学位論文要旨



No 129261
著者(漢字) 吉田,貢太
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,コウタ
標題(和) 犬乳腺腫瘍における上皮間葉移行と悪性度との関連ならびにその制御機構に関する研究
標題(洋) Studies on the role of epithelial mesenchymal transition in malignancy and its regulatory mechanism in canine mammary gland tumors
報告番号 129261
報告番号 甲29261
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第3966号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 中山,裕之
 東京大学 特任教授 日下部,守昭
 東京大学 准教授 望月,学
内容要旨 要旨を表示する

犬乳腺腫瘍は雌犬の中で最も発生頻度が高い腫瘍であり、病理組織学的には約半数が悪性と診断される。悪性例の一部は強い局所浸潤や局所再発及び遠隔転移を示し、特に肺転移によって予後は極めて不良となる。このような悪性の形質を示す原因の一つとして、上皮間葉移行(EMT)が挙げられている。EMTはHeyらによって提唱された上皮細胞が間葉細胞様に性質が変化する現象で、細胞の形態変化、運動能の亢進、上皮・間葉マーカーの変化といった形質変化として捉えられる。人においてはEMTと腫瘍の示す悪性形質の関連については多くの研究がなされており、浸潤能の高い低分化型の癌はEMTを誘導する転写因子の発現が高く、高分化型の癌では低いという報告もなされている。

一方、犬の腫瘍におけるEMTの報告は数少なく、悪性腫瘍におけるEMTの意義の詳細については不明である。しかし犬においても組織学的に未分化である乳腺腫瘍は、上皮マーカーであるE-cadherinの発現が低下している傾向があり、EMTが癌の悪性化に寄与している可能性が考えられる。そこで本研究では犬乳腺腫瘍の悪性化におけるEMTの意義を明らかにすることを目的とし、犬乳腺腫瘍自然発症例における悪性度・予後との関連の評価、犬乳腺腫瘍培養細胞を用いてのEMTモデルの作成とその制御メカニズムについて検討を行った。

第1章では、過去に東京大学動物医療センターで外科手術を受けた犬乳腺腫瘍自然発症症例の臨床検体を用いて、上皮マーカーであるZO-1、E-cadherin、間葉マーカーであるvimentin、N-cadherin、fibronectinの発現を調査し、予後や臨床病理学的プロファイルとの関連を統計学的に調査し、EMTの意義を検討した。

110頭の犬乳腺腫瘍症例から採取した119組織サンプルを調査したところ、腫瘍細胞において上皮マーカーであるZO1とE-cadherinの発現減少は、それぞれ24サンプル(20.2%)、21サンプル(17.6%)で認められた。一方、間葉マーカーであるvimentin、N-cadherin、fibronectinの発現は、それぞれ21サンプル(17.6%)、11サンプル(9.2%)、74サンプル(62.2%)で認められた。これらのうち、ZO1、E-cadherin、vimentin、N-cadherinは悪性と診断されたもので有意に発現の変化がみられた。またこれらのマーカーでは、いずれのマーカー間においても強い相関関係は認められなかった。

さらに予後との関連を評価するため、外科手術後1年間以上生存した群と、1年未満に死亡した群に分け、群間でのマーカー発現の変化を比較検討したところ、単変量解析においてE-cadherinとvimentinが1年生存の予後指標となり得ることを見出した。またコンベンショナルな予後因子である臨床病期などの諸因子の影響を考慮した多変量解析においても、E-cadherinが独立した予後因子として有用であることが見出された(adjusted odds ratio: 2.3、p=0.02)。

これらの結果から、EMTの指標の一つである上皮間葉マーカーの発現の変化が犬乳腺腫瘍の悪性化においても見られ、EMTが犬乳腺腫瘍の悪性化に何らかの関与があることが示唆された。そこで第2章では犬乳腺腫瘍におけるEMTと悪性化との関連をより詳細に検討するため、犬乳腺腫瘍由来株化培養細胞を用いてEMT誘導モデルの作成を試みた。

人の細胞を用いたEMT誘導実験において最もよく用いられるtransforming growth factor-β (TGF-β) 刺激により 犬乳腺腫瘍細胞株に対してEMT誘導を試みたところ、CHMp-13a株においてSmad2のリン酸化を伴うvimentinの発現が認められたが、これは一過性の変化であった。浸潤能をリアルタイムに評価したところ、こちらもマーカーの変化と同様に、一過性の亢進であり、これらの結果はEMT誘導モデルとしては限定的と言わざるを得ず、モデルの改良が必要と考えられた。

そこで人乳癌由来細胞において、hepatocyte growth factor (HGF) がTGF-β誘導性EMTを増強するという報告に注目し、犬乳腺腫瘍細胞株にTGF-βとHGFを添加したところ、HGF刺激によりCHMm株において形態学的変化、運動能の亢進、上皮間葉マーカーの変動が認められた。またCTBp株及びCTBm株においてはEMT様の変化が部分的に認められ、partial-EMTが生じたと考えられた。HGFによるEMT誘導の報告はTGF-βを用いた報告に比べ少ないが、HGF単独刺激で細胞の接着能を強力に阻害することも古くから知られており、HGFのみでもEMT誘導能を有すると考えられている。今回の研究においてHGF単独で形態変化を含むEMT関連因子の変化が認められ、HGFは犬乳腺腫瘍に対する誘導因子となり得ると考えられた。

第3章では前章において作成したEMT誘導モデルを用い、HGF刺激によってEMTが誘導される制御機序に関して詳細な検討を行った。人においてEMT誘導を制御する転写因子がいくつか同定されているが、本研究ではそれらの中から犬ゲノムにおいても高いレベルで配列が保存されているSnail、Slug、ZEB1、ZEB2、Twistに注目し、検討を加えた。これらはアミノ酸配列においても機能ドメインがよく保存されており、犬の細胞内においてもオーソログとして類似した機能を有していると考えられる。リアルタイムPCRによってTGF-β及びHGFを添加後の発現動態を解析したところ、最も典型的にEMTが誘導されたCHMm株においてTwistが誘導されていることが明らかとなった。Twistはその遺伝子結合部位であるbasic helix-loop-helixドメインが犬と人で100%一致しており、犬乳腺腫瘍細胞株で見られたEMT誘導にTwistが関与している可能性が高いと考えられた。

そこでさらにHGF誘導性EMTにおけるTwistの役割を検討するために、RNA干渉法を用いてTwistのノックダウンを行い、同様にHGF刺激による反応を観察した。CHMm株に対しTwistをターゲットとした異なる2種類のsiRNAを導入した上で、これらにHGF刺激を行ったところ、犬のトランスクリプトームに存在しない配列として設計されたコントロールsiRNAを導入した群では、運動能の亢進とマーカーの変化が観察されたが、Twist siRNA群ではこれらの変化が認められなかった。このことから、CHMm株におけるHGF誘導性EMTは、Twist依存性に誘導されることが分かった。さらにTwist自体の機能を調べるために、定常状態で高いTwist mRNAを発現しているCHMp株とCNMm株に対してもTwistのノックダウンを行い、EMT関連因子の変化について調査したところ、運動能は有意に低下したが、マーカーの変化は認められなかった。Twistは運動能の調節に関して重要な役割を演じていることが示唆された一方で、上皮間葉マーカーの発現調節に関してはその他の調節因子による制御を検討する必要があることが示唆された。

本研究の結果から、犬乳腺腫瘍臨床症例において EMT様の現象が確認され、その変化は組織学的悪性度や予後との関連が示唆された。犬乳腺腫瘍細胞株を用いた実験ではHGF刺激によるEMT誘導モデルの作成に成功し、さらにそのモデルを用いた研究からTwistがこのモデルにおけるEMT 誘導に必須であることが明らかとなった。しかしTwistの機能は犬乳腺腫瘍における EMT 制御機序に必ずしも優勢的に関与しているわけではなく、犬乳腺腫瘍におけるEMT制御の全体像の理解には、他の転写因子の機能の解明を含め、さらなる研究が必要であると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

犬乳腺腫瘍は雌犬の中で最も発生頻度が高い腫瘍でありが、悪性例の一部は強い局所浸潤や再発及び遠隔転移を示し、予後は極めて不良である。近年、悪性腫瘍がこのような性質を示す原因の一つとして、上皮間葉移行(EMT)が示唆されている。EMTは上皮細胞が間葉細胞様に性質を変化させる現象で、細胞の形態変化、運動能の亢進、上皮・間葉マーカーの変化といった形質変化として捉えられるが、犬乳腺腫瘍におけるEMTの意義は未だ不明な点が多い。そこで本研究では犬乳腺腫瘍の悪性化におけるEMTの意義を明らかにすることを目的とし、犬乳腺腫瘍自然発症例における悪性度・予後との関連の評価、および犬乳腺腫瘍培養細胞株を用いたEMTモデルの作成とその制御メカニズムについて検討を行った。

まず、犬乳腺腫瘍自然発症例110例の手術検体を用い、上皮マーカーであるZO-1、E-cadherin、間葉マーカーであるvimentin、N-cadherin、fibronectinの発現を調べるとともに、予後や臨床病理学的データとの関連性を統計学的に評価した。その結果、119組織サンプル(良性71、悪性48)において、ZO-1、E-cadherin、vimentin、N-cadherinは悪性腫瘍において有意な発現の変化を示した。また、単変量解析ではE-cadherinとvimentinが1年生存の有意な予後因子であり、交絡因子の影響を補正した多変量解析ではE-cadherinが独立した予後因子となることが明らかとなった(adjusted odds ratio: 2.3、p=0.02)。以上の結果からEMTの指標の一つである上皮・間葉マーカーの発現の変化と犬乳腺腫瘍の悪性度や予後との間に関連が見られ、EMTの犬乳腺腫瘍の悪性化への関与が示唆された。

そこで次に犬乳腺腫瘍とEMTの関連をより詳細に検討するため、犬乳腺癌由来細胞株を用いたEMT誘導モデルの作製を試みた。EMT誘導にはTransforming growth factor-β (TGF-β) とhepatocyte growth factor (HGF) もしくはそれらの共刺激が有効との報告があり、これらを用いて誘導実験を行った。その結果、HGF刺激により乳腺癌由来細胞株の一つであるCHMm株において形態学的変化、運動能の亢進、上皮・間葉マーカーの変動が認められ、HGFが犬乳腺腫瘍に対するEMT誘導因子となり得ると考えられた。

次にこのモデルにおいて、これら刺激によるEMT誘導の制御機序に関し詳細な検討を行った。EMT誘導を制御する転写因子として報告のあるSnail、Slug、ZEB1、ZEB2、Twistに注目し、リアルタイムPCRによってTGF-β及びHGF刺激後の発現動態を解析したところ、最も典型的にEMTが誘導されたCHMm株においてTwistの発現が誘導されていることが明らかとなった。この誘導されたTwistの機能を検証するために、RNA干渉法を用いてTwistのノックダウンを行った上でHGF刺激を行ったところ、対照群では運動能の亢進とマーカーの変化が観察されたが、Twist siRNA群ではこれらの変化が認められなかった。これらのことからCHMm株におけるHGF誘導性EMTは、Twist依存性に誘導されることが明らかとなった。さらにTwistの機能を検討するために、通常培養条件下でTwist発現の高いCHMp株とCNMm株に対してもTwistのノックダウンを行いEMT関連因子の変化について検討した。その結果、運動能は有意に低下したが、マーカーの変化は認められず、Twistは運動能の調節に関して重要な役割を持つことが示唆された一方で、上皮・間葉マーカーの発現調節に関してはその他の調節因子による制御を検討する必要があることが示唆された。

以上の結果から、犬乳腺腫瘍臨床症例における EMTの悪性度や予後との関連が示唆され、その制御機序の一部にTwistが関与していることが明らかとなった。一方犬乳腺腫瘍におけるEMT制御の全体像の理解には、他の転写因子の機能の解明を含めさらなる研究が必要であると考えられた。

以上、本研究は犬乳腺腫瘍の悪性化に上皮間葉移行が関与していることを明らかにし、さらにその制御機構の一端を示したものであり、学術上、臨床応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)論文として価値あるものと認めた。

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