学位論文要旨



No 129422
著者(漢字) 大森,惇子
著者(英字)
著者(カナ) オオモリ,ジュンコ
標題(和) 薬剤標的としてのブタ回虫ミトコンドリア呼吸鎖の生化学的解析
標題(洋)
報告番号 129422
報告番号 甲29422
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第4155号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 栗原,裕基
 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 教授 遠山,千春
 東京大学 准教授 馬淵,昭彦
 東京大学 准教授 野入,英世
内容要旨 要旨を表示する

序論

寄生生物の多くは、その生活環において外部環境の変動に適応するため、それぞれに種特異的な機構を発達させている。このような寄生現象は、生物学的に非常に興味深い研究対象であると同時に、医学的な観点からはその現象の解明が新たな創薬の標的をもたらすことが期待される。私の所属するグループは寄生現象の重要な側面として、低酸素適応に焦点を絞って研究を進めてきた。多細胞真核生物の低酸素適応機構は原核生物とは異なっていることが明らかになりつつあり、また薬剤標的となりうることから臨床的にも重要である。さらに最近、低栄養、低酸素環境下で増殖する癌細胞についても、その治療への応用も含め注目されている。

寄生性線虫であるブタ回虫の成虫は、低酸素環境の宿主哺乳類の小腸に棲息し、特殊な嫌気的エネルギー代謝系を保持しており、この代謝系はこれまでに詳細な解析がなされている。ブタ回虫は、自由生活性の受精卵から感染幼虫包蔵卵 (L3) となるまでは外界の通常酸素分圧下 (pO2: 20%) に棲息し、経口感染して小腸で孵化した後、肝臓、心臓、肺と宿主体内を移行し、再び小腸に戻り成虫へと成長する。幼虫は哺乳類とほぼ同様な好気的代謝経路を作動させ、ミトコンドリア呼吸鎖電子伝達系は哺乳類と同様に好気的代謝の構成成分として機能し、酸化的リン酸化を用いたATP産生を行っている。一方、成虫は小腸内の低酸素環境下 (pO2: 2-5%) に棲息し、NADH-フマル酸還元系を最終ステップとした、酸素を利用しないホスホエノールピルビン酸カルボキシキナーゼ-コハク酸経路を作動させ、低酸素環境下においてもATP産生を可能にしている。このNADH-フマル酸還元系は複合体I (NADH-キノン酸化還元酵素: NADH-RQ)、複合体II (キノール-フマル酸還元酵素: QFR) と低電位のロドキノン (RQ) から構成され、嫌気的エネルギー代謝系において、好気性生物ではコハク酸-ユビキノン還元酵素 (SQR) として機能する複合体IIは、成虫ミトコンドリア呼吸鎖電子伝達系の末端酸化酵素として逆反応のフマル酸還元を触媒し、宿主体内での生存に重要な機能を担っていることが明らかにされている。

このように寄生性線虫の持つNADH-フマル酸還元系は宿主である哺乳類のミトコンドリアには存在しないため、格好の薬剤標的になると考えられている。実際に私の所属するグループから、複合体Iの阻害剤として、nafuredin、quinazoline系化合物が報告されている。一方、複合体IIに関してatpenin A5が報告されているが、哺乳類にも高い阻害活性を示し、選択性が得られなかった。さらなるスクリーニングの結果、日本農薬株式会社のモンカットと呼ばれる植物抗カビ剤で担子菌類のミトコンドリア呼吸鎖複合体IIを阻害するFlutolanilが約800倍の選択性を示すとの結果が得られている。

研究の背景・目的

私は、ブタ回虫の宿主体内移行における環境の変化に適応したエネルギー代謝の変動を、ミトコンドリア呼吸鎖の解析により明らかにし、さらにこの情報を基盤にして宿主である哺乳類には存在しないNADH-フマル酸還元系を標的とした新規薬剤開発を目的として、特に呼吸鎖複合体IIに注目して研究を進めている。

回虫複合体IIはその構成成分であるFp (フラボタンパク質)、Ip (鉄-硫黄タンパク質)、CybL (シトクロムb大サブユニット)、CybS (シトクロムb小サブユニット) のうち、Ip、CybLサブユニットはステージ間で共通だが、Fp (幼虫型Fp, FpL ; 成虫型Fp, FpA) とCybS (幼虫型CybS, CybSL ; 成虫型CybS, CybSA) にはそれぞれ2種類のアイソフォームが存在することが明らかにされている。これまでにL3、肺ステージL3 (LL3)、成虫ミトコンドリア複合体IIについて酵素学的解析、サブユニット組成の解析が行われ、成虫型 (FpA, CybSA)、幼虫型 (FpL, CybSL)、混合型 (FpL, CybSA) 複合体IIの存在が確認されている。エネルギー代謝系の変動と複合体IIの変動は徐々に明らかにされつつあるが、LL3は体内移行の途中で成虫に成長するまではまだ多くの段階が残っている。この好気的-嫌気的エネルギー代謝系の転換を理解するため、LL3から成虫へと成長するまでのエネルギー代謝の変化を明らかにする必要がある。さらに、基礎生命科学に基づく抗寄生性線虫薬の開発を考えたとき、各ステージにおけるミトコンドリア呼吸鎖、複合体IIの詳細な解析から、薬剤が効果を示すステージに関する重要な情報を得ることができると考えられる。

そこで、本研究では環境の酸素分圧が大きく変化する肺 (pO2: 13.2%) に棲息するLL3、小腸 (pO2: 2.5-5.0%) に到達し成虫に成長する前の段階の感染38日後のヤングアダルト (YA) と嫌気的エネルギー代謝系への転換が完了している成虫を用いてミトコンドリア呼吸鎖の酵素学的解析およびサブユニット組成の解析を行なった。

さらに、このNADH-フマル酸還元系を標的とした阻害剤を検討した。複合体Iに関しては、高い選択性の化合物が得られず、実用化に至っていない。しかし、動物実験等によりNADH-フマル酸還元系が良い薬剤標的となりうると示されたことから、本研究ではもう一つの構成成分である複合体IIに関して検討した。回虫複合体IIに対し、高い選択性を示すFlutolanilのさらなる選択性の向上を目指し、阻害剤の構造と活性相関についての情報を得るため、本研究ではFlutolanilをリード化合物として合成した誘導体、構造の類似した市販化合物、また日本農薬株式会社所有の化合物について、回虫ミトコンドリアと宿主哺乳類のブタミトコンドリアに対する阻害活性を調べた。

結果・考察

YAのNADH-フマル酸還元系を成虫と比較するとQFR、NADH-dRQ活性は同程度の値を示し、NADH-フマル酸還元系のもう1つの構成因子であるキノンもYAは成虫と同様に100%RQであったが、これらの複合活性であるNADH-FR活性は約1/3倍の値と低下していた。さらに、複合体IIのサブユニット組成の解析よりYAのCybSサブユニットは成虫と同様にCybSAのみであった。一方Fpサブユニットのタンパク質発現量を各ステージで比較すると、YAのFpAはLL3の1/10に低下しており、またYAにおいてFpLが優位に発現していることが明らかになった。これらよりYAの複合体IIは混合型複合体IIが優位に存在することが明らかになった。NADH-FR活性が低下していたことに関して、可能性の一つとしてRQの絶対量がYAと成虫で異なることが考えられるが、分析に充分な試料の入手の点から現時点で解析は困難であり、今後の課題である。他の可能性としては、YAで優位に発現している混合型複合体IIは成虫型複合体IIと異なり複合体Iとのスーパーコンプレックスを形成できずNADH-フマル酸還元系において電子伝達の効率が異なることが考えられる。YAは、大きさは成虫より小さいが、体内移行を終了し成虫と同様に小腸に棲息しており、それ以上の脱皮もしないと考えられている。しかしながら、本研究で明らかになったように、まだエネルギー代謝系の変化は完了していないことが示された。

これまでの研究と合わせ、回虫複合体IIの生活環におけるアイソフォームの発現、転換のタイミング、NADH-フマル酸還元系との関わりは徐々に明らかになりつつあるが、複合体IIがステージ毎に変動する理由は明らかにされていない。この解決のため、組換え酵素を用いた詳細な解析が必要であり、複合体IIの発現系の確立が課題である。

回虫はその生活環において酸素分圧変化、宿主からの臓器特異的な応答等、様々な影響を受けている。多くの多細胞生物において、低酸素応答の多くは低酸素誘導因子 (HIF) により制御されていることが明らかにされている。回虫にもその存在が認められており、複合体IIの変換にはHIFの関与が示唆されているものの、その詳細は明らかにされてはいない。回虫ミトコンドリア呼吸鎖、複合体II、キノンの変動の分子機構を明らかにすることで、エネルギー代謝系の低酸素適応機構の解明に重要な知見が得られると期待できる。

さらに回虫複合体IIの特異的な阻害剤の検討を行なった結果、化合物の構造活性相関解析より、トリフルオロメチルベンゼン部位は主に阻害活性に、イソプロポキシベンゼン部位は主に特異性に重要であることが明らかになった。また、複合体IIとFlutolanilとの共結晶の結果より、回虫複合体IIに特徴的な空間があることがわかり、ここを埋めるような構造の化合物が選択性を向上させることが明らかになった。最終的に選択性が約20,000倍に向上した化合物NN-23が得られた。また、Flutolanilは成虫型複合体IIのキノン結合部位であるIp、CybL、CybSAから構成される疎水性ポケットに結合していることが明らかにされている。YAで発現している混合型複合体II、成虫型複合体IIの疎水性ポケットはともにIp、CybL、CybSAから構成されていることから、小腸に棲息しているYAおよび成虫ともに今回検討した化合物は有効であると考えられる。今後は、得られた構造活性相関の情報と結晶構造の知見より選択性の高い化合物の探索を行ない、またin vivoでの回虫に対する効果の評価を行なう予定である。

最近、癌細胞におけるエネルギー代謝系のメタボローム解析によりNADH-フマル酸還元系の最終産物であるコハク酸の蓄積が報告され、ヒト複合体IIではFpサブユニットのリン酸化によりNADH-FR活性の上昇が示された。また一部の癌組織において、駆虫薬として広く用いられているフマル酸呼吸阻害剤のpyruvinium pamoateが効果を示すことから、これまでバクテリアや寄生虫でしか確認されていなかったNADH-フマル酸還元系がヒトの細胞でも誘導されることが示唆された。このように臨床的な観点からもエネルギー代謝系の低酸素適応機構を解明することにより、将来的に虚血など低酸素に関連した疾患、また低栄養、低酸素環境下で増殖する癌細胞等のエネルギー代謝の特徴を解き明かし、またそれを標的とする薬剤の開発の上で大きなヒントとなることが期待できる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究はブタ回虫の宿主体内移行における環境の変化に適応したエネルギー代謝系の変動を、ミトコンドリア呼吸鎖の解析により明らかにし、さらにこの情報を基盤にして宿主である哺乳類には存在しないNADH-フマル酸還元系を標的とした新規薬剤開発を目的として、ミトコンドリア呼吸鎖複合体IIに注目し、体内移行における複合体IIの変動の解析と複合体IIを標的としたFlutolanil誘導体の構造活性相関解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. ミトコンドリア呼吸鎖の酵素活性を調べた結果、NADH-フマル酸還元系を構成するNADH-RQ (NADH-ロドキノン酸化還元酵素)、QFR (キノール-フマル酸還元酵素) 活性はそれぞれヤングアダルト (YA) は成虫と同程度の値を示した。また、NADH-フマル酸還元系のもう一つの構成因子であるキノン種の解析の結果、YAにおいてRQのみが検出された。その複合活性であるNADH-FR (NADH-フマル酸還元酵素) 活性は、YAは成虫の約1/3と低下していた。

2. YAのミトコンドリア呼吸鎖複合体IIのサブユニット組成の解析を行なった。その結果、CybS (シトクロムb小サブユニット) はCybSA (成虫型CybS) のみが検出され、Fp (フラボタンパク質) サブユニットはFpA (成虫型Fp) が肺ステージL3 (LL3) より減少していることが示され、FpLが (幼虫型Fp) が優位に発現していることが明らかになった。YAの複合体IIは混合型複合体IIが優位に発現しており、さらにLL3よりその割合が高いことが示された。

3. Flutolanil誘導体の構造活性相関解析の結果、トリフルオロメチルベンゼン部位は主に阻害活性に、イソプロポキシベンゼン部位は主に特異性に重要であることが明らかになった。さらに結晶構造の解析結果より、回虫複合体IIに特徴的な空間があることがわかり、ここを埋めるような構造の化合物が選択性を向上させることが明らかになった。その結果、最終的に選択性が20,000倍まで向上した化合物を得られた。

以上、本論文は宿主体内移行におけるエネルギー代謝系の変動において、今まで情報のなかったステージであるYAのミトコンドリア呼吸鎖の解析を行ない、YAのミトコンドリア呼吸鎖は成虫型への転換が完了していないことを明らかにした。さらに、Flutolanil誘導体の解析より、構造活性相関の情報が得られ、選択性が20,000倍まで向上した化合物を得た。本研究は寄生虫学分野に、また低酸素適応機構の解明に重要な貢献をし、さらに薬剤開発における基礎研究の重要性を示したものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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