学位論文要旨



No 129159
著者(漢字) 田渕,理史
著者(英字)
著者(カナ) タブチ,マサシ
標題(和) カイコガの嗅覚系機能ネットワークに関する光遺伝学及び神経生理学的研究
標題(洋)
報告番号 129159
報告番号 甲29159
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第8050号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神崎,亮平
 東京大学 教授 浜窪,隆雄
 東京大学 准教授 渡邊,克巳
 東京大学 講師 高橋,宏知
 筑波大学 准教授 中谷,敬
内容要旨 要旨を表示する

遺伝子工学と電気生理学の技術をモデル生物であるカイコガの嗅覚系に適用し,生物の適応的行動生成について解析した研究である.嗅覚センサタンパク質が発現している末梢神経に光センサタンパク質を遺伝子工学的に導入し,光刺激によって嗅覚系の神経活動を制御する実験系を構築した.本実験系をカイコガ嗅覚系一次中枢神経ネットワークの時間積分特性と行動出力の関係性解明に適用し,シナプスが時間的に同時ではない入力を一定の時間窓で積分することで,入力に対する高感度な検出力を獲得し,離散的な入力からでもロバストな行動出力を生成する機構を明らかにした.また,これらのシナプスの時間積分特性にはGABA受容体阻害剤に感受性のある抑制性介在神経が関連していることを明らかにした. 本論文は,これまでの嗅覚系研究の方法論そのものを革新すると共に,神経ネットワークが入力の時間的要素を利用し知覚を形成する脳機能の解明など神経科学全般の研究領域に多大の貢献をもたらした.

本論文は7つの章で構成される.以下,各章の内容について言及する.

本論文において第1章は序論としての位置づけを持ち,本研究で焦点を当てて取り組んだ脳・神経生物学分野について背景的な知識と研究課題について述べた.遺伝子から行動に至るまでの生物の脳がもつ階層性について記述し,研究課題として,現代の脳科学ではこのような階層性にもかかわらず,知識の創出が二極化され,階層性をリンクさせることが困難な状態であることについて問題提起した.問題解決のために哺乳類ではなく昆虫を研究対象にすること,特に,カイコガ嗅覚系が,脳科学のモデルとしてどれほど有効であるかについて議論した.

本論文において第2章は本研究で検証した作業仮説を展開する項目としての位置づけを持ち,本研究において検証すべき作業仮説について述べた.また,そのような作業仮説を検証するために構築する必要がある実験系について述べた.

本論文において第3章は研究に用いた材料と方法の情報を提供する項目としての位置づけを持ち,それらが,本研究における作業仮説の検証のための手法としてどのような有能性があるか,先行研究と比較しどのような新規性があるかついて焦点を当てて,議論した.特に,本研究では,カイコガ嗅覚系に対して光遺伝学的手法とホールセルパッチクランプを適用する手法を開発したが,それらを導入する必要性と導入により得られることが期待される知見について述べた.

本論文において第4章は光遺伝学手手法を用いた研究の実験結果について述べる項目としての位置づけを持ち,光遺伝学の技術を用いることで,以下の目的・方法・結果・考察・結論の項目を展開した.

(1)目的

カイコガの嗅覚系機能ネットワークが,どのような時間スケールで匂いの情報を処理しているのか,末梢神経の入力が脳内ネットワークでどのような時間窓で積分されているかについて解明する.

(2)方法

カイコガの触角の嗅受容神経の活動を高時間分解能で制御するために,カイコガの触角の嗅受容神経特異的に光感受性イオンチャネルであるチャネルロドプシン-2を導入して行動反応率と神経活動の時間積分特性における相関性を調べた.

(3)結果

行動反応率と神経活動の時間積分特性において明確な相関性があることを明らかにした.また,神経回路の時間積分特性は,入力強度依存的にダイナミックに変化し,この変化に神経回路中に存在する抑制性介在神経が関与していることを明らかにした.

(4)考察

神経回路が時間的に同時ではない入力を一定の時間窓で積分することで,入力に対する高感度な検出力を獲得し,離散的な入力からでもロバストな行動出力を生成することを考察した.このような神経回路の時間積分が,カイコガのフェロモン源探索行動において有効であることを議論した.

(5)結論

本研究により,光遺伝学的手法を適用しカイコガの触角の嗅受容神経の活動を高時間分解能で制御することで,嗅覚刺激の時間的制御の困難性を解決し,神経回路における時間積分特性が空気中の匂い分子の時間的特性と合致し,離散的な嗅覚入力からでも超高感度にフェロモン源探索行動を生成することができるカイコガ嗅覚系の重要な機構であることを示した.

本論文において第5章はホールセルパッチクランプ法を用いた研究の実験結果について述べる項目としての位置づけを持ち,ホールセルパッチクランプの技術を適用することで,以下の目的・方法・結果・考察・結論の項目を展開した.

(1)目的

第4章で神経回路の時間積分特性の変化に関与することが示唆された抑制性介在神経の生物物理学的特性を,ホールセルパッチクランプ法の適用によって詳細に解析する.

(2)方法

ホールセルパッチクランプ法の適用によって抑制性介在神経の膜電位,膜電流,機能的シナプス接続性について調査した.

(3)結果

抑制性介在神経には,活動電位を発生するスパイキングタイプと,活動電位を発生させないノンスパイキングタイプという2種類の機能的に異なる神経生理学的特性をもつ細胞が存在していることが分かった.

(4)考察

スパイキング抑制性介在神経とノンスパイキング抑制性介在神経が異なる様式で神経回路の時間積分特性の変化に関与している可能性について考察した.

(5)結論

先行研究において,カイコガ嗅覚系の抑制性介在神経は形態学的な知見しか存在せず,その神経生理学的な知見は不明であった.本研究により,ホールセルパッチクランプ法を適用することで,これまで不明であった神経生理学的な知見について明らかにした.

本論文において第6章は本研究全体の考察を展開する項目としての位置づけを持ち, 本研究の全体をまとめた考察として,「カイコガの嗅覚系機能ネットワーク」の生物学的意義について考察した.また,本研究において構築した光遺伝学的手法とホールセルパッチクランプ法に基づく実験系と,得られた知見に対する妥当性を考察した.本研究で構築した実験系を用いることで,そして本研究で明らかにした生物学的な知見を踏まえることで,今後,どのような研究の展開が可能となってくるかについての可能性を述べた.

本論文において第7章は本研究を締めくくる結論を展開する項目としての位置づけを持つ.本論文は,カイコガ嗅覚系において光遺伝学的手法とホールセルパッチクランプ法を適用し,それを用いてカイコガの嗅覚系機能ネットワークの神経活動の制御と計測を行い,嗅覚入力によって末梢神経の興奮が引き起こされてから,それが最終的に行動出力を引き起こすまでの機能的経路についての解明と生物学的意義について考察した.また,本論文の実験結果は,カイコガ嗅覚系を研究対象として用いることが,神経科学研究において有用であることを体現しているものであるとして本論文を結論づけた.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,嗅覚により発現する生物の環境適応行動の背景にある脳機能を調べるため,モデル生物であるカイコガ(Bombyx mori)を対象に,嗅覚系の神経活動を光刺激によって制御する新しい実験系を遺伝子工学により構築し,この実験系を用いることで,ある時間間隔をもった連続した嗅覚入力に対して,嗅覚系一次中枢(触角葉)の神経ネットワークが,積分特性を持つことを電気生理学的に明らかにした.神経ネットワークがもつこの時間積分特性により嗅覚感度が増幅され,効率的な嗅覚行動が発現することを提案した研究であり,7章より構成される.

第1章は「序論」であって,研究の背景,目的,論文の構成が述べられている.

第2章は「本研究で検証した作業仮説」が述べられている.

カイコガの嗅覚系がもつ匂い(性フェロモン)に対する高感度検出において,一次中枢 (触角葉)の神経ネットワークにおける嗅覚入力に対する時間積分特性が重要な役割を果たす可能性のあることを示し,3章以下で検証すべき作業仮説を述べている.

第3章は,「研究手法の開発」であり,第2章の作業仮説を実験により検証するための新しい研究手法の開発について述べられている.時間積分特性の解明には,従来の刺激装置を用いた匂い刺激では時間分解能が不十分である.そこで,嗅覚入力を時間的に厳密に制御可能な光遺伝学的手法を嗅覚系に導入することを提案している.

第4章は「カイコガの嗅覚系機能ネットワークの時間積分機構」として,光遺伝学的手法の適用を目指した遺伝子組換え体の作出に関する実験,光遺伝学的手法による神経活動制御の評価,触角葉投射神経における時間積分特性に関する実験を行っている.これら一連の実験により,行動反応率と神経活動の時間積分特性において明確な相関性があることを明らかにした.また,神経ネットワークの時間積分特性は,入力強度依存的にダイナミックに変化し,この変化に神経ネットワークを構成する抑制性介在神経が関与することを明らかにした.これらの結果から神経ネットワークが時間的に同時ではない入力を一定の時間窓で積分することで,入力に対する高感度な検出能力を獲得し,離散的な入力からでもロバストな行動出力を生成できることを考察している.また,このような神経回路の時間積分が,カイコガのフェロモン源探索行動において有効に機能することを考察している.

第5章は「カイコガ嗅覚系機能ネットワークの細胞タイプ同定」として,第4章で神経ネットワークの時間積分特性の変化に抑制性介在神経が関与することが示唆されたことから,その生物物理学的特性をホールセルパッチクランプ法によって詳細に解析している.本手法により,膜電位,膜電流,機能的シナプス接続性について調査した結果,抑制性介在神経には,活動電位を発生するスパイキングタイプと,活動電位を発生させないノンスパイキングタイプの機能的に異なる2種類が存在することを示した.これらの抑制性介在神経が異なる様式で神経ネットワークの時間積分特性の変化に関与している可能性について議論している.

また,先行研究では,カイコガ嗅覚系の抑制性介在神経は形態学的な知見しかなく,その神経生理学的な知見は不明であったが,本研究により神経生理学的な知見についても明らかにされたといえる.

第6章は「考察」であって,本研究全体の結果をまとめたうえで,「カイコガの嗅覚系機能ネットワーク」の時間積分特性が生む嗅覚感度増幅の生物学的意義について,その適応的意義も踏まえ,深く考察している.また,本研究においてはじめて構築した光遺伝学的手法およびホールセルパッチクランプ法に基づく実験系を用いることで,今後どのような研究の展開が可能となるかを検討している.

第7章は「結論」であって,得られた成果を総括するとともに,将来展望について述べている.本研究で開発したカイコガ嗅覚系における光遺伝学的手法とホールセルパッチクランプ法の適用において,はじめてカイコガの嗅覚系機能ネットワークがもつ時間積分特性の解明が可能であったことを結論している.さらに,モデル生物であるカイコガ嗅覚系を研究対象として用いることが,神経科学研究において有用であることも結論づけている.

以上のように,本論文はこれまでの嗅覚系研究の課題であった刺激方法を,光遺伝学を適切に導入することにより解決し,嗅覚研究の方法論そのものを革新すると共に,本手法を利用することで,嗅覚系の神経ネットワークが連続する嗅覚入力の時間的要素を活用し,感度増強をおこなうことを神経細胞レベルから明らかにした.本論文は,嗅覚系研究をはじめ広く神経科学全般の研究領域に多大の貢献をもたらした,真に学際的な研究成果と判断される.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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