学位論文要旨



No 129316
著者(漢字) 大南,伸也
著者(英字)
著者(カナ) オオミナミ,シンヤ
標題(和) プリズム順応課題を用いた健常者および神経疾患患者におけるヒト小脳機能の探索
標題(洋)
報告番号 129316
報告番号 甲29316
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第4049号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 坂井,克之
 東京大学 教授 斎藤,延人
 東京大学 准教授 川合,謙介
 東京大学 准教授 小西,清貴
 東京大学 講師 湯本,真人
内容要旨 要旨を表示する

小脳は意図した運動と実際の実行結果の感覚入力の間に乖離を生じると、運動プログラムを修正する学習機能を有する。本研究ではプリズムレンズを用いて視覚入力を攪乱するプリズム順応課題を用いて、小脳の学習機能を評価する手法の確立を目指した。

プリズム順応課題は、一般に次のような3つの相から成る。第一はダミーレンズのみでの手指の運動課題である(ベースライン)。第二はプリズムレンズを装着し、レンズシフトに従った誤差が反復施行により消滅、順応する過程である。第三は、プリズムレンズの除去による、レンズのシフトと逆向きの誤差(aftereffect: AE)の出現である。AEは順応の指標となり、施行反復により消去されていく。

小脳破壊実験や小脳梗塞患者でAE減弱が報告されている。特に小脳への視覚性入力部や、その経路である下オリーブ核や橋核の障害が大きな影響を与えると考えられている。AEは順応を獲得した手と反対側の手を用いた場合や動作の軌跡を変えた場合には全く観察されず、動作速度のみを変えても半減するなど、動作特異性が非常に高い。視覚情報処理の変化よりも運動学習の要素が強いと考えられている。さらに、標的到達前の途中誤差(on-line error)を見せるとAEが減弱することも知られている。

これらの先行研究を踏まえ、本研究では以下4つの実験を行った。

まず、実験1としてプリズムの視覚シフトを急激に与える(abrupt)方法と、段階的な導入(gradual)でのプリズム順応の比較を行った。Abruptとgradualのどちらが小脳機能を正確に反映できたか、は報告者により異なる。この原因の一つとして既報告ではon-line errorの遮蔽が十分になされていないことが想定されるため、我々は標的提示時と標的到達時の短時間のみ光を透過する遮光メガネを併用して、SCDの学習障害を検討することとした。

実験2は、脊髄小脳変性症(SCD)や多系統萎縮症(MSA)など神経変性疾患において、学習機能障害が簡便に検出可能であるか検討した。

実験3は、オリーブ核や小脳皮質を必須とするeyeblink conditioning学習での障害が示され小脳起源が示唆されている本態性振戦(ET)を対象に、小脳学習機能を検討した。

最後の実験4は、非侵襲的に長期増強(LTP)様効果や長期抑圧(LTD)様効果が誘導可能な経頭蓋磁気刺激法の一つである4連発磁気刺激法(QPS)を健常者の小脳に適応することで、プリズム順応課題への小脳の関与を裏付けられないか検討した。

[実験1] Abrupt protocolとgradual protocolの比較

対象:SCA6, SCA31 各5名を含む13名の純粋小脳型SCD患者(平均63±標準偏差11歳、以下同様)。対照群は60~75歳の年齢合致健常者10名(67±5歳; p = 0.2)。

方法:課題は眼の直下に位置するスタートボタンを押すと、1 cmの円形標的がタッチパネル画面に表示され、それを示指で触れるものである。On-line errorを排除するため、遮光と透過を瞬時に切り替えられるメガネを用いて手の軌跡を遮蔽し、その上にプリズムレンズを装着した。

遮光は標的出現と同時に解除されるが、スタートボタンから指を離すと同時に遮光状態となる。タッチパネルに触れると再び遮光が解除され、0.3秒間のみ標的と自分の指の誤差が見える(visual feedback: VF)。

タスクは、ダミーメガネでのベースライン計測を30回行い、うち10回はVF offに設定した。その後、abruptの場合は50 mmシフト相当のプリズムメガネでVF onの条件下に順応(運動学習)を50回施行した。最後にダミーメガネに戻し、VF offの条件でAEの大きさを10試行測定。さらにVF onとして20試行でのAE消去の経過を計測した(上図参照)。GradualではベースラインとAEは全く同じで、順応過程のみを変えた。順応過程で1試行ごとにプリズムシフト量を増加させ、90試行かけて50 mmシフトとし、その後10回は50 mmを保持した。ほぼ全ての被験者で1週間以上の間隔をあけて両条件の実験を行った。

順応もAE消去も指数関数的に減衰が生じることから、n回目試行の誤差h(n)は、実施条件ごとに一定の減衰率kを用いてh(n) = h(1) (1 - k)n - 1と計算できるが、回帰の適合度を上げるため漸近値αを導入し、h(n) = G (1 - k)n - 1 + αとして計算した。順応中、VF offでのAEの大きさ評価時、VF onでのAE消去過程の3区間に分けて、各パラメータG, k, αを推定算出し、AEの大きさh(1) = G + αとした。AEの大きさ、減衰率k、漸近値αについてはGroup (健常者 or SCD)とCondition (Abrupt or Gradual)を2つの因子として、反復測定2-way ANOVAにより解析し、post hoc解析としてt検定を行った。

結果:AEの大きさのみGroupの主効果がp = 0.005と有意になったが、他の評価項目および因子はいずれもp > 0.1で有意差を認めなかった。

Abrupt時のAEの大きさはSCD 17.9 ± 15.6 mm、健常者36.5 ± 7.6 mmとSCDが小さく(p = 0.003)、順応過程の漸近値αもSCD 21.8 ± 19.6 mm、健常者 5.6 ± 3.8 mmとSCDが大きかった(p = 0.022)。順応過程の減衰率kおよびAE消去時の減衰率kと漸近値αの3項目はいずれも2群間で同等であった(p > 0.7)。

Gradual時のAEの大きさはSCD 24.5 ± 17.6 mm、健常者41.2 ± 15.4 mmとなり、AE消去時の漸近値αもSCD 0.42 ± 0.88 mm、健常者2.4 ± 2.4 mmといずれも有意差を認めた(p = 0.03)。消去率kについては有意差を認めなかった(p = 0.1)。

SCD群内、あるいは健常者群内で、AEに関連する各パラメータを2条件間で比較しても、いずれも有意差無く(p > 0.1)、どちらの条件でも同等の結果を確認した。

結論:遮光メガネによりon-line errorを感知できないようにすれば、gradualでもabruptと同様に小脳の学習障害を検出できた。

[実験2] 小脳機能障害を示す疾患への応用

対象:SCD 9名(54±13歳)、小脳入力系が選択的に障害されるMSA 6名(58±10歳)。対照群は30~75歳の健常者20名(53±16歳; 年齢のt検定p > 0.41)。

方法:実験1のabruptをそのまま踏襲しており、プリズム度数を60 mmシフト相当に設定したことのみが唯一の相違点である。

結果:まずSCDと健常者の比較について。AEの大きさはSCD 23.2 ± 12.6 mm、健常者 38.4 ± 9.2 mmと有意差を認めた(p = 0.001)。漸近値αも消去過程ではSCD 8.3 ± 7.1 mm、健常者 2.4 ± 2.7 mmと有意差を認め(p = 0.04)、順応過程でもSCD 10.8 ± 8.3 mm、健常者5.1 ± 2.9 mmとSCDで不十分になる傾向が見られた(p = 0.08)。減衰率kは2群で同等であった(p = 0.6)。AEの大きさをはじめとして、各種パラメータと臨床的重症度を反映するICARSスコアとの相関関係について検討したが、いずれの項目もp > 0.4となり有意ではなかった。

次いでMSAと健常者の比較について。順応時の漸近値αはMSA 12.2 ± 5.0 mmで健常者よりも有意に大きかった(p < 0.001)。AEの大きさはMSA 29.6 ± 16.1 mmで健常者より小さくなる傾向が見られた(p = 0.10)。

結論:Purkinje細胞が主に障害されるSCDでは、プリズム順応の異常がみられたが、臨床的重症度との関連は見られず、失調症状と運動学習機能障害がある程度独立している可能性が示唆される。小脳入力系が選択的に障害されるMSAでも漸近値の増大という形での順応障害が確認され、小脳入力系がプリズム順応に必須という仮説を支持した。

タッチパネルを用いて簡便に小脳学習機能を評価でき、臨床応用可能と考えた。

[実験3] 本態性振戦への本手法の応用

対象:本態性振戦(ET)患者7名(75±9歳)。対照群は65~75歳の健常者8名(69±5歳; 年齢のt検定p = 0.16)とした。

方法:実験2と同じ課題を用いた。

結果:順応時の漸近値αはET 11.4 ± 5.8 mm、健常者4.1 ± 2.3 mmと有意差を認めた(p < 0.02)。AEの大きさはET 24.3 ± 18.1 mm、健常者39.3 ± 9.9 mmとETで小さい傾向が明らかであった(p = 0.063)。その他の項目はおおむね同等であった(p > 0.1)。

結論:小脳障害が示唆されているETでも、本手法により小脳学習機能が検出された。ETに小脳障害が存在するという仮説を支持した。

[実験4] ヒト小脳へのQPSによるプリズム順応の効果

対象:30~47歳の健常ボランティア7名。

方法:実験2と同じプリズム順応課題直前にQPSを小脳上に行い、長期効果を検討した。Double cone coilを用い、inion部あるいはinionと右乳様突起の中点でのactive motor thresholdの低い方の値の70%の強度で、inionと右乳様突起の中点に刺激を行った。一次運動野に対するLTP様効果を呈する5 ms間隔の4連刺激(QPS5)とLTD様効果を呈する50 ms間隔の4連刺激(QPS50)で、5秒ごと30分間の刺激を行った。Sham刺激ではダミーコイルを当て、別のコイルから刺激音を発生させた。

結果:QPS50ではAEの大きさが実刺激37.3 ± 6.9 mm、sham刺激36.2 ± 5.9 mm (p = 0.5)となったことをはじめ、5つの評価項目全てで有意差を認めなかった(p > 0.2)。

QPS5は、AEの大きさが実刺激45.0 ± 8.0 mm、sham刺激30.4 ± 2.0 mmと有意水準には到達しないが、実刺激で大きくなる傾向が強く認められた(p = 0.057)。それ以外の4項目には明瞭な傾向を認めなかった(p > 0.3)。

結論:小脳へのQPS5刺激によりAEの大きさが増強される傾向を認め、学習を強化させる方向の変化が生じた。プリズム順応課題での小脳の関与を従来とは異なる観点から示した。

総括:これまで検査法の無かった小脳学習機能をタッチパネルによるプリズム順応で評価できた。臨床的な失調との関連性は低く、本態性振戦での検討のように従来の神経学的診察法で評価している失調とは異なった潜在的な障害の検出も可能であることから、臨床検査としても期待される。Abruptとgradualの比較から、施行時のon-line error排除が重要であることを再確認した。小脳への非侵襲的磁気刺激により学習機能が強化されたことから、磁気刺激が小脳機能障害の治療に応用できる可能性も示唆された。

健常被験者3名の水平誤差プロット

審査要旨 要旨を表示する

本研究は小脳の運動学習機能を反映すると考えられているプリズム順応課題という手法を用いて、通常の神経学的診察で評価される小脳の機能障害とプリズム順応課題の間の関連性の有無について複数の疾患を対象に検討を行うとともに、健常者の小脳に非侵襲的な外的刺激を加えて変化を惹起することを試みたものであり、以下の結果を得ている。

1. 用いるプリズムの度数を急激に変化させた場合(abrupt protocol)と一試行ごとに徐々に増強させた場合(gradual protocol)を比較すると、得られる順応効果(aftereffect)はどちらの条件の場合も脊髄小脳変性症(SCD)患者は健常対照者よりも小さかった。一方で、SCD患者群内でabrupt protocolとgradual protocolを比較した場合、あるいは健常対照者群内でabrupt protocolとgradual protocolを比較した場合には、aftereffectに有意差が無いことが示された。

2. SCDの臨床的な重症度とaftereffectの間に有意な相関関係が成立しないことが示され、神経学的診察で評価される小脳の機能障害とプリズム順応課題のような新たな運動を獲得する課程とが、少なくとも部分的には独立の要素から構成されている可能性を指摘した。

3. 小脳からの出力路が病状の末期までよく保たれる多系統委縮症の患者を対象に検討を行い、SCDと類似した順応効果の異常を見出した。

4. 通常の神経学的診察では小脳の機能障害が全く認められない本態性振戦の患者でも、多系統委縮症と同じ順応効果の異常が存在することを示した。

5. 非侵襲的に脳可塑性を誘導できる手法である反復経頭蓋磁気刺激法の一つである4連発磁気刺激法(QPS)を健常者の小脳に適応した場合、長期増強(LTP)様効果を惹起することが期待される50 msの刺激間隔ではsham刺激と比較して有意な変化が見られなかった。一方で、長期抑圧(LTD)様効果を誘導することが期待される5 msの刺激間隔では、統計学的有意水準を満たすことはできなかったものの、sham刺激と比較してaftereffectが増大する傾向が強く認められた。すなわちヒト小脳に対して適切な外的刺激を行うことで、プリズム順応課題の効果が変化する可能性を示した。

以上、本論文はプリズム順応課題を用いることで、通常の神経学的診察で評価される小脳機能が、新たな運動を学習する機能と少なくとも部分的には独立の要素から構成されていることを示すとともに、この学習機能を外的刺激によって修飾し得ることを明らかにした。本研究は、これまでの臨床現場であまり注目されていなかった新たな運動を学習、獲得する機能についてまとまった検討を行い、リハビリテーションなどの治療応用にも一定の示唆を与える結果を得ており、学位の授与に値するものと考えられる。

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