学位論文要旨



No 129255
著者(漢字) 鈴木,日吉
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ヒヨシ
標題(和) 犬のリンパ系腫瘍におけるチロシンキナーゼ阻害薬を用いた分子標的療法に関する基盤的研究
標題(洋) Basic studies on the molecular-targeted therapy with tyrosine kinase inhibitors in canine lymphoid neoplasms
報告番号 129255
報告番号 甲29255
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3960号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 教授 松木,直章
 東京大学 准教授 大野,耕一
 東京大学 准教授 堀,正敏
内容要旨 要旨を表示する

チロシンキナーゼ(Tylosine kinase, TK)は細胞の活性化や増殖を制御するシグナル伝達分子であり、医学領域では、TK遺伝子の変異、タンパク発現量、およびその活性の変化が悪性腫瘍の発生に関与していることが知られている。これら所見をもとにして開発されたTK阻害薬が臨床応用されており、腫瘍細胞の増殖を特異的に抑制する分子標的抗腫瘍薬として成果を挙げている。また、リンパ球の活性化や増殖を制御するシグナル伝達系にもTKが関与しており、人の一部のリンパ系腫瘍においてALK等のTKの恒常的活性化が認められることから、TK阻害薬の臨床応用も検討されている。一方、獣医学領域では、犬のリンパ系腫瘍細胞株において受容体型TKのFLT3を恒常的に活性化させる変異が見い出されているが、リンパ系腫瘍の病態におけるTKの関与やTK阻害薬の臨床応用は検討されていない。本研究では、犬のリンパ系腫瘍におけるTK阻害薬の抗腫瘍効果の検討するため、各種TK阻害薬の犬のリンパ系腫瘍細胞株に対する効果を解析し、増殖抑制効果を示したTK阻害薬が作用する分子に関してその遺伝子塩基配列、タンパク発現量、およびTK活性を検討した。

第1章犬のリンパ系腫瘍細胞株におけるチロシンキナーゼ阻害薬の増殖抑制効果

犬のリンパ系腫瘍細胞株の一つであるGL-1ではTKの一分子であるFLT3に変異が認められ、TK阻害薬lestaurtinibに高い感受性を示すことが報告された。しかし、これまでに犬のリンパ系腫瘍におけるTK阻害薬の増殖抑制効果を包括的に検討したは研究は行われていない。そこで、本章では10種類のTK阻害薬(axitinib, bosutinib, dasatinib, erlotinib, gefitinib, imatinib, masutinib, sorafenib, sunitinib, vatalanib)に関して、6種類の犬のリンパ系腫瘍細胞株(CL-1、CLBL-1、EMA、GL-1、Nody-1、UL-1)を用い、これら薬剤に対する感受性を比較検討した。CLBL-1およびEMAにおけるdasatinibの50%増殖阻害濃度(50% inhibitory concentration, IC50)は、他4種の細胞株におけるIC50よりも40~1,000倍低かった。また、GL-1におけるsorafenibおよびsunitinibのIC50は他5種の細胞株における値よりもそれぞれ60~300倍および40~200倍低かった。他7種のTK阻害薬に関しては、犬のリンパ系腫瘍細胞株間でIC50の有意な差は認められなかった。

sorafenibとsunitinibは変異のあるFLT3に対し親和性が高く、GL-1が他5種の細胞株よりsorafenibやsunitinibに高感受性だったことは、異常に活性化したFLT3のGL-1の生存や増殖への関与を示唆した過去の報告を支持する。他4種の細胞株よりdasatinibに対する感受性が高かったCLBL-1とEMAでは、dasatinibが作用する何らかの異常に活性化したTKがその生存や増殖に関与していることが示唆された。

第2章 犬のSRCのアミノ酸置換がもたらすdasatinibのSRC活性阻害作用に対する影響

異常に活性化したTKの特定は、犬のリンパ系腫瘍に対するTK阻害薬の臨床応用の検討で重要である。dasatinibはbcr-abl遺伝子変異に特異的なTK阻害薬として開発されたが、SRCファミリーキナーゼを含む広範なTKの活性化を阻害する。作用分子の遺伝子塩基配列の変異によるアミノ酸置換はTK阻害薬の親和性が変化する原因になるため、本章ではdasatinibの増殖抑制効果の原因分子として、CLBL-1とEMAで遺伝子塩基配列の変異が認められたsrc遺伝子に着目した。CLBL-1とEMAのsrc遺伝子の塩基配列を健常犬のものと比較した結果、これら2細胞株では同じ部位において2アミノ酸残基のまったく同じ置換が認められた。これら細胞株のSRCタンパクの発現量を抗ヒトSRC抗体によるWestern blottingで比較したところ、その発現量は他の細胞株とほぼ同様であった。次に、抗ヒトSRC抗体を用いた免疫沈降によりSRCタンパクを単離し、そのペプチド中のチロシン残基のリン酸化能をin vitroで測定することによってSRCのTK活性を測定した。これら細胞株で認められたアミノ酸置換のあるSRCと健常犬のSRCをHis融合タンパクとして強制発現させた人腎上皮細胞由来細胞株HEK293Tにdasatinibを添加して培養し、これらSRCがTK活性を失うdasatinibの濃度を比較した。その結果、HEK293Tで強制発現させたアミノ酸置換のあるSRCは正常なSRCと比べて約1/5の濃度のdasatinibでTK活性が抑制された。このことから、このアミノ酸置換はSRCのdasatinibに対する感受性を上げることが示唆された。また、CLBL-1とEMAと同じ遺伝子変異は、犬のリンパ腫32症例中3症例、健常犬7頭中1頭で認められた。

第2章犬のリンパ系腫瘍細胞株におけるLYNのdasatinibに対する感受性の評価

CLBL-1は犬で最も多いびまん性大細胞型B細胞性リンパ腫から樹立された細胞株である。人医学領域ではこのタイプのリンパ腫ではLYNの活性化がその生存に必須であることが知られている。dasatinibはLYNの活性化も阻害するため、CLBL-1のdasatinibに対する高感受性の原因分子として、本章ではLYNに着目した。上記6種類のリンパ系腫瘍細胞株および健常犬におけるlyn遺伝子の塩基配列を解析するとともに、抗ヒトLYN抗体を用いたWestern blottingでLYNの発現量を細胞株間で比較した。LYNを発現している4種の細胞株(GL-1, CLBL-1, EMA, Nody-1)からLYNを抗ヒトLYN抗体による免疫沈降で単離し、前章と同様の方法でそれらのTK活性を測定した。また、これら細胞株にdasatinibを添加して培養した後、抗ヒトLYN抗体を用いた免疫沈降でLYNを単離して、TK活性を測定することによってdasatinibに対する感受性を検討した。用いた細胞株ではアミノ酸配列に置換をもたらすlyn遺伝子塩基配列の変異は認められなかったが、CLBL-1におけるLYNの発現量は他の細胞株より多く、そのTK活性は他の細胞株に比べて有意に強かった。また、CLBL-1のLYNのTK活性は、他の細胞株に比べて1/10以下の濃度のdasatinibにより抑制され、dasatinibに対する感受性が高いことが示された。CLBL-1のlyn遺伝子塩基配列に変異はなく、LYNの活性化が他の細胞株に比べて低濃度のdasatinibで阻害される原因として、LYNの発現量が多く、TK活性が強いことが考えられた。CLBL-1のLYNのTK活性を50%抑制するdasatinibの濃度が第1章で認められた増殖抑制を引き起こすdasatinibのIC50と同程度であったことから、dasatinibのCLBL-1における増殖抑制効果はLYNの活性化の阻害によるものであることが示唆された。

第3章犬のリンパ系腫瘍細胞株におけるdasatinibによるLCKの活性化阻害

LCKはTリンパ球においてT細胞受容体のシグナル伝達系に関与し、Bリンパ球におけるLYNに相当する機能を持つTKである。dasatinibはLCKの活性化も阻害するため、本章では、T細胞の免疫学的表現型を示すEMAのdasatinibに対する高感受性の原因分子としてLCKに着目した。上述した6種類のリンパ系腫瘍細胞株と健常犬のlck遺伝子塩基配列を解析し、抗ヒトLCK抗体によるWestern blottingでLCKの発現量を細胞株間で比較した。LCKを発現する5種の細胞株(CL-1, GL-1, UL-1, EMA, Nody-1)におけるLCKを抗ヒトLCK抗体による免疫沈降で単離し、第2章と同様の方法でTK活性を測定して細胞株間で比較した。これら細胞株にdasatinibを添加して培養した後、抗ヒトLCK抗体を用いた免疫沈降によりLCKを単離して、TK活性を測定することによってその活性を50%抑制するdasatinibの濃度を細胞株間で比較した。EMAではlck遺伝子塩基配列に変異は認められなかったが、他の細胞株よりLCKの発現量が多く、TK活性は有意に高かった。EMAのLCKのTK活性は他の細胞株に比べて1/20以下の濃度のdasatinibにより抑制された。EMAではlck遺伝子塩基配列に変異はなく、LCKのTK活性が他の細胞株より低濃度のdasatinibで抑制される原因として、LCKの発現量が多く、TK活性が強いことが考えられた。EMAにおけるLCKのTK活性が50%抑制されるdasatinibの濃度が第1章の増殖に関するdasatinibのIC50よりも低く、EMAにおけるdasatinibの増殖抑制効果はLCKの活性化の阻害によることが示唆された。

本研究を通して、犬のリンパ系腫瘍において活性化が認められるTK分子が同定され、さらにそれらの活性および細胞増殖を阻害するTK阻害薬を明らかにすることができた。これら研究成果は、将来における犬のリンパ腫の分指標的治療の基盤を提供するものであり、獣医臨床腫瘍学および比較腫瘍学の発展に寄与するものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

チロシンキナーゼ(tyrosine kinase, TK)は細胞の増殖等を制御し、医学領域ではTK遺伝子の変異、タンパク発現量および活性の変化が悪性腫瘍の発生に関与しており、その阻害薬が人のリンパ系腫瘍の一部でも抗腫瘍薬として成果をあげている。獣医学領域では、犬のリンパ系腫瘍の病態におけるTKの関与やTK阻害薬の臨床応用は検討されていない。本研究では、犬のリンパ系腫瘍におけるTK阻害薬の抗腫瘍効果を検討するため、犬のリンパ系腫瘍細胞株に対するTK阻害薬の効果を解析し、TK阻害薬が作用する分子の遺伝子塩基配列、タンパク発現量およびTK活性を検討した。

第1章犬のリンパ系腫瘍細胞株におけるチロシンキナーゼ阻害薬の増殖抑制効果

犬のリンパ系腫瘍におけるTK阻害薬の増殖抑制効果の包括的な研究は行われておらず、6種類の犬のリンパ系腫瘍細胞株(CL-1、CLBL-1、EMA、GL-1、Nody-1、UL-1)の10種類のTK阻害薬(axitinib, bosutinib, dasatinib, erlotinib, gefitinib, imatinib, masitinib, sorafenib, sunitinib, vatalanib)に対する感受性を検討した。CLBL-1とEMAにおけるdasatinibの50%増殖阻害濃度は他4種の細胞株よりも低く、GL-1におけるsorafenibとsunitinibの50%増殖阻害濃度は他5種の細胞株よりも低かった。GL-1の高感受性はFlt3に起因すると考えられた。CLBL-1とEMAはdasatinibに対し高い感受性を示し、作用するTKの生存や増殖への関与が示唆された。

第2章犬のSrcのアミノ酸置換がもたらすdasatinibのSrc活性阻害作用に対する影響

異常に活性化したTKの特定は犬のリンパ系腫瘍に対するTK阻害薬の臨床応用の検討で重要である。増殖抑制作用の原因分子として、dasatinibが作用するSRCファミリーキナーゼの中でもCLBL-1とEMAで変異が認められたsrcに着目した。CLBL-1とEMAのSrcには2アミノ酸残基の置換があり、その発現量を抗ヒトSrc抗体によるWestern blottingで比較したが、他の細胞株とほぼ同様であった。この健常犬とアミノ酸置換のあるSrcを強制発現させた人腎上皮細胞由来細胞株HEK293Tにdasatinibを添加して培養し、TK活性を測定した結果、アミノ酸置換のあるSrcは正常なSrcと比べて低濃度で抑制された。このアミノ酸置換はSrcのdasatinibに対する感受性を上げることが示唆された。

第3章 犬のリンパ系腫瘍細胞株におけるLynのdasatinibに対する感受性の評価

医学領域でLynの活性化が生存に必須であることが知られているリンパ腫と同タイプの犬のリンパ腫から樹立されたCLBL-1のdasatinibに対する高感受性の原因分子としてLynに着目した。抗ヒトLyn抗体を用いて、第2章と同様の方法で上記6種類のリンパ系腫瘍細胞株におけるLynの発現量、TK活性を測定した。これら細胞株にdasatinibを添加して培養し、抗ヒトLyn抗体を用いた免疫沈降でLynを単離してTK活性を測定した。CLBL-1では他の細胞株よりLynの発現量は多かった。TK活性も有意に強く、他の細胞株に比べて低い濃度のdasatinibにより抑制された。CLBL-1におけるdasatinibの増殖抑制効果はLynの活性化の阻害によるものであることが示唆された。

第4章 犬のリンパ系腫瘍細胞株におけるdasatinibによるLckの活性化阻害

LckはT細胞受容体のシグナル伝達系に関与しており、T細胞の免疫学的表現型を示すEMAのdasatinibに対する高感受性の原因分子としてLckに着目した。抗ヒトLck抗体を用いて、上記6種類のリンパ系腫瘍細胞株におけるLckの発現量、TK活性およびdasatinibに対する感受性を第3章と同様の方法で検討した。EMAでは他の細胞株よりLckの発現量は多かった。TK活性も有意に強く、他の細胞株に比べて低い濃度のdasatinibにより抑制された。EMAにおけるdasatinibの増殖抑制効果はLckの活性化の阻害によるものであることが示唆された。

本研究は犬のリンパ系腫瘍に対する分子標的治療を開発するために必要な基礎的知見を提供するものであり、獣医臨床腫瘍学に新たな展開を導くものと評価することができる。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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