を知ることで、時計遷移の黒体輻射シフトの評価ができる

現在、Sr光格子時計の正確さを制限している主な要因は、黒体輻射による光シフトによって時計遷移(5s2 1S0 - 5s5p3P0)の絶対周波数がずれるシフト、黒体輻射シフトである。このシフトを評価するときに、5s4d3D3準位の寿命は重要な指標となる。5s4d3D3準位の寿命を知ることで、5s4d3D1の寿命もわかるため、時計遷移の上準位5s5p3P0のdynamic Stark shiftを評価することができる。

・冷却時間の短縮により、時計の安定度を向上できる可能性がある

時計の安定度(いかに早く狙った精度に到達できるかの指標)はアラン分散で評価できる。これは一回の測定に必要な時間が短いほど小さくすることができる。時計遷移の測定一回に必要な時間の大半は、原子の冷却・トラップに使われているため、冷却時間の短縮は、安定度の向上に直接繋がる。また、測定一回における相互作用の時間の割合が増えるので、ディック効果(時計遷移の測定とレーザー周波数へのフィードバックが不連続で周期的であることから生じるエイリアシングの効果)の軽減も期待できる。

以上の点を踏まえて、研究を行った。実際に行ったことは以下の通りである。

1、中赤外領域のレーザー光源の開発

2、Sr原子の5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移の周波数測定

3、5s4d3D3準位の寿命測定による時計遷移の黒体輻射シフトの評価

4、5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移を用いた磁気光学トラップ(MOT)、及びモラセスの生成

5、Sr光格子時計の安定度向上に向けた高速冷却

1、中赤外領域のレーザー光源の開発

中赤外領域の光は、検出が難しく、水の吸収がある等、扱いが難しいこともあり、この領域のレーザー光源はあまり発達していない。そこで、今回はレーザー光源の作成、安定化から始めた。作成したのは、周波数測定用のレーザー(広範囲(GHz)以上を掃引可能で周波数の再現性のあるレーザー)及び、冷却用のレーザー(掃引能力は低くても良いが、狭線幅(レーザー線幅がkHz以下)のレーザー)である。周波数測定用レーザーは、光パラメトリック共振器(Linos社のOS4000)を使用し、Rb時計に安定化したファイバコムを用いて周波数安定化を行った。 冷却用レーザーは、熱膨張係数の小さいガラス(Ultra Low Expansion (ULE)ガラス)でできた共振器に安定化した狭線幅(レーザー線幅がHz程度)のレーザーを2つ(波長1558 nmと、波長1062 nm)使用し、1558 nmレーザーの倍波と1062 nmレーザーの差周波発生により作成した。

2、Sr原子の5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移の周波数測定

安定化したレーザー光源を使用して、5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移の遷移周波数の測定を行った。これまで、この遷移周波数はせいぜい数100 MHz程度の精度でしか知られていなかったが、今回は、この遷移を用いたレーザー冷却、磁気光学トラップが生成できる程度(この遷移の自然線幅、約50 kHzの数倍程度)まで遷移周波数の測定を行った。

3、5s4d3D3準位の寿命測定による黒体輻射シフトの評価

5s5p3P2状態の原子に2.9 μmレーザーを短時間(30 μs程度)照射した後、5s4d3D3状態の原子数の減衰の様子を測定することで5s4d3D3準位の寿命測定を行った。これにより、Sr原子の時計遷移(5s5s1S0 - 5s5p3P0)の黒体輻射シフトのうちのdynamic Stark shiftの成分の98.2%[M. S. Safronova et al., ArXiv e-prints 1210.7272 (2012)] を評価をすることができた。static Stark shiftの成分の評価は他の研究ですでに行われているため[T. Middelmann et al., ArXiv e-prints 1208. 2848(2012)]、今回の研究によって、時計遷移の黒体輻射シフト全体の見積りを行うことができたと言える。

4、5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移を用いた磁気光学トラップ(MOT)、及びモラセスの生成

5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移を用いて、磁気光学トラップ(MOT)の生成を行った。観測には、5s5p3P2 - 5s5d3D3遷移に対応する496 nmレーザーを照射し、その蛍光をICCDカメラで撮影することで行った。この時、温度は10 μK程度であった。さらに冷却するためには、偏光勾配冷却をうまく働かせる必要がでてきた。そこで、磁場を減らして測定、最終的には、磁場を切った状態、光モラセス状態での冷却を試みた。最終的にはドップラー冷却限界温度に迫る1μK程度まで冷却することができた。しかし、反跳温度は13 nK程度であり、偏光勾配冷却がうまく働いていれば、100 nK程度まで冷却できるはずであった。冷却できない原因としては、衝突シフトや、原子から自然放出された光子の再吸収による加熱などが考えられる。[J. Grunert and A. Hemmerich, Phys. Rev. A. 65 041401 (2002)]

5、Sr光格子時計の安定度向上に向けた高速冷却

冷却時間が短くなれば、時計測定における測定時間が短くなり、さらにディック効果の抑制も働くため、時計の安定度を向上させることができると考えられる。そこで、5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移を用いたレーザー冷却を応用することで、高速にμKオーダーの冷却原子ができるように試みた。

これまで、μKオーダーの原子を生成するために、5s5s1S0 - 5s5p1P1遷移を用いたレーザー冷却、及び5s5s1S0 - 5s5p3P1遷移を用いたレーザー冷却の2段階冷却を用いていた。このとき、2つの遷移の基底状態がともに5s5s1S0状態であるため、1段階目と2段階目の冷却は同時にはできず、交互に行う必要があった。1段階目と2段階目の基底状態を別のものにすることができれば、1段階目の冷却を常に行うことができ、冷却時間が短縮できると考えた。そこで、今回行った冷却方法は以下のとおりである。

(1)5s5s1S0 - 5s5p1P1遷移を用いたレーザー冷却、

トラップ

(ここで冷却された原子の一部が5s4d1D2状態を介して5s5p3P2状態に移行する)

(2)5s5p3P2 - 5s5d3D3遷移を用いたレーザー冷却、

トラップ

(3)5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移を用いたレーザー冷却、

トラップ

(1)が1段階目の冷却であり、これは常に行うことができる。当初はその後、(3)の冷却に移行する予定であったが、(1)の冷却ではmKオーダーまでしか冷却できないこともあり、(3)のレーザーで束縛できる原子数、冷却可能な原子数を増やすことができなかった。そこで、間に(2)の冷却を介し、あらかじめ100 μK程度まで冷却しておくことで、(3)で冷却できる原子数を増やすことに成功した。最終的には、100 ms以内にμKオーダーの冷却原子を生成することに成功した。

本研究により、これまで正確に測定されていなかったSr原子の5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移の遷移周波数、および5s4d3D3状態の寿命を測定することができた。この測定した寿命の値を使用することで、Sr原子の時計遷移(5s2 1S0 - 5s5p3P0)の黒体輻射シフトの内のdynamic Stark shiftの成分を評価することができた。測定した5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移を使用した磁気光学トラップ、モラセスの生成に成功し、μK程度の冷却原子を生成することができた。この遷移を用いたレーザー冷却を使用することで、冷却原子を生成する時間を短縮することができた。これにより、将来的に、時計遷移の周波数測定の安定度向上に繋げることできると考える。

図1 (88)Srのエネルギー図

図2 磁気光学トラップ(MOT)

図3 冷却スキーム

審査要旨 要旨を表示する

1980年代初頭に行われた中性原子のレーザー冷却の実証実験から30年を経て、レーザー冷却手法は光原子物理学の研究に不可欠のツールとなった。当初から予想された通り、レーザー冷却、トラップ技術はレーザー分光精度の劇的な向上をもたらした。この結果、現在では10(-17)の不確かさをもつ原子時計が相次いで開発され、さらなる精度向上に向けた取り組みが世界中で行われている。なかでもストロンチウム原子を用いた光格子時計は、「秒の再定義」を視野に入れる次世代原子時計の有力候補と目されている。本研究では、ストロンチウム原子の5s5p3P2準安定状態に着目し、光格子時計の性能向上に向けた(i)連続冷却スキームの提案、(ii)黒体輻射シフトの動的寄与の測定、を行っている。

光格子時計の運転の1サイクルは、レーザー冷却による極低温原子の生成、時計遷移の分光計測、この結果に基づく時計レーザーの周波数制御からなる。原子時計の安定度の向上のためには、1サイクル中の時計レーザーの周波数計測の不感時間を最小にすること、これには、極低温原子の生成時間を可能な限り短時間に行うことが重要である。(i)では従来の基底状態からの遷移を使ったレーザー冷却と電子状態を共有しないレーザー冷却遷移を用いることで、時間・空間的に共存可能な2段階レーザー冷却を実証した。特に、中赤外遷移(5s5p3P2-5s4d3D3)でレーザー冷却を行うことで、2μKの極低温原子を得ることに成功している。

他方、ストロンチウム光格子時計では5s5p3P0の黒体輻射シフトが不確かさの評価の大部分を占める。近年、PTBグループは、この評価のために5s5p3P0状態のDC分極率を測定している。ところが、室温の黒体輻射スペクトルは、5s5p3P0-5s4d3D1遷移波長(2.6μm)に僅かに重なるために、黒体輻射シフトの高精度評価ではこの遷移に起因する動的補正と呼ばれる項の評価が重要になる。本研究では(i)の連続冷却スキームで得た極低温原子を使って、5s5p3P2-5s4d3D3遷移寿命を決定することで、動的補正に必要な5s5p3P-5s4d3Dの双極子モーメントを決定した。

本論文は以下の10章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、本研究の背景について述べた後、本研究の目的、構成を述べている。

第2章では、本研究の背景であるレーザー冷却の理論について述べている。

第3章では、周波数標準について、特に光格子時計について、仕組みと現在の課題について述べている。

第4章では、本研究で用いたレーザー光源の原理について、特にファイバコムと光パラメトリック共振器(OPO)について述べている。

第5章では、本研究におけるレーザー光源の安定化の方法について述べている。

第6章では、前章で開発したレーザーを用いた88Srの5s5p3P2 - 5s4d3D3の遷移周波数の測定について述べている。観測が困難な中赤外の蛍光を観測する代わりに、中赤外光子の反跳による原子の運動量変化を空間イメージングによって観測することで、中赤外遷移の共鳴励起を観測した。この手法によって、5s5p3P2 - 5s4d3D3遷移周波数を自然線幅程度の不確かさで決定した。

第7章では、5s4d3D3準位の寿命測定について述べている。この結果を用いた、時計遷移の黒体輻射シフトの見積りについて示している。

第8章では、5s5p3P2 - 5s4d3D3の遷移を用いた磁気光学トラップ(MOT)の生成について述べている。この遷移を用いた冷却により、1.4μKの極低温原子を生成した。

第9章では、5s5p3P2 - 5s4d3D3の遷移を用いた高速冷却について述べている。2段階冷却を同時並行して行うことで、100msの冷却時間で2μKの極低温原子の生成に成功した。

第10章では、本研究の成果をまとめ、今後の展望について述べている。

以上のように、本研究ではコマーシャルには入手困難な中赤外の狭線幅レーザーを新規に開発し、ストロンチウム原子の5s5p3P2 - 5s4d3D3の遷移周波数の測定、5s4d3D3状態寿命の測定を行うとともに、電子状態を共有しない二つのレーザー冷却遷移を用いた時間・空間的に共存可能な2段階冷却法を実証した。本研究の成果は、中赤外遷移における超高分解能分光の実現のみならず、ストロンチウム光格子時計の黒体輻射シフトの不確かさの低減、連続運転光格子時計の実装など、光格子時計の性能向上に大きく貢献する技術基盤の構築の観点からも重要な意義があるものと認められる。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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