学位論文要旨



No 129224
著者(漢字) 大村,知士
著者(英字)
著者(カナ) オオムラ,サトシ
標題(和) 酸素漂白過程における非フェノール性リグニン部位の酸化機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 129224
報告番号 甲29224
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3929号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,雄二
 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 准教授 横山,朝哉
 東京大学 准教授 五十嵐,圭日子
 筑波大学 教授 大井,洋
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

製紙用化学パルプの漂白過程において、その高経済性と環境低負荷性から、酸素漂白の重要性が高まってきているが、酸素漂白には多糖類の分解が比較的激しいという、大きな問題点がある。酸素漂白の薬剤である分子状酸素は、パルプ構成成分の中で多糖類とは直接は反応せずに、主としてリグニン中のフェノール性芳香核部位と反応するが、この際に活性酸素種 (AOS) が生成し、これらが多糖類を分解することが知られている。

上記の知見に基づいて、酸素漂白過程においては、パルプ残存リグニンの中で主としてフェノール性芳香核部位が酸化分解されると考えられてきた。しかし以前に、童および今井が、酸素漂白過程における様々なリグニンサンプルやリグニンモデル化合物の酸素消費量を測定したところ、その値が非常に大きく、リグニンのフェノール性芳香核部位だけでなく、分子状酸素では分解されない非フェノール性芳香核の部位に対しても、酸化が十分に進行することが示唆された。この結果から、酸素漂白過程において、リグニン中の非フェノール性芳香核がフェノール性芳香核に変換されることが、合理的であると考えられた。この変換機構の一つとして、アリールエーテル (β-O-4) 結合が開裂し、非フェノール性芳香核であったそのアリール部位が、フェノール性芳香核に変換される反応が提案された。

本研究では、酸素漂白過程において、上記のアリールエーテル (β-O-4) 結合の開裂に基づく、非フェノール性のフェノール性芳香核への変換反応が起きるかどうかについて検討すること、そして、酸素漂白過程で重要な役割を果たす AOS の反応に注目し、この変換過程における AOS の役割について詳しく調べることを、目的とする。

2.酸素漂白過程における非フェノール性のフェノール性芳香核への変換

上記の目的で、最も一般的な非フェノール性の β-O-4 型リグニンモデル化合物である 2-(2-methoxyphenoxy)-1-(3,4-dimethoxyphenyl)propane-1,3-diol (I in Fig.) を、分子状酸素と反応して AOS の生成源となるフェノール性化合物 4-hydroxy-3-methoxybenzyl alcohol (II in Fig.) と共に酸素アルカリ処理したところ、化合物 I の分解が確認され、これに伴って非フェノール性であった化合物 I の B 環 (定義は Fig.) 由来となるフェノール性の 2-methoxyphenol (III in Fig.) が、微量ではあるが検出された。この結果から、酸素漂白過程において、AOS が関与することによる非フェノール性のフェノール性芳香核への変換が示唆されたが、遊離した化合物 III が本実験条件下では分子状酸素によって分解されるため、定量的な検討を行うことができなかった。そこで、β-O-4 結合が開裂して B 環がフェノール性化合物として遊離した際に、このフェノール性化合物が分子状酸素と AOS によって分解されず、その遊離量が定量的に検出可能であることが必要と考えられた。

このようなフェノール性化合物として 3,5-difluorophenol (IV in Fig.) を候補として考え、化合物 IV を AOS 生成源となる化合物 II と共に酸素アルカリ処理に供した。その結果、化合物 IV はほとんど分解されず、非常に安定であった。そこで、化合物 IV を B 環として持つフェノール性 β-O-4 型リグニンモデル化合物 2-(3,5-difluorophenoxy)-1-(4-hydroxy-3-methoxyphenyl)propane-1,3-diol (V in Fig.) を用いて、非フェノール性である B 環のフェノール性化合物 IV への変換について、定量的な検討を行った。なお、化合物 V の A 環はフェノール性であるため、この A 環は分子状酸素と反応して AOS を生成し得る。したがって、化合物 V の酸素アルカリ処理では、AOS 生成源となる化合物 II は添加しなかった。化合物 V は窒素アルカリ処理においてもある程度分解し、これに伴って定量的に化合物 IV が検出された。この結果は、化合物 V の β-O-4 結合がアルカリのみの作用、すなわち、アルカリ条件下における解離で生成した α-位アルコキシドによる β-位炭素への分子内求核置換反応、によって比較的開裂し易いことを示すが、これは化合物 V の B 環が高い脱離基を有することに起因する。酸素アルカリ処理においては、化合物 V の分解と化合物 IV の生成は共に、窒素アルカリ処理の場合よりもかなり速かった。したがって、分子状酸素の存在によって、化合物 V の β-O-4 結合開裂が非常に促進されることが明らかとなり、酸素漂白過程における非フェノール性のフェノール性芳香核への変換反応の進行が、示された。しかし、上記のように本研究では、非フェノール性のフェノール性芳香核への変換反応において、AOS が果たす役割について検討することも目的であるが、化合物 V の A 環と分子状酸素との反応を考慮すると、AOS が関与しなくても、分子状酸素による酸化とそれに続くアルカリの作用によって、化合物 V の β-O-4 結合は開裂可能と考えられる。また、化合物 V は A 環がフェノール性であるため、リグニンのごく一部のモデル化合物であるに過ぎない。そこで、A 環も非フェノール性である β-O-4 型リグニンモデル化合物 2-(3,5-difluorophenoxy)-1-(3,4-dimethoxyphenyl)propane-1,3-diol (VI in Fig.) を用いて、同様の検討を行った。

化合物 VI は化合物 V と同様に、窒素アルカリ処理によっても相当量分解し、それに伴って定量的に化合物 IV が生成した。AOS の関与のない、化合物 II を添加しない化合物 VI の酸素アルカリ処理では、化合物 VI の分解および化合物 IV の生成は共に、窒素アルカリ処理の場合とほぼ同様であった。したがって、化合物 VI は分子状酸素に対しては、十分な抵抗性を持つことが示された。AOS が関与する、化合物 II を添加した酸素アルカリ処理では、化合物 VI の分解および化合物 IV の生成は共に、化合物 II を添加しない酸素アルカリ処理よりも明らかに多かった。この結果とこれまでの AOS の反応性に関する研究結果を考慮すると、化合物 II と分子状酸素との反応で生成する AOS が、化合物 VI の側鎖を攻撃した結果としてその β-O-4 結合が開裂し、化合物 IV が遊離すると考えられた。これらによって、酸素漂白過程において非フェノール性芳香核がフェノール性芳香核に変換されることが確認され、この変換反応において AOS が重要な役割を果たすことが示唆された。

3.AOS との反応における側鎖水酸基の種類の影響

上記のように、AOS の側鎖への攻撃に起因して β-O-4 結合が開裂し、その結果として、非フェノール性のフェノール性芳香核への変換が起きると推測されることから、AOS の側鎖への反応性が重要と考えられる。そこで、側鎖の水酸基の種類に着目し、この種類がモデル化合物の側鎖と AOS との反応に及ぼす影響について、検討を行った。

まず、化合物 VI のベンジル位水酸基をメチル化した化合物 2-(3,5-difluorophenoxy)-3-methoxy-3-(3,4-dimethoxyphenyl)propan-1-ol (VII in Fig.) を用いて、ベンジル位水酸基がモデル化合物と AOS との反応に及ぼす影響について検討した。AOS の関与がない、化合物 II を添加しない酸素アルカリ処理では、化合物 VII は全く分解されず、本実験条件下における β-O-4 型モデル化合物のアルカリの作用による分解では、ベンジル位水酸基が必要不可欠であること、そして、化合物 VII が分子状酸素に対して抵抗性を持つこと、が示された。AOS が関与する、化合物 II を添加した酸素アルカリ処理では、化合物 VII は微量に分解されたのみで、この分解に伴った化合物 IV の生成は確認されなかった。しがたって、AOS との反応において、ベンジル位水酸基の存在が非常に重要であることが明らかになった。従来から、AOS が側鎖を酸化する場合、炭素に結合する水素を引き抜くと考えられており、この場合、ベンジル位が水酸基であってもメトキシル基であっても、反応が起こり得ることが予想された。しかし上記の結果は、この反応おいては、水酸基の存在が不可欠であること、あるいは、炭素ではなく酸素に結合する水素が引き抜かれること、を示唆すると考えられる。

さらに、異なる種類の水酸基を持つ二つの擬似 β-O-4 型モデル化合物である 2-(3,5-difluorophenoxy)propane-1,3-diol (VIII in Fig.) または 3-(3,5-difluorophenoxy)propane-1,2-diol (IX in Fig.) を用いて、モデル化合物と AOS との反応において、側鎖水酸基の種類が及ぼす影響について検討した。窒素アルカリ処理において化合物 VIII は分解したが、その量は化合物 VI の同処理における分解よりもかなり少なかった。この結果は、ベンジル位水酸基が、第一級水酸基よりも解離し易いことに起因すると考えられる。化合物 IX は、窒素アルカリ処理においてほとんど分解しなかったことから、第二級水酸基は第一級水酸基よりも解離し難いと考えられる。AOS の関与のない、化合物 II を添加しない酸素アルカリ処理においては、化合物 VIII および IX の分解は共に、窒素アルカリ処理における分解と同程度であった。したがって、これらの化合物は分子状酸素に抵抗性を持つことが確認された。AOS の関与する、化合物 II を添加した酸素アルカリ処理において、化合物 VIII および IX の両者とも、化合物 II を添加しない酸素アルカリ処理においてよりも多く分解したが、後者の方が前者よりもかなり多く分解された。この結果は、AOS が第一級水酸基を持つヒドロキシメチル基よりも、第二級水酸基を持つヒドロキシメチレン基の方を攻撃し易いことを示唆する。

4.結論

化合物 V を、AOS の関与する、化合物 II を添加した酸素アルカリ処理に供することによって、化合物 II と分子状酸素との反応で生成する AOS が化合物 V の側鎖を攻撃し、その結果として化合物 IV が遊離すること、すなわち、酸素漂白過程において、リグニンの β-O-4 結合部位では、AOS がその側鎖を攻撃することによって β-O-4 結合が開裂し、その結果として、非フェノール性であった芳香核がフェノール性へ変換されることが示唆された。

化合物 VII、VIII または IX を、化合物 II を添加した酸素アルカリ処理に供することによって、AOS との反応においてベンジル位水酸基の存在が重要であること、そして、AOS が第一級水酸基を持つヒドロキシメチル基よりも、第二級水酸基を持つヒドロキシメチレン基の方を攻撃し易いことが、示唆された。これにより、AOS とモデル化合物の側鎖との反応において、水酸基の種類が重要な役割を果たすことが示された。

Fig.Structure of the model compounds used in this study

審査要旨 要旨を表示する

アルカリ性酸素漂白過程では、薬剤となる酸素分子がリグニン中のフェノール性部位とのみ反応し、非フェノール性部位とは反応し難いことから、前者のみが分解されると考えられてきた。しかし、木材化学研究室のこれまでの研究によって、非フェノール性部位に対しても酸化反応が十分に進行することが、示唆された。非フェノール性部位の酸化機構の一つとして、フェノール性部位と酸素分子との反応で生成する活性酸素種 (AOS) の攻撃によって、アリールエーテル結合であるβ-O-4 結合が開裂し、その結果として、非フェノール性芳香核のアリール部位がフェノール性に変換される反応が、考えられた。本研究では、このβ-O-4結合の開裂に伴う非フェノール性芳香核のフェノール性への変換が、酸素漂白過程で実際に起こるかどうかについて確認すること、そして、この変換機構を検討することを、目的とした。

芳香核として非フェノール性のみを持つ最も一般的なβ-O-4型リグニンモデル化合物2-(2-methoxyphenoxy)-1-(3,4-dimethoxyphenyl)propane-1,3-diol (I) を、アルカリ性酸素漂白条件下で処理(酸素アルカリ処理)したところ、これはほとんど分解されなかった。しかし、これをフェノール性化合物4-hydroxy-3-methoxybenzyl alcohol (II) と共に酸素アルカリ処理に供し、化合物 (II) と酸素分子との反応でAOSを生成させたところ、化合物 (I) の明瞭な分解と、そのβ-O-4結合の開裂に伴う2-methoxyphenol (III) の微量な生成が、確認された。したがって、AOSによって化合物 (I) が分解されること、そしてその結果として、β-O-4結合が開裂することが、示唆された。しかし、化合物 (III) が酸素分子によって分解されるため、β-O-4結合の開裂の程度について、定量的に検討することはできなかった。これを可能にするためには、β-O-4結合が開裂した場合に生成するフェノール性化合物が、AOSが存在する酸素アルカリ処理において安定でなくてはならないことが、示唆された。

上記の条件を満たし、非フェノール性芳香核のみを持つβ-O-4型リグニンモデル化合物2-(3,5-difluorophenoxy)-1-(3,4-dimethoxyphenyl)propane-1,3-diol (IV) を単独で、または、化合物 (II) と共に酸素アルカリ処理に供したところ、後者における化合物 (IV) の分解、および、そのβ-O-4結合開裂に伴う3,5-difluorophenol (V) の生成は、前者におけるこれらよりも顕著であった。すなわち、化合物 (II) と酸素分子との反応で生成するAOSの攻撃で化合物 (IV) のβ-O-4結合が開裂し、その結果として、非フェノール性芳香核であった3,5-difluorophenoxyl 基が、フェノール性化合物 (V) として遊離することが、確認された。

化合物 (IV) のベンジル位水酸基をメチルエーテル化した化合物2-(3,5-difluorophenoxy)-3-methoxy-3-(3,4-dimethoxyphenyl)propan-1-olを、化合物 (II) と共に酸素アルカリ処理に供した場合、これは微量にしか分解されず、また、化合物 (V) は検出されなかった。したがって、ベンジル位水酸基が存在しない場合、モデル化合物はAOSと反応し難いこと、そして、β-O-4型モデル化合物のアルキル鎖部位が攻撃されることが、示唆された。

β-O-4型モデル化合物のアルキル鎖部位とAOSとの反応を詳しく検討するため、アルキル-アリールエーテルを持つアルキル鎖から成る化合物2-(3,5-difluorophenoxy)propane-1,3-diolまたは3-(3,5-difluorophenoxy)propane-1,2-diolを、化合物 (II) と共に酸素アルカリ処理に供したところ、後者の分解が前者よりも顕著であった。したがって、第二級水酸基を持つヒドロキシメチレン基が、AOSによって攻撃されやすい可能性が、示唆された。

このように本研究では、酸素漂白過程において、β-O-4結合がAOSの攻撃によって開裂し、その結果として、β-O-4結合を構成する非フェノール性芳香核がフェノール性化合物として遊離することが確認され、これを酸素漂白過程における非フェノール性芳香核の酸化機構の一つとして、提案した。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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