学位論文要旨



No 129153
著者(漢字) 秋葉,宏樹
著者(英字)
著者(カナ) アキバ,ヒロキ
標題(和) チロシンリン酸化を選択的に検出する希土類錯体の開発
標題(洋)
報告番号 129153
報告番号 甲29153
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第8044号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浜窪,隆雄
 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 教授 岡本,晃充
 東京大学 教授 津本,浩平
 筑波大学 講師 須磨岡,淳
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

タンパク質中のチロシン(Tyr)のリン酸化は、細胞内のシグナル伝達において大変重要な役割を果たしている。そして、タンパク質リン酸化全体のわずか0.05%を占めるものでしかないTyrのリン酸化について、がんなど多くの疾患との関連性が指摘されており、近年では数多くの分子標的薬がこれを制御する酵素をターゲットとしている。

リン酸化Tyr(pTyr)に対しては、今までに様々な検出法が開発されてきた。しかしながら、汎用性という面ではまだ課題が多く、化学的手法による新規の検出法が望まれてきた。より一般的にタンパク質のリン酸化については、Pro-Q Diamond、Phos-tagといった金属錯体ベースの検出・認識分子が開発され、用いられている。しかしながら、どのアミノ酸がリン酸化されているかを区別することのできる化学プローブは未だ開発されていなかった。

そこで我々が着目したのがテルビウムイオン(Tb(III))の発光特性である。Tb(III)は直接励起によって発光を得るのが難しい一方で、近傍に光を吸収しエネルギーを伝える原子団(アンテナ)が存在すると、アンテナからTb(III)にエネルギーが伝えられ、可視光領域に発光が生じる。このメカニズムを利用することとした。すなわち、Tyrがリン酸化されると、負電荷をもつpTyrと正電荷を持つTb(III)とが相互作用する。pTyrはアンテナとなりうるフェノール環を有しているため、紫外光によって励起すると、pTyrが吸収したエネルギーがTb(III)に伝わる。そして、Tb(III)による可視光領域の発光が観測される。このようにして、pTyrに対してはTb(III)発光応答が得られる(Figure 1a)。一方で、リン酸化されていないTyrや他のアミノ酸がリン酸化された場合には、このようなエネルギー伝達メカニズムに基づいた発光応答が起こらない(Figure 1b,c)。そのために、このシステムではpTyrを選択的な発光応答によって検出できる。

本研究ではさらに、Tb(III)に対して配位する配位子を適切に選択することによって、発光応答の選択性をさらに高める試みを行った。ヌクレオチド、とくにGMPはTb(III)に対して配位し強い発光応答をもたらすことが知られている。配位子によってこれを妨げることが、選択性を得る上では大変重要であるためである(Figure 1d)。

2.結果

(1)単核錯体の探索

上記のような配位子として様々なものを試したところ、配位子DOTAMを用いた錯体であるTb-DOTAMがpTyrに対して選択的な応答を示すことが明らかとなった(Figure 2)。この錯体はTb(III)に対して8配位し、かつ錯体全体として正電荷を有しているために、pTyrとの静電的な相互作用を保ちながらも、ヌクレオチドの配位を妨げることで選択的応答を実現する。

Tb-DOTAMと、pTyrのモデル物質であるフェニルリン酸(PhOP)との相互作用について詳細な解析を行ったところ、PhOPはTb-DOTAMに直接配位しておらず、静電相互作用に基づきながら、脱水和を駆動力として水素結合的に相互作用しているということが明らかになった。

(2)複核錯体の探索

Tb-DOTAMとPhOPとの相互作用は、解離定数が3.1 mMと、それほど強いものではなかった。これをより強くするために、複核錯体を数種類合成した。なかでもTb2-L1は、PhOPとの相互作用が29 μMであり、より強力な相互作用を実現した。またTb2-L1は、Tb-DOTAMと同様にpTyrに対して選択性の高い応答を示した(Figure 3)。さらに、相互作用についての解析からは、Tb-DOTAM同様にPhOPの直接配位ではないことが示唆された。

強い結合が実現されたので、発光特性についての詳細な解析を行った。その結果、発光量子収率は0.004程度と非常に低いことが明らかとなった。これはPhOPからTb(III)へのエネルギー伝達効率が0.3%以下でしかないことに起因する。また、このエネルギー伝達効率より、Tb(III)-PhOP間距離を求めたところ、PhOPがTb(III)に対して、水1分子を介した水素結合によって相互作用していることが示唆された(Figure 4)。

(3)酵素反応の可視化

Tb2-L1を用いたpTyr検出では、溶液中で、pTyrの存在量を発光という指標によって定量することが可能である。したがって、酵素的なリン酸化・脱リン酸化反応をリアルタイムに可視化することが可能である(Figure 5)。

本研究では実際に、Src、Fyn、EGFRという3つのチロシンキナーゼ(リン酸化酵素)ならびにチロシンフォスファターゼ(脱リン酸化酵素)のPTP1Bの反応を可視化することができた(Figure 6)。さらに、医薬品としても使われる、これらの酵素に対する阻害剤の効果を定量することにも成功した(Figure 7)。

3.結論

本研究では、チロシンリン酸化を発光という指標によって選択的に検出するために、適切なTb(III)錯体の探索と、その評価を行った。単核錯体Tb-DOTAMは選択的な応答を示し、複核錯体はより高い応答を示し、酵素反応の可視化にも成功した。このように、Tyrリン酸化にかかわる様々な現象について、発光という指標によって可視化することができる本手法は、さまざまな将来展開が期待されるということを明確に示したのが本研究の意義である。

Figure 1. この系のモデル図。a) pTyrがTb(III)錯体と相互作用すると、エネルギー伝達でTb(III)は発光するが、b) リン酸化されていないTyrではTb(III)錯体と相互作用しないために、c) 他のアミノ酸のリン酸化ではアンテナがないために、発光応答は生じない。また、d) 適切な配位子を用いることで、ヌクレオチドに対する発光応答を防ぐことができる。

Tb-DOTAM

Figure 2. Tb-DOTAMに対して、PhOP、フェノール(リン酸化されていないTyrのモデル)、GMPを加えた時の発光応答。PhOPに対してのみ、強い発光が観測される。

Tb2-L1

Figure 3. Tb-DOTAM、Tb2-L1に対して様々な物質を加えた時の発光応答。PhOP、pTyr以外のアミノ酸やヌクレオチドなど、他の分子では全く応答がない。

Figure 4. Tb-DOTAMとPhOPの相互作用モデル。

Figure 5. Tb2-L1を用いて酵素反応を発光によって可視化する。

Figure 6. Tb2-L1によって、Srcによるリン酸化→PTP1Bによる脱リン酸化をリアルタイムに可視化することができた。

Figure 7. 4つの化合物の、Srcに対する阻害効果を、発光強度の上昇を指標として定量することに成功した。Das: dasatinib; Gef: gefitinib; Im: imatinib; St: staurosporine。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、希土類錯体を用いたチロシンリン酸化の新規検出法の開発を行ったものであり、錯体構造、認識特性、生体分子系の検出についての検討と評価を行うことを通して、検出法の特徴・有用性について明らかにしている。論文は序論、結果と議論、総括の3部構成である。

序論は第1章でチロシンリン酸化の選択的検出の意義と手法論、第2章で希土類錯体の発光特性についての背景説明を行い、併せて本研究の目的と手法について論じている。

タンパク質のチロシンリン酸化は細胞内シグナル伝達経路において大きな役割を果たし、その異常はがん等の疾患の原因といわれている。このため、リン酸化チロシン(pTyr)を検出することは分子生物学研究において大変重要である。さらに、チロシンリン酸化酵素(プロテインチロシンキナーゼ:PTK)や脱リン酸化酵素(プロテインチロシンフォスファターゼ:PTP)の働きを制御する化合物が抗がん剤等の医薬品として広く活用されつつあり、これらを効果的に選択する手法においてもpTyrの検出は必要不可欠である。既に様々なリン酸化検出法が提案されているものの、pTyr選択的な検出を汎用的に行う手法には限りがあった。そこで本研究では、テルビウム(Tb(III))錯体をプローブとして用いた手法を新たに採用することを提案している。

Tb(III)など希土類の錯体は、近傍に光エネルギーを吸収し伝える原子団が位置していると、可視光領域に強い発光を示す。本研究においては、pTyrのベンゼン環がこの役割を果たすことを利用してpTyr検出系が構築された。この検出系では、リン酸化に伴いpTyrがTb(III)錯体と相互作用することで、このエネルギー伝達が可能となり、強い発光が観測される。これがリン酸化されていないTyrや、他のアミノ酸におけるリン酸化では働かないために、pTyrが選択的に検出される。さらに、適切な構造をもつ配位子によりヌクレオチド等の発光応答を示しうる夾雑分子の影響を抑えることが求められた。したがって、本研究ではまず選択的応答に効果的な錯体構造が探索され、そののちに物理化学的評価ならびに生体物質を用いた検出系へ展開された。

第3章から第5章では実験の結果ならびにその議論が論述される。

第3章においては、まず適切な構造をもつTb(III)単核錯体の構造が探求された。その結果、配位座の多い配位子を用いた安定な錯体を用いることが選択的な応答には必須であった。この中で、Tb-DOTAMがpTyrに対して効果的な応答を示すことが明らかとなった。この錯体は他のリン酸化アミノ酸やヌクレオチドには発光応答を示さない一方で、pTyrを加えると発光強度が大幅に上昇する。そして、ペプチドのリン酸化の有無がTb(III)の可視光発光によって、目視でも確認できた。また、Tb-DOTAMとpTyrとの相互作用について、リン酸基のTb(III)に対する直接配位は確認されず、静電相互作用・水素結合によるものであることが明らかになった。発光滴定から求められる解離定数は3.1 mMと、さほど強い相互作用ではなく、高感度の検出を行うためにはこれを向上させることが望まれた。

第4章では、pTyrとの相互作用の強いTb(III)錯体を求めて、複核錯体の探索と、その詳細評価が行われた。Tb-DOTAMを2つ連結させた構造を有するTb2-L1は、pTyrとの解離定数が29 μMと、2桁強い相互作用であった。このために、pTyrに対する応答はTb-DOTAMの7倍程度大きく、より高い感度の検出が実現された。Tb-DOTAMを用いた場合と同様の選択性は保たれており、選択的検出プローブとしてより優れていると述べている。さらにTb2-L1とpTyrとの相互作用において、等温滴定型熱量測定、エネルギー伝達効率の計算からは、2つのTb(III)がpTyrのリン酸基に対して協同的に作用することが示唆され、Tb2-L1の構造の妥当性が示された。一方で発光の量子収率はさほど高くない、ペプチドのリン酸化への応答が配列依存的であるといった、本検出法の限界についても明らかにしている。

第5章ではまず、PTK、PTPによる酵素的リン酸化、脱リン酸化反応のリアルタイム可視化とこれを利用した阻害剤の評価が行われた。Tb2-L1と基質ペプチド、ATP、Mn2+を加えるのみで、発光強度という指標によって両酵素の反応が可視化された。さらにこれらの酵素に対する阻害剤の働きについても、同手法を利用して定量的に表現され、手法応用の一つの有用な展開が示された。また、pTyrを認識するタンパク質の働きを可視化する実験も行われた。Tb2-L1共存下、チロシンリン酸化ペプチドに対して、pTyrを認識するSrc SH2を作用させると、発光強度が有意に低下した。発光強度の低下を指標として、pTyr認識タンパク質の認識現象を可視化することができた。しかしながら、タンパク質をターゲットとして用いた場合には、表面負電荷の影響によってTb2-L1が非特異的に吸着することも判明し、タンパク質を対象に検出を行うことの限界も示されている。

第6章で研究の総括を行っている。本研究は、探索したTb(III)錯体を用いたpTyrの選択的検出、これを用いた酵素活性や認識タンパク質の働きの可視化を行ったものである。その中で、その認識メカニズムについても様々な分析化学的手法を用いて検討が行われた。このようなことから、本研究は新規な分子検出系の開発の端緒に位置づけられるものである。

よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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