学位論文要旨



No 129259
著者(漢字) 前田,真吾
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,シンゴ
標題(和) イヌの炎症性腸疾患における粘膜免疫の不均衡に関する研究
標題(洋) Investigation on imbalanced mucosal immunity in canine inflammatory bowel disease
報告番号 129259
報告番号 甲29259
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3964号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 教授 松木,直章
 東京大学 准教授 堀,正敏
 東京大学 准教授 大野,耕一
内容要旨 要旨を表示する

消化管は「内なる外」を形成しており、常時膨大な数の抗原に曝露されている。正常な消化管内では、病原体に対しては速やかに免疫応答が惹起されるのに対し、食物や共生細菌に対しては免疫寛容が誘導される。この巧妙な腸管免疫システムのバランスが破綻することにより、炎症性腸疾患(inflammatory bowel disease; IBD)で認められる消化管粘膜の慢性炎症が形成されると考えられている。

イヌのIBDは、消化管粘膜における慢性炎症を特徴とし、持続性または再発性の消化器症状を呈する疾患である。イヌIBDの病態はよくわかっていないが、(1)腸内環境、(2)腸管粘膜免疫、(3)粘膜バリアの3つの異常が複雑に関わり合うことで消化管の慢性炎症が引き起こされると考えられている。

本論文における一連の研究は、イヌIBDにおける粘膜免疫の不均衡を明らかにすることを目的とし、上記の3つの要因のそれぞれに関して検討を行ったものである。第一の要因である腸内環境の異常に関しては、これまでのマイクロバイオーム解析により、イヌIBD症例における腸内細菌叢の変化が明らかにされている。Immunoglobulin A (IgA)は、粘膜免疫の最前線において作用し、腸内細菌叢の形成や維持に関与していることが知られている。そこで第1章では、イヌIBD症例における血清、糞便、十二指腸、および末梢血単核球(peripheral blood mononuclear cells; PBMC)のIgAレベルを検討した。第二の要因である腸管粘膜免疫の異常に関しては、これまでイヌIBDでは主に病変部におけるサイトカイン遺伝子発現の検討が行われてきた。しかし、ヒトのIBDで認められるようなTh1/Th2サイトカインバランスの偏りはイヌIBD症例では認められておらず、これらサイトカイン以外の炎症性メディエーターの重要性が推測された。そこでケモカインに着目して予備実験を行ったところ、イヌIBD症例の病変部では様々なケモカイン発現の上昇が認められた。その中で、リガンド・受容体ともに発現の増加を認めたフラクタルカインとその受容体であるCX3CR1に焦点を絞ってより詳細な検討を第2章で行った。第三の要因である粘膜バリアの異常に関しては、これまでに腸粘膜透過性の亢進がイヌIBD症例で報告されている。げっ歯類において、Protease-activated receptor-2 (PAR-2)と呼ばれるプロテアーゼをリガンドとする受容体が腸粘膜透過性を制御していることが知られている。また粘膜透過性の制御以外に、PAR-2は腸炎の発症にも重要であることが複数のIBDモデルマウスにより証明されているが、イヌやヒトのIBDにおける役割については不明な点が多い。そこで第3章では、イヌIBD症例の病変部におけるPAR-2発現および糞便中セリンプロテアーゼ活性を解析するとともに、イヌ小腸組織においてPAR-2の活性化による炎症性サイトカインおよびケモカインの誘導に関して検討した。

第1章:イヌIBD症例における粘膜IgAレベルの低下

IgAは、補体活性化能が他のイムノグロブリンアイソタイプよりも弱く、一方で効果的な中和作用を有しており、抗原と結合しても炎症を誘導しないアイソタイプであると考えられている。そのため、IgAは消化管の免疫寛容に重要であることが古くから指摘されているが、そのIBDにおける役割はよくわかっていない。そこで本章ではイヌIBD症例におけるIgA発現を検討した。

IBD症例においては、血清中のIgA濃度に変化は認められなかったが、糞便および十二指腸ホモジェネート中のIgA濃度は有意に低下していた。さらに、免疫組織化学法により十二指腸組織のIgAを染色すると、IBD症例ではIgA陽性リンパ球数が有意に減少していた。腸管でIgMからクラススイッチしたIgA陽性B細胞は、一度血流に入り、全身循環を経て再び腸管へ遊走し、IgA分泌プラズマ細胞に分化する。そこでPBMC中のIgA陽性CD21陽性B細胞数を測定したところ、IBD症例において有意に減少していることが明らかになった。これらのIgA発現の低下は、IBDと類似した消化器症状を呈する消化器型リンパ腫症例では認められなかった。本章で明らかになったイヌIBD症例におけるIgAレベルの低下は、慢性腸炎の原因あるいは結果のいずれを反映するものかは不明であるが、イヌIBD症例で報告されている腸内細菌叢の変化の一要因であることが示唆された。

第2章:イヌIBD症例におけるフラクタルカインおよびCX3CR1の発現増強とその上皮内リンパ球集簇における役割

イヌIBDの病理組織学的特徴として、消化管粘膜の固有層や上皮内にリンパ球が高度に浸潤していることが挙げられる。最近、ヒトのIBD患者においてケモカインのひとつであるフラクタルカインとその受容体であるCX3CR1がリンパ球や樹状細胞の腸管組織への浸潤に重要であることが報告された。さらにIBDモデルマウスに抗フラクタルカイン抗体を投与することによって腸炎の発症が抑制されることから、フラクタルカインの制御によるIBDに対する新しい治療法も提唱されている。そこで本章ではイヌIBDの病態におけるフラクタルカインおよびCX3CR1の関与について検討した。

十二指腸におけるフラクタルカインおよびCX3CR1のmRNA発現は、健常犬と比べIBD症例で有意に高かった。フラクタルカインの蛋白量もIBD症例の十二指腸で有意に多く、その発現は上皮細胞の細胞質に限局していた。PBMCにおけるCX3CR1陽性率は、健常犬と比べIBD症例で有意に高く、上皮内リンパ球浸潤の病理学的重症度と正の相関を示した。PBMCにおけるCX3CR1陽性細胞と上皮内リンパ球の表面抗原を解析したところ、CX3CR1陽性PBMCの多くがCD8陽性T細胞であり、同様に十二指腸上皮内リンパ球もその多くがCD8陽性T細胞であった。以上の結果より、イヌIBD症例におけるフラクタルカインおよびCX3CR1の発現がmRNAおよび蛋白レベルのいずれにおいても増加していることが明らかになった。十二指腸におけるフラクタルカイン発現の局在が上皮細胞に限局していたこと、PBMCにおけるCX3CR1陽性率と上皮内リンパ球の浸潤程度の間に正の相関を認めたこと、さらにCX3CR1陽性PBMCと上皮内リンパ球の表面抗原プロファイルが類似していたことから、イヌIBD症例における腸上皮内リンパ球の浸潤にフラクタルカインとCX3CR1が重要な役割を果たすことが示唆された。

第3章:イヌIBD症例の小腸におけるPAR-2発現および糞便中セリンプロテアーゼ活性およびその腸炎発症への関与

PAR-2は腸粘膜における炎症制御分子の一つであり、セリンプロテアーゼにより活性化し、炎症反応を惹起する受容体である。セリンプロテアーゼには消化管に豊富に存在するトリプシンやトリプターゼなどが含まれる。最近、IBDモデルマウスにおいてPAR-2の欠損が腸炎発症を抑制することが報告された。さらに、PAR-2アゴニストの直腸内投与がマウスに大腸炎を誘導することから、少なくともマウスモデルにおいてPAR-2の活性化が腸炎発症に関与していることが示されている。そこで本章ではイヌIBDの病態におけるPAR-2の関与を検討した。

IBD症例の十二指腸において、PAR-2の発現がmRNAおよび蛋白レベルのいずれにおいても増加していた。一方、IBD症例の糞便中においてPAR-2のリガンドとなるセリンプロテアーゼ活性が上昇していることが示され、さらにその活性と臨床症状の重症度との間に正の相関を認めた。疾患コントロールとして用いた急性下痢症例の糞便では、セリンプロテアーゼ活性の上昇は認められなかった。また、イヌ小腸組織のPAR-2をトリプシンまたはPAR-2アゴニストにより活性化することにより、IL-1β、IL-8およびフラクタルカインの遺伝子発現が誘導された。以上の結果より、セリンプロテアーゼ・PAR-2経路が炎症性サイトカイン・ケモカインの産生を介してイヌIBDにおける慢性腸炎発症に関与している可能性が示唆された。

総括

以上の一連の研究成果により、イヌIBDの病態における粘膜免疫の制御不全を複数の側面から明らかにした。すなわち、(1)管腔内(IgAおよびセリンプロテアーゼ)、(2)腸粘膜(フラクタルカイン)、(3)境界面(PAR-2)という3領域の異常が組み合わさることにより、イヌIBDにおける慢性腸炎が起こると考えられる。IgAは腸内細菌叢の形成・維持に関与しているため、消化管粘膜におけるIgAの減少は、イヌIBD症例で認められる腸内細菌叢の変化の原因となりうる。腸内細菌叢の変化により、IBD症例ではセリンプロテアーゼ産生菌が増加している可能性がある。またIgAは、病原体や毒素ばかりではなく、プロテアーゼのような酵素に対する中和作用も示すため、消化管粘膜におけるIgAの減少は直接的・間接的に管腔内のセリンプロテアーゼ活性を増加させている可能性がある。実際、本研究において、糞便中におけるIgA濃度とセリンプロテアーゼ活性の間には有意な負の相関が認められた。IBD症例における管腔内のセリンプロテアーゼ活性の亢進は、腸上皮細胞に発現しているPAR-2を過剰に活性化し、フラクタルカインを含む炎症性メディエーターの産生を介して腸炎を誘導している可能性が推測される。以上のような本研究によって示唆された病態を総合すると、セリンプロテアーゼインヒビターを用いたPAR-2活性化の阻害は、イヌIBDに対する新しい治療戦略になりうるものと考えられた。

現在、セリンプロテアーゼインヒビターの経口薬であるメシル酸カモスタットのイヌIBDにおける治験が進行中である。本論文執筆段階において、5頭のIBD症例にメシル酸カモスタットによる単独治療を行ったところ、1頭で完全寛解、2頭で部分寛解が得られている。現時点では、メシル酸カモスタットによる重大な副作用は認められていない。まだ臨床応用に関しては予備的な段階ではあるが、セリンプロテアーゼインヒビターを用いたプロテアーゼ・PAR-2経路の阻害はイヌIBDに対する効果的な治療法となる可能性がある。

本論文における一連の研究は、臨床的に重要なイヌIBDの病態を解明するための重要な知見を提供するものであり、新規治療法の確立につながるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

イヌの炎症性腸疾患(inflammatory bowel disease; IBD)は、消化管粘膜における慢性炎症を特徴とし、持続性または再発性の消化器症状を呈する疾患である。イヌIBDの病態はよくわかっていないが、(1)腸内環境、(2)腸管粘膜免疫、(3)粘膜バリアの3つの異常が複雑に関わり合うことで消化管の慢性炎症が引き起こされると考えられている。そこで本研究では、イヌIBDにおける上記の3つの要因、すなわちIgA(腸内環境)、フラクタルカイン(腸管免疫)およびProtease-activated receptor-2 (PAR-2; 粘膜バリア)に関して検討を行った。

第1章:イヌIBD症例における粘膜IgAレベルの低下

IgAは消化管の免疫寛容に重要であることが古くから指摘されているが、そのIBDにおける役割はよくわかっていない。そこで本章ではイヌIBDにおけるIgA発現を検討した。IBD症例において、糞便および十二指腸ホモジェネート中のIgA濃度は有意に低下していた。さらに、免疫組織化学法により十二指腸組織のIgAを染色すると、IBD症例ではIgA陽性リンパ球数が有意に減少していた。腸管でIgMからクラススイッチしたIgA陽性B細胞は、一度血流に入り、全身循環を経て再び腸管へ遊走し、IgA分泌プラズマ細胞に分化する。そこでPBMC中のIgA陽性CD21陽性B細胞数を測定したところ、IBD症例において有意に減少していることが明らかになった。本章で明らかになったイヌIBD症例におけるIgAレベルの低下は、慢性腸炎の原因あるいは結果のいずれを反映するものかは不明であるが、イヌIBD症例で報告されている腸内細菌叢の変化の一要因であることが示唆された。

第2章:イヌIBD症例におけるフラクタルカインおよびCX3CR1の発現増強とその上皮内リンパ球集簇における役割

イヌIBDの病理組織学的特徴として、消化管粘膜の固有層や上皮内にリンパ球が高度に浸潤していることが挙げられる。最近、ヒトのIBD患者においてケモカインのひとつであるフラクタルカインとその受容体であるCX3CR1がリンパ球や樹状細胞の腸管組織への浸潤に重要であることが報告された。そこで本章ではイヌIBDの病態におけるフラクタルカインおよびCX3CR1の関与について検討した。十二指腸におけるフラクタルカインおよびCX3CR1のmRNA発現は、健常犬と比べIBD症例で有意に高かった。フラクタルカインの蛋白量もIBD症例の十二指腸で有意に多く、その発現は上皮細胞の細胞質に限局していた。PBMCにおけるCX3CR1陽性率は、健常犬と比べIBD症例で有意に高く、上皮内リンパ球浸潤の病理学的重症度と正の相関を示した。PBMCにおけるCX3CR1陽性細胞と上皮内リンパ球の表面抗原を解析したところ、CX3CR1陽性PBMCの多くがCD8陽性T細胞であり、同様に十二指腸上皮内リンパ球もその多くがCD8陽性T細胞であった。以上の結果より、イヌIBD症例におけるフラクタルカインおよびCX3CR1の発現がmRNAおよび蛋白レベルのいずれにおいても増加しており、これらが腸上皮内リンパ球の浸潤に重要な役割を果たしている可能性が示唆された。

第3章:イヌIBD症例の小腸におけるPAR-2発現および糞便中セリンプロテアーゼ活性およびその腸炎発症への関与

PAR-2は腸粘膜における炎症制御分子の一つであり、セリンプロテアーゼにより活性化し、炎症反応を惹起する受容体である。セリンプロテアーゼには消化管に豊富に存在するトリプシンやトリプターゼなどが含まれる。そこで本章ではイヌIBDの病態におけるPAR-2の関与を検討した。IBD症例の十二指腸において、PAR-2の発現がmRNAおよび蛋白レベルのいずれにおいても増加していた。一方、IBD症例の糞便中においてPAR-2のリガンドとなるセリンプロテアーゼ活性が上昇していることが示され、さらにその活性と臨床症状の重症度との間に正の相関を認めた。また、イヌ小腸組織のPAR-2をトリプシンまたはPAR-2アゴニストにより活性化することにより、IL-1β、IL-8、MECおよびフラクタルカインの遺伝子発現が誘導された。以上の結果より、セリンプロテアーゼ・PAR-2経路が炎症性サイトカイン・ケモカインの産生を介してイヌIBDにおける慢性腸炎発症に関与している可能性が示唆された。

以上の一連の研究成果により、イヌIBDの病態における粘膜免疫の制御不全を複数の側面から明らかにした。すなわち、(1)管腔内(IgAおよびセリンプロテアーゼ)、(2)腸粘膜(フラクタルカイン)、(3)境界面(PAR-2)という3領域の異常が組み合わさることにより、イヌIBDにおける慢性腸炎が起こると考えられる。本論文における一連の研究は、臨床的に重要なイヌIBDの病態を解明するための重要な知見を提供するものであり、新規治療法の確立につながるものと考えられる。よって、審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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