学位論文要旨



No 129533
著者(漢字) 藤井,佑紀
著者(英字)
著者(カナ) フジイ,ユキ
標題(和) 大脳皮質神経系前駆細胞におけるニューロン分化能を制御する因子の探索
標題(洋)
報告番号 129533
報告番号 甲29533
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第878号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 教授 青木,不学
 東京大学 教授 大矢,禎一
 東京大学 教授 宮島,篤
 東京大学 准教授 小嶋,徹也
内容要旨 要旨を表示する

序論

組織幹細胞のうちの一つである神経系前駆細胞は神経系を構成する様々なニューロン・アストロサイト・オリゴデンドロサイトを生み出す多分化能を持つ。しかし、神経発生において時期を経るにつれて生み出せる細胞の種類は限られ、特定の領域を除いて神経系前駆細胞のニューロン分化能は失われて行く。また、未分化なまま増殖する能力(自己複製能)も低下して行く(図1)。神経系前駆細胞がニューロン分化能や自己複製能といったポテンシャルを失う際、どのようなメカニズムによって制御されているのかはほとんど明らかになっていない。

幹細胞がそのポテンシャルを失う過程においては、遺伝子の転写パターンが大きく変化する。遺伝子の発現にはクロマチンの凝集状態が深く関係している。クロマチンが凝集していない領域にある遺伝子では、転写因子が接近しやすいために転写が活性化され、逆に凝集した領域では転写が抑制されている。これまで、幹細胞が分化ポテンシャルを失う過程におけるクロマチン状態の変化については、ある特定の遺伝子座における"local"な変化について研究されてきた。一方で近年、クロマチン状態の核全体での"global"な変化についても報告がなされている。ES細胞では、神経誘導の過程においてクロマチンの凝集状態が核全体で"global"にゆるい状態から凝集した状態へ変化することが観察されている。だが、その分子的基盤は明らかではない。そして、クロマチン状態のゆるさがES細胞の万能性に寄与していると考察されているが、その意義について明らかにはなっていない。また生体内においてもglobalなクロマチン状態の変化が存在するかについては全く分かっていない。

そこで本研究ではまず、発生に従って神経系前駆細胞がニューロン分化能を失って行く時、細胞内でどのような変化が起こっているのか、核内のクロマチンの凝集状態に着目し、これを調べることを目標とした。そして、クロマチンの凝集状態を制御する因子を同定し、この因子が神経系前駆細胞のポテンシャルに与える影響について調べることで、神経系前駆細胞のポテンシャルを規定するメカニズムの一端を明らかにしようと考えた。その結果、神経系前駆細胞がポテンシャルを失うにつれてクロマチン状態が核全体で凝集することを見出した。また、早期のゆるいクロマチンの凝集状態を担う分子としてクロマチン構造タンパクHMGAを同定し、HMGAがニューロン分化能・自己複製能を促進する働きを持つ事を示唆する結果を得た。さらに、HMGAの下流でニューロン分化能を制御する実行分子の候補としてIMP2を同定した。

結果

1 神経系前駆細胞におけるクロマチン状態の変化

神経系前駆細胞がニューロン分化能を失う際の核全体でのクロマチン状態の変化について調べた。胎生11日目マウス大脳新皮質から神経系前駆細胞を採取し、3日間培養した早期神経系前駆細胞と9日間培養した後期神経系前駆細胞を得た。そして、核全体でのクロマチン状態を調べるために細胞のクロマチン画分をmicrococcal nuclease (MNase)処理し、切断されたDNAの量を比較した。クロマチン状態がゆるければ、MNaseがクロマチンに接近しやすく、切断されるDNAの量が多いことが予想される。その結果、早期神経系前駆細胞は後期に比べて切断されたDNAの量が多く、より"ゆるい"クロマチン状態にあることが示唆された。さらに、ある条件で切断されたDNA量の全体のDNA量に占める割合が、早期と後期でそれぞれ65%、18%と大きく異なった(図2)。ゲノム上で遺伝子コード領域の占める割合が約2%であることを考えると非常に大きな変化であり、ここで観察したクロマチン状態の変化が、ある特定の遺伝子座のみでなく核全体でglobalに起こっていることを示唆している。この結果および他の生化学的解析の結果も併せ、神経系前駆細胞では早期の方が後期に比べクロマチンの凝集状態が核全体でゆるい状態であることが示唆された。

次に、早期神経系前駆細胞でクロマチンの凝集状態を核全体でゆるくしている分子の候補としてクロマチン構造因子high mobility group A (HMGA)に着目した。本研究で用いている系において、HMGA1及びHMGA2の発現が早期神経系前駆細胞で高く、時期が経つにつれて減ることが分かった。このことから、HMGAタンパクが早期の神経系前駆細胞において何らかの働きを担っている可能性が考えられる。そこでHMGAタンパクがクロマチンの凝集状態に与える影響について調べる為にMNaseアッセイを行った。HMGA1aあるいは、HMGA2を後期の神経系前駆細胞に過剰発現し、クロマチン画分のMNase処理を行ったところ、切断されるDNAの量が増えた。従って、HMGAがクロマチンの凝集状態を核全体でゆるくする働きがあることが示唆された。

HMGAタンパクの神経系前駆細胞における働きを調べるために、まず、神経系前駆細胞の性質の一つである自己複製能への影響をneurosphereアッセイにより検討した。その結果、HMGA1aあるいはHMGA2の過剰発現でneurosphere形成効率が上昇した。この結果から、HMGAタンパクは神経系前駆細胞の自己複製能を亢進する働きがあることが示唆された。

次に、HMGAが神経系前駆細胞のニューロン分化能に影響する可能性についてclonalアッセイを用いて検討した。HMGA1aあるいはHMGA2を、ニューロン分化能を失った後期神経系前駆細胞に過剰発現したところ、ニューロン産生が上昇することが観察された。従って、HMGAタンパクが早期神経系前駆細胞においてニューロン分化能に貢献していることが示唆された。

これらの結果から、組織幹細胞である神経系前駆細胞のクロマチン状態が時期を経るにつれて、グローバルに"ゆるい"状態から凝集した状態へ変化する事を見出した。さらに、クロマチン構造因子HMGAが神経系前駆細胞のグローバルなクロマチン状態をゆるくする働きがあることを示す結果を得た。また、神経系前駆細胞においてHMGAがニューロン分化能、自己複製能を促進するという結果を得た。よってクロマチンの凝集状態が"ゆるい"ことが神経系前駆細胞のポテンシャルに重要である可能性が考えられる。

2神経系前駆細胞におけるニューロン分化能の制御

次に、HMGAタンパクがどのように神経系前駆細胞のポテンシャルを制御しているのか、詳細なメカニズムを解明しようと考えた。後期神経系前駆細胞にHMGA2を過剰発現して発現の上昇する遺伝子を、マイクロアレイによって網羅的に解析し、その中で、早期に発現が高く発生時期依存的に発現の下がる因子を探した。その結果、insulin-like growth factor II binding protein 2 (IMP2, Igf2bp2)が得られた。そこで、早期神経系前駆細胞におけるIMP2の働きを調べることにした。

IMP2が早期神経系前駆細胞にニューロン分化能に寄与しているのか調べるために、clonalアッセイを行った。早期神経系前駆細胞においてIMP2をノックダウンしたところ、ニューロン産生が抑制され、アストロサイト産生が促進された。一方で、ニューロン分化能を失った後期神経系前駆細胞にIMP2を過剰発現したところ、ニューロン産生は亢進し、アストロサイト産生は抑制された。これらの結果から、IMP2がHMGAタンパクのように早期神経系前駆細胞のニューロン分化能に貢献していることが示唆された。IMP2の過剰発現によってニューロン分化が促進されるという現象はin vivoにおいても観察された。

次に、IMP2が神経系前駆細胞の自己複製能に寄与しているのかを調べた。そのためにneurosphere アッセイを行った。早期においてIMP2をノックダウンし、neurosphere アッセイを行ったところ、形成されるneurosphereの数に有意な差は見られなかった。一方、後期においてIMP2を過剰発現してneurosphere アッセイを行った場合にも、形成されるneurosphereの数には有意な差は見られなかった。したがって、これらの結果から、IMP2は神経系前駆細胞の自己複製能には寄与していない事が示唆された。

本研究の結果、HMGA2の下流で神経系前駆細胞のニューロン分化能を制御する因子としてIMP2を見出した。IMP2は早期神経系前駆細胞のニューロン分化能に寄与しているが、神経系前駆細胞の自己複製能や増殖には影響を与えない事を示唆するデータを得た。従って、HMGAタンパクが担っている早期神経系前駆細胞での性質の一部、すなわちニューロン分化能の制御をIMP2が担っている可能性が考えられる。

まとめ

本研究の結果から、発生時期依存的に神経系前駆細胞がポテンシャルを失うメカニズムの一つとして、核全体でのクロマチンの凝集が寄与していることが示唆された。このような現象を組織幹細胞で観察したことは非常に新しい知見である。また、それと同時に、ニューロン分化能を制御する因子としてHMGA, IMP2を見出した。HMGAにはクロマチンを脱凝集させる働きがあることから、広範なゲノム領域の転写に関与しうるため、非常に興味深い。また、IMP2はmRNA結合タンパク質であることから、ニューロン分化関連遺伝子の転写以降の制御を担っている可能性が考えられる。

これらの研究の結果から、神経系前駆細胞がニューロン分化能を失うメカニズムの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

図1 発生に従い神経系前駆細胞はポテンシャルを失って行く

図2 早期神経系前駆細胞でより多くのDNAが切断されglobalにゆるいクロマチン状態であることが示唆された

図3 本研究のまとめ

審査要旨 要旨を表示する

組織幹細胞のうちの一つである神経系前駆細胞は神経系を構成する様々なニューロン・アストロサイト・オリゴデンドロサイトを生み出す多分化能を持つ。しかし、神経発生において時期を経るにつれて生み出せる細胞の種類は限られ、特定の領域を除いてニューロン分化能は失われて行く。また、神経系前駆細胞が未分化なまま増殖する能力も低下して行く。神経系前駆細胞がニューロン分化能や未分化なまま増殖するといったポテンシャルが、どのようなメカニズムによって制御されているのかはほとんど明らかになっていない。本論文では、神経系前駆細胞におけるポテンシャルを制御するメカニズムの一端を明らかにした。本論文は2章からなり、第1章では、HMGA (high mobility group AT hook)タンパクによる神経系前駆細胞の核全体でのクロマチンの凝集状態とニューロン分化能の制御、第2章では、神経系前駆細胞においてHMGA2の下流でニューロン分化能を制御する因子IMP2 (Insulin like growth factor II mRNA binding protein 2)について述べられている。

第1章ではまず、発生時期依存的な神経系前駆細胞のクロマチンの凝集状態の変化に着目して研究が行われた。

幹細胞がそのポテンシャルを失う過程においては、遺伝子の転写パターンが大きく変化する。遺伝子の発現にはクロマチンの凝集状態が深く関係している。クロマチンが凝集していない領域にある遺伝子では、転写因子が接近しやすいために転写が活性化され、逆に凝集した領域では転写が抑制されている。これまで、幹細胞が分化ポテンシャルを失う過程におけるクロマチン状態の変化については、ある特定の遺伝子座における変化について研究されてきた。一方で近年、クロマチン状態の核全体での変化についても報告がなされている。ES細胞では、神経誘導の過程においてクロマチンの凝集状態が核全体でゆるい状態から凝集した状態へ変化することが観察されている。だが、その分子的基盤は明らかではない。そして、クロマチン状態のゆるさがES細胞の万能性に寄与していると考察されているが、その意義について明らかにはなっていない。また生体内に存在する組織幹細胞である神経系前駆細胞においても核全体でのクロマチン状態の変化が存在するかについては全く分かっていない。

ニューロン分化期の"早期の"神経系前駆細胞と、グリア分化期の"後期の"神経系前駆細胞のクロマチンの凝集状態の変化を生化学的アッセイによって調べたところ、早期では後期に比べてクロマチンの凝集状態が核全体でゆるいことが示唆された。そこで、早期におけるクロマチンの凝集状態のゆるさを制御する因子の候補として、HMGAに着目して研究を行った。HMGAはゲノム上に配列非特異的に結合して広範なゲノム領域の構造制御に関わると考えられる因子であり、早期で発現が高いからである。その結果、HMGAは神経系前駆細胞のクロマチンの凝集状態を核全体でゆるくする働きがあることが観察された。さらに、HMGAはニューロン分化能や未分化なまま増殖する能力といった、早期のポテンシャルを促進した。一連の結果から、早期神経系前駆細胞においてクロマチンの凝集状態が核全体でゆるいことが、早期のポテンシャルの制御に重要である可能性が示唆された。

第2章では、HMGAによる神経系前駆細胞のポテンシャルの制御についてより深く理解するために、HMGAの下流で早期のポテンシャルを制御する因子を探索した。後期にHMGA2を過剰発現したとき発現が上昇し、なおかつ早期で発現が高く、発生に従い発現の減少する遺伝子に着目した。マイクロアレイを用いた解析の結果、この条件を満たす遺伝子としてIMP2を見出した。IMP2が神経系前駆細胞のポテンシャルに与える影響を調べたところ、ニューロン分化能を促進したが、未分化なまま増殖する能力には影響を与えなかった。一連の結果から、IMP2はHMGA2が早期神経系前駆細胞において担っている働きの一部、即ちニューロン分化能を制御する実行因子であることが明らかになった。

本研究は、神経系前駆細胞におけるポテンシャルの制御メカニズムの一端を明らかにした、非常に新規性が高く、重要な研究である。本研究は論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったものであり、論文提出者は博士(生命科学)の学位を受けるに十分な研究能力を有するものと考えられる。したがって、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク