学位論文要旨



No 129325
著者(漢字) 村上,慶子
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,ケイコ
標題(和) 日本の地域住民における歯科受診の経済状況による較差とその要因に関する検討
標題(洋) Explanations for economic disparity in dental care utilization among community-dwelling Japanese adults
報告番号 129325
報告番号 甲29325
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第4058号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高戸,毅
 東京大学 教授 川上,憲人
 東京大学 教授 佐々木,敏
 東京大学 准教授 東,尚弘
 東京大学 准教授 秋下,雅弘
内容要旨 要旨を表示する

I.緒言

口腔の健康は口腔領域の機能低下だけでなく、循環器疾患や糖尿病などの全身の疾患にも大きな影響を及ぼす可能性が示唆されている。そのため、健康日本21にも取り上げられ、また80歳になっても20本の歯を残そうという8020運動が展開される、公衆衛生上重要な問題である。歯科の2大疾患である齲蝕と歯周病の予防法は理論的にはほぼ確立されていることからも、適切な歯科受診が望ましいといえる。

歯科受診に関し様々な影響要因が検討されているが、大きな要因のひとつに経済状況がある。諸外国では公的保険による歯科医療へのカバーが非常に限定的であるとして、支払い能力の問題が主な理由として挙げられている。しかし、経済指標は支払い能力以外の社会的要因も反映している。例えばBourdieu(1984)の理論によると、社会生活における資源の種類や量が階層を規定しており、その中でも主に経済資本と文化資本(価値観、知識、行動規範など)により差異が生み出されるという。そのため、歯科受診の経済状況による較差は、経済資本だけではなく文化資本の違いによっても生じている可能性が指摘されているものの、いまだ十分には検討されていない。歯科は緊急性の低さ等から受診の決定に個人の意思が大きな割合を占める可能性が指摘されており、このような文化資本の説明力はある程度存在すると考えられる。特に日本では、歯科医療は大部分が医療保険から提供されており、経済的障壁は比較的低いことが推測される。

若年層では歯科受診の経済状況による較差はほぼみられないことがいくつかの先行研究で示されている。しかしこれらは全体の受診をアウトカムとしており、受診種類別(治療、予防など)での較差は検討されていない。近年の予防概念の広まりにより較差の増大が懸念されること、歯科症状の少ない若年層からの予防行動は将来の歯の維持につながることから、若年層では特に予防受診に関する検討が必要と考えられる。

先行研究で「経済状況」という場合、所得を指すことが多い。一般的なライフサイクルでは、若年時には所得が低く負債をしながら消費をするものの、年齢とともに所得は上昇して貯蓄が可能になり、50歳前後で貯蓄のピークを迎え、その後は貯蓄を切り崩して生活する。このサイクルによると、現役で労働している世代では、所得がその人の経済状況や市場での価値など階層を反映していると考えられる。一方で、貯蓄の上昇や遺産相続、退職などを経た中高齢者では、資産はそれまでに累積してきたもの(出身階層、学歴、職業など)、それらにより形成された階層を反映していると言われる。所得の変動に影響されずに消費水準をある程度一定に保つように行動するため、消費は直接的な生活水準を最もよく反映していると言われる。以上より、中高齢者の資産、現役の労働世代の所得は経済資本の側面が、消費は年齢層を問わず経済資本の側面が強いという考えが理論的に導き出される。

しかし、このような異なる側面を有する経済指標を用いて、経済状況による歯科受診の較差の要因を検討した研究は、今のところ国内外ともに発表されていない。

II.目的

経済状況による歯科受診の較差とその要因を、所得、資産、消費という3つの経済指標を用いて検討することを、本研究の目的とする。1)支払い能力(経済資本)による較差が大きい要因ならば年齢を問わずに消費による較差が大きい、2)その他の社会的要因(属する階層による歯の価値観や行動規範などの文化資本)の較差がある程度存在するならば中高齢者で資産、現役の労働世代で所得による較差が大きい、3)その較差は現役の労働世代では予防受診でみられる、と理論的に仮説設定し、実証的に検討を行った。

III.方法

研究1では、全国5都市に居住する中高齢者(52-79歳)を対象に2009年に調査を実施し、90%無作為抽出されたデータの使用許可を得た。研究2では、東京近郊に居住する25-51歳を対象に2010年に調査を実施し、全データの使用許可を得た。

過去1年間の歯科受診の有無をアウトカム、所得、資産、消費の経済指標を説明変数として分析を行った。研究2では、歯科受診を治療と予防(歯石除去、フッ素塗布、矯正治療)に分けて尋ねている。ロジスティック回帰分析を行い、経済状況と歯科受診の関連の有無とその特性を検討した。また、集中度指数(Concentration index: CI)を用いて、経済状況による歯科受診の較差の程度を要約指標として算出した。CIは-1から+1の値をとり、経済的に豊かな層に歯科受診が偏在している場合にはプラスの値をとる。実際の歯科受診のCIをCMと示すとともに、利用ニーズ(年齢、歯の状態)で標準化したCIを算出し、HI(Horizontal inequity index)とした。

IV.結果

研究1での最終的な分析対象者は2,585名であり、その中で過去1年間に歯科を受診した者は、1,235名(47.8%)であった。所得、消費と歯科受診に関連はみられなかった一方で、資産(金融資産、実物資産、全資産)では高い層ほど利用が多いという勾配が、ロジスティック回帰分析の結果より得られた。ニーズで標準化した利用較差HIは、所得0.021、金融資産0.057、実物資産0.049、全資産0.065、消費0.030と、資産で最も大きく高経済層に有利な較差がみられた。

研究2での最終的な分析対象者は4,132名であり、その中で過去1年間に治療・予防のいずれかで歯科を受診した者は2,030名(49.1%)、治療は1,657名(40.1%)、予防は1,153名(27.9%)であった。消費と歯科受診では関連がみられなかった一方で、所得と金融資産では高い者ほど利用が多いという勾配が、ロジスティック回帰分析の結果より得られた。HIは、所得0.038、金融資産0.029、消費0.003で、所得と金融資産で高経済層に有利な較差がみられた。治療受診でみたHIは、所得0.029、金融資産0.014、消費-0.015であり、所得でのみ高い層に有利な較差が有意にみられた。予防受診でみたHIは、所得0.072、金融資産0.080、消費0.026であり、いずれの経済変数でも高い層に有利な較差がみられた。特に所得と金融資産ではHIの値が大きく、全体や治療でのHIよりも大きかった。

V.考察

国民皆保険で歯科医療がカバーされている日本においても、経済的に豊かな層ほど歯科受診をしているという較差が明らかになった。その較差は、中高齢者では資産で、現役の労働世代では所得と金融資産で最も大きくみられた。さらに現役の労働世代の歯科受診を種類別にみると、治療受診では経済状況による較差がほぼみられなかった一方で、予防受診は所得と金融資産で大きい較差がみられた。また、経済的な生活水準を最も反映すると言われる消費に対する受診の較差は、両世代ともに小さかった。

経済指標はいずれも経済資本と文化資本の両側面を併せ持つ。しかし、中高齢者では資産が生涯の累積した効果を、現役の労働世代では所得が現在の市場価値など階層を反映していることから、消費と比して文化資本の側面が比較的強いと理論的に考えられる。上記の結果は、文化資本の側面が強い指標での較差が最も大きかったことから、歯科受診の経済状況による較差は支払い能力(経済資本)だけでは説明できない可能性が示唆されたと言える。現役の労働世代では、所得と同程度の較差が金融資産においてもみられたが、本研究では若年層に多いと言われる負債額を引いていないため、両者が同様の意味合いを有している可能性が考えられる。

現役の労働世代での所得、金融資産による較差は、治療受診ではほぼみられなかった一方で予防受診では大きな較差がみられ、種類別に検討する必要性が示唆された。予防診療の中には保険外の内容も多いが、本研究で歯科受診した者の約85%はほぼ保険内で診療を受けたと回答していた。また、半分以上が保険外の自由診療と回答した者を除いた分析でも同様の結果が得られたことから、治療と比較した予防での所得・金融資産による較差の大きさは、予防診療の経済的負担の大きさだけでは説明できないと考える。

歯科受診の経済状況による較差は支払い能力だけでは説明できない可能性が示唆されたことから、較差縮小のためには低経済層への負担軽減などの金銭的援助だけでは解決できないといえる。本研究では実際に測定はしていないが、価値観や行動規範が較差を生じさせているならば、個人の嗜好に関わらず受診機会を設定する(健診の必須項目に追加する)、多数の者が参加する地域の場(美容院など)を活用して知識や価値観を植え付けるなど、その他の対策が較差縮小には必要と考えられる。このような較差の是正方法の検討が、経済的評価も含めて求められるといえる。

VI.結論

所得、資産、消費を用いて、経済状況による歯科受診の較差を検討した結果、中高齢者では生涯の累積効果を表す資産で、現役の労働世代では現在の階層を最も反映しているといわれる所得そして金融資産で大きな較差がみられた。現役の労働世代で歯科診療の種類別にみると、治療受診では経済較差がほぼみられなかった一方で、予防受診は所得と金融資産で大きい較差がみられた。また、生活水準を最も反映するといわれる消費の受診較差は、両世代ともに小さかった。以上より、歯科受診の経済状況による較差は、支払い能力だけでは説明できない可能性が示唆されたといえる。経済指標ごとの特徴から歯科保健に関する文化資本(口腔の健康や歯科受診に対する価値観や行動規範)がひとつの要因である可能性が理論的に考えられるが、本研究では実際に測定していないため断定はできない。歯科受診の経済状況による較差の是正のためには、支払い能力以外で経済指標が反映している社会的要因を、今後詳細に検討する必要があるといえる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、歯科受診の経済状況による較差とその要因の検討を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.歯科受診の経済状況による較差に関する文献をレビューした結果、歯科受診の経済状況による較差はどこの国でも比較的一貫して存在していることを確認した。歯科診療の保険カバー率の低さからその較差の要因は支払い能力の違いとみなされていること、加えてその他の社会的要因(口腔の健康や歯科受診に対する価値観や行動規範など)が経済状況による較差として表出している可能性が指摘されているものの十分には検討されていないことも同時に確認した。

2.歯科受診の経済状況による較差に関する文献を年齢層と診療内容の違いに着目してレビューした結果、いくつかの研究では、若年層では較差がほぼみられないこと、予防診療での較差が最も大きいことが示されていることを確認した。

3.経済指標に関する文献をレビューした結果、経済指標はBourdieu(1984)のいう経済資本と文化資本(価値観、知識、行動規範など)を併せ持つこと、中高齢者では資産、現役の労働世代では所得が文化資本の側面を比較的強く反映している、消費は年代層にかかわらず経済資本の側面を比較的強く反映していると理論的に考えられることを確認した。

4.全国5都市に居住する中高齢者(52-79歳)を対象としたデータの使用許可を得て、経済指標(所得、資産、消費)を説明変数、歯科受診(過去1年間の歯科受診の有無)をアウトカムとして分析を行った。その結果、所得、消費では歯科受診の較差はほぼみられなかった/小さかったものの、資産(金融資産、実物資産、全資産)はいずれの変数とも高い層に有利な受診較差がみられた。

5.東京近郊に居住する現役の労働世代(25-51歳)を対象としたデータの使用許可を得て、経済指標(所得、金融資産、消費)を説明変数、種類別の歯科受診(過去1年間の歯科受診の有無)をアウトカムとして分析を行った。その結果、全体の歯科受診(治療か予防のいずれかで受診)では、消費で較差がみられない一方で、所得と金融資産では高い層に有利な較差がみられた。治療受診をアウトカムとすると、所得でのみ高い層に有利な較差が若干みられたものの、総じて小さかった。予防受診をアウトカムとすると、3つの経済変数とも高い層に有利な較差がみられ、特に所得と金融資産で大きな較差がみられた。

以上、本論文は日本の地域住民における歯科受診の経済状況による較差の存在を示した。さらに、文化資本の側面が比較的強いと理論的に考えられる指標(中高齢者では資産、現役の労働世代では所得)での較差が、経済資本の側面が比較的強いと理論的に考えられる指標(消費)よりも大きいことを示したことから、歯科受診の経済状況による較差は支払い能力(経済資本)だけでは説明できない可能性が示唆されたと言える。そのため、較差縮小のためには低経済層への負担軽減などの金銭的援助だけでは解決できず、その他の介入点(価値観や行動規範の違いに影響されないような受診機会を設定する、価値観や行動規範の差異の縮小を目指すなど)も同時に考える必要性を示すことができた。本研究は、歯科受診の較差を是正するための介入点同定に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えらえる。

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