学位論文要旨



No 129339
著者(漢字) 石川,理惠
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,リエ
標題(和) 原発性肺癌における細胞増殖抑制的なキメラ転写産物についての解析
標題(洋)
報告番号 129339
報告番号 甲29339
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第4072号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒川,峰夫
 東京大学 教授 矢作,直樹
 東京大学 講師 丸山,稔之
 東京大学 講師 津野,寛和
 東京大学 講師 山口,泰弘
内容要旨 要旨を表示する

序文

2011年度の統計によれば,日本人の死因の第1位は依然として癌であり,また,癌死の第1位は男女とも肺癌である。癌の発生・進展には,遺伝子異常によって生じる非生理的なシグナル伝達や代謝機構が深く寄与しているため,癌に関連する新たな遺伝子異常を同定することは,治療戦略開発の貴重な糸口となりうる。遺伝子異常はドライバー変異あるいはパッセンジャー変異に分けられるが,これまでは,主にドライバー変異が研究の対象とされてきた。最近,2つの変異が生じると致死的となるが,どちらか一方の変異のみでは致死的とならない遺伝子変異の組み合わせがあるという,合成致死性とよばれる概念が注目されている。実際,同定されたドライバー変異に対して,その変異分子と合成致死性の関係にある分子をスクリーニングし,標的とする戦略が検討されている。さらに,合成致死性の概念は,これまでパッセンジャー変異として注目されることのなかった変異についても異なった見方を与える。癌のゲノム不安定性により,新たに多くのパッセンジャー変異が出現するが,その中のいずれかの変異と合成致死性の関係にある遺伝子を見出すことができれば,その分子を標的とすることができる。

慢性骨髄性白血病に特異的に認められるフィラデルフィア染色体の発見以来,悪性腫瘍に関連する遺伝子異常として,多数のキメラ遺伝子が報告されている。2つの遺伝子が融合することにより,異常な挙動を示すキメラタンパクが出現し,これが癌の発生・進展を促進すると考えられている。

本研究においては,外科的に摘出された肺癌検体より得られた転写産物から,遺伝子融合を検索し,遺伝子融合が同定できた場合,癌細胞に対する影響が促進的か抑制的かにかかわらず,新たな治療戦略の開発に役立つ知見を得ることを目標とした。

結果

1. キメラ転写産物の検索

腫瘍に関連する遺伝子融合は,とくに血液腫瘍で多く報告されてきた。転座を起こしやすい遺伝子として,転写因子およびチロシンキナーゼを中心としたシグナル分子が挙げられる。

血液腫瘍と融合に関連する論文を検索して抽出した転写因子28遺伝子と,正常肺で発現亢進のみられないチロシンキナーゼ16遺伝子を候補遺伝子として,肺癌臨床検体27症例を対象に,キメラ転写産物を検索した。候補遺伝子が融合を起こし,5' (3') 側が別の遺伝子に置き換わっているとすれば,5' (3') 側末端近傍領域と,活性ドメイン (転写因子はDNA結合ドメイン,チロシンキナーゼはチロシンリン酸化酵素ドメイン) の発現量に差が生じると考えられる。そこで,末端近傍領域と活性ドメインの発現量の差を定量的RT-PCRにより評価し,大きな差を認めた遺伝子について,その5' (3') の配列を同定するために,Rapid Amplification of cDNA Ends (RACE) を施行した。その結果,転写因子RUNX1 の3'RACEにより,RUNX1のエクソン1,2とGLRX5のエクソン2が融合しているキメラ転写産物を発見し,RUNX1-GLRX5と命名した。

キメラ転写産物RUNX1-GLRX5は肺癌臨床検体80症例のうち40症例で陽性であった。ステージIA症例 (融合陽性症例14例,融合陰性症例14例) の生存分析では,融合陽性症例が有意に予後良好であった。

2. RUNX1およびGLRX5のDNA配列の計算生物学的解析

RUNX1-GLRX5では,RUNX1のエクソン2とGLRX5のエクソン2が直接結合していた。キメラ転写産物が出現する機序として,染色体転座,トランス・スプライシング,転写時スリップが知られている。トランス・スプライシングによる融合であれば,RUNX1のイントロン2およびGLRX5のイントロン1の間で起こったこととなる。また,染色体転座あるいは転写時スリップによる融合であれば,一旦,RUNX1のイントロン2配列内のいずれかの部位とGLRX5のイントロン1配列内のいずれかの部位で融合したpre-mRNAが合成された後,スプライシングを受けたこととなる。そこで,RUNX1のイントロン2およびGLRX5のイントロン1について調べた。

NCBIデータベースによればRUNX1のイントロン2は155,878塩基,GLRX5のイントロン1は8,562塩基で,それぞれ両端に典型的なスプライシング配列であるGT-AG配列をもっていた。ヒトのイントロンの長さは,約70%が3,000塩基以下であり,RUNX1のイントロン2は非常に長いといえる。RUNX1およびGLRX5のDNA配列を解析対象として,Blastnを用いて類似配列を検索した。GLRX5上に1ヶ所,RUNX1上に複数ヶ所存在するAlu配列により,ふたつのイントロンは複数の位置で類似した配列をもつことがわかった。

3. RUNX1-GLRX5と鉄代謝関連遺伝子発現

RUNX1は分子量約51.8 kDaの転写因子で,造血系細胞に発現しており,血球の分化に関わる。また,GLRX5は分子量約16.6 kDaのタンパクで,ミトコンドリアにおける鉄硫黄クラスターの生合成に関わる。そこで,RUNX1-GLRX5が,癌細胞における鉄代謝に何らかの影響を与えている可能性について検討した。

RUNX1-GLRX5の鉄代謝への影響をみるために,前述の融合の有無を調べた臨床検体80症例を対象に,鉄代謝関連遺伝子であるフェリチン (FTL) ,トランスフェリン受容体 (TFR1) ,二価金属輸送体 (DMTI) ,フェロポルチン (FPN1) と,正常型GLRX5の定量的RT-PCRを行った。各遺伝子の発現量を融合陽性症例,融合陰性症例で比べると,TFR1,DMT1の発現量は融合陽性症例で有意に低かったが,GLRX5の発現量は両者で差がみられなかった。融合陽性症例,融合陰性症例とも,TFR1 - DMT1,TFR1 - FPN1,DMT1 - FPN1の間には正の相関が認められた。病期ごとにみると,融合陽性症例では,病期が進行すると,TFR1,DMT1の発現量は低下しており,融合陰性症例と逆のパターンを呈していた。

4. RUNX1-GLRX5キメラタンパクの機能解析

キメラ転写産物あるいはキメラタンパクの存在が鉄代謝関連遺伝子の発現に与える影響を検討するため,培養細胞にキメラ遺伝子発現ベクターを遺伝子導入し,鉄代謝関連遺伝子の発現量や増殖能の変化を観察することとした。

RUNX1-GLRX5と正常型GLRX5を組み込んだレンチウイルスベクター,およびブランクのレンチウイルスベクターを,RUNX1-GLRX5を発現していない肺癌細胞株であるA549,H1975,H1792,H1755に導入した。A549については,導入後にさらにペニシリンカップ法を行い,より発現量の多いコロニーを選択した。4細胞株およびA549コロニー由来の細胞いずれにおいても,鉄代謝関連遺伝子に対するRUNX1-GLRX5導入の影響はみられなかった。A549コロニー由来の細胞については,その比増殖速度も検討したが,RUNX1-GLRX5導入の影響はみられなかった。

最後に,RUNX1-GLRX5を組み込んだベクターからタンパクを抽出したところ,ウエスタンブロットにてベクター由来のタンパクが検出されたことから,このキメラ転写産物は生体内でもタンパクに翻訳されうると考えられた。

考察

本研究で発見されたキメラ転写産物のRUNX1-GLRX5は,癌組織に対し抑制的に働いていることが示唆された。

遺伝子融合の促進因子は明らかでないが,文献的には,長いイントロンやイントロン間の共通配列の存在が挙げられている。RUNX1およびGLRX5の当該イントロンについては,どちらの条件も満たしていた。キメラ転写産物が出現した機序を特定することはできず,染色体レベルで存在するものなのか,転写時に生じたものなのか判明しなかった。

RUNX1-GLRX5キメラ転写産物あるいはキメラタンパクの存在が正常型GLRX5の機能を阻害している可能性がある。GLRX5は4量体を形成して鉄硫黄クラスター生合成に関わるとされているが,この4量体を構成するGLRX5のうちのいくつかがRUNX1-GLRX5に置き換わり,4量体としての機能が落ちるなどの機序が考えられる。

遺伝子融合陰性症例および融合陽性症例の間で鉄代謝関連遺伝子の発現パターンに差が生じた原因について,遺伝子融合を主因とした相関,鉄代謝関連遺伝子発現の異常を主因とした相関,正あるいは負の選択によって生じた相関などの可能性が挙げられた。培養細胞へRUNX1-GLRX5の発現ベクターを導入したが,臨床検体で得られた結果は誘導されなかった。得られた結果と矛盾が少ないと考えられるのは,負の選択が関与した可能性である。RUNX1-GLRX5をもつ症例では,TFR1/DMT1高発現の症例が少ないことから,TFR1/DMT1発現量増加とRUNX1-GLRX5融合とが合成致死性様の関係にあることが示唆される。ひとつの仮説を以下に示す。GLRX5は鉄硫黄クラスター合成に関わることから,RUNX1-GLRX5は鉄硫黄クラスター合成回路を阻害する。RUNX1-GLRX5をもたず,鉄硫黄クラスター合成能が正常な癌細胞が何らかの原因でTFR1の発現量を増加させた場合,過剰に取り込まれた鉄は鉄硫黄クラスターとなり,有効に利用される。その結果,この癌細胞は増殖能を高める (正の選択) 。一方,RUNX1-GLRX5をもつ癌細胞では過剰に取り込まれた鉄は鉄硫黄クラスターに組み込まれず,細胞にとって不利な遊離鉄が増える。その結果,この細胞は,細胞毒性により増殖できない (負の選択) 。これら正および負の選択によって,融合陽性細胞では,融合陰性細胞に比べてTFR1/DMT1の発現が少ない細胞が優位となる。

RUNX1-GLRX5をもつ肺癌症例では,TFR1/DMT1の発現量が減少すると悪性度が上がる可能性がある。細胞内鉄量が下がらない管理が必要と考えられる。癌細胞では,とくに悪性度の高いものでTFR1の発現量が増加することが多いとされている。このような症例に対しては,GLRX5の阻害薬,あるいは,鉄硫黄クラスター合成阻害薬の投与が有効である可能性がある。

今回同定されたRUNX1-GLRX5はドライバー変異ではないが,その解析から癌治療に役立つ可能性のある知見が得られた。一見パッセンジャー変異と判定される多くの変異についても,今後さまざまな視点から解析されるべきと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,本邦における癌死の第1位である肺癌の遺伝子異常を同定し,治療戦略を考えるため,外科的切除により摘出された肺癌検体より得られた転写産物から遺伝子融合を検索し,下記の結果を得ている。

1. キメラ転写産物の検索

血液腫瘍と融合に関連する論文を検索して抽出した転写因子28遺伝子と,正常肺で発現亢進のみられないチロシンキナーゼ16遺伝子を候補遺伝子として,肺癌臨床検体27症例を対象に,キメラ転写産物の検索を行った。転写因子RUNX1 の3'RACE (Rapid Amplification of cDNA Ends) により,RUNX1のエクソン1,2とGLRX5のエクソン2が融合しているキメラ転写産物 (RUNX1-GLRX5と命名) を発見した。肺癌臨床検体80症例のうち40症例で,RUNX1-GLRX5融合陽性であった。ステージIA症例 (融合陽性症例14例,融合陰性症例14例) の生存分析では,融合陽性症例が有意に予後良好という結果が得られた。RUNX1-GLRX5は,癌組織に対し抑制的に働いていることが示唆された。

2. RUNX1およびGLRX5のDNA配列の計算生物学的解析

NCBIデータベースによればRUNX1のイントロン2は155,878塩基,GLRX5のイントロン1は8,562塩基で,それぞれ両端に典型的なスプライシング配列であるGT-AG配列を持っていた。ヒトのイントロンの長さは,約70%が3,000塩基以下であり,RUNX1のイントロン2は,イントロンとして非常に長いといえる。RUNX1およびGLRX5のDNA配列を解析対象として,Blastnを用いて類似配列を検索した。GLRX5上に1ヶ所,RUNX1上に複数ヶ所存在するAlu配列により,ふたつのDNAは複数の位置で類似した配列をもつことがわかった。

3. RUNX1-GLRX5と鉄代謝関連遺伝子発現

RUNX1は造血系細胞に発現しており,血球の分化に関わる転写因子である。また,GLRX5はミトコンドリアにおける鉄硫黄クラスターの生合成に関わるタンパクである。そこで,RUNX1-GLRX5が,癌細胞における鉄代謝に何らかの影響を与えている可能性について検討を加えた。

鉄代謝関連遺伝子であるフェリチン (FTL) ,トランスフェリン受容体 (TFR1) ,二価金属輸送体 (DMTI) ,フェロポルチン (FPN1) の発現量を融合陽性症例40例,融合陰性症例40例で比べると,TFR1,DMT1の発現量は融合陽性症例で有意に低かった。さらにこれを病期ごとにみると,融合陽性症例では,病期が進行すると,TFR1,DMT1の発現量は低下しており,融合陰性症例と逆のパターンを呈していた。

4. RUNX1-GLRX5強制発現系の解析

RUNX1-GLRX5と正常型GLRX5を組み込んだレンチウイルスベクター,およびブランクのレンチウイルスベクターを,RUNX1-GLRX5を発現していない肺癌細胞株に導入したが,いずれの鉄代謝関連遺伝子にも有意な差はみられなかった。細胞の比増殖速度にも,有意な差はみられなかった。遺伝子融合を主因としたものではないことが示唆された。

TFR1/DMT1発現量増加とRUNX1-GLRX5融合とが合成致死性様の関係にあることが示唆された。つまり,RUNX1-GLRX5をもつ肺癌症例では,TFR1/DMT1の発現量が減少すると悪性度が上がる可能性がある。細胞内鉄量が下がらない管理が必要と考えられる。癌細胞では,とくに悪性度の高いものでTFR1の発現量が増加することが多いとされている。このような症例に対しては,GLRX5の阻害薬,あるいは,鉄硫黄クラスター合成阻害薬の投与が有効である可能性がある。

以上,本論文は原発性肺癌の臨床検体から,癌組織に対して抑制的に働いていると考えられる未知のキメラ転写産物RUNX1-GLRX5を同定した。鉄代謝関連遺伝子の発現量を解析したところ,融合陽性・融合陰性症例で発現パターンに差がみられた。この差は,癌治療において鉄代謝を標的とすることの有効性を示唆するものであった。本研究はこれまであまり注目を浴びることはなかったパッセンジャー変異も,合成致死性の関係にある遺伝子を検索することにより,オーダーメイド治療の標的になりうる可能性を示しており,学位の授与に値するものと考えられる。

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