学位論文要旨



No 129178
著者(漢字) 永嶌,鮎美
著者(英字)
著者(カナ) ナガシマ,アユミ
標題(和) 植物における揮発性化合物の受容機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 129178
報告番号 甲29178
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3883号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 東原,和成
 東京大学 教授 篠崎,和子
 東京大学 教授 浅見,忠男
 東京大学 教授 渡邉,秀典
 東京大学 准教授 舘川,宏之
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

生物は様々な刺激を通じて外界の環境を認識し、環境に対して適切な応答をする。それらの刺激の中でも、化学物質は最も多様性に富んでおり、様々な情報を有する。

動物が感知する外界の化学物質のうち、匂い物質と呼ばれるものは、一般的に分子量約300以下の揮発性有機化合物である。鼻腔内に入ってきた匂い物質は嗅粘液に溶け込み、嗅覚受容体に結合する。近年筆者らは、マウス嗅粘液中で起こる匂い物質変換反応が、匂い知覚に影響を与えるという新しい知見を得ている (Nagashima and Touhara, 2010)。そして、動物は嗅覚によって、食物や天敵、配偶者などの情報を受容し、適切な応答をする。

植物もまた、揮発性有機化合物を受容し、その情報に応答していると考えられるようになってきた。なぜなら、病害や食害を受けた植物から放出される揮発性化合物に曝された植物は、被害に備えて抵抗性を上昇させるということが明らかになったためである(図1)。しかし、植物は動物のような嗅覚受容体や嗅神経系を持たないため、植物が外界の揮発性化合物をどのように受容しているのかは、未だ不明である。

当研究室の前任者は、植物における揮発性化合物の受容機構を解明するためには、再現性の高い実験系が必要であると考え、タバコ培養細胞BY-2を用いたin vitroの実験系を確立した。これを用いて、テルペンの一種である(E)-β-caryophylleneが、NtOsmotinの発現を誘導することが見出された(図2)。

本研究では、「タバコの細胞における(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotinの発現誘導」を、植物の揮発性化合物に対する応答のモデルとし、タバコにおける (E)-β-caryophylleneの受容に関わる分子機構の解明を目指した。

【結果】

1. (E)-β-caryophylleneによるNtOsmotin遺伝子発現誘導の検討

実験材料として、播種後4週間栽培したタバコ(Nicotiana tabacum L. cv. Samsun-NN)を用いて、以下の実験を行った。

(1) タバコ個体での検証

タバコ培養細胞BY-2で見出された、(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotinの発現誘導が、タバコ個体においても起こるか検討した。まず、タバコ個体においてNtOsmotinの発現量に概日リズムがあるか検証した。その結果、NtOsmotinの発現量は明期開始とともに上昇し、暗期開始前にベースラインに戻ることが明らかになった。次に、明期開始時に(E)-β-caryophyllene曝露を開始した場合と、暗期開始時に(E)-β-caryophyllene曝露を開始した場合のそれぞれにおいて、NtOsmotin発現量の経時変化を調べた。いずれの曝露条件でも、 (E)-β-caryophyllene曝露によってNtOsmotinの発現量は上昇した。暗期においては、概日リズムによる内在的なNtOsmotin発現誘導が起こらないため、NtOsmotin発現量の個体差が小さい傾向にあった。そこで、以降の実験では暗期に (E)-β-caryophyllene曝露を行うこととした。また、暗期において (E)-β-caryophyllene曝露開始から6時間でNtOsmotinの発現量が上昇し、8時間で飽和に達した。以上の結果から、タバコ培養細胞BY-2だけでなく、タバコ個体においても(E)-β-caryophyllene によるNtOsmotin遺伝子の発現誘導が起こることが示唆された。

(2) NtOsmotin発現が誘導される部位の検討

タバコ個体で(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotin発現が起きている部位を検討するため、以下の実験を行った。地上部への(E)-β-caryophyllene曝露により、タバコの葉、茎、根それぞれにおいてNtOsmotin発現量が変動するか検証した。その結果、(E)-β-caryophyllene曝露によるNtOsmotin発現量の上昇は、葉で最も顕著であることが示された。また、直接(E)-β-caryophylleneに曝されていないにも関わらず、根でもNtOsmotin発現量が上昇する傾向が示唆された。次に、Osmotin promoter :: GUS配列を組み込んだタバコ個体を用いてレポーター遺伝子アッセイを行った。しかし、対照群と(E)-β-caryophyllene曝露群のGUS活性を比較しても、明確な差異は観察できなかった。一方、1 mMの (E)-β-caryophyllene溶液にタバコの葉を浸した場合には、葉の辺縁部でGUSの活性が観察された。以上の結果から、(E)-β-caryophylleneの受容は主に葉で行われること、NtOsmotin発現誘導は葉全体で一様に起こるわけではないことが示唆された。

(3) NtOsmotin発現誘導における(E)-β-caryophyllene濃度依存性の検討

タバコ栽培容器内に入れる(E)-β-caryophylleneの量を変えて、NtOsmotin発現量を上昇させる(E)-β-caryophylleneの実効濃度を検討した。その結果、容器内に36 mgの(E)-β-caryophylleneを入れた場合はNtOsmotin発現量の上昇が観察されたが、3.6 mgの(E)-β-caryophylleneを入れた場合はNtOsmotin発現量の顕著な変化は観察されなかった。なお、曝露時間終了時点での、栽培容器のヘッドスペースにおける(E)-β-caryophyllene濃度は、36 mgの(E)-β-caryophylleneを入れた場合は220 μg/l、3.6 mgの(E)-β-caryophylleneを入れた場合は57 μg/lであった。また、タバコ培養細胞BY-2を用いた実験系でも、300 μMの(E)-β-caryophylleneではNtOsmotin発現量の上昇が観察されたが、100 μMの(E)-β-caryophylleneではNtOsmotin発現量の変化は観察されなかった。これらの結果から、タバコ培養細胞BY-2およびタバコ個体のいずれにおいても、(E)-β-caryophyllene応答の用量作用曲線は、シグモイド型とはならないことが示唆された。

(4) (E)-β-caryophyllene応答に関わるシグナル伝達経路の検討

(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotinの発現誘導が、ジャスモン酸経路やサリチル酸経路を介するのか、もしくはこれらの経路に非依存的な経路を介するのかを検証した。 NtOsmotin、Lipoxygenase(NtLOX;ジャスモン酸経路のマーカー遺伝子)およびAcidic class III chitinase(NtACIII;サリチル酸経路のマーカー遺伝子)の発現量を比較したところ、(E)-β-caryophyllene によるこれらの遺伝子の発現誘導パターンは、ジャスモン酸メチルによるNtOsmotin、NtLOXおよびNtACIIIの発現誘導パターンとは異なっていた(図3)。また、サリチル酸メチルによるこれらの遺伝子の発現誘導パターンとも異なった(図3)。したがって、(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotinの発現誘導は、ジャスモン酸経路やサリチル酸経路を介した情報伝達だけで起こるわけではないことが示唆された。

また、(E)-β-caryophyllene によるNtOsmotin、NtLOXおよびNtACIIIの発現誘導パターンと、他の揮発性化合物によるこれらの遺伝子の発現誘導パターンを比較した。その結果、揮発性化合物ごとに発現誘導パターンは異なっていた。これらの結果から、揮発性化合物の種類によって特異的な受容因子が存在し、それぞれ異なる情報伝達経路が活性化されていることが示唆された。

また、今回実験に用いた揮発性化合物に関しては、NtOsmotin、NtLOX およびNtACIIIの発現誘導パターンは、タバコ培養細胞BY-2における結果と概ね一致したため、タバコ培養細胞BY-2とタバコ個体で同様の現象を見ていることが示唆される。

(5) (E)-β-caryophyllene応答の種特異性の検討

(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotin発現誘導という現象が、タバコ以外の植物でも起こるのか検証するため、シロイヌナズナを用いて検討した。その結果、シロイヌナズナにおいては、 (E)-β-caryophylleneによるOsmotin遺伝子の発現誘導は起こらないことが示された。この結果から、タバコにおいて(E)-β-caryophylleneを受容する因子は、少なくともシロイヌナズナにおいては保存されていないことが示唆された。

2. (E)-β-caryophylleneによる細胞内カルシウムイオン濃度変化の検証

カルシウムイオンは動植物に共通するシグナル伝達因子である。当研究室の前任者は、カルシウムイオノフォアでタバコ培養細胞BY-2を前処理し、細胞質のカルシウムイオン濃度を上昇させると、(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotin発現誘導が抑制されるという結果を得ている。本研究では、 (E)-β-caryophyllene応答に伴い、細胞内カルシウムイオン濃度が変動するか検証することを目的として、カルシウムイメージング法の確立を試みた。

まず、カルシウムイオン感受性蛍光色素を取り込ませたタバコの葉を用いて、カルシウムイメージングを試みた。(E)-β-caryophyllene応答測定に先立ち、細胞内カルシウムイオン濃度の変化が検出可能か確認するための実験を行った。カルシウムイオノフォア溶液を、蛍光色素を取り込ませた葉の表面に投与した。しかし、葉に取り込ませた蛍光色素が液胞に局在することが多く、細胞質由来のシグナルを抽出することが困難であった。また、応答の再現性も低いため、この方法は不適切であると判断した。

細胞内カルシウムイオン濃度変化をリアルタイムで計測するツールとして、蛍光色素よりも細胞毒性の低い、カルシウムイオン感受性蛍光タンパク質が次々と開発されている。その1つであるGCaMP2を発現するトランスジェニックタバコを作出し、細胞内カルシウムイオン濃度の変化を、GFP蛍光強度の変化として検出することを試みた。GCaMP2発現タバコ個体において、GCaMP2の蛍光が細胞質および核に局在することを確認した。しかし、カルシウムイオノフォア溶液を、GCaMP2発現タバコの葉の表面や根の表面に投与しても、蛍光強度の変化を明確に観察することはできなかった。また、植物ホルモンであるアブシシン酸溶液を葉の表面に投与しても、孔辺細胞における蛍光強度の変化を観察することはできなかった。したがって、現在までにGCaMP2発現タバコを用いたカルシウムイメージング系を確立することはできていない。

【結論】

タバコ個体において、(E)-β-caryophylleneによりNtOsmotin遺伝子の発現が誘導されることを示した。さらに、(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotin発現誘導に至る情報伝達経路は、ジャスモン酸経路およびサリチル酸経路だけでは説明できないことが示唆された。

植物の揮発性化合物受容に関しては、長年真偽が問われ続けてきた。しかし今回、タバコ培養細胞とタバコ個体の両方で揮発性化合物に対する応答が同様に見られたこと、および (E)-β-caryophylleneによるNtOsmotin発現誘導を多角的に検証したことにより、植物において揮発性化合物を受容する機構が確かに存在することが明らかとなった。

【展望】

(E)-β-caryophylleneを特異的に認識する因子を同定し、その因子が実際にNtOsmotin発現誘導に関与することを示す必要がある。具体的には、(E)-β-caryophylleneに結合する因子や、(E)-β-caryophyllene存在下においてNtOsmotinの転写調節に関わる因子の探索を行う。実験に先立ち、(E)-β-caryophylleneを固定化したビーズの作製を目的として、(E)-β-caryophyllene誘導体の合成を行った。これを用いて、(E)-β-caryophylleneを特異的に認識する因子を同定できたならば、その過剰発現個体もしくは発現抑制個体において、(E)-β-caryophyllene受容能が変化するか検討する予定である。

また、(E)-β-caryophylleneによる細胞内カルシウムイオン濃度変化の検証に関しては、カルシウムイオン感受性発光タンパク質であるaequorinを導入した植物を用いて、カルシウムイオン濃度の上昇を、発光強度の上昇として検出することで可能となると考えられる。

植物の揮発性化合物受容に関しては、嗅覚受容体のような受容体が存在するのか、細胞膜への揮発性化合物の陥入が必要であるだけで受容体は存在しないのか、あるいは揮発性化合物が細胞内に入り、直接遺伝子発現を制御するのかわかっていなかった。本研究によって、揮発性化合物の受容機構が明らかになることが期待される。

【発表論文】

Ayumi Nagashima and Kazushige Touhara (2010), Enzymatic Conversion of Odorants in Nasal Mucus Affects Olfactory Glomerular Activation Patterns and Odor Perception, The Journal of Neuroscience, 30, 16391-16398

図1 植物における揮発性化合物を介した情報伝達

図2 タバコ培養細胞BY-2における応答

図3 タバコ個体における応答

審査要旨 要旨を表示する

生物は様々な刺激を通じて外界の環境を認識し、環境に対して適切な応答をする。それらの刺激の中でも、化学物質は最も多様性に富んでおり、様々な情報を有する。動物が感知する外界の化学物質のうち、匂い物質と呼ばれるものは、一般的に分子量約300以下の揮発性有機化合物である。植物もまた、揮発性有機化合物を受容し、その情報に応答していると考えられるようになってきた。例えば、病害や食害を受けた植物から放出される揮発性化合物に曝された植物は、被害に備えて抵抗性を上昇させる。しかし、植物は動物のような嗅覚受容体や嗅神経系を持たないため、植物が外界の揮発性化合物をどのように受容しているのかは、未だ不明である。

本研究では、植物が匂いなど揮発性化合物を感知する分子機構を解明することを目的とした。具体的には、「タバコの細胞における(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotinの発現誘導」を、植物の揮発性化合物に対する応答のモデル系とし、タバコにおける (E)-β-caryophylleneの受容に関わる分子機構の解明を目指した。

第一章では、哺乳類において、揮発性有機化合物が嗅上皮で感知されるとき、嗅粘液内に分泌される酵素によって酵素反応をうけ、その結果、匂い知覚に影響がでるという実験結果を示している。鼻と嗅覚神経系をもたない植物における揮発性化合物の受容機構を考えるうえで、有用な示唆的な知見である。

第二章では、植物個体における揮発性有機化合物による遺伝子発現誘導の検討をおこなった。以前に、タバコ培養細胞BY-2において、テルペンの一種である(E)-β-caryophylleneが、NtOsmotinの発現を誘導することが見出されているので、タバコ植物体において、(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotin発現が見出されるか調べた。その結果、明期、暗期ともに、(E)-β-caryophyllene曝露開始から6時間でNtOsmotinの発現量が上昇し、8時間で飽和に達した。上昇は、葉で最も顕著に見られたが、根でも上昇傾向が見られた。Osmotin promoter :: GUS配列を組み込んだタバコ個体でレポーター遺伝子アッセイをおこなったところ、葉の辺縁部で最も顕著な反応が見られた。また、NtOsmotin発現量を上昇させる(E)-β-caryophylleneの実効濃度を明らかにした。様々なマーカー遺伝子に着目したところ、(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotinの発現誘導は、ジャスモン酸経路やサリチル酸経路を介した情報伝達だけで起こるわけではないことが示唆された。構造活性相関を調べたところ、α-caryophylleneには発現誘導活性が見られたものの、caryophyllene oxideには活性がなかった。シロイヌナズナにおいては、 (E)-β-caryophylleneによるOsmotin遺伝子の発現誘導は起こらないことが示された。これらの結果は、タバコで(E)-β-caryophylleneを特異的に認識する受容因子が存在していることを示唆している。

第三章では、(E)-β-caryophylleneによるNtOsmotinの発現誘導の情報伝達経路を明らかにする一歩として、細胞内カルシウムイオン濃度の変動に着目した。具体的には、(E)-β-caryophyllene応答に伴い、細胞内カルシウムイオン濃度が変動するか検証することを目的として、カルシウムイメージング法の確立を試みた。カルシウムイオン感受性蛍光色素、カルシウムイオン感受性蛍光タンパク質GCaMP2を用いたカルシウムイメージング系の確立を試みた。

第四章では、(E)-β-caryophylleneを特異的に認識する因子を同定するために、 (E)-β-caryophyllene誘導体の合成をおこない、(E)-β-caryophylleneを固定化したビーズを作製することに成功した。

以上、植物が揮発性化合物を受容できるかどうかに関しては、長年真偽が問われ続けてきたが、本研究は、植物において揮発性化合物を受容する機構が確かに存在することを、植物培養細胞および植物個体で明確に示したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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