学位論文要旨



No 129523
著者(漢字) 北園,淳
著者(英字)
著者(カナ) キタゾノ,ジュン
標題(和) 下側頭皮質における情報処理に関する理論研究
標題(洋) A Theoretical Study on Information Processing in Inferior Temporal Cortex
報告番号 129523
報告番号 甲29523
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第868号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 複雑理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡田,真人
 東京大学 教授 能瀬,聡直
 東京大学 教授 鈴木,宏二郎
 東京大学 准教授 江尻,晶
 東京大学 准教授 溝川,貴司
内容要旨 要旨を表示する

我々の脳は,高度に機能分化しており,視覚に関わる部位,聴覚に関わる部位など様々である.その中で下側頭皮質は,視覚情報処理の最終段階にあたり,我々霊長類の高度な物体認識を司るとされる.本論文では,この下側頭皮質における情報処理様式を解明するための,理論的なアプローチについて議論する.本論文の構成は以下の通りである.まず第1章のイントロダクションでは,本論文の概要について述べる.第2章では神経回路モデルについて議論する.第3章から第5章は,データ解析手法について議論する.第3章と第4章では特に,神経細胞集団による情報表現を解析する手法について議論する.また第5章では,単一の神経細胞の特性を解析する手法を提案する.最後に第6章で結論を述べる.

下側頭皮質では,似た刺激選択性を持つ神経細胞が集まったコラムと呼ばれる構造が存在することが知られている[1].また,オプティカルイメージングを用いたWangらの実験[2]では,横顔や正面顔など様々な向きの顔画像をサルに提示した際の活動を記録し,顔の向きの変化に対応して,コラムの位置が連続的に変化することが示されている.このような向きに依存したコラムの位置の変化は,視覚情報処理の初期にあたるV1野においても方位選択性コラム[3]という形で観測されている.V1野では,ある傾きの線分に反応する神経細胞が集まったコラム(方位選択性コラム)が存在し,そのコラムが線分の角度に対応して連続的に並んでいる.この方位選択性コラムの連続的な並びは,メキシカンハット型相互作用[4]によって説明できるとされ,神経回路モデルの構築が行われてきた.しかしながら,近年の生理学実験によって,下側頭皮質において隣り合う神経細胞同士の性質が異なっており,コラムよりもさらに微細なパターンがあることが示唆されている[5, 6].そこで第2章では,このコラムとコラムより微細なパターンが,どのような神経回路構造によって実現されるのか,またその機能的意義は何かを明らかにするため,神経回路モデルを提案する[7].提案する神経回路モデルは,従来のメキシカンハット型相互作用を持つモデルの拡張にあたる.メキシカンハット型相互作用に連想記憶モデルの自己相関型相互作用の特性を取り入れることによって,コラムとコラムより微細なパターンを再現することが可能となることを示す.また,モデルのパラメータについて,統計力学的な手法を用いることによって,系統的な解析を行った結果を示す.

Wangらの実験[2]の様に,下側頭皮質において顔がどのように表現されているか,また,その向き依存性は,1980年代初頭に,いわゆる顔ニューロンの存在が報告[8]されて以来,精力的に調べられてきている.顔ニューロンは,顔写真や実際の顔をみたときに強い活動を示すニューロンのことをいう.近年Tsaoらのグループは,サルに対しfMRIを用いた実験で,下側頭皮質に顔処理に特化した6つの顔パッチが存在することを報告している[9].顔パッチは,顔ニューロンが集まった,コラムより大きな,皮質表面上で半径数mm程度の領域であり,パッチ内のほとんどの神経細胞が顔選択性を持つ.さらにTsaoらのグループは,これらの顔パッチの性質を詳細に調べている[10].Tsaoらが行った実験では,サルに横顔や正面顔など様々な向きの顔を提示し,神経細胞の活動を記録している.その結果,後部下側頭皮質に位置する顔パッチの神経細胞は,顔のアイデンティティに依らず,顔の向きを表現していることを明らかにした.また,後部から前部に進むにつれて顔のアイデンティティに対する選択性と不変性が増加し,最前部に位置する顔パッチ(AM)では,各神経細胞は,顔の向きに依らず顔のアイデンティティを表現していることを明らかにした.一方で,永福らの研究によって[11],AMの神経細胞一つずつは,必ずしも顔の向きに対して不変ではなく,AMの神経細胞の顔の向き依存性にばらつきがあることを示している.また,神経細胞を一つずつではなく集団として見たときに,顔の向きに依存しないアイデンティティの表現が得られる可能性を示唆する結果を得ている.このように,顔の向きに依存しないアイデンティティの表現が,各神経細胞によって独立に行われているのか,それとも,神経細胞集団によって行われているのかは未解明であり,アイデンティティの表現の担い手を明らかにする必要がある.そこで3章では,電気生理学実験によりAMで計測された神経細胞の活動データを用い,どの神経細胞が,もしくは,どの神経細胞の組合せが,顔の向きに依らないアイデンティティの識別に役立つのか,解析を行った結果を示す.

このような解析には,特徴選択と呼ばれる手法が有効である[12].特徴選択は,与えられた特徴量の中から,意味のある特徴量の組合せを選択する手法である.この特徴選択を適用することによって,アイデンティティの識別に寄与しうる神経細胞の組合せを選び出すことが可能になる.従来研究で用いられてきた特徴選択の手法は,最も性能の高い特徴量の組合せを,一つだけ選択する手法である.しかしながら,今回の場合,この様な最適な神経細胞の組合せは一つだけとは限らず,複数存在する場合があると考えられる.例えば,あるアイデンティティの識別に寄与する神経細胞の組合せが複数存在することによって,識別をよりロバストなものにしている可能性や,またそれぞれの組合せが異なる判断基準に基づいてアイデンティティの識別を行っている可能性などが考えられる.この様な場合には,従来の特徴選択手法のように,一つだけ神経細胞の組合せを抽出するのは不適切であるといえる.この問題を回避するためには,全神経細胞の組合せについてアイデンティティの識別に対する寄与の度合いを評価する,全数探索を行う必要がある.そこで3章では,下側頭皮質で計測されたスパイクデータに対して全数探索を行った結果を示す.その結果予測通り,アイデンティティの識別について高い性能を持つ神経細胞の組合せが複数存在することを示す.このように複数の組合せが存在することによって,ノイズに影響されないロバストな識別を行っている可能性や,組み合わせごとに異なる情報を用いて,識別を行っている可能性などが示唆される.

第4章では,第3章で議論した神経細胞の組合せに対する網羅的な評価を,効率的に行うアルゴリズムを提案する.第3章では,神経細胞の全組合せに対してアイデンティティの識別に関する性能を評価した.しかしながら,神経細胞の数をD としたとき,神経細胞の組み合わせは2^D-1 通りあり,全数探索の計算量は神経細胞数の指数のオーダーで発散してしまう.よって対象とする神経細胞数が増えた場合,全数探索は現実的なアプローチではない.そこで,全数探索を行わずに効率的に,高い識別性能を持つ神経細胞の組合せを網羅的に抽出し,それらが成す全体構造を掴むことができる手法が必要となる.この問題に対し,本研究では,交換モンテカルロ法を用いた特徴量探索の手法を提案する[13, 14].提案手法では,識別性能が高い特徴量の組合せを重点的に探索することによって,識別性能の高い特徴量の組合せを効率的に抽出し,さらに神経細胞の組合せが持つ構造の概要を知ることを可能とする.提案手法によって,第3章で行った全数探索の結果を,効率よく推定可能であることを示す.

下側頭皮質において,神経細胞同士の結合様式を調べた研究により,下側頭皮質では,V1などに比べて,神経細胞の軸索が,より離れた位置まで届いていることが知られている.また,下側頭皮質の神経細胞の刺激選択性には,リカレントな抑制性結合が重要であることが知られている.これらの結果は,下側頭皮質の情報処理においては,リカレントな神経細胞同士の相互作用が重要であることを示している.この神経細胞同士の相互作用には,電気的特性が樹状突起上でどのように分布しているかに依存しているとされる.そこで,第5章では,神経細胞の樹状突起の電気的特性を推定する手法を提案する.近年の光イメージング技術の発展に伴い,この樹状突起の電気的特性の中でも特に,膜抵抗の値を計測した蛍光強度から推定する統計的手法が提案されている.しかしながら,光イメージングはSN 比が低いため,樹状突起全体に渡る精度の良い推定は困難であった.そこで本研究では,イメージング計測データから膜抵抗値を推定する新たな手法を提案する[15].提案手法では,マルコフ確率場(MRF)と呼ばれる手法を用いることによって,SN 比の低いノイジーなデータからの精度の良い推定を可能にする.さらに,本研究では提案手法をさらに拡張し,膜抵抗値が樹状突起に沿って急峻に変化する場合にも対応可能な推定手法を提案する.その提案手法では,ラインプロセスと呼ばれる手法を用い,急な変化点の検出を行う.これにより,急峻な変化を含む場合においても精度よく膜抵抗値の推定を行うことが可能となる.また,提案手法を人工データに適用し,その有効性を示す.

[1] P. M. Gochin, E. K. Miller, C. G. Gross and G. Gerstein, Exp. Brain Res., 84, 505 (1991).[2] G. Wang, K. Tanaka and M. Tanifuji, Science, 272, 1665 (1996).[3] D. H. Hubel, and T. N. Wiesel, J. Neurophysiol., 26, 994 (1963).[4] B. Ben-Yishai, R. L. Bar-Or and H. Sompolinsky, Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 92, 3844 (1995).[5] H. Tamura, H. Kaneko and I. Fujita, Neurosci. Res., 52, 311 (2005).[6] T. Sato, G. Uchida and M. Tanifuji, Cereb. Cortex, 19, 1870 (2009).[7] J. Kitazono, T. Omori and M. Okada, J. Phys. Soc. Jpn., 78, 114801 (2009).[8] C. J. Bruce, R. Desimone and C. G. Gross, J. Neurophysiol., 46, 369 (1981).[9] D. Y. Tsao, S. Moeller and W. A. Freiwald, Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 105, 19514 (2008).[10] W. A. Freiwald and D. Y. Tsao, Science, 330, 845 (2010).[11] S. Eifuku, W. C. De Souza, R. Tamura, H. Nishijo and T. Ono, J. Neurophysiol., 91, 358 (2004).[12] I. Guyon and A. Elisseeff, J. Mach. Learn. Res., 3, 1157 (2003).[13] K. Hukushima and K. Nemoto, J. Phys. Soc. Jpn., 65, 1604 (1996).[14] K. Hukushima, Comput. Phys. Commun., 147, 77 (2002).[15] J. Kitazono, T. Omori, T. Aonishi and M. Okada, IPSJ Trans. Math. Model. Appl., 5, 89 (2012).
審査要旨 要旨を表示する

下側頭皮質は,我々の脳の中で視覚情報処理の最終段階にあたり,物体認識を司るとされる.本論文では,この下側頭皮質の性質を解明するため理論的なアプローチを行っている.第2章では,神経回路モデルの解析,第3章と第4章では,多神経細胞活動データの解析,第5章では単一神経細胞の特性の推定手法の提案を行っている.

第2章では,神経回路モデルの解析を行っている.下側頭皮質では,刺激に対する反応性が似た神経細胞が集まったコラムと呼ばれる構造が存在することが知られている.Wangらの実験では,横顔や正面顔など様々な向きの顔画像をサルに提示した際の神経活動を記録し,顔の向きの変化に対応して,コラムの位置が連続的に変化することが示されている.このコラムの位置の連続的な変化は,メキシカンハット型相互作用によって説明できるとされてきた.しかしながら,近年の生理学実験によって,コラムよりもさらに微細なパターンがあることが示唆されている.第2章では,このコラムより微細なパターンによって,顔の識別が行われるという仮説を立て,新たな神経回路モデルを提案し解析している.提案した神経回路モデルは,従来のメキシカンハット型相互作用を持つモデルに対して,連想記憶モデルの自己相関型相互作用を取り入れることで拡張を行ったものである.提案モデルに対して,統計力学的な手法を用いてモデルのパラメータについて系統的な解析を行い,提案モデルによって,仮説の情報表現様式を実装可能であることを示している.

第3章では,神経活動データの解析手法の提案と実データへの適用を行っている.近年の生理学実験により,神経細胞集団によって顔の識別が行われている可能性が示唆されており,識別の担い手となる神経細胞集団を抽出する解析が重要性を増している.このような解析には,特徴選択と呼ばれる手法が有効である.特徴選択によって,顔の識別に寄与し得る神経細胞の組合せを選び出すことが可能になる.従来の特徴選択の手法は,最適な神経細胞の組合せを一つだけ選択する手法である.しかしながら,最適な神経細胞の組合せが一つだけとは限らず複数存在する場合には,それらの手法は適切ではない.この様な場合には,全神経細胞の組合せについて顔の識別に対する寄与の度合いを評価する,全数探索を行う必要がある.そこで第3章では,下側頭皮質で計測されたスパイクデータに対して全数探索を行った結果を示している.その結果予測通り,顔の識別について高い性能を持つ神経細胞の組合せが複数存在することを示している.

第4章では,第3章で議論した神経細胞の組合せに対する網羅的な評価を,効率的に行うアルゴリズムを提案する.第3章では,神経細胞の全組合せに対して顔の識別に関する性能を評価した.しかしながら,このような全組合せに対する評価の計算量は神経細胞数の指数のオーダーで発散してしまう.そこで,全数探索を行わずに効率的に,高い識別性能を持つ神経細胞の組合せを網羅的に抽出する手法が必要となる.第4章では,交換モンテカルロ法を用いた新手法を提案している.提案手法では,識別性能が高い特徴量の組合せを重点的に探索し,効率的に抽出する.提案手法によって,第3章で行った全数探索の結果を,効率よく推定可能であることを示している.

下側頭皮質の情報処理においては,神経細胞同士のリカレントな相互作用が重要であることを示している.この神経細胞同士の相互作用は,電気的特性が樹状突起上でどのように分布しているかに依存しているとされる.そこで第5章では,神経細胞の樹状突起の電気的特性を推定する手法を提案している.提案手法では,マルコフ確率場と呼ばれる手法を用いることによって,SN比の低いノイジーなデータから精度良く膜抵抗値を推定することを可能としている.さらに提案手法を,ラインプロセスと呼ばれる手法を用いて拡張し,膜抵抗値が樹状突起に沿って急峻に変化する場合にも対応可能な推定手法を提案している.

以上のように,本論文は,神経回路モデルとデータ解析という理論的なアプローチを用いて,下側頭皮質における情報表現について新たな知見を得ることに成功している.また第3章と第4章で開発したデータ解析手法は,神経活動データに限らず他の高次元データにも適用可能であり今後の発展が期待されるなど,神経科学に留まらない有用性を有している.

なお,本論文第2章は,大森敏明と岡田真人,第3章と第4章は,永田賢二,中島伸一,萬田暁,永福智志,田村了以,岡田真人,第5章は,大森敏明,青西亨,岡田真人との共同研究であるが,論文提出者が主体となって解析及び検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

したがって,博士(科学)の学位を授与できると認める.

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