学位論文要旨



No 129240
著者(漢字) 宮崎,佑介
著者(英字)
著者(カナ) ミヤザキ,ユウスケ
標題(和) 朱太川水系の魚類相およびその保全・再生の課題
標題(洋)
報告番号 129240
報告番号 甲29240
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3945号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 佐野,光彦
 東京大学 教授 高村,典子
 東京大学 准教授 吉田,丈人
 神奈川県立生命の星・地球博物館 専門学芸員 瀬能,宏
内容要旨 要旨を表示する

第1章 緒言

淡水生態系は、現在、生物多様性の減少が最も著しい生態系の一つであるとされており、その保全が急務となっている。地球の水の量にして約0.01%にも満たない淡水域を利用する魚類は、現生魚類(約28,000種)の44.5%にあたる約12,000種に上る。しかし、水質汚染、河川横断構造物や護岸堤の建設による生息場所間の連結性の喪失、氾濫原湿地の開発などにより、淡水魚類は、絶滅危惧種を最も高い比率で含む分類群の一つとなっている。

日本においても、2007年に公表された環境省のレッドリストには、評価の対象となった約400種の汽水・淡水魚類の43.5%にあたる174種が掲載されている。それらの魚類の保全と回復にむけた現状把握および生息場所の保全と再生に関する研究は、保全生態学における優先度の高い研究課題となっている。

北海道渡島半島北部の黒松内低地帯を北流する二級河川である朱太川水系は、魚類の溯上を妨げる河川横断構造物がなく、河川流程方向の連結性が保たれている国内でも稀少な河川の一つである。しかし、他の河川と同様、氾濫原湿地の大半は既に農地開発や河川の捷水路化によって喪失している。

朱太川水系の河口域を除く流域のほぼ全体を含む黒松内町は、全国の他の町村に先駆けて、2012年3月に生物多様性地域戦略を策定した。そのアクションプランでは、朱太川における魚類の保全と再生のための氾濫原湿地の再生が、重要な課題の一つとして取り上げられている。

本研究では、朱太川水系の魚類相の保全・再生をモデルケースとして、アクションプランに掲げられた自然再生の実現に資する保全生態学の研究を実施するとともに、研究成果をはじめとする科学的な情報の地域への提供のあり方についても実践的に検討した。自然再生の計画を立案するための研究では、現地調査や聞き取り、空間生態学的解析などの手法を用いて、次の事項に関する情報を収集・分析・評価した。

1)朱太川水系を自然分布域とする在来魚種(第2章)

2)同水系における魚類相組成の現状(第3章)

3)同水系における過去から現在にかけての魚類相組成の変遷(第4章)

4)同水系の止水域を利用する魚類の多様性に寄与する生息場所の特性(第5章)

第2章 朱太川水系の魚類相とその生物地理学的成因

朱太川水系を自然分布域とする在来魚種の把握を試みるため、2010年6月から2011年11月にかけて、同水系において多数の地点で多様な手法による魚類の採捕を試み、魚類相の網羅的な調査を行なった。また、過去において同水系から記録された魚類の博物館標本の調査を行ない、同水系において過去から現在までに記録された魚類の目録を作成した。

その結果、15科40種の魚類がリストアップされた。北海道の南部にその存在が想定される日本の淡水魚類相の南北分布境界線の正確な位置について、未だ研究者の間で見解の一致がみられていないが、分布境界線の決定において重視すべきシベリア系純淡水魚3種のうち、エゾホトケドジョウとフクドジョウの2種が目録に含まれた。この事実は、分布境界線をめぐる議論に一石を投じるものである。朱太川水系を自然分布域の範囲に含むと考えられる淡水魚類(河口の汽水域に留まる周縁性淡水魚を除く)は、ジュズカケハゼ以外のすべての魚種の記録が確認されたことから、この目録と地球科学的知見、および既存の魚類の系統地理学的研究成果を踏まえ、朱太川水系に産する魚類の生物地理学的な成因について論じた。

目録に掲載された種のすべてを取り上げ、小中学生を含む住民が郷土の川の魚類について学び、自らの同定にも利用できるガイドブック「朱太川水系の魚類」を作成し、町内のすべての小中学生と関心をもつ町民に配布した。また、町内すべての小中学校でこのガイドブックを用いた授業を行ない、その実用性を確認した。

第3章 朱太川水系の魚類相の現状とその保全生態学的評価

朱太川水系の魚類相組成の現状を把握するため、同水系内の全域を対象とした徒手・たも網・どう・投網・定置網・電撃捕魚器による定性的な魚類相調査を、2010年6月から2011年11月にかけて行なった。2010年7–8月・9–10月には、本川16地点および主要4支川12地点において、採捕方法と採捕努力量を統一した定量的な魚類相調査を実施した。

定性的な調査では15科38種、定量的な調査では7科20種が記録された。通し回遊魚は、種数も生息量も多かったのに対して、止水環境を利用する魚類の生息量は少なかった。また、繁殖期や成育期に氾濫原湿地の止水域を利用するイトウの生息は確認できなかった。

この結果は、朱太川における流程方向の生息場所間の連結性の高さが保たれている一方で、氾濫原湿地の大規模な喪失による生息環境の劣化を示唆する。通し回遊魚の保全のためには、引き続き流程方向の連結性を保つことが求められる一方で、止水環境を利用する魚類の保全・回復には氾濫原湿地の再生が必要である。

第4章 博物館標本と聞き取り調査によって

朱太川水系の過去の魚類相を再構築する試み

朱太川水系の過去の魚類相を再構築することを目的として、2011年10–12月に博物館標本の調査を行なった。2012年2月には淡水漁業に従事した経験のある町民を対象とする聞き取り調査を「朱太川水系の魚類」を補助資料として用いて行なった。

美幌博物館、北海道大学総合博物館水産科学館、市立函館博物館、国立科学博物館を直接訪問して行なった朱太川水系に由来する魚類標本の調査では、13種の魚類標本の所在を確認することができた。しかし、市立函館博物館の1923年以前の標本台帳に記されているイトウ標本の所在は不明であった。

朱太川漁業協同組合の関係者18名からの過去の朱太川水系の魚類相に関する聞き取りでは、42種の魚類の採集・観察歴についての情報を得ることができた。種の同定の信頼性が高いと考えられるのは、そのうちの34種であった。

地域の漁業協同組合の保護・増殖の対象種であるかどうかと、生息量の増減の認識の間には、統計学的に有意な関係が認められた。過去において重要な水産資源であったカワヤツメの生息量の減少を指摘する回答者は過半を占め、氾濫原湿地を利用する魚類の減少が示唆された。現在は見られないイトウが過去に確かに生息していたこと、カワヤツメの生息量が急減したことは聞き取りからほぼ確かであることが判明した。

これらの結果は、黒松内町の生物多様性地域戦略における自然再生の目標設定、すなわち「氾濫原湿地の回復」の妥当性が確認された。人々の関心が高い生物種については、聞き取り調査によって量的変化に関する情報を得ることができる可能性が示唆された。

第5章 朱太川水系氾濫原の小規模な一時的水域の魚類相:

種多様性の要因と保全・再生への示唆

朱太川水系の氾濫原の増水時に河川と連結する小水域(氾濫原調査水域)18ヶ所、およびその対照(非氾濫原調査水域)として、同河川流域内の河川と連結しない池沼、および河川と連結してミズゴケ類の優占する貧栄養湿地の小水域2ヶ所、ならびに地形的な条件から流速が遅い支川域4ヶ所において魚類相調査を行なった。

その結果、8科16種の魚類が記録された。魚類相組成の類似度にもとづく調査水域のクラスター分析の結果、氾濫原調査水域は、非氾濫原調査水域と共通のクラスターに含まれる調査地と氾濫原調査水域のみからなるクラスターに含まれる調査地があった。指標種分析によって、カワヤツメ、スナヤツメ北方種、シマウキゴリの3種が後者の有意な指標種として抽出された。なお、氾濫原調査水域の魚類相組成は有意なネスト構造を示した。

重回帰分析と正準相関分析では、魚類の多様性に対して表水面積と水深は正の効果を、海からの河川長は負の効果を及ぼすことが示された。すなわち、下流側のより大きな止水域の魚類相がより豊かであることが示された。

これらの結果をもとに、朱太川水系における魚類相の保全に資する氾濫原湿地の再生に関して具体的な提案を行なった。

第6章 結論

本研究によって、モデルケースとして扱った朱太川水系は、(1)同水系の在来魚類の種プール(γ多様性)が豊かな水系であること(第2章)、(2)氾濫原湿地を利用する魚類の再生・回復が求められること(第3章;第4章)、さらに、(3)同水系の氾濫原湿地の再生の際には、下流域に面積が大きく水深の深い止水域の創出が有効と考えられること(第5章)、が示された。

本研究で得られた知見は、今後、黒松内町の生物多様性地域戦略のアクションプランに記されている氾濫原湿地の具体的な再生計画、および地域住民への環境学習に活かされる予定である。

生物多様性保全のための自然再生を進めるにあたって必要な科学的情報は、地域とそこでの保全・再生上の課題や、主に対象とする生物分類群によって、一様ではない。本研究で扱ったモデルケースは、比較的良好な魚類相が残されており、基礎自治体が生物多様性保全に意欲を持っている事例である。そのような場合、現状と過去の生物相に関する情報を、自然科学的調査だけでなく、聞き取りのような対人手法も用いて広く集め、また空間生態学的な現状分析に基づいて、再生すべき環境要素を具体的に明らかにして提案することができれば、自然再生のための事業計画立案に反映させやすい。

本研究では、自然再生の計画・実施に必要と考えられる知見を広く集め、具体的な提案を行なった。今後、それが実際の事業に活かされ、期待される効果をあげることができるかどうかを見届けることによって、本研究で試行したアプローチの有効性を検証することができるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

申請者は、北海道渡島半島北部の黒松内低地帯を北流する朱太川水系において、魚類相の保全・再生の計画立案に必要な保全生態学的情報を多様なアプローチを駆使して収集した。朱太川は、魚類の溯上を妨げる河川横断構造物がなく、河川流程方向の連結性が保たれている国内ではきわめて稀な条件を維持している。河口域のごく一部を除き、流域全体が黒松内町に含まれるが、黒松内町は、全国の他の町村に先駆けて、2012年に生物多様性地域戦略を策定し、そのアクションプランでは、朱太川の魚類の保全と再生のための氾濫原湿地再生を重要な課題の一つとしてあげている。政策の実行のために、魚類相に関する科学的情報が求められている。

多数の地点で多様な手法による魚類の網羅的な調査、過去において同水系から記録された魚類の博物館標本の調査、および生物地理学的な考察により、朱太川水系を自然分布域とする在来魚種の潜在的なプールとして15科40種がリストアップされた。

網羅的な魚類相調査では、15科38種が記録された。通し回遊魚は、種数も生息量も多いのに対して、止水環境を利用する魚類の生息量は限られていた。

淡水漁業に従事した経験のある町民18名を対象とした、過去の魚類相の聞き取り調査では、魚種34種について過去から現在にかけての増減に関する情報が得られたが、漁業協同組合の保護・増殖の対象種については、共通性の高い見解が表明され、信頼性が高いと考えられた。過去において重要な水産資源であったカワヤツメの減少は、過半の調査対象者に指摘された。

絶滅したと考えられるイトウを含め、氾濫原湿地を利用する魚類の減少が示唆され、黒松内町の生物多様性地域戦略における自然再生の目標設定、すなわち「氾濫原湿地の回復」の妥当性が確認された。

氾濫原湿地再生のデザインに資するため、増水時に河川と連結する小水域18ヶ所および対照としてそれ以外のいくつかのタイプの止水的環境において魚類相調査を行なったところ、8科16種の魚類が記録された。クラスター分析では、カワヤツメ、スナヤツメ北方種、シマウキゴリの3種が氾濫原の一時的水域を代表するクラスターの有意な指標種として抽出された。氾濫原調査水域の魚類相組成は有意なネスト構造を示し、種数も指標として有効であることが示唆された。統計モデルによる解析では、種数に対して表水面積が正の効果、海からの河川長は負の効果を及ぼすことが示された。

これらの結果をもとに、朱太川水系における魚類相の保全に資する氾濫原湿地の再生に関して具体的な提案を行なった。

申請者は、誰もが郷土の魚を同定できるガイドブック「朱太川水系の魚類」を、調査成果にもとづいて作成し、町内すべての小中学校でこれを用いた授業を行なうなど、アウトリーチ活動を精力的に展開した。

したがって、本研究は、学術的にも社会的にも十分な成果をあげたといえる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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