学位論文要旨



No 129215
著者(漢字) 西原,是良
著者(英字)
著者(カナ) ニシハラ,ユキナガ
標題(和) 農業水利システムの維持管理問題に関する経済分析
標題(洋)
報告番号 129215
報告番号 甲29215
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3920号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中嶋,康博
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 松本,武祝
 東京大学 准教授 齋藤,勝宏
 東京大学 准教授 八木,洋憲
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、日本農業における水利システムの維持管理問題、とくに施設の更新投資問題に焦点をあてて、水資源の管理にまつわる協調行動の持続可能性を考察することである。水路の維持管理問題が農政上の課題であるのは、三つの背景に拠る。第一は、維持管理問題が農地流動化や後継者問題に密接に関係している点である。第二は、施設老朽化が急速に進行している点である。第三は、土地改良事業のあり方が、水利施設の更新投資から長寿命化やライフサイクルコスト削減型の事業に変化しつつある点である。これらの課題への対応は、農家と流域住民間における合意形成の成否に大いに左右される。本研究は、この問題意識を念頭に、農村における維持管理のための合意形成の要素の抽出を試行した。その過程においては、農業経済学において過去に議論されてきた日本型水社会論と、水社会主体形成論を、ネットワーク分析の視点を取り入れつつ再検討する。

ネットワーク分析において重視したのは、水利システム内部のネットワーク構造の特定と、コミュニケーションの役割、紐帯の強弱によるネットワークの特質の三点である。

第一の構造の特定については、水管理における技術専門家と個々の農家との垂直的関係、個々の水利組織の組合員によって形成された水平的ネットワークの二つを検討の対象とした。第二のコミュニケーションの役割については、協調行動が優位性をもつ事、参加者同士による協調行動の監視の二つと定義した。第三のネットワークと紐帯の特質については、先行研究にある「弱い紐帯」と「強い紐帯」の関係に着目した。

これまでの日本の水社会の変容と、それによって生じた紐帯の役割の変化を検討する。相反するかのように見える二つの紐帯は「社会関係のあり方」によってその意義が大きく変化するという山岸俊男氏の見解を参看すれば、これまでの日本型水社会論が想定した「村の全戸が出席した協調行動」「一定のルールに基づいた配水」「水の共有財産化」という農村像は、強い紐帯によって結ばれたネットワークであったこと、それらが大規模土地改良事業によって希薄化されていったことが先行研究から読みとれる。分析の帰結として、これからの水路管理主体は「強い紐帯」に頼らない農村像の下で形成しなければならないことになる。

第一章は、上記のように研究全体の問題意識を整理した。

第二章では、大規模土地改良事業を契機として惹起せられた「日本型水社会」の変容を具体的な事例から明らかにし、そのような状況の下での維持管理活動の実態をモデル化した。山形県内の野川土地改良区を対象とした、土地改良区関係者、地区の代表者等へのインタビューの結果から、モデル化する上で重要な三つの事実関係を確認できた。第一は、維持管理行動を共同で行う単位は、受益者意識を共有する範囲によって規定されることである。第二は、野川土地改良区の場合、戦後のダム建設によって、水不足が解消した事、灌漑排水事業の結果、生活用水などの役割を持つ地域用水としての性格を持っていた水路が、農業専用用水へと再編されたことである。第三は、土地改良事業の結果として、受益範囲の拡大と、水路管理の専門化が進展し、住民の水路への関心が年を経て漸減しつつあることである。これらの点から、大規模な受益地域における「強い紐帯」の持続可能性は危殆に瀕していると判断される。加えて、土地改良区組織が形成するネットワークは、上部組織からの一方向的な情報伝達機能しか持ち得ていない事も明徴になった。

第三章では、「強い紐帯」から「弱い紐帯」に変化したネットワークの構造を明徴するため、土地改良区組合員が農地貸借を通じて形成した人的ネットワークを分析した。

分析結果は三点に約言される。第一に、農地の流動化を通じたネットワークは密度が非常に低く、未だ未成熟な段階であった。しかし、離れた集落間での農地貸借も存在しており、農地流動化の進展によりネットワークが拡大・深化する可能性が高い。第二に、農地貸借ネットワークは、同一密度のランダムグラフ・ネットワークよりも平均距離・推移性等の水準が低く、「弱い紐帯」としてのネットワークの性質を持っていることが確かめられた。ただし、改良区全域を繋ぐネットワークは存在せず、集落単位でスター型のネットワークを形成している。第三に、このスター型ネットワークの形状から、農地を集積する担い手農家を、関係者の合意形成を左右する情報の伝達におけるキーマンとして着目すべきであることが指摘された。

第四章では、これらの農地貸借ネットワークの情報伝達が機能しているか、を確かめるため、貸借関係で結ばれている組合員同士間に相互作用(peer effect)が存在するか否かを確認した。ネットワークのlinkで結ばれている者同士の相互作用は、空間計量モデルにおける隣接地域の空間的従属性と同様の視角から分析できることから、空間的自己回帰モデル(SLM)を用いた推計を行った。ラグランジュ乗数検定によって空間的自己相関の存在を確認した後、推計の結果から相互作用が有意に正の値を持つことを確かめた。また、農地の所有面積が、水路や圃場の状況把握度に影響を与えていること、土地改良区の役員経験、水不足が存在すること、最下流地域の住民であること、などの農家属性も、水路・圃場の状況把握度を左右することが同時に実証された。

第五章では、情報伝達経路としての可能性を確認できた農地貸借ネットワークを使って、実際に農村地域全体の水路への認識を高めることができるかを社会実験によって確かめた。まずネットワークの次数中心性指標の上位にある者を情報伝達のキーマンとし、その上位者で構成するワークショップを実施した。ワークショップでは、科学的な機能診断、地域内における営農計画や役割分担を確認する作業を行った。これによって、正確な改修の費用負担、協調行動から得られる便益の大きさを、参加者に認知せしめた。

ワークショップの効果を測るため、ワークショップの前年と、ワークショップ終了後の二回、アンケートを実施した。アンケートの結果集計から、ワークショップ未実施地域へのワークショップ内容の浸透、またその経路が集落内での寄り合い等によるものであったことについて、「差の差(Difference-in-Differences)」推計を用いて個人の意識変化を計測した。認知向上については、土地改良区の役職経験、水稲経営面積、後継者の有無、10年後の営農継続意思に大きく左右されることが確認された。社会実験によって「弱い紐帯」のネットワークを利用した情報伝達が有効であることが実証された。

第六章の要約において、本研究の結論を二つに収斂した。その第一は、「強い紐帯」を前提に想定されてきた日本型水社会論は、大規模土地改良事業実施後の水利施設の維持管理には役立たないということである。農地・用水路の情報を共有し、持続可能な維持管理のための合意を形成するには、「強い紐帯」を想定しない議論が求められる。

第二には、農地貸借のネットワークは、一定の情報共有のポータルとして機能し、そのネットワークのキーマンを通じた情報伝達が可能だということである。研究結果からは、借り手と貸し手を繋ぐ「bridge」が構築されていることが明徴にされた。農地貸借ネットワークは、未熟ながらも集落の範囲を超え、土地改良区全体を繋ぐ情報伝達のショートカットを形成している。

旧来の「強い紐帯」に代わる農地貸借ネットワークの「弱い紐帯」が、維持管理活動の持続可能性を左右する。本研究の成果がもたらす論理的帰結は、農業政策における担い手への重点的支援が、引いては水利施設の持続可能性に資するということを示唆している。

審査要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、日本農業における水利システムの維持管理問題について、水資源の管理に関わる協調行動の持続可能性を中心に考察することである。農業用水路の維持管理問題は、次の3つの観点から農政上の課題として注目されている。第一は、維持管理問題が農地流動化や後継者問題に密接に関係している点である。第二は、施設老朽化が急速に進行している点である。第三は、土地改良事業のあり方が水利施設の更新投資から長寿命化やライフサイクルコスト削減型の事業に変化してきている点である。これらの課題への対応可能性は、いずれも関係者間の合意形成の是非に大いに左右される。本研究では、これらの問題意識を念頭に、農村における維持管理のための合意形成の要素の抽出を行う。その過程で、農業経済学において過去に議論されてきた日本型水社会論および水社会主体形成論を、社会ネットワーク分析の視点を取り入れつつ再検討した。これらに関連する実証分析は、すべて山形県内の野川土地改良区を対象に行った。

第1章では、まず研究全体の課題設定がなされた。

第2章では、戦後の大規模土地改良事業をきっかけに「日本型水社会」の変容が始まったことを明らかにし、そのような状況の下での維持管理活動の実態を次の通りモデル化した。第一に、維持管理行動を共同で行う単位は、受益者意識を共有する範囲によって規定されること。第二に、戦後のダム建設とかんがい排水事業の結果、生活用水などの役割を持つ地域用水としての性格を持っていた水路が、農業専用用水へと再編されたこと。第三に、土地改良事業により受益範囲の拡大と水路管理の専門化が進んだ結果、住民の水路への関心が年々低下しつつあることである。これらの点から、大規模な受益地域における「強い紐帯」の持続可能性が危うくなったことが明らかになった。さらに、土地改良区組織が形成するネットワークは、上部組織からの一方向的な情報伝達機能しか持ち得ていない事も指摘された。

第3章では、土地改良区組合員が農地貸借を基に形成した人的ネットワークの分析を通じて、「強い紐帯」から「弱い紐帯」に変化したネットワークの姿を検討した。その分析結果から3点が明らかになった。第一に、農地貸借ネットワークの形成は未成熟な段階であるが、離れた集落間での農地貸借も一部観察され、農地流動化の進展によりネットワークを拡大・深化させる可能性の高いことが指摘された。第二に、農地貸借ネットワークは、ランダムグラフ・ネットワークよりも平均距離・推移性等の水準が低く、「弱い紐帯」としての性質を持つこと、改良区全域を繋ぐネットワークは未だ構築されておらず集落単位でスター型のネットワークを形成していることが確かめられた。第三に、スター型ネットワークであることから、農地を集積する担い手農家が、地域の情報伝達の役割を果たすキーマンとなりうることが指摘された。

第4章では、維持管理活動を左右する圃場や水路に関する認識が農地貸借の構造によってどのように変化するか、計量経済学的な分析を行った。そこでは、農地貸借ネットワークを通じて情報が伝達され、貸借関係にある組合員同士間に相互作用(peer effect)が存在した場合の、圃場や水路の認識の向上の程度を評価した。ラグランジュ乗数検定によって空間的自己相関の存在を確認し、分析には空間的自己回帰モデル(SLM)が選択された。同モデルの推計結果から、相互作用が有意に正の影響を与えていることが確かめられた。また、農地の所有面積、土地改良区の役員経験、水不足の存在、流域内の位置などの農家属性が、圃場や水路への認識を左右していることも同時に明らかにされた。

第5章では、情報伝達経路の機能を持つ可能性が指摘された農地貸借ネットワークを通じて、実際に維持管理活動への認識を農村地域全体へ広めることができるかどうかを、土地改良区組合員の参加するワークショップを利用した社会実験によって確かめた。ワークショップは3つの集落で実施され、その場では参加者に、科学的な機能診断、地域内における営農計画や役割分担、正確な改修の費用負担、協調行動から得られる便益の大きさを認識させた。このワークショップには、「弱い紐帯」の役割を果たす、ネットワーク次数中心性指標の上位者にあたる農家にキーマンとして参加してもらった。ワークショップの前後に行った土地改良区全組合員へのアンケートを基に、維持管理活動への認知・認識の向上の程度を計量的に検証した結果、ワークショップの影響が確認され、また未実施地域へもキーマン等を通じてワークショップでの情報の浸透したことが把握された。このように社会実験によって「弱い紐帯」のネットワークを利用した情報伝達が有効であることが明らかとなった。

最後に第6章では、以上の分析結果を要約し、本研究の意義と経営政策への含意、今後の課題などが議論された。

以上の分析から、農業水利システムの維持管理は、従来からの日本型水社会論で想定されている「強い紐帯」には依存できないことが明らかとなった。維持管理は、農地・用水路への適切な理解に基づく関係者の合意形成がなければ進められないが、現代では「弱い紐帯」を想定した取り組みが必要となっている。本研究での農地貸借ネットワークの解析から、未熟ながらも集落の範囲を越えた「bridge」が構築されており、土地改良区全体を繋ぐ情報伝達のショートカットを形成していることが解明された。このことは、農地貸借ネットワークの「弱い紐帯」が、情報共有を支援する手掛かりとして機能しうることが確認されたことを意味し、そのことは構造政策における担い手への重点的支援が水利施設の持続可能性を高めるという政策的補完性が存在することを示唆している。これらの結論は、社会実験を基にした社会ネットワーク分析という独創的かつ先進的な研究によって得られたものである。このように本研究は、学術上、応用上資するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク