学位論文要旨



No 129242
著者(漢字) 小林,夏子
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ナツコ
標題(和) 盲導犬の気質に関わる客観的指標の探索研究
標題(洋)
報告番号 129242
報告番号 甲29242
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3947号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 教授 桑原,正貴
 東京大学 准教授 高橋,伸一郎
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

特定の出来事や環境の変化に遭遇した際に、動物が示す反応は必ずしも同じではなく、個体によって様々に異なるのが一般的である。このような刺激に対する反応の個体差のうち、長期にわたり比較的安定している行動傾向を気質(Temperament)と呼ぶが、気質の形成過程には遺伝的要因と環境的要因の両者が影響することが知られている。このうち初生期における環境要因の影響については主に発達心理学的な観点から研究が行われてきた。一方で遺伝的背景については近年、ヒトで気質関連遺伝子の存在が指摘されてから注目を集めているものの、ヒトでは社会的あるいは文化的環境要因の複雑さが隘路となって生物学的遺伝要因の解明が遅れている。こうした状況の中で、ヒトと同様に豊かな個性を有し、全ゲノムが解読されているイヌが、研究モデルとして注目されてきた。しかしながら、その際には、言語コミュニケーションが成立しないイヌの気質をいかに客観的に評価するか、という問題点が浮上する。従来、イヌの気質に関しては、アンケート評価や行動・生理学的反応を指標とした行動実験を中心に様々な研究が報告されているが、いずれも気質評価の再現性や一貫性の確認が不十分であり、評価の妥当性についての疑義が払拭できないなど、この課題についての重要性と問題点がつねに指摘されてきた。

そこで本研究では、類似性の高い育成環境を有する単一犬種の集団、すなわち盲導犬候補個体群を研究モデルとして、盲導犬の適性に関わる気質に着目し、その客観的指標を探索することを目的とした。さらにそうした指標の一貫性について成長過程を通じて解析することにより、気質に対する遺伝的影響について推測を試みることとした。

第1章は総合緒言として、これまでのイヌにおける気質研究と盲導犬の適性に関する先行研究を概観することで客観的な気質評価系の重要性について示すとともに本研究の目的を述べた。

第2章では、アンケート調査法を用いて盲導犬適性に関わる気質因子を抽出するとともに、その因子が成長過程を通じて維持されるかどうかについて解析した。まず盲導犬適性に関わる気質因子を特定するために、訓練開始3ヶ月後(15ヶ月齢)の候補犬について20項目の気質評価を担当訓練士に依頼した。一般家庭と繁殖センターという初生期環境の異なる候補犬群についてそれぞれ因子分析を実施し比較したところ、共通の3因子すなわち"注意散漫"、"感受性"、"従順さ"が抽出され我々の先行研究と類似の結果が得られた。前者はスコアが低いほど、後2者はスコアが高いほど盲導犬としての適性が高まる因子である。次に、これらの3因子の個体差が成長過程を通じてどのように変化するかを調べるために、候補犬が5ヶ月齢の段階でパピーウォーカーを対象としたアンケート調査を行った。回収したアンケートを因子分析した結果、"新奇探求"、"相手の識別"、"興奮性"、"不安"、"犬への反応"、"喜求性"の6因子が抽出され、これらを15ヶ月齢時の気質因子と比較したところ、"注意散漫"スコアが低い個体は5ヶ月齢時の"新奇探求"、"興奮性"スコアが低く、"感受性"スコアが高い個体は5ヶ月齢時の"犬への反応"スコアが低いことが明らかとなった。これらのことより、盲導犬適性に関わる気質因子である"注意散漫"と"感受性"は、5ヶ月齢から15ヶ月齢にかけて維持されている可能性が示された。

第3章では行動実験法を用いて、気質因子と関連する行動学的および生理学的指標を探索した。具体的には、刺激提示実験として新奇環境下で単独隔離した後に'実験者の入室'を刺激として用いる行動実験を、7週齢時および14ヶ月齢時に実施し、刺激に対する反応様式と"注意散漫"を中心とした気質因子との関連を解析した。

14ヶ月齢時の行動実験は、被験個体を犬舎で10分間落ち着かせた後(犬舎)、新奇環境下で5分間隔離し、同室に実験者が入り5 分間滞在する(入室)という行程で実施し、とくに入室時については最初の1分間とその後の4分間の2区間に分け、計4実験区間として各種行動と心拍数を記録した。解析した行動項目を説明変数、気質因子を目的変数として重回帰分析を行った結果、"注意散漫"スコアの低い個体は、犬舎で探索する時間が短く、入室1分目において注視する時間が長いことが判明した。また、心拍反応についても同じく入室1分目において、"注意散漫"スコアの低い個体ほど平均Δ心拍数および最大Δ心拍数のいずれもが高い値を示すことが分かった。これらの結果より、気質因子に関連する客観的指標が得られるとともに、"注意散漫"スコアが低い個体ほど実験者の入室に対する行動的・生理的反応が大きくなることが示唆された。

一方、7週齢時の行動実験では、14ヶ月齢時の行動実験に対応した実験条件として、まず新奇環境下で5分間隔離(完全隔離)後、実験者が被験個体の入ったサークル内に5分間滞在し(同伴隔離)、その後に身体の持上げテストと仰臥姿勢にして抑え込む抑制テストをそれぞれ30秒間行った。7週齢時と14ヶ月齢時での行動実験の結果を比較したところ、実験者が近くに存在する実験区間では、7週齢で実験者の匂いをかぎながら伏せる時間が長いほど、14ヶ月齢で立っている時間が短く、"注意散漫"スコアが低いことが明らかとなった。これらのことから、実験者が同伴する状況では"注意散漫"スコアが、行動実験の結果に反映されやすい可能性が示された。

続いて7週齢時のデータを用いて、14ヶ月齢時と同様に、全行程で解析した行動項目を説明変数、気質因子を目的変数として重回帰分析を行った。その結果、"注意散漫"スコアの低い個体は持上げ時に静止時間が短いことが明らかとなった。

さらに、14ヶ月齢時と7週齢時で"注意散漫"と関連する指標間の相互関係を調べた結果、7週齢の持上げテスト時に静止時間が短いほど14ヶ月齢の入室1分間の注視が長いという指標間での有意な相関が示された。以上のことから、"注意散漫"スコアの低い個体は、7週齢時に実験者の働きかけに対し反応がみられず、実験者が近くに存在する際は自発的に注意を向けやすく、14ヶ月齢時でも同様に自発的に注意を向けやすいとともに、より大きな心拍数増加を伴うことが示された。

第4章では、第1~3章において"注意散漫"傾向の高低が成長過程を通じて維持されることが示唆されたことから、この気質因子が遺伝的影響を受けている可能性が高いと推測し、遺伝的多型性と成長過程における各種客観的指標との関連を解析した。また、早期育成段階における客観的指標を用いた気質因子の予測精度について検討することとした。

まず、気質に影響を与える可能性のある神経伝達物質関連遺伝子上の多型と3気質因子との関連を解析したところ、Tyrosine hydroxylase (TH) 遺伝子とSolute carrier family 1、 member2 (SLC1A2) 遺伝子上の一塩基多型(264C>T多型、129C>T多型)が"注意散漫"スコアと関連することが明らかとなった。そこで、上記2多型を用いてアレル解析をしたところ、前者ではCアレルを持たない個体群は7週齢において静止時間が短く、14ヶ月齢で注視時間が長く、"注意散漫"スコアが低いことが明らかとなった。後者については、Tアレルを有する個体群で14ヶ月齢における最大Δ心拍数が高く、"注意散漫"スコアが低い傾向にあることが示された。以上のことから、遺伝子多型を基準に分けられた2群においても、本研究で挙げられた客観的指標の一部で相違が維持されていることが判明した。

次に、"注意散漫"スコアを目的変数とし、遺伝子多型と7週齢時の行動指標を説明変数とした重回帰分析を行ったところ、40.6%の予測率(重回帰決定係数)が得られた。5ヶ月齢時のパピーウォーカーアンケート因子と14ヶ月齢の行動・心拍数指標を説明変数とした重回帰分析による予測率が36.3%であったことを勘案すると、生後7週齢以前に得られる客観的指標のみを用いた場合でも、5ヶ月齢以降の指標から得られるものと同等の予測が可能であること示された。

第5章では、総合考察を行った。本研究より、盲導犬適性として重要な気質因子"注意散漫"に関わる客観的指標として、7週齢時および14ヶ月齢時における人(実験者)に対する自発的注意力を示す行動が見出され、「ハンドラーへの集中力の高さ」と解釈されるこうした指標は成長過程を通じて一貫して表出される可能性のあることが示された。街頭や公共交通機関などに溢れる様々な刺激に気をとられず、訓練期においては訓練士に、また盲導犬となった後は使用者の挙動に集中できることが盲導犬としての重要な資質の一つであろうことに思いを馳せれば、本研究の成果は妥当なものと推察される。従来、盲導犬のみならず家庭犬についても成長後の気質を幼少期に予測することは困難であると報告されてきたが、本研究により成長過程を通じて一貫して表出される気質、すなわち遺伝的要素を基盤とする行動特性の存在が示唆された。今後の行動遺伝学的研究の進展により、盲導犬を代表とする様々な使役犬においては早期の適性評価が可能になるともに、一般の家庭犬に対しても個々の気質に適した育成方法や問題行動の治療方法の提案につながることが期待されよう。

審査要旨 要旨を表示する

特定の出来事や環境の変化に遭遇した際に動物が示す反応の個体差のうち、長期にわたり比較的安定している行動傾向を気質(Temperament)と呼ぶ。本研究では、類似性の高い育成環境を有する単一犬種の集団、すなわち盲導犬候補個体群を研究モデルとして、盲導犬の適性に関わる気質に着目し、その客観的指標を探索するとともに、そうした指標の一貫性について成長過程を通じて解析することで、気質に対する遺伝的影響について推測を試みることを目的とした。本論文は以下のように5章で構成され、第1章において本研究の背景と目的が論じられている。

第2章では、まず盲導犬適性に関わる気質因子を特定するために、訓練開始3ヶ月後(15ヶ月齢)の候補犬について因子分析を実施し比較したところ、 "注意散漫"、"感受性"、"従順さ"の3因子が抽出された。前者はスコアが低いほど、後2者はスコアが高いほど盲導犬としての適性が高まる因子である。次に、候補犬が5ヶ月齢の段階でパピーウォーカーを対象としたアンケート調査を行い因子分析した結果、"新奇探求"、"相手の識別"、"興奮性"、"不安"、"犬への反応"、"喜求性"の6因子が抽出され、 "注意散漫"スコアが低い個体は5ヶ月齢時の"新奇探求"、"興奮性"スコアが低く、"感受性"スコアが高い個体は5ヶ月齢時の"犬への反応"スコアが低いことが明らかとなった。

第3章では、刺激提示実験として新奇環境下で単独隔離した後に'実験者の入室'を刺激として用いる行動実験を、7週齢時および14ヶ月齢時に実施し、刺激に対する反応様式と"注意散漫"を中心とした気質因子との関連が解析された。14ヶ月齢時の行動実験は、計4実験区間での各種行動と心拍数を記録し、行動項目を説明変数、気質因子を目的変数として重回帰分析を行った。その結果、"気質因子に関連する客観的指標が得られるとともに、"注意散漫"スコアが低い個体ほど実験者の入室に対する行動的・生理的反応が大きくなることが示唆された。 また"注意散漫"スコアの低い個体は、7週齢時に実験者の働きかけに対し反応がみられず、実験者が近くに存在する際は自発的に注意を向けやすく、14ヶ月齢時でも同様に自発的に注意を向けやすいとともに、より大きな心拍数増加を伴うことが示された。

第4章では、第1~3章において"注意散漫"傾向の高低が成長過程を通じて維持されることが示唆されたことから、この気質因子が遺伝的影響を受けている可能性が高いとの推測に基づき、遺伝的多型性と成長過程における各種客観的指標との関連が解析された。気質に影響を与える可能性のある神経伝達物質関連遺伝子上の多型と3気質因子との関連を解析したところ、Tyrosine hydroxylase (TH) 遺伝子とSolute carrier family 1、 member2 (SLC1A2) 遺伝子上の一塩基多型(264C>T多型、129C>T多型)が"注意散漫"スコアと関連することが明らかとなった。そこで、上記2多型を用いてアレル解析をしたところ、前者ではCアレルを持たない個体群は7週齢において静止時間が短く、14ヶ月齢で注視時間が長く、"注意散漫"スコアが低いことが明らかとなった。後者については、Tアレルを有する個体群で14ヶ月齢における最大Δ心拍数が高く、"注意散漫"スコアが低い傾向にあることが示された。以上のことから、遺伝子多型を基準に分けられた2群においても、本研究で挙げられた客観的指標の一部で相違が維持されていることが判明した。さらに"注意散漫"スコアを目的変数とし、遺伝子多型と7週齢時の行動指標を説明変数とした重回帰分析を行ったところ、40.6%の予測率(重回帰決定係数)が得られ、生後7週齢以前に得られる客観的指標のみを用いた場合でも、5ヶ月齢以降の指標から得られるものと同等の予測が可能であること示された。

第5章では総合考察が展開されている。本研究の結果より、成長過程を通じて一貫して表出される気質すなわち遺伝的要素を基盤とする行動特性の存在が示唆された。こうした研究の成果は、気質発達を予測し使役犬の育成効率を改善する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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