学位論文要旨



No 129395
著者(漢字) 岡崎,廉太郎
著者(英字)
著者(カナ) オカザキ,レンタロウ
標題(和) 中枢神経におけるErk2シグナルの役割に関する研究
標題(洋)
報告番号 129395
報告番号 甲29395
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第4128号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 芳賀,信彦
 東京大学 准教授 川合,謙介
 東京大学 准教授 尾藤,晴彦
 東京大学 講師 筑田,博隆
 東京大学 講師 清水,潤
内容要旨 要旨を表示する

序論

多発性硬化症などの脱髄疾患は、炎症、脱髄、グリオーシス、軸策変性を特徴とする。脱髄巣ではオリゴデンドロサイト細胞死と炎症が観察され、炎症はオリゴデンドロサイト細胞死の誘因のひとつであると考えられている。したがって、炎症の制御は脱髄疾患治療の重要なターゲットであり、これまでに生化学的、組織学的な研究がおこなわれてきた。中枢神経炎症の組織学的な所見には、リンパ球やマクロファージの浸潤、局所のミクログリアやアストロサイトの活性化が含まれる。

アストロサイトは中枢神経で最も多いグリア細胞で、脳の恒常性維持に多様な機能を持つ。一方、病的状態においてアストロサイトは活性化され、細胞突起の増加、GFAPの発現増加、Nestinの再発現を特徴とするアストログリオーシスを形成する。同時に様々な炎症関連分子や成長因子の産生を亢進することで周囲に影響を及ぼす。脱髄においてもアストログリオーシスは炎症反応に含まれ、その機能は様々な細胞内シグナルによって制御されている。

細胞内シグナルの一つであるExtracellular signal-regulated kinase (Erk) は細胞の分化、増殖、生存に関与し、すべての細胞に普遍的に存在している。Erkには84%相同の2つのisoform、Erk1(44 kD)とErk2 (42 kD)があり、Erk1の機能の多くはErk2によって代償されるが、Erk2 KOは胎生致死であることによりErk2は固有の機能を有していると考えられている。培養アストロサイトでの実験論文では物理的刺激に対しErkの活性化が生じ持続すると報告されている。しかし、脱髄などの慢性炎症のin vivo病態における反応性アストロサイトでErk、とりわけErk2がどのように働いているかについては不明である。

今回我々は、 マウス脱髄疾患モデルを用い、細胞内シグナルErk2が中枢神経炎症制御において果たす役割を解析した。モデルとして銅キレート剤であるカプリゾンの経口投与により可逆的な脱髄モデルを選択した。さらにNestin-Creによって神経幹細胞由来のアストロサイトでErk2発現が欠失したコンディショナルノックアウトマウス(Erk2 cKO)を用い、行動学的、生化学的、組織学的に解析を行うことで、アストロサイトのErk2が炎症と脱髄の過程で担う機能を明らかにした。

結果(1) 脱髄に伴うErk活性化はアストロサイトに局在していた

カプリゾンの経口投与は投与後4週から5週にかけて脳梁部を中心として脱髄し、多発性硬化症のモデルとして広く用いられている。我々の実験系においても脱髄の状況は脳梁部組織切片のLFB染色等で確認された。脳梁部から得られたサンプルのウエスタンブロット(WB)法を用いた解析では、カプリゾン投与後1日から4週にかけてErk1/2のリン酸化が亢進していた。免疫組織学的にはカプリゾン投与後4週における脳梁部のリン酸化Erk1/2増加、ミクログリアの浸潤、反応性アストロサイトの増加といったグリオーシスを認めた。リン酸化Erkはその多くがGFAP陽性アストロサイトと共染色された。一方で、CC1陽性成熟オリゴデンドロサイトやIba1陽性ミクログリアとの共染色は僅かであった。アストロサイトにおけるErk1/2リン酸化は核内と細胞体共に局在していた。以上より、カプリゾンモデルでは脳梁部の脱髄とグリオーシスを来たし、脳梁部のErk活性化はアストロサイトに優位であった。

結果(2) Erk2欠失により脱髄や炎症は軽減した

我々は中枢神経特異的なErk2の機能解析のため、Nestin-Cre::Erk2cKOマウスを用いた。このmutant マウスでは神経幹細胞由来のニューロン、アストロサイト、オリゴデンドロサイトでErk2が欠失するものの、骨髄由来のミクログリアやマクロファージではErk2が欠失していなかった。

炎症性脱髄疾患の増悪期においては、グリオーシスと炎症の増悪が同時に進行することが知られている。そこでまず、Erk2欠損がグリオーシスにもたらす影響を免疫組織染色で検討すると、Erk2 cKOマウスにおけるカプリゾン投与後4週におけるミクログリアとアストロサイトの増加は共に減弱していた。さらに、脳梁部の炎症関連分子発現は減少していた。次いで脳梁部の脱髄をLFB染色で検討するとErk2 cKOマウスでは脱髄が軽減しており、脱髄スコアで評価するとErk2 cKOマウスではカプリゾン投与後3週から6週まで有意に脱髄が軽減していた。また、ロータロッドによる行動解析を行ったところ、Erk2 cKOマウスでは脱髄に伴う四肢協調運動機能障害が回避された。以上より、Erk2欠損は炎症の軽減と脱髄病態の軽減をきたすことが明らかとなった。

結果(3) アストロサイトはErk2を介して炎症関連分子を産生した

中枢神経での炎症やグリオーシスの進行はミクログリアとアストロサイトとの相互作用によって制御されていると考えられる。その過程におけるErk2の機能解析をするため、単離された培養系での実験を行った。初代培養から得られたミクログリアにリポポリサッカライド投与して炎症反応を誘発した後に、分泌因子を含むコンディションドメディウム(CM)を採取し、別個に培養したアストロサイトに添加した。アストロサイトではCM投与によりErk1/2発現が亢進し、炎症関連分子産生が誘導された。Mek阻害薬を用いると、アストロサイトの炎症関連分子発現は有意に減少した。従って、炎症環境におけるアストロサイトの炎症関連分子産生はErk1/2シグナルを介すると考えられた。さらにErk2 cKOマウスより単離培養されたErk2欠損アストロサイトでは、炎症関連分子発現が減少していた。一方で、炎症環境におけるErk2欠損アストロサイトのBrdU陽性細胞率には野生型アストロサイトとの間に差がなかった。以上より、炎症環境におけるアストロサイトのErk2は細胞増殖に関与せず、炎症関連分子を亢進させると考えられた。

考察

今回我々は、カプリゾンモデルを用いてErk2の炎症性脱髄過程における機能解析を行った。脳梁部では、(i)投与後1週から4週までErk1/2が活性化し、(ii)グリオーシスを認め、(iii)Erkの活性化はアストロサイトに局在しており、(iv)炎症関連分子発現が増加し、そして(v)運動機能障害をともなう脱髄がみられた。Erk2 cKOマウスでは、これら全てで病的変化が軽減した。炎症環境におけるErk活性化がアストロサイトに局在していたため、今回観察されたErk2 cKOの表現形はアストロサイトのErk2機能を反映していると考えられる。さらに、アストロサイト単離培養によるErk2機能解析では、炎症環境におけるアストロサイトのErk2は炎症関連分子を産生しており、その一方で増殖には影響していなかった。

生理的状態で恒常性維持を担うアストロサイトは、炎症環境においては反応性アストロサイトとして働く。その作用は環境に依存し、炎症関連分子産生による有害作用、あるいは成長因子産生による神経保護作用をもたらす。カプリゾンモデルではミトコンドリア機能障害によるオリゴデンドロサイト細胞死が病態の起点と考えられている。その結果、まずミクログリアが活性化、次いでアストロサイト活性化やマクロファージと好中球の浸潤が生じ、増幅された炎症が更なる脱髄や軸索障害に導く。この病態においてアストロサイトのErk2シグナル欠損は、グリオーシス抑制と炎症関連分子減少、そして脱髄と運動機能低下回避という結果をもたらした。したがって、アストロサイトはErk2を介して炎症関連分子を産生し、炎症を増悪し脱髄を進行させたと考えられる。

中枢神経におけるErk2の機能として、神経幹細胞増殖促進やオリゴデンドロサイト分化促進、そしてアストロサイトの細胞外基質産生という報告がある。我々の結果は、Erk2が炎症性関連分子を産生する一方で、in vitroでErk2欠損は増殖に影響していなかった。in vivoのErk2 cKOマウスではアストロサイトの増殖が抑制される傾向があったが、これにはミクログリア・マクロファージから分泌される成長因子による間接的作用も含まれると考えられる。

我々の結果では、炎症初期のミクログリア活性化には差がないにもかかわらず、アストロサイトのErk2欠失が極期の炎症と組織傷害・脱髄を抑制した。従って、グリオーシスが組織障害に働く過程では、アストロサイトはミクログリアから始まる炎症反応の増幅器であると考えられる。但し、今回用いたNestin-Cre Erk cKOマウスでは、胎生期の神経幹細胞でNestinプロモータがCreを発現するため、アストロサイトの他にもニューロン、オリゴデンドロサイトでもErk2が欠失するため、それらの影響は否定できない。従って、今後成体の神経炎症モデルにおいてアストロサイト特異的な知見を得るためには、GFAP-CreERを用いた解析が求められる。

カプリゾンモデルでの炎症関連分子の機能について、TNFα、IL-1β、LT-α、LT-β、あるいはMIP-1α(Ccl-3)のKOマウスは脱髄を遅延させるものの局期の脱髄は同等であると報告されている。つまり単一の炎症関連分子の抑制では脱髄の遅延が起きても、脱髄が軽症とはなり難いことが示唆される。一方、我々は細胞内シグナルErk2のアストロサイトにおける欠失が、炎症関連分子減少とグリオーシス抑制を伴った脱髄の抑制を来たすことを示した。加えて、細胞内シグナルに関してアストロサイト特異的IKKβDNマウスでは炎症関連分子発現の減少とともに脱髄が軽減したと報告されている。従って、細胞内シグナル分子の機能抑制は他のシグナルで代償されにくく、組織レベルの炎症過程に対してより大きな影響をもつと考えられる。

今回の結果はグリオーシスを病態の主体とする疾患への分子標的治療の可能性を示唆している。但し、T細胞を介した獲得免疫が関与しないカプリゾンモデルをヒト疾患に適用してよいかについては慎重になるべきである。そういった制限はあるものの、ヒトの二次性進行性多発性硬化症ではグリオーシスと病態の増悪が同時に起こっているとの報告もあり、こうした病態ではアストロサイトのErk2シグナルがグリオーシスを制御しているかもしれない。現在、siRNAによる分子標的治療がMSを含め多くの中枢神経疾患の治療として検討されていることから、今後Erk2を標的とした多発性硬化症治療戦略としてsiErk2投与などが検討されうる方法として挙げられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は 細胞内シグナルErk2の、中枢神経炎症制御において果たす役割を明らかとするため、カプリゾン投与マウス脱髄モデルにおけるErk2 コンディショナるノックアウトマウスの解析と、初代培養を用いたミクログリア‐アストロサイト細胞間相互作用の解析を行ったものであり、以下の結果を得ている。

1.脳梁部脱髄巣ではミクログリアの浸潤、反応性アストロサイトの増加といったグリオーシスの所見が観察された。脱髄が顕在化した脳梁部では、組織学的あるいは生化学的にErk1/2が活性化しており、リン酸化Erk 陽性細胞の多くがアストロサイトであった。一方、リン酸化Erk 陽性となる成熟オリゴデンドロサイトやミクログリアは僅かであった。

2.脱髄におけるErk1/2シグナルの関与を検討するため、脳室内カテーテルと浸透圧ポンプを用いて脳室内投与を行ったところ、四肢協調運動の指標となるRota-rodスコアの改善、あるいは脳梁部の炎症関連分子発現が減少した。すなわち脱髄や炎症が軽減しており、Erk1/2シグナルが関与していることが示唆された。

3.中枢神経特異的なErk2の機能解析のためNestinプロモーター制御下でCre recombinaseを発現するNestin-Cretgマウスと、Erk2flox/floxマウスを交配させたErk2 cKOマウスを用いた。このmutantマウスでは神経幹細胞由来の細胞でErk2が欠失するため、Creレポーターマウス(B6.Cg-Tg (CAG-floxed Neo-EGFP))とNestin-Cretgマウスを交配させて得られた成体マウスを解析したところ、神経幹細胞由来のニューロンやアストロサイトでErk2が欠失する一方、骨髄由来のミクログリアやマクロファージではErk2は欠失していなかった。

4.Erk2欠損が、脱髄の特徴である脳梁部のグリオーシスにもたらす影響について検討したところ、Erk2欠失により脱髄部のアストログリオーシスが軽減し、ミクログリア/マクロファージの集積が抑制された。また、脳梁部の炎症を定量RT-PCRで評価すると、脱髄部の炎症性サイトカイン(TNFα、IL-1β)や、ケモカイン(Ccl-2、 Ccl-3、Ccl-5、Cxcl-10)のmRNA発現がErk2 cKOマウスで減少していた。こうしたグリオーシスや炎症の変化が脱髄にもたらす影響をLFB染色で検討したところ、Erk2 cKOマウスは脱髄が軽減していた。さらに、Erk2 cKOマウスではRota-rodスコアも改善しており、四肢協調運動機能が保たれていた。以上より、Erk2欠損により、カプリゾン投与後のグリオーシス、炎症、脱髄が軽減しており、運動機能低下の回避を伴っていた。

5.脱髄巣における初期病態にErk2欠損による変化の検討では、脳梁組織中のIba1蛋白量のErk2欠損による有意な変化はなく、またミエリン関連分子MBPとMAGのmRNA発現量はErk2 cKOマウスとErk2flox/floxマウスに差がなかった。したがって、Erk2 cKOマウスではカプリゾン投与初期のオリゴデンドロサイト障害やミクログリア活性に影響していないと考えられた。

6.単離された初代培養系を用いて、アストロサイトにおけるErk2シグナルが炎症環境において炎症関連分子産生に関与しているかを検討した。ミクログリア由来の調整メディウムをアストロサイトに添加すると、Erk1/2、p38 MAPK、そしてSTAT3リン酸化および、IκBαの分解など細胞内シグナル活性化が誘導された。さらに、炎症関連分子のmRNA発現は、Mek阻害薬では濃度依存的に減少しており、炎症環境におけるアストロサイトの炎症関連分子産生は、MAPK、なかでもErk1/2シグナルを介すると考えられた。一方、Erk2 cKOマウスより得られたアストロサイト単離培養に調整メディウムを添加するとTNFα、IL1-β、Ccl-3発現が増加し、減少はCcl-2のみであった。

以上、本論文は中枢神経脱髄モデルにおけるErk2 cKOマウスの解析、あるいは初代培養を用いたグリア細胞間相互作用の解析から、アストロサイトのErk2シグナルが炎症関連分子産生を介して炎症の増悪に関与することを明らかにした。これらの知見はこれまでに未知なものであり、中枢神経におけるErk2シグナルが重要な働きを担っていると示唆するものである。今後の中枢神経炎症性疾患治療法の解明に貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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