学位論文要旨



No 129253
著者(漢字) 小林,辰也
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,タツヤ
標題(和) 警報フェロモンによる性行動抑制メカニズムに関する研究
標題(洋)
報告番号 129253
報告番号 甲29253
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3958号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 桑原,正貴
 東京大学 教授 前多,敬一郎
 東京大学 准教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

生物にとって自己の遺伝子の保存がもっとも優先されるべきことであるため、性行動は生物にとって数ある社会行動の中で最も重要な行動の一つと考えられる。しかし性行動は、様々な外的刺激により抑制されることが知られている。例えば競走馬や純血種犬の種付けを行う際、メスの飼育場所にオスを連れていくと、新奇環境ストレスによって多くのオスが性行動を完遂できないことが、経験的に知られている。このように、様々なストレッサーによって性行動が抑制されることは実験動物においても観察されており、その局所的な中枢メカニズムも調べられているが、知覚されたストレッサーが最終的に性行動抑制を引き起こすまでの脳内情報伝達経路の全容に関しては未解明であった。その理由として、多くのストレッサーはその知覚様式が不明であることが挙げられる。例えば新奇環境ストレスの場合、それを知覚する感覚は視覚、聴覚、触覚を含めた複数に渡ることが予測されるため、それぞれの感覚に応じた様々な中枢神経核が興奮してしまい、その結果として性行動自体の抑制に関わっている神経核を特定するのが困難であった。本研究で用いた警報フェロモンは、ラットが他個体に危険の存在を伝えるための物質であり、先行研究から鋤鼻器により受容され、ストレス反応を引き起こすフェロモンであることが明らかとなっている。このように、警報フェロモンの受容の際には鋤鼻嗅覚系の神経核が興奮することが明らかなため、性行動の抑制に関わっている神経核の特定が可能であると考えられる。そこで本研究は、ラット警報フェロモンを研究モデルとすることで、ストレス反応が性行動を抑制する脳内情報伝達経路を明らかにすることを目的とした。まず警報フェロモンの性行動抑制効果を検討した後、その抑制に関わる神経伝達物質および神経核の探索を行ったものである。本論文は以下のように5章で構成されている。

第1章は総合緒言であり、警報フェロモンの先行研究を概観するとともに、性行動やその中枢制御機構について解説し、本研究の目的を述べた。

第2章では、警報フェロモンがラットの性行動に与える影響を検討した。警報フェロモンを性行動試験期間全般に渡って提示し続け、オスおよびメスラットの性行動を観察した。警報フェロモンの存在により、オスラットでは射精に必要なマウント数の増加およびHit rate(挿入数をマウント数+挿入数で除した値)の低下が認められた一方で、メスラットではいずれの性行動にも影響が観察されなかったことから、警報フェロモンはオスラットのみの性行動を抑制することが示唆された。次に、警報フェロモンがオスラットに作用することで性行動を抑制したのか、メスラットに作用して間接的にオスラットの性行動を抑制したのかを検討した。性行動試験直前に警報フェロモンをオスラットまたはメスラットに提示し、フェロモンを回収した後に性行動試験を行った。その結果、警報フェロモンをオスラットに提示した場合にのみ前述と同等の結果が得られたことから、警報フェロモンはオスラットにのみ作用することが示された。最後に、警報フェロモンによる性行動抑制におけるCorticotropin releasing hormone (CRH) の役割を検討した。CRHの受容体拮抗阻害薬であるCP-154526をあらかじめ投与したオスラットに警報フェロモンを提示し、その後の性行動を観察した。その結果、CP-154526の事前投与により性行動抑制が用量依存的に緩和されたことから、警報フェロモンによる性行動抑制にはCRHが関与していることが示唆された。以上の結果より、警報フェロモンはオスラットに作用することでオスラットの性行動を抑制し、その際にはCRHが関与していることが明らかとなった。

第3章では、警報フェロモンによる性行動抑制に関与する中枢神経核を検討するため、性行動抑制を示したオスラットの脳におけるc-Fos蛋白質の発現を観察した。先行研究において、巨細胞性傍核の除去はオスラットのマウント数を減少させhit rateを上昇させるという、警報フェロモンによる性行動抑制と逆の作用を持つことが示されていることから、本実験ではこの巨細胞性傍核に着目することとした。また室傍核に対して抗c-Fos蛋白質抗体および抗CRH抗体を用いて二重染色を行うことで、室傍核におけるCRH含有細胞の役割を検討した。オスラットに警報フェロモンを提示すると、第2章と同様にマウント数の増加と、Hit rateの低下が観察された。また室傍核では、警報フェロモンの提示は抗c-Fos蛋白質抗体と抗CRH抗体とで二重染色された細胞数が増加した。これらの結果より、警報フェロモンは室傍核からのCRH分泌を促し、オスラットの性行動を抑制することが示唆された。またさらに、分界条床核内側部吻側、分界条床核外側部吻側、分界条床核尾側、扁桃体内側核、扁桃体外側基底核、巨細胞性傍核において、警報フェロモンはc-Fos蛋白質の発現を増加させることが明らかとなった。以上の結果から、警報フェロモンは室傍核からのCRH分泌を促すとともに、巨細胞性傍核を含む視床下部や脳幹の神経核を活性化させることで、性行動を抑制することが推測された。

第4章では、警報フェロモンによる性行動抑制におけるオピオイドの役割を検討した。オピオイドの受容体拮抗阻害薬であるナロキソンをあらかじめ投与したオスラットに警報フェロモンを提示し、その後の性行動を観察した結果、ナロキソンの事前投与は用量依存的に性行動抑制を緩和したことから、警報フェロモンによる性行動抑制にはオピオイドが関与していることが示唆された。また同時にオピオイドの作用メカニズムを検討するため、これらのオスラットにおいてc-Fos蛋白質の発現を観察した。特定の神経核において警報フェロモンの提示がc-Fos蛋白質の発現量に変化を与え、ナロキソンの投与がその変化を阻害した場合に、その神経核は性行動抑制神経経路におけるオピオイドの作用点より下流にある神経核であることが示唆される一方で、警報フェロモンの提示により変化したc-Fos蛋白質の発現量がナロキソン投与による影響を受けないのであれば、その神経核はオピオイドの作用点より上流にある神経核であるか、またはオピオイドとは無関係に活性化された神経核であることが推測できる。本実験結果として、警報フェロモンの提示は分界条床核内側部吻側、分界条床核外側部吻側、分界条床核尾側、室傍核小細胞性領域、弓状核、中脳中心灰白質背外側部、中脳中心灰白質腹外側部、および巨細胞性傍核におけるc-Fos蛋白質の発現量を増加させ、室傍核大細胞性領域の発現量を減少させることが明らかとなった。ナロキソン投与は、これらの神経核のうち中脳中心灰白質腹外側部、巨細胞性傍核、および室傍核大細胞性領域におけるc-Fos蛋白質の発現量変化を阻害したことから、これらの神経核はオピオイド作用点の下流にあることが示唆された。また一方で、室傍核小細胞性領域におけるc-Fos蛋白質の発現量増加はナロキソン投与により阻害されなかったことから、CRHの作用点はオピオイドの作用点より上流であることが推測された。以上の結果より、警報フェロモンはCRHの下流においてオピオイド分泌を促すことで性行動を抑制していることが示唆された。

第5章では総合考察を行った。本研究の結果より、警報フェロモンはオスラットに作用することでオスラットの性行動を抑制すること、その抑制には室傍核由来のCRHとオピオイド、および視床下部や脳幹の様々な中枢神経核が関与していることが示された。本研究結果と先行研究の結果をもとにすると、警報フェロモンによる性行動抑制神経経路として以下の仮設を立てられよう。すなわち、警報フェロモンは鋤鼻器で受容された後、その情報は副嗅球、分界条床核を経て室傍核小細胞性領域に伝達され、CRHの分泌を促す。分泌されたCRHは弓状核に作用してオピオイドの放出を促し、その後中脳中心灰白質―巨細胞性傍核の神経経路を活性化させるとともに、室傍核大細胞性領域を抑制することで性行動を抑制する、という経路である。

室傍核におけるCRH分泌は様々なストレッサーを用いたストレスにおいて観察される共通の反応である。本研究結果より予測した性行動抑制経路においてもCRHは重要な役割を果たしていることから、この経路は様々な場面におけるストレスに共通した性行動抑制経路の一つであることが示唆される。性行動の発現に関与している神経メカニズムは哺乳類を通して保存されていることや先行研究から性行動の抑制に関わっていることが示唆されている中枢神経核が解剖学的に保存されていることを考慮すると、性行動を抑制するメカニズムも同様に哺乳類を通して保存されていると考えられる。そのため、本研究で得られた知見は他の動物種においても外挿し得るものと思われ、家畜の繁殖効率の向上のほかに人間におけるストレス性の勃起障害の解明や治療薬の開発といった臨床分野への応用も期待される。本研究で中枢機能の解析に用いられた手法は、薬物の全身投与とそれに伴う行動観察および免疫組織化学的手法であるため、ある一つの神経伝達物質が特定の神経核において作用していることを直接的に示しているものではないことから、今後は、本研究で関連が予想された神経核への微量投与法などを用いることで、神経経路を確定していくことが大切であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

性行動は重要な社会行動の一つであるが、様々な外的刺激により抑制されることが知られている。ストレッサーによって性行動が抑制される中枢メカニズムについても調べられているが、知覚されたストレッサーが最終的に性行動抑制を引き起こすまでの脳内情報伝達経路に関しては未解明であった。本研究は、ラット警報フェロモンを研究モデルとすることでストレス反応が性行動を抑制する脳内情報伝達経路を明らかにすることを目的とし、警報フェロモンの性行動抑制効果について検討した後、その抑制に関わる神経伝達物質および神経核の探索を行ったものである。本論文は以下のように5章で構成され、第1章において本研究の背景と目的が論じられている。

第2章では、警報フェロモンがラットの性行動に与える影響について検討が行われた。警報フェロモンの提示により、オスラットでは射精に必要なマウント数の増加およびHit rate(挿入数をマウント数+挿入数で除した値)の低下が認められた一方で、メスラットではいずれの性行動にも影響が観察されなかった。そこで次に、警報フェロモンをオスラットまたはメスラットのみに提示した結果、警報フェロモンはオスラットにのみ作用することが示された。またCorticotropin releasing hormone (CRH) の受容体拮抗阻害薬であるCP-154526をあらかじめ投与したオスラットに警報フェロモンを提示し、その後の性行動を観察したところCP-154526は用量依存的に性行動抑制を緩和したことから、警報フェロモンによる性行動抑制にはCRHが関与していることが示唆された。

第3章では、警報フェロモンによる性行動抑制に関与する中枢神経核を検討するため、脳各部位におけるc-Fos蛋白質の発現が観察された。室傍核に対して抗c-Fos蛋白質抗体および抗CRH抗体を用いて二重染色を行ったところ、オスラットに警報フェロモンを提示することで、室傍核における抗c-Fos蛋白質抗体と抗CRH抗体とで二重染色された細胞数が増加することが見出された。また分界条床核内側部吻側、分界条床核外側部吻側、分界条床核尾側、扁桃体内側核、扁桃体外側基底核、巨細胞性傍核においても、警報フェロモンはc-Fos蛋白質の発現を増加させた。これらの結果から、警報フェロモンは室傍核からのCRH分泌を促すとともに、巨細胞性傍核を含む視床下部や脳幹の神経核を活性化させることで、性行動を抑制していることが推測された。

第4章では、警報フェロモンによる性行動抑制におけるオピオイドの役割が検討された。オピオイドの受容体拮抗阻害薬であるナロキソンをあらかじめ投与したオスラットに警報フェロモンを提示し、その後の性行動を観察した結果、ナロキソンの事前投与は用量依存的に性行動抑制を緩和したことから、警報フェロモンによる性行動抑制にはオピオイドが関与していることが示唆された。また同時にc-Fos蛋白質の発現を観察した結果、警報フェロモンの提示は分界条床核内側部吻側、分界条床核外側部吻側、分界条床核尾側、室傍核小細胞性領域、弓状核、中脳中心灰白質背外側部、中脳中心灰白質腹外側部、および巨細胞性傍核におけるc-Fos蛋白質の発現量を増加させ、室傍核大細胞性領域の発現量を減少させることが明らかとなった。ナロキソン投与は、これらの神経核のうち中脳中心灰白質腹外側部、巨細胞性傍核、および室傍核大細胞性領域におけるc-Fos蛋白質の発現量変化を阻害したことから、これらの神経核はオピオイド作用点の下流にあることが示唆された。また一方で、室傍核小細胞性領域におけるc-Fos蛋白質の発現量増加はナロキソン投与により阻害されなかったことから、CRHの作用点はオピオイドの作用点より上流であることが推測された。以上の結果より、警報フェロモンはCRHの下流においてオピオイド分泌を促すことで性行動を抑制していることが示された。

第5章では総合考察が展開されている。本研究の結果より、警報フェロモンは雄に作用してオスラットの性行動を抑制すること、その抑制には室傍核由来のCRHとオピオイド、および視床下部や脳幹の様々な中枢神経核が関与していることが示された。こうした研究の成果は、生得的行動の発現に対するストレスの影響を理解する上で重要な知見であり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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