学位論文要旨



No 129203
著者(漢字) 佐野,雅美
著者(英字)
著者(カナ) サノ,マサヨシ
標題(和) 相模湾における中層性カイアシ類の摂餌生態
標題(洋)
報告番号 129203
報告番号 甲29203
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3908号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西田,周平
 東京大学 教授 津田,敦
 東京大学 教授 永田,俊
 東京大学 准教授 高橋,一生
 広島大学 教授 大塚,攻
内容要旨 要旨を表示する

浮遊性カイアシ類をはじめとする海洋動物プランクトンの種数は、全球的には陸棲昆虫や底生生物に較べ必ずしも高くはないが、局地的には多くの海域で極めて高いことが知られており、この多種共存機構の解明は動物プランクトン生態学の中心課題の1つである。なかでも海洋中層は多くの動物群で種数が最大となる興味深い領域である。しかし、海洋中層における多様性の創出・維持機構については、摂餌生態の特殊化や同所的に出現する種間での資源分割が示唆されている一方、多くの中層種は雑食性または肉食性に大別されているのみで、個々の種の摂餌生態に関する詳細な知見は極めて乏しいのが現状である。

一方、鉛直的な炭素輸送における動物プランクトンの役割は生物地球化学的過程における主要な課題の1つである。動物プランクトン群集で大きな生物量を占める浮遊性カイアシ類による沈降フラックス消費の見積りにおいては、中層性の雑食種による選択的なマリンスノーの利用は想定されていない。しかし近年では数種の間での餌料の構成の違いが示唆されており、雑食性とされてきた種の食性に関する知見の充実が望まれる。

そこで本研究では、多様な中層カイアシ類相が知られ、アクセスも容易な相模湾を対象海域とし、多角的な食性解析により中層性カイアシ類の摂餌生態に関する知見を拡充するとともに、食物網におけるマリンスノーの重要性について検討した。また、これらをもとに浮遊性カイアシ類の共存機構について考察した。

春季ブルーム時における中層性カイアシ類の食性

季節変動の解析に先立ち、まず餌料が豊富な春季ブルーム時に注目して中層性カイアシ類の食性を解析した。相模湾中央部で試料を採取し、中層における主要な構成分類群であるAetideidae科、Metridinidae科、Scolecitrichidae科、Spinocalanidae科を対象に、窒素・炭素安定同位体比分析、消化管内容物の顕微鏡観察、消化管内容物およびマリンスノーの電子プローブマイクロアナライザ(EPMA)による元素分析および口器形態の観察を行なった。当初マリンスノーを主に摂餌すると推定された中層種の窒素・炭素安定同位体比は、ほとんどの種で、表層懸濁物粒子消費者と想定される値の範囲に含まれた。顕微鏡観察では、種間で消化管内容物の組成が異なり、また多くの種が完全に分解されていない植物プランクトンおよびシアノバクテリアを含むマリンスノーを摂取したことが示された。EPMA分析ではほとんどの種で、陸起源の鉱物粒子の割合が消化管内容物よりもマリンスノーで有意に高く、カイアシ類による選択的なマリンスノーの摂取が示唆された。形態観察では、ほとんどの対象種の口器形態が細かな粒子の摂餌に適さないことが示された。さらにこれらの中層種の多くはクロロフィル濃度の激減した50 m以深に分布していた。以上の結果から、雑食性とされる中層性カイアシ類が様々なマリンスノーの中で新鮮なマリンスノーまたはマリンスノーの新鮮な部分を選択的に摂取することが示唆され、対象種の多くはそれぞれ特徴的な食性をもつことが示された。

中層性カイアシ類の食性の季節変化

中層性カイアシ類の食性を周年にわたり解析した。窒素安定同位体比は多くの対象種で類似した変動パターンを示した。他種と異なる変化を示したScottocalanus securifronsと、他種と同様の変化を示したSpinocalanus magnusについて消化管内容物を比較した。元素分析の結果、Sp. magnusの消化管内容物中の珪藻由来の粒子の割合は、クロロフィルaの水柱積算値と同様の変化を示したが、Sc. securifronsの値には顕著な季節変化は見られなかった。消化管内容物の定性的な構成は2種ともに顕著な変化は示さなかった。以上から、多くの中層種の食性は種間の差異を維持しつつ、餌料環境の変動に伴い変化するが、一部の種は餌料環境の変化に大きく左右されず、周年類似した餌料を利用する傾向があることが示された。

中層性カイアシ類2種の餌ニッチ分割と口器形態

体サイズと体形が類似するが春季ブルーム時に食性が大きく異なったAetideidae科のChirundina streetsiiとUndeuchaeta majorの食性、鉛直分布と口器形態を比較した。C. streetsiiはU. majorよりやや高い窒素安定同位対比を示したが、両種の季節変動パターンは類似していた。また両種の鉛直分布に明瞭な差異はなかった。一方、C. streetsiiは周年多様な餌料を摂取したが、U. majorは主にオンケア科カイアシ類等の甲殻類を摂食していた。元素分析の結果、珪藻由来の粒子と鉱物粒子の割合は周年C. streetsiiで高かった。以上から、餌ニッチの分割が2種の共存機構の1つであると考えられる。また2種の食性の差異は9月に最も小さくなったが、これはC. streetsiiの餌料が餌料環境に伴い変動したためと考えられる。さらに、顎脚の基節幅/基節長比と最大刺毛長/基節長比をAetideidae科および近縁な肉食性のEuchaetidae科で比較したところ、両比の値は後者でより高く、またC. streetsiiは前者、U. majorは後者に近い値を示した。これは両科の顎脚が餌料を捕獲・保持するために用いられ、肉食性の場合捕獲・保持に必要な太い基節と長い刺毛が必要であるためと考えられる。これらの形態情報は、従来もっぱら雑食性と考えられていたAetideidae科カイアシ類の食性の再検討に有用と考える。

中層性カイアシ類における消化管内寄生生物

食性解析で特異な窒素・炭素安定同位体比を示したEuchirella rostrataの消化管のみに胞子虫、グレガリナの寄生が認められた。走査型・透過型電子顕微鏡による形態観察により、本グレガリナはParaophioidina sp.と同定された。また、グレガリナは95%の個体に感染していた。E. rostrataの消化管には、前半部が大きく膨らみ後半部に2つの折り返しがあり、後方の折り返しの部分が狭窄する特異な構造が認められた。グレガリナは消化管の折り返し部以降に集中的に分布していたが、寄生部位の消化管内面の微柔毛に大きな損傷は認められなかった。グレガリナが宿主内で大量に増殖し消化管を閉塞させたり、宿主の栄養摂取に影響を及ぼす例が報告されており、本種についても同様の影響が予想される。しかし、E. rostrataにおける本グレガリナの種特異的寄生、特異な消化管形態と狭窄部以降での局所的な分布、損傷のない消化管、特異な安定同位体比などから、両者に栄養摂取などを通じた何らかの相利関係がある可能性も考えられる。

上顎歯のEPMAによる分析の検討とPleuromamma xiphiasの食性

植食性カイアシ類の上顎歯には珪酸質の皮膜が見られ、これは強固な殻を持つ珪藻の破砕に用いられると推測されている。そこでEPMAによる上顎歯表面の珪素分析の適否を検討するとともに、表層性の植食種、雑食種と代表的な日周鉛直移動種で雑食性であるPleuromamma xiphiasの上顎歯を比較し、その珪藻破砕能力について考察した。その結果、EPMAは十分な検出精度をもつことが示され、植食性種ではほとんどの歯に珪酸質の皮膜が認められた。表層性の雑食種でも2本の大型の歯の全体を覆う珪酸質の構造が認められた。しかしP. xiphiasの上顎歯には1本の大型の歯の先端に僅かにあるのみであった。以上から、日周鉛直移動により表層で懸濁粒子を直接摂取すると考えられているP. xiphiasが、マリンスノーなどの摂取により他の生物などにより破砕された珪藻を間接的に摂取する可能性が示唆された。

以上本研究により、従来雑食性と考えられていた中層種間に食性の差異が存在し、季節的にも維持されることが示された。また一部の種の特異な摂餌生態や、食性推定における口器形態の新たな識別点も明らかになった。さらに中層種によるマリンスノーの選択的摂取や表層における利用など、マリンスノーと中層性カイアシ類の関係について多くの知見が得られた。これらの結果と生態的情報から多種共存機構と鉛直的物質輸送の解明のための多くの示唆を得た。今後、さらにHPLCによる色素分析やメタゲノム解析を行なうことで、表層・中層の食物網および資源分割について、より明瞭な全体像が得られるものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

海洋中層は多くの漂泳動物群で種数が最大となる領域であるが、そこでの多様性の創出・維持機構については個々の種の摂餌生態に関する知見の不足により未だ不明の点が多い。一方、鉛直的な炭素輸送における動物プランクトンの役割の理解にも食性に関する知見は不可欠である。本研究はこれらの点に着目し、多角的・統合的な食性解析により中層性カイアシ類の摂餌生態に関する知見を拡充すると共に、食物網におけるマリンスノーの重要性とカイアシ類の共存機構について考察したものであり、以下のように要約される。

第1章:中層性カイアシ類の摂餌生態に関する知見と問題点を総説し、研究の目的を明示した。

第2章:対象海域である相模湾の特徴と本研究で適用した統合的解析方法を記述した。特に、従来適用されてきた消化管内容物の顕微鏡観察、口器付属肢の観察、安定同位体比分析に加え、消化管内容物の半定量的な解析のため、新たに電子プローブマイクロアナライザ(EPMA)による元素分析の適用法を検討し、本手法が有効であることを示した。

第3章:春季ブルーム時を対象にカイアシ類の食性を解析した。当初マリンスノーを主に摂取すると予想された中層種の窒素・炭素安定同位体比は多くの種で表層懸濁粒子消費者に該当する値を示した。顕微鏡観察では種間で消化管内容物の組成が異なり多くの種がマリンスノーを摂取したことが示された。EPMA分析では多くの種の消化管内容物で陸起源の鉱物粒子の割合がマリンスノーより有意に低く、選択的なマリンスノーの摂取が示唆された。さらに、多くの対象種の口器形態は細かな粒子の摂取に適さず、これらの種の多くはクロロフィル濃度の激減した50 m以深に分布していた。以上の結果、雑食性とされる中層性カイアシ類が新鮮なマリンスノーを選択的に摂取したことが示された。

第4章:周年にわたる解析の結果、中層性カイアシ類の窒素安定同位体比は多くの種で類似した変動パターンを示した。他種と異なる変化を示したScottocalanus securifronsと、他種と同様の変化を示したSpinocalanus magnusの消化管内容物を比較した結果、珪藻由来の粒子の割合は後者のみクロロフィルaの水柱積算値と同様の変化を示した。以上から、多くの中層種の食性は種間の差異を維持しつつ餌料環境の変動に伴い変化するが、一部の種は周年類似した餌料を利用する傾向があることが示された。

第5章:体サイズと体形が類似するが春季ブルーム時に食性が大きく異なったAetideidae科の2種の食性、鉛直分布と口器形態を比較した結果、餌ニッチの分割が2種の共存機構の1つと示唆された。さらに、顎脚の基節幅/基節長比と最大刺毛長/基節長比をAetideidae科および近縁な肉食性のEuchaetidae科で比較した結果、これらの形態情報が、従来もっぱら雑食性とされていたAetideidae科の食性の再検討に有効であることが示された。

第6章:特異な窒素・炭素安定同位体比を示したEuchirella rostrataの消化管のみに出現した胞子虫、グレガリナを電子顕微鏡により観察しParaophioidina sp.と同定した。グレガリナは95%の個体に感染し、消化管後部に集中的に分布していたが、消化管に大きな損傷は認められなかった。

第7章:植食性カイアシ類の上顎歯に見られる珪酸質の皮膜は強固な殻を持つ珪藻の破砕に用いられる。そこでEPMAによる上顎歯表面の珪素分析の適否を検討するとともに、表層性の植食種、雑食種と代表的な日周鉛直移動種で雑食性のPleuromamma xiphiasの上顎歯を比較し、その珪藻破砕能力について考察した。この結果、植食性種ではほとんどの歯に珪酸質の皮膜が認められたが、P. xiphiasの上顎歯には1本の大型の歯の先端に僅かにあるのみであったことから、本種が、マリンスノーの摂取をつうじ、他の生物に破砕された珪藻を間接的に摂取する可能性が示唆された。

第8章:以上の結果を総合し、表層から中層上部における食物網構造の図式を示すとともに、個々のマリンスノーの採集・分析を初めとする、今後の具体的研究手法を提案した。

以上本研究は従来雑食性と考えられていた中層種間に食性の差異が存在し、季節的にも維持されることを示し、一部の種の特異な摂餌生態や、食性推定における口器形態の新たな識別点を明らかにした。また、中層種によるマリンスノーの選択的摂取や表層における利用など、マリンスノーと中層性カイアシ類の関係について多くの知見を得た。さらにこれらの結果と生態的情報から多種共存機構と鉛直的物質輸送の解明のための多くの示唆を与えており、学術上、応用上貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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