学位論文要旨



No 129465
著者(漢字) 田尾,賢太郎
著者(英字)
著者(カナ) タオ,ケンタロウ
標題(和) 乳幼児期の経験依存的な神経回路形成が成体期に及ぼす行動学的影響
標題(洋)
報告番号 129465
報告番号 甲29465
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1506号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 一條,秀憲
 東京大学 准教授 垣内,力
 東京大学 准教授 富田,泰輔
 東京大学 講師 千原,崇裕
内容要旨 要旨を表示する

乳幼児期の経験が成体期の行動に永続的な影響を与えうるということは,私たちの経験に照らし合わせても,また動物行動学的にもよく知られた事実である。しかしながら,どのようにして乳幼児期の経験が成体期の行動に影響を与えるのか,神経生物学的な観点からは,現在でもほとんど明らかにされていない。そこで本研究は,乳幼児期の経験と成体期の行動を繋ぐ神経基盤を探索することを目的とした。

海馬体を構成する歯状回は内側側頭葉てんかん患者において顕著な構造異常を示すことから,てんかん発症との関連が示唆される病態モデルにおいて,その変化が精力的に検証されてきた。なかでも海馬神経回路の最上流に位置する歯状回とCA3野において構成される局所回路は,その解剖学的および生理学的特徴から,てんかん発症における根本的病因として着目されている。歯状回を構成する顆粒細胞の軸索は苔状線維と呼ばれ,歯状回門およびCA3野に存在する神経細胞に投射している。苔状線維の投射先は約90%が抑制性神経細胞であり,この性質により歯状回-CA3神経回路は興奮性伝達に対する「ゲート」として作用すると推察されている。したがって,この局所回路における興奮/抑制バランスの崩壊は,この領域を起始部とするてんかん状態に発展する危険性を孕んでいる。そのような観点に立脚して,苔状線維の側枝が過剰に伸長することで反回性の異所性神経回路を形成する異常発芽など,さまざまな構造異常について研究が推進されてきた。

しかしながら,これまで上述の病態生理学的な観点からはアプローチされてこなかった構造的特徴がある。それが,苔状線維がCA3野で錐体細胞と形成する巨大終末である。苔状線維は1本あたり約14(11-18)個の錐体細胞と巨大終末を形成しており,巨大終末は1個あたり約30個のシナプス活性領域を構成している。したがってこのシナプスは非常に強力であり,単一の顆粒細胞に由来する神経活動が下流の錐体細胞を活性化することが可能である。さらにこの巨大終末は,CA3野に対して与える影響が発火頻度依存的に抑制性から興奮性へと変化することも報告されており,その構造的あるいは機能的変化により歯状回-CA3神経回路の興奮/抑制バランスに影響を与える可能性が推測される。

当研究室の卒業生である市川淳也博士(2011年3月卒業)は,この巨大終末に着目し,その密度が熱性けいれん後に増加することを発見している。しかしながら,この変化が将来のてんかん発症や認知機能に与える影響は未知であった。そこで本研究は,熱性けいれんが苔状線維巨大終末の過剰形成を誘導する詳細な機構を追究するとともに,この形態変化が異なる実験的操作によっても誘導される可能性,さらにそれが成体期に及ぼす行動学的影響を検証した。

生後14日齢のThy1-mGFPマウスに対して,ヘアドライヤーにより体温上昇(40.0-42.0℃)を30分間維持することで,熱性けいれんを誘導した。このマウスは,Thy1プロモーターの下流で一部の神経細胞のみが細胞膜移行性GFPを発現しており,細胞形態が明瞭に可視化されている。まず,巨大終末出現の詳細な時間的経過を検討したところ,熱性けいれんの1日後には観察されず,4日後には有意に増加していた。次に,巨大終末形成を誘導するシグナル伝達経路を特定するため,熱性けいれんの1日後に海馬切片培養を作成して薬理実験を実施した。その結果,サイクリックAMP (cAMP)-プロテインキナーゼA (PKA) 経路および脳由来神経栄養因子 (brain-derived neurotrophic factor: BDNF)-TrkB経路の活性化が必要であることが判明した。

歯状回は個体の生涯を通して神経細胞が新生する部位であるが,近年の報告により,発達期に分化した顆粒細胞は記憶の迅速な想起に関与することが知られている。熱性けいれんにより増加した巨大終末は発達期に分化した顆粒細胞の苔状線維に限局していることから,この形態変化が記憶の迅速な想起を変化させる可能性を検証した。文脈的恐怖条件づけ試験において,環境提示と電気ショック提示の間隔を短縮すると学習成績が低下するが,これは条件付け環境に事前暴露することで回復することが知られている。熱性けいれんを生後14日齢で経験したマウスに対して,生後8週齢の時点でこのパラダイムを適用したところ,コントロールと比較して有意に高いすくみ反応を示した。さらに,各個体の比較により,すくみ反応と巨大終末密度が有意な正の相関を示すことが判明した。

成体期のマウスを刺激の豊かな環境で飼育すると,海馬においてBDNFの発現が上昇することが知られている。この環境は新生児期のマウスに対しても適用可能であるため,これが熱性けいれんと同様に巨大終末の異所形成を誘導する可能性を検証した。生後0から21日齢までThy1-mGFPマウスの母仔を豊かな環境で飼育したところ,錐体細胞層で巨大終末が増加していた。豊かな環境の期間を生後3から5週齢あるいは5から7週齢にした場合は巨大終末の密度に変化がなかったことから,少なくともこのThy1-mGFPマウスで可視化されている顆粒細胞において,巨大終末の異所形成には臨界期が存在することが判明した。海馬切片培養をもちいた薬理実験により,この増加は熱性けいれんと同様にcAMP-PKA経路およびBDNF-TrkB経路の活性化に依存していることが判明した。さらに,乳幼児期に豊かな環境で飼育されたマウスをもちいて生後8週齢の時点で事前暴露依存的な文脈的恐怖条件づけ試験を実施したところ,熱性けいれんと同様に,コントロールと比較して有意に高いすくみ反応を示した。さらに,各個体の比較により,すくみ反応と巨大終末密度が有意な正の相関を示すことが判明した。

熱性けいれんあるいは乳幼児期の豊かな環境を経験したマウスは,オープンフィールド試験において不安傾向を示さず,また事前暴露非依存的な条件下ではすくみ反応の上昇が観察されなかったことから,両群において事前暴露依存的な条件下で観察されたすくみ反応の上昇は,不安傾向の増大によるものでも,非特異的なすくみ反応の上昇によるものでもないことが示唆された。

側頭葉てんかん患者の海馬歯状回で観察される構造異常として,顆粒細胞が異所性に局在していることが挙げられる。当研究室の先行研究において,乳幼児期の熱性けいれんが細胞移動を阻害することで異所性顆粒細胞を出現させること,その出現を特異的に阻害することで成体期における自発発作の発症および発作閾値の低下が抑制されることが判明している。歯状回における神経新生部位が生後数週間で歯状回門領域から顆粒細胞層下帯に移行すること,また神経新生の規模が縮小することを考慮すると,異所性顆粒細胞の出現は熱性けいれんの時期依存的である可能性が予想される。これを検証するため,生後11日齢または14日齢に熱性けいれんを誘導し,その1週間後に異所性顆粒細胞を観察した。その結果,生後11日齢の場合は異所性顆粒細胞が増加しているが,生後14日齢の場合は変化しないことが判明した。さらに,生後11日齢に熱性けいれんを経験したマウスは,パターン補完依存的な記憶課題において,集団としてはコントロールと有意な差を示さないことが判明した。熱性けいれん群において,巨大終末密度とすくみ反応の間には有意な正の相関が,異所性顆粒細胞密度とすくみ反応の間には有意な負の相関が,それぞれ観察された。

以上の結果は,乳幼児期の海馬における経験依存的な神経回路形成が成体期まで維持され,その行動に影響を与えることを示唆した最初の知見である。熱性けいれんという病態モデルと,刺激の豊かな環境という一見対照的な実験系が,共通の分子機構により共通の神経回路を形成し,共通の行動学的変化を誘導するという点で興味深い。本研究成果を嚆矢として,乳幼児期の経験と成体期の行動を繋ぐ神経基盤について,発達生物学的な観点と病態生理学的な観点を統合的に解釈する立場から,より詳細な理解が促進されることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

乳幼児期の経験が成体期の行動に永続的な影響を与えうるということは,ヒトの経験として,また動物行動学的にもよく知られた事実である。しかし,乳幼児期の経験が成体期の行動に与える影響を神経生物学的な観点からは,ほとんど明らかにされていない。そこで本研究は,乳幼児期の経験と成体期の行動を繋ぐ神経基盤を探索することを目的とした。

海馬体を構成する歯状回は内側側頭葉てんかん患者において顕著な構造異常を示すことから,てんかん発症との関連が示唆される病態モデルにおいて,その変化が精力的に検証されてきた。なかでも海馬神経回路の最上流に位置する歯状回とCA3野において構成される局所回路は,その解剖学的および生理学的特徴から,てんかん発症における根本的病因として着目されている。歯状回を構成する顆粒細胞の軸索は苔状線維と呼ばれ,歯状回門およびCA3野に存在する神経細胞に投射している。苔状線維の投射先は約90%が抑制性神経細胞であり,この性質により歯状回-CA3神経回路は興奮性伝達に対する「ゲート」として作用すると推察されている。したがって,この局所回路における興奮/抑制バランスの崩壊は,この領域を起始部とするてんかん状態に発展する危険性を孕んでいる。そのような観点に立脚して,苔状線維の側枝が過剰に伸長することで反回性の異所性神経回路を形成する異常発芽など,さまざまな構造異常について研究が推進されてきた。

しかしながら,これまで上述の病態生理学的な観点からはアプローチされてこなかった構造的特徴がある。それが,苔状線維がCA3野で錐体細胞と形成する巨大終末である。苔状線維は1本あたり約14(11~18)個の錐体細胞と巨大終末を形成しており,巨大終末は1個あたり約30個のシナプス活性領域を構成している。したがってこのシナプスは非常に強力であり,単一の顆粒細胞に由来する神経活動が下流の錐体細胞を活性化することが可能である。さらにこの巨大終末は,CA3野に対して与える影響が発火頻度依存的に抑制性から興奮性へと変化することも報告されており,その構造的あるいは機能的変化により歯状回-CA3神経回路の興奮/抑制バランスに影響を与える可能性が推測される。

所属する研究室の先行研究で、この巨大終末の密度が熱性けいれん後に増加することを発見している。しかしながら,この変化が将来のてんかん発症や認知機能に与える影響は未知であった。そこで本研究は,熱性けいれんが苔状線維巨大終末の過剰形成を誘導する詳細な機構を追究するとともに,この形態変化が異なる実験的操作によっても誘導される可能性,さらにそれが成体期に及ぼす行動学的影響を検証した。

生後14日齢のThy1-mGFPマウスに対して,ヘアドライヤーにより体温上昇(40.0-42.0℃)を30分間維持することで,熱性けいれんを誘導した。このマウスは,Thy1プロモーターの下流で一部の神経細胞のみが細胞膜移行性GFPを発現しており,細胞形態が明瞭に可視化されている。まず,巨大終末出現の詳細な時間的経過を検討したところ,熱性けいれんの1日後には観察されず,4日後には有意に増加していた。次に,巨大終末形成を誘導するシグナル伝達経路を特定するため,熱性けいれんの1日後に海馬切片培養を作成して薬理実験を実施した。その結果,サイクリックAMP (cAMP)-プロテインキナーゼA (PKA) 経路および脳由来神経栄養因子 (brain-derived neurotrophic factor: BDNF)-TrkB経路の活性化が必要であることが判明した。

歯状回は個体の生涯を通して神経細胞が新生する部位であるが,近年の報告により,発達期に分化した顆粒細胞は記憶の迅速な想起に関与することが知られている。熱性けいれんにより増加した巨大終末は発達期に分化した顆粒細胞の苔状線維に限局していることから,この形態変化が記憶の迅速な想起を変化させる可能性を検証した。文脈的恐怖条件づけ試験において,環境提示と電気ショック提示の間隔を短縮すると学習成績が低下するが,これは条件付け環境に事前暴露することで回復することが知られている。熱性けいれんを生後14日齢で経験したマウスに対して,生後8週齢の時点でこのパラダイムを適用したところ,コントロールと比較して有意に高いすくみ反応を示した。さらに,各個体の比較により,すくみ反応と巨大終末密度が有意な正の相関を示すことが判明した。

成体期のマウスを刺激の豊かな環境で飼育すると,海馬においてBDNFの発現が上昇することが知られている。この環境は新生児期のマウスに対しても適用可能であるため,これが熱性けいれんと同様に巨大終末の異所形成を誘導する可能性を検証した。生後0から21日齢までThy1-mGFPマウスの母仔を豊かな環境で飼育したところ,錐体細胞層で巨大終末が増加していた。豊かな環境の期間を生後3から5週齢あるいは5から7週齢にした場合は巨大終末の密度に変化がなかったことから,少なくともこのThy1-mGFPマウスで可視化されている顆粒細胞において,巨大終末の異所形成には臨界期が存在することが判明した。海馬切片培養をもちいた薬理実験により,この増加は熱性けいれんと同様にcAMP-PKA経路およびBDNF-TrkB経路の活性化に依存していることが判明した。さらに,乳幼児期に豊かな環境で飼育されたマウスをもちいて生後8週齢の時点で事前暴露依存的な文脈的恐怖条件づけ試験を実施したところ,熱性けいれんと同様に,コントロールと比較して有意に高いすくみ反応を示した。さらに,各個体の比較により,すくみ反応と巨大終末密度が有意な正の相関を示すことが判明した。

熱性けいれんあるいは乳幼児期の豊かな環境を経験したマウスは,オープンフィールド試験において不安傾向を示さず,また事前暴露非依存的な条件下ではすくみ反応の上昇が観察されなかったことから,両群において事前暴露依存的な条件下で観察されたすくみ反応の上昇は,不安傾向の増大によるものでも,非特異的なすくみ反応の上昇によるものでもないことが示唆された。

側頭葉てんかん患者の海馬歯状回で観察される構造異常として,顆粒細胞が異所性に局在していることが挙げられる。当研究室の先行研究において,乳幼児期の熱性けいれんが細胞移動を阻害することで異所性顆粒細胞を出現させること,その出現を特異的に阻害することで成体期における自発発作の発症および発作閾値の低下が抑制されることが判明している。歯状回における神経新生部位が生後数週間で歯状回門領域から顆粒細胞層下帯に移行すること,また神経新生の規模が縮小することを考慮すると,異所性顆粒細胞の出現は熱性けいれんの時期依存的である可能性が予想される。これを検証するため,生後11日齢または14日齢に熱性けいれんを誘導し,その1週間後に異所性顆粒細胞を観察した。その結果,生後11日齢の場合は異所性顆粒細胞が増加しているが,生後14日齢の場合は変化しないことが判明した。さらに,生後11日齢に熱性けいれんを経験したマウスは,パターン補完依存的な記憶課題において,集団としてはコントロールと有意な差を示さないことが判明した。熱性けいれん群において,巨大終末密度とすくみ反応の間には有意な正の相関が,異所性顆粒細胞密度とすくみ反応の間には有意な負の相関が,それぞれ観察された。

以上の結果は,乳幼児期の海馬における経験依存的な神経回路形成が成体期まで維持され,その行動に影響を与えることを示唆した最初の知見である。熱性けいれんという病態モデルと,刺激の豊かな環境という一見対照的な実験系が,共通の分子機構により共通の神経回路を形成し,共通の行動学的変化を誘導するという点で興味深い。本研究成果を嚆矢として,乳幼児期の経験と成体期の行動を繋ぐ神経基盤について,発達生物学的な観点と病態生理学的な観点を統合的に解釈する立場から,より詳細な理解が促進されることが期待される。

このように、本研究はてんかんの病態の解明にとどまらず、乳幼児期の体験が成体期の行動に及ぼす影響を明らかにした点で神経科学の発展に貢献する内容であり、博士(薬学)の学位授与に値すると判断した。

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