学位論文要旨



No 129321
著者(漢字) 堀川,弘吏
著者(英字)
著者(カナ) ホリカワ,ヒロシ
標題(和) 脳虚血ストレス下におけるMitogen-activated protein Kinase Phosphatase-1 (MKP-1)の発現調節とその機能解析
標題(洋)
報告番号 129321
報告番号 甲29321
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第4054号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣瀬,謙造
 東京大学 准教授 尾藤,晴彦
 東京大学 特任准教授 河崎,洋志
 東京大学 教授 小山,博史
 東京大学 講師 張,京浩
内容要旨 要旨を表示する

【序文】

脳血管障害の中でも脳梗塞は未だ有効な治療がなく、新たな治療法の開発が切望される疾患である。脳は他の臓器と比べごく短時間の虚血においても非可逆的な傷害を受けやすいという特徴を持つ。これは脳の虚血に対する脆弱性に起因するところが大きいと考えられるが、その機序は解明されていない。

虚血ストレス下における細胞傷害の進行についてはいくつかの機序が提唱されている。ATP減少による蛋白合成阻害、さらに膜電位の破綻による細胞内ナトリウム、カルシウムの流入が細胞傷害を引き起こすとされる。また虚血下における活性酸素(Reactive oxygen species : ROS)の発生が細胞傷害を引き起こす。特に脳組織は他臓器に比べ重量比の酸素消費量が大きく、また脂質含有量が多いという理由により、酸化ストレスに影響を受けやすいと考えられている。

これまで虚血ストレスに曝された神経細胞は、急性期のうちに組織変化が完成してしまうと考えられていた。しかし近年、虚血後およそ12時間後までに急速な組織変化の拡大が認められるが、その後約72時間後まで徐々に組織学的変化が拡大していくという報告がなされ、それに伴い虚血脳における遺伝子発現の変化が論じられるようになった。特に虚血周辺部における遺伝子発現の変化は虚血ストレス後の細胞傷害機序、あるいは耐性機構、回復過程などに関する重要な情報を含んでいる可能性が示唆されている。

これまでにわれわれの教室で行った研究において、ラット全脳に6分間の虚血負荷をかけると、海馬CA1領域に著明な細胞死が認められるが、梗塞まで至らない2分間の虚血負荷(ischemic preconditioning)を行うと、その後の6分間の虚血負荷に対し耐性を示すことが示された。その海馬CA1領域の遺伝子発現の変化をDNAマイクロアレイにて解析したところ、種々の遺伝子の発現の増減が認められた。中でもmitogen-activated protein kinase phosphatase-1(MKP-1)はCA1領域の神経細胞が耐性を獲得する2分間の虚血負荷及び神経細胞死をきたす6分間の虚血負荷後、双方において著明に増加していた。MKP-1はmitogen-activated protein kinase(MAPキナーゼ)のセリン、スレオニン残基を特異的に脱リン酸化してその働きを制御するものとして知られている。

近年、脳虚血もしくは虚血再酸素化後にMKP-1が誘導され、JNKの抑制を介して神経細胞死を抑制しているのではないかとの報告も見られるが、脳虚血ストレス下におけるMAPキナーゼ及びMKP-1の機能に関してはいまだ解明されていない。本研究においては、より臨床に即したモデルであるラット局所脳虚血モデルを用いて、虚血ストレス下におけるMAPキナーゼとMKP-1の発現動態を調べ、さらに培養細胞を用いてその機能について解析した。

【方法と結果】

In vivoにおいてはラット中大脳動脈閉塞モデルを作製し、各経過時間(虚血後30分から7日、コントロール及びsham手術)において脳標本を作製した。In situ ハイブリダイゼーション法にてMKP-1 mRNA発現につき、時間的、空間的検討を行った。MKP-1 mRNAは虚血後30分という超急性期から虚血側大脳半球の虚血辺縁部から遠隔部の皮質に強く発現していた。虚血ストレス後3時間をピークに発現レベルは低下し、24時間後にはほぼ消失していた。

さらにリアルタイムRT-PCR法にてMKP-1 mRNA発現レベルの時間的経過について定量的解析を行った。In situハイブリダイゼーションの結果と同様に、虚血辺縁部から遠隔部の皮質において虚血後1時間から3時間にかけて有意な発現レベルの上昇が認められ、その後発現レベルは減少し24時間後には負荷前と同程度となった。

次に組織抗体染色によりMKP-1蛋白質の発現を確認し、二重染色によりMKP-1発現細胞を同定した。MKP-1蛋白質は虚血ストレス後1時間の時点において虚血辺縁部から遠隔部の皮質に発現していた。これらの陽性細胞はNeuNとの共発現が認められ、MKP-1は虚血ストレス後急性期において神経細胞に発現している分子であると考えられた。

またMKP-1のターゲットであるERK、JNK、p38及びそのリン酸化(phospho-ERK, pERK; phospho-JNK, pJNK; phospho-p38, pp38)の動態を調べた。ERK、JNK、p38は両側大脳半球に全体的に低発現していた。一方虚血負荷1時間後には虚血辺縁部の皮質においてERKのリン酸化が認められた。この虚血辺縁部でのリン酸化はJNK、p38には認められず、虚血辺縁部においてはMAPキナーゼの中でもERKのリン酸化が起こっている可能性ことが示された。さらに虚血神経細胞傷害とMKP-1発現との機序を解明すべくin vitro研究を計画した。

虚血ストレス下における神経細胞動態のin vitroモデルとしてHT22細胞株を用いた。これはマウス海馬由来培養細胞株であり、酸化ストレスによる細胞死を解析するための細胞モデルである。この細胞はイオン型グルタミン酸受容体を持たないため、グルタミン酸負荷により細胞内グルタチオン産生が抑制され、内因性のROS蓄積による酸化ストレスによって細胞死を起こすことが示されている。

この細胞にグルタミン酸負荷を行い、MKP-1の発現およびERKのリン酸化について検討を行った。各経過時間(0分から90分)においてlysateを採取し、ウェスタンブロッティングにて発現を検証した。グルタミン酸負荷10分後よりERKのリン酸化が認められた。20分から30分後をピークにリン酸化レベルは減少し、90分後には負荷前と同程度となった。それに対しMKP-1の発現はERKのリン酸化にやや遅れ、負荷後約60分をピークとして上昇しその後発現レベルは低下した。同様の時間経過にてリアルタイムRT-PCRによりMKP-1 mRNAの発現レベルの推移について定量し評価した。MKP-1 mRNAはグルタミン酸負荷後、およそ30分をピークに上昇し、その後発現レベルは減少した。

次にMKP-1の虚血ストレス下における機能を検証するためにMKP-1発現組み換えアデノウイルス(Ad-MKP-1)を用いてMKP-1をHT22細胞に強制発現させ、その細胞死に果たす役割につき検討した。感染二日後にグルタミン酸負荷を行い、LDH(lactate dehydrogenase)アッセイにて溶解した細胞から放出されるLDHの量を定量した。MKP-1強制発現群はコントロールと比べグルタミン酸負荷9、11、13時間後の各時間において有意にLDH放出量が減少した。LDHアッセイにて著明な差が認められたグルタミン酸負荷後13時間の時点にて、Ad-MKP-1の量をMOI 20、40と振り分けてMKP-1を導入し、グルタミン酸負荷後の細胞死をdye exclusion testを用いて評価した。Ad-MKP-1 MOI 20群、MOI 40群ともにコントロールと比べ有意に細胞死が抑えられた。

【考察】

MKP-1は虚血ストレス後急性期に虚血側大脳半球の虚血辺縁部の神経細胞に特異的に発現する分子であることを見いだした。この分子は虚血ストレスに対してきわめて敏感に発現し、一過性の発現動態を示すことが示された。さらにMKP-1と同じく虚血辺縁部において、ERKのリン酸化が虚血超急性期に起こっていることが判明した。

MKP-1の発現部位は最終的に脳梗塞を免れる部分に非常に類似していた。ischemic preconditioningによってMKP-1が誘導されたという点からも、この分子が虚血ストレスに対して細胞死を抑制すべく作用するのではないかとの仮説を考え、アデノウイルスによりMKP-1を強制発現させ、細胞死に関する実験を行ったところ、MKP-1の導入により酸化ストレスに対し細胞死が抑制されるという結果が示された。

今回、急性期の虚血辺縁部にMKP-1が発現することを示したが、同じ虚血辺縁部においてERKのリン酸化も起こっていることが示され、また培養細胞を用いた実験においてもMKP-1の発現に先行してERKのリン酸化が起こっていることが示された。他のMAPキナーゼであるJNKやp38に関してはこの虚血急性期の虚血辺縁部におけるリン酸化は今回の研究においては認められなかった。従来ERKは細胞増殖や分化に作用し、細胞生存へと働くと考えられていた。またJNKやp38はアポトーシスに促進的に働くとされていた。その一方で、持続するERKの活性化は細胞傷害を引き起こし、むしろ細胞死を来すということが報告されている。これらより虚血辺縁部のERKの制御を介したMKP-1の細胞死抑制効果についても考慮が必要ではないかと考えた。

本研究にはいくつかの限界が存在する。脳は他臓器に比べ酸化ストレスに脆弱であると言われている。今回用いたHT22細胞はグルタミン酸負荷により内因性のROSが蓄積し細胞死を来すという、脳虚血下における酸化ストレスによる細胞死を研究するためのモデル細胞株である。しかし脳虚血ストレス時には他の因子による細胞傷害の経路もあり、それらの影響については今回の実験系においては考慮されていない。また脳は神経細胞以外にもアストロサイトやミクログリア、血管内皮細胞などいわゆるNeuro-glia-vascular unitで構成されており、それら神経細胞以外の細胞からの影響も今回は考慮されていない。今後、他の細胞株や、primary cultureを用いた虚血負荷、さらにはin vivoにおける実験などにてさらなる解析が必要と考えられる。

【結論】

本研究においてはischemic preconditioningを行った後に著明に発現が増大していたMKP-1について、より臨床の脳梗塞の病態に近い動物モデルである中大脳動脈閉塞モデルを用いてその発現動態を検討し、その発現が虚血辺縁部において虚血ストレス後、極めて早い時間に一過性に発現が増強することを示した。また培養細胞を用いた検討よりMKP-1が虚血ストレスに対し、細胞死を抑制すべく作用する可能性があることを示した。虚血ストレス下においてMKP-1はJNKの活性を抑えることで細胞死を抑制すべく働くとの報告もあるが、今回、虚血辺縁部においてはむしろERKの活性化がMKP-1の発現に先行して認められていること、またERKの持続する活性化がむしろ細胞毒性を引き起こすという報告もあり、虚血辺縁部のERKの制御を介した細胞死抑制効果についても考慮が必要と考えた。

今後のさらなる研究によりischemic preconditioningの機序を解明し、脳梗塞の治療においてさらなる発展が期待できるものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

ラット全脳に6分の虚血負荷をかけると、海馬CA1領域に著明に細胞死が認められるが、その前に細胞死にまでは至らない2分の虚血負荷をかけると(ischemic preconditioning)、その後の6分の虚血負荷に対して耐性を示すことが報告されている。Mitogen-activated protein kinase phosphatase-1 (MKP-1)は神経細胞が耐性を獲得する2分の虚血負荷後、及び神経細胞死にまで至る6分の虚血負荷後の双方において著明に遺伝子発現が増大していた。本研究では動物モデル及び培養細胞を用い、そのMKP-1の発現と機能について解析を試みたものであり、以下の結果を得ている。

1、ラット中大脳動脈閉塞モデルを用いた検討によりMKP-1 mRNA及び蛋白質は虚血ストレス後、急性期に一過性に虚血辺縁部の神経細胞に特異的に発現レベルの上昇が認められる分子であることが示された。

2、MKP-1はmitogen-activated protein kinase (MAPキナーゼ)を脱リン酸化する働きを持つと言われている。ラット中大脳動脈閉塞モデルによる検討において、MKP-1の発現が認められた虚血辺縁部においては、MAPキナーゼの中でもERKのリン酸化が虚血急性期の虚血辺縁部において起こっていることが示された。

3、酸化ストレスによる虚血性神経細胞死のモデル細胞株であるマウス海馬由来HT22細胞株を用いて、酸化ストレス下におけるMKP-1の発現及びERKのリン酸化についての検討を行ったところ、酸化ストレス負荷後、極めて早い時間にERKのリン酸化とMKP-1の発現が一過性に起こっていることが示された。

4、HT22細胞にアデノウイルスを用いてMKP-1を導入して強制発現させ、酸化ストレス後の神経細胞死につき検討し、MKP-1の導入により細胞死が抑えられることが示された。

以上、本論文はischemic preconditioningの後に著明な発現レベルの上昇を示していた分子であるMKP-1について、実際の脳梗塞の病態に近いラット中大脳動脈閉塞モデルを用いて解析し、MKP-1が虚血辺縁部の神経細胞において急性期に一過性に発現上昇をきたす分子であることを示し、培養細胞を用いた検討よりMKP-1が細胞死に対して抑制的に働く可能性があることを明らかにした。従来の報告ではMKP-1は虚血ストレス下においてJNKを抑制することにより細胞死を抑制する可能性が推測されている。しかし今回の研究では、MAPキナーゼの他の経路のリン酸化は認められないものの、MKP-1の発現に先行して同じく虚血辺縁部においてERKのリン酸化が認められた。また持続するERKのリン酸化はむしろ細胞死を引き起こすという報告もあり、MKP-1の細胞死を抑制する機序としてERKの持続するリン酸化を抑制するという経路についても考慮が必要と考えられた。

本研究はこれらのischemic preconditioningによる虚血耐性の機序を解明することで、今後の脳梗塞治療に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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