学位論文要旨



No 129214
著者(漢字) 藤原,英記
著者(英字)
著者(カナ) フジワラ,ヒデノリ
標題(和) 脂質酸化物が哺乳類の味覚に及ぼす影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 129214
報告番号 甲29214
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3919号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 潮,秀樹
 東京大学 教授 松永,茂樹
 東京大学 教授 金子,豊二
 東京大学 教授 浅川,修一
 東京大学 准教授 木下,滋晴
内容要旨 要旨を表示する

食品の味は現在基本五原味(甘、塩、酸、苦、旨)に分類される。味覚は、食物中の成分が、生体にとって必要か、あるいは有害かを、これらの味刺激に基づいて弁別し、食物選択の最終決定を行う感覚である。哺乳類を含む脊椎動物では、味物質は味細胞で感知され、末梢神経系から中枢へと刺激が伝達されて味を感じる。味細胞からは味覚神経が出力するが、舌の前方に位置する茸状乳頭と葉状乳頭の前方部は鼓索神経に、舌の後方に位置する葉状乳頭の後方部と有郭乳頭の味蕾は舌咽神経に繋がる。味細胞には塩味、酸味を受容するとされるイオンチャネルや甘味、うま味、苦味を受容するとされる各種Gタンパク質共役型受容体(GPCR)が分布し、各呈味物質に対して細胞内情報伝達機構を作動させ、味覚神経へと伝える。近年、甘味やうま味受容体としてGPCRであるT1Rsが同定され、苦味受容体としてT2Rsが同定された。細胞内情報伝達にはイノシトール3リン酸(IP3)やカルシウムイオンなどのセカンドメッセンジャーが用いられ、細胞内カルシウムストアに存在するIP3受容体カルシウムチャネル、一過性受容体電位チャネルのTRPM5を介して、味細胞基底膜側から神経伝達物質が放出されて味覚神経に情報が伝えられることが明らかになっている。一方、嗅覚情報も味の認識に影響を及ぼすことが知られている。甘味飲料に香料を添加すると、甘さが増強されたように感じるが、これらは味覚と嗅覚の収斂が生じていると考えられている。ラットの一次嗅覚野には味覚刺激に応答する細胞群が存在することや、一次味覚野には嗅覚刺激に応答する細胞があることが示されている。

一方、油脂はそのまま口に含んでも特別な味やにおいを感じることはないが、揚げ物や炒め物のように油を使って調理することにより、風味を含めた食品の味わいが強くなることはよく知られたところである。反対に油脂量を低減した低カロリー食品を食べるとどこか物足りなさを感じてしまう。食品において油脂に求められる機能として「おいしさ」は欠かせない要素である。このような背景のもと、植物油には含まれない脂肪酸であるアラキドン酸(AA)を添加した油脂を用いて調理した炒飯が、添加していないものに比べて有意に「うま味」や「塩味」が強くなることを官能評価で見出した。これらの機能は、炒めたり揚げたりすることで明確に発揮したことから、調理時の加熱によって起こるAAの酸化が関わっていると推察した。

脂質酸化物が味覚に与える影響については、ほとんど報告がないことから、本論文では、ヒトによる官能評価および実験動物としてマウスを使った電気生理学的実験手法と行動学的実験手法によってAA酸化物が味覚に及ぼす影響について明らかにし、関与成分の同定を目的とした。

AA酸化物が基本五原味に及ぼす影響を明らかにするため、塩化ナトリウム(NaCl)水溶液に、酸化させたAAから水抽出した酸化生成物溶液(酸化AA水抽出物)を添加し、ノーズクリップを着用したヒトでの官能評価の結果、酸化AA水抽出物を添加したNaCl溶液は、同濃度のNaCl溶液よりも「塩味」が有意に強くなった。ただ、ノーズクリップによって匂いの影響を遮断した条件とはいえども、特に揮発性成分が多く含まれる脂質酸化物の評価において、味覚にも強い影響を及ぼすことが知られる嗅覚の関与を完全に除去できていたかは不明であった。

そこで、嗅覚の影響を完全に排除することが可能となるマウスを実験動物として酸化AA水抽出物が味覚に及ぼす影響を検証した。まず、マウスの味神経の一つである鼓索神経応答に対して酸化AA水抽出物が及ぼす影響を検証したところ、酸化AA水抽出物そのものは鼓索神経応答を示さなかった。一方、NaCl溶液に酸化AA水抽出物を添加することで、同濃度のNaCl溶液のみに対する鼓索神経応答よりも強い応答を示すことが明らかとなった。さらに、同様の結果が、うま味物質であるグルタミン酸ナトリウム(MSG)や甘味物質であるショ糖についても得られた。

さらに、AA酸化物水抽出物が、嗅覚を消失させたマウスの基本五原味に対する味覚感受性に及ぼす影響を明らかにすべく、行動学的実験手法の一つであるリッキング試験によって解析した結果、酸化AA水抽出物存在下で、マウスの塩味(NaCl)、甘味(ショ糖)、うま味(MSG)、苦味(塩酸キニーネ)に対する味覚感受性が増強された。これらの結果から、酸化AA水抽出物によってマウスはこれら呈味物質が有する味を、より強く感知することが示唆された。同時に、上述したヒトでの官能評価結果も少なくとも一部は味覚を介する効果であるものと考えられた。

上記の効果を有する酸化AA水抽出物中の有効成分の同定を目的として、SBSE法によって酸化AA水抽出物をGC-MS分析に供した。同定された成分のうち入手可能な成分に関して、NaCl水溶液に添加し、マウスの鼓索神経応答で評価した結果、AAの酸化によって比較的大量に生じるhexanalを添加することで有意にNaClに対する鼓索神経応答が増強され、その効果はhexanalの濃度依存的であることが明らかとなった。同様な効果はMSGに対しても認められる一方、hexanal自身は鼓索神経応答を誘発させなかった。さらに、リッキング試験によって塩味、うま味、苦味に対して、hexanalが味覚感受性を増強した。

以上の結果から、酸化AA水抽出物中に含まれる、hexanalが塩味などに対する味覚感受性を増強している有効成分の一つであることが示唆された。すなわち、当初調理評価で見いだされたAAが与える味覚への影響は、調理時の加熱などによってAAが酸化されることが重要であり、さらに酸化されることによって生じるhexanalが有効成分の一つであるものと推定した。

Hexanalが呈味物質による味覚感受性を向上させる機構に関しては、現時点で不明であるが、基本五原味の中で増強効果が観察された味質(塩味、甘味、うま味、苦味)と観察されない味質(酸味)とがあったことから、hexanalによる味覚増強作用の機構について以下のように考察した。

甘味、うま味、苦味に関しては、味物質が味質に特異性のある味細胞GPCRによって受容され、三味に共通した細胞内シグナル伝達経路を介して味神経へと情報が伝達されると考えられている。ここに着目すると、hexanalが味細胞内に侵入し、これらシグナル伝達経路を直接活性化する可能性も考えられる。一方、塩味受容はイオンチャネル型であるとされており、GPCR型とはシグナル伝達経路が異なる。ただし、味細胞膜の脱分極以降、ATPを介して味神経に伝達する経路およびATPを介してIII型細胞からのセロトニン分泌を誘起させる経路に関してはGPCR型と共通であると考えられている。これらを考慮すると、hexanalが味細胞膜に発現するイオンチャネル群、味神経に発現するATP受容体、あるいはIII型細胞に発現するATP受容体を活性化するなど、シグナル伝達系の後半共通経路に作用している可能性が考えられた。今後、細胞レベルでの詳細な検討が必要であるものと考えられる。

以上の結果から、本研究によってAA酸化生成物が塩味、うま味、甘味、苦味の味覚受容を増強させる機能を有しており、hexanalがその有効成分の一つとして同定された。この結果は、油脂を用いた調理で起こり得る脂質酸化によって生じる成分が、油脂の「おいしさ」に味覚を介して寄与することを示すだけでなく、同質の味を低塩、低糖で再現できる可能性を示唆するものである。本研究成果が基礎生物科学的な新規情報の提供だけではなく、近年の飽食の時代とともに問題となっている、食生活に起因する生活習慣病などへの対処法の確立に直接的に寄与することが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

藤原英記氏の提出論文脂質酸化物が哺乳類の味覚に及ぼす影響に関する研究は、高度不飽和脂肪酸アラキドン酸(AA)由来の脂質酸化物が哺乳類の味覚に影響を及ぼし、5基本味のうち、甘味、うま味、苦味および塩味の4味を増強することを示したものである。その概要を以下に示す。

食品の味は現在5基本味(甘、塩、酸、苦、旨)に分類される。味覚は、食物中の成分が、生体にとって必要か、あるいは有害かを、これらの味刺激に基づいて弁別し、食物選択の最終決定を行う感覚である。哺乳類を含む脊椎動物では、味物質は味細胞で感知され、末梢神経系から中枢へと刺激が伝達されて味を感じる。味細胞には塩味、酸味を受容するとされるイオンチャネルや甘味、うま味、苦味を受容するとされる各種Gタンパク質共役型受容体(GPCR)が分布し、各呈味物質に対して細胞内情報伝達機構を作動させ、味覚神経へと伝える。一方、油脂はそのまま口に含んでも特別な味やにおいを感じることはないが、揚げ物や炒め物のように油を使って調理することにより、風味を含めた食品の味わいが強くなることはよく知られたところである。

AA酸化生成物が基本五原味に及ぼす影響を明らかにするため、塩化ナトリウム(NaCl)水溶液に、酸化させたAAから水抽出した酸化生成物溶液(酸化AA水抽出物)を添加し、ノーズクリップを着用したヒトでの官能評価の結果、酸化AA水抽出物を添加したNaCl溶液は、同濃度のNaCl溶液よりも「塩味」が有意に強くなった。嗅覚の影響を完全に排除することが可能となるマウスの味神経の一つである鼓索神経応答に対して酸化AA水抽出物が及ぼす影響を検証したところ、酸化AA水抽出物そのものは鼓索神経応答を示さなかった。一方、NaCl溶液に酸化AA水抽出物を添加することで、同濃度のNaCl溶液のみに対する鼓索神経応答よりも強い応答を示すことが明らかとなった。さらに、同様の結果がうま味物質であるグルタミン酸ナトリウム(MSG)や甘味物質であるショ糖についても得られた。

さらに、酸化AA水抽出物が、嗅覚を消失させたマウスの基本五原味に対する味覚感受性に及ぼす影響を明らかにすべく、行動学的実験手法の一つであるリッキング試験によって解析した結果、酸化AA水抽出物存在下で、マウスの塩味(NaCl)、甘味(ショ糖)、うま味(MSG)、苦味(塩酸キニーネ)に対する味覚感受性が増強された。これらの結果から、酸化AA水抽出物によってマウスはこれら呈味物質が有する味を、より強く感知することが示唆された。酸化AA水抽出物をGC-MS分析に供した。同定された成分のうち入手可能な成分に関して、NaCl水溶液に添加し、マウスの鼓索神経応答で評価した結果、AAの酸化によって比較的大量に生じるhexanalを添加することで有意にNaClに対する鼓索神経応答が増強された。同様な効果はMSGに対しても認められる一方、hexanal自身は鼓索神経応答を誘発させなかった。

以上の結果から、本研究によってAA酸化生成物が塩味、うま味、甘味、苦味の味覚受容を増強させる機能を有しており、hexanalがその有効成分の一つとして同定された。この結果は、油脂を用いた調理で起こり得る脂質酸化によって生じる成分が、油脂の「おいしさ」に味覚を介して寄与することを示すだけでなく、同質の味を低塩、低糖で再現できる可能性を示唆するものである。本研究成果が基礎生物科学的な新規情報の提供だけではなく、近年の飽食の時代とともに問題となっている、食生活に起因する生活習慣病などへの対処法の確立に直接的に寄与することが期待される。

以上、アラキドン酸酸化生成物が哺乳類の味覚に影響を及ぼし、甘味、苦味、うま味、塩味を増強することを初めて明らかにし、その機構解明を行ったことから、本論文は基礎生物学的知見を提供するだけでなく、食品産業上重要なおいしさの増強に貢献する知見を提供した。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として必要十分な条件を満たす、価値あるものと判定した。

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