学位論文要旨



No 129571
著者(漢字) 久田,文
著者(英字)
著者(カナ) ヒサダ,アヤ
標題(和) 妊娠期の水酸化PCBs, PCBs曝露と母子の甲状腺機能に関する疫学調査
標題(洋)
報告番号 129571
報告番号 甲29571
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第916号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 吉永,淳
 東京大学 教授 佐々木,司
 東京大学 教授 戸野倉,賢一
 東京大学 教授 吉田,好邦
 国立環境研究所 客員教授 亀山,康子
内容要旨 要旨を表示する

第一章 緒言

近年、成人では問題のない曝露レベルでの化学物質によっても、小児や胎児に影響を及ぼすことが懸念されている。

胎児や小児期の化学物質曝露による影響の一つとして懸念されるのが、認知機能や神経系の発達への影響である。1996年に行われた米国五大湖周辺での疫学調査では、PCBsに汚染された魚を多食した妊婦から生まれた子供のIQの有意な低下が報告されたことから(1)、PCBs曝露による認知機能の発達抑制が懸念されてきた。一方で、生後の認知機能発達に関連する要因の一つに甲状腺疾患があり、特に、妊娠初期の妊婦の正常な甲状腺ホルモン環境が、胎児の脳発育に非常に重要であることが示唆されている(2)。これまでの動物実験では、PCBs曝露による甲状腺機能への悪影響が報告されていることから、疫学調査での母親のPCBs曝露による出生児のIQ低下や発達への影響に関する結果は、PCBsによる甲状腺機能への影響を介したものであるという仮説がある(3)。さらに近年では、動物実験においてPCBsの生物代謝産物である水酸化PCBs (OH-PCBs)が甲状腺機能に影響を及ぼす可能性が指摘されるようになり(4)、甲状腺機能を介した発達影響に関する仮説は、PCBsによるものだけでなく、OH-PCBsによる可能性も予想される。しかし、OH-PCBs曝露による甲状腺機能への影響とともに出生児の発達への影響の懸念についてヒトにおいて検証された例は殆どなく、OH-PCBsと甲状腺機能との関係についての疫学調査が求められている。

そこで本研究では、母親の妊娠中のOH-PCBsおよびPCBsの曝露/体負荷によって、母親もしくは胎児の甲状腺機能への影響を介して出生児の発達に影響を及ぼしているか否かを調査することを目的とし、妊娠初期から小児期の発達までの前向きのコホート調査を実施し、妊娠初期の化学物質曝露による甲状腺機能への影響調査を行った。

第二章 コホート調査体制の構築

本章では、妊娠初期のOH-PCBs, PCBs曝露による妊婦および出生児の甲状腺機能への影響、および認知、行動機能につながる脳神経系の発達への影響を調査するため、妊娠初期から小児発達までの前向きコホート調査体制の構築を行った。本章で構築した前向きコホート調査の流れを図1に示す。

妊婦の甲状腺機能の評価には、妊娠初期の血清中fT4, TSH, TBG濃度を用いた。また、OH-PCBs, PCBsの体負荷量の評価には、妊娠初期の血清中OH-PCBs, PCBs濃度を用いた。共変量として考慮したヨウ素の摂取指標には尿中ヨウ素濃度を用いた。

第三章 曝露、摂取量評価および影響評価のための分析方法の検討

本章では、OH-PCBsや甲状腺ホルモン類の曝露/影響評価に用いる血液・尿試料中の濃度測定方法を詳述し、その分析精度を確認した。

第四章 OH-PCBs, PCBs曝露による妊婦の甲状腺機能への影響調査

4.1目的

妊娠初期におけるPCBs、OH-PCBsの体負荷量やヨウ素の摂取量、甲状腺機能の指標としての甲状腺ホルモン類濃度との関連を把握し、最終的にこれらを総合してOH-PCBs, PCBsの曝露と妊婦の甲状腺機能との関連について調べることを目的とした。

4.2 方法

2009年4月から2011年6月までに昭和大学病院産婦人科を受診し、研究内容に対してインフォームドコンセントを得られた日本人妊婦187名のうち、各除外条件に該当した対象者を除き、本章では、129名を対象者とした。OH-PCBs, PCBsによる母体の甲状腺ホルモンレベルへの影響を評価するため、従属変数には、甲状腺ホルモン類(fT4, TSH, TBG)とし、それぞれの従属変数に対し、独立変数をΣOH-PCBs, ΣPCBsまたはそれぞれの異性体濃度、その他共変量(年齢、妊娠直前のBMI、尿中ヨウ素濃度、喫煙(0,1)、出産経験(0,1))を投入し、ステップワイズ法による重回帰分析を行った。

4.3 結果と考察

本研究対象者の血中OH-PCBs濃度は、幾何平均(GM)で120 pg/g wet wt.、PCBs濃度は、68 ng/g lipid wt.であり、欧米など諸外国の濃度より低い結果であった。一方、尿中ヨウ素濃度は、一般的にヨウ素摂取量の少ない欧米などの諸外国とは異なり濃度が高く、また、その範囲は広く、本研究対象者の摂取量は非常に多い傾向にあることが明らかになった(GM:360μg/L, 範囲:26-20000 μg/L)。

ΣOH-PCBs, ΣPCBs及び、いずれの異性体濃度についても甲状腺ホルモン類濃度との間に有意な関連はみられなかった。よって、母体のOH-PCBs, PCBs曝露は母体の甲状腺ホルモンレベルに影響を及ぼす可能性が低いことを示唆した。曝露レベルが低いことがこの原因の一つとしてあげられる。一方で、母体の血中甲状腺ホルモンレベルには変動は生じなくても、標的細胞への影響を否定するものではないため、特に成人よりも甲状腺ホルモンの変動に対し感受性が高いとされる胎児への影響を検討する必要があると考えられた。

第五章 OH-PCBs, PCBs曝露による出生時甲状腺機能および体格への影響調査

5.1目的

妊娠期の母体側からの甲状腺ホルモン運搬阻害、もしくは児側での直接的な影響によって児の甲状腺機能の発達に影響を及ぼしている可能性を調査するため、母体血中OH-PCBs濃度と出生児の甲状腺ホルモンレベルとの関係について調査することとした。また、胎児期の発育の一側面である出生時体格との関係について、調査することとした。

5.2 方法

対象者は、第4章における母体甲状腺機能への影響評価の対象者(129名)のうち、さらに在胎週数37週以上、単胎、試料提供の全てに該当する妊婦とその出生児77組とした。

出生児の甲状腺機能の評価には、生後5日目に行われるスクリーニング検査時に採取されたろ紙血中のfT4, TSH濃度とした。出生児の体格の評価には、児の体重、身長、胸囲、頭囲を用いた。

fT4, TSHそれぞれとOH-PCBs, PCBsとの関係を調べる重回帰モデルの独立変数として、母親の年齢、妊娠直前の母体BMI、出産経験(0,1)、妊娠直前までの喫煙の有無(0,1)、妊娠初期の母体甲状腺ホルモン濃度、在胎週数、児の性別、児の出生体重を投入し、重回帰分析を行った。

また、OH-PCBsやPCBsと出生時体格との関係について、ΣOH-PCBs、ΣPCBs、又は各異性体濃度をそれぞれ別々のモデルとして独立変数に投入し、さらに母親の年齢、妊娠直前のBMI、喫煙、出産経験、母体甲状腺ホルモン濃度、在胎週数、母体尿中ヨウ素(0,1)、甲殻類の摂取頻度(月0-2回:0、月3回以上:1)、児の性別を独立変数として重回帰分析を行った。

5.3 結果と考察

出生児のろ紙血中fT4, TSH濃度は、幾何平均(範囲)でそれぞれ、2.21 ng/dL (1.45-3.47 mg/dL)、1.38 μIU/mL (0.26-5.90 μIU/mL)であり、正常レベルからの逸脱はなかった。出生児のTSH濃度を従属変数とした場合、OH-PCBsの複数の異性体と、母体TBG濃度が有意な説明変数として選択された。有意な変数として選択されたOH-PCBs異性体はいずれもTSHと正の関連であった:4'-OH-CB165 (3-OH-CB153) (β=0.251, p=0.025)、3'-OH- CB138 (β=0.242, p=0.031)、4'-OH-CB130 (β=0.269, p=0.017)、OH-HpCB isomer B (β=0.279, p=0.012)。これは、OH-PCBsによってfT4が低下し、フィードバック機構が働いてfT4を正常に維持するためにTSHが上昇した結果が反映したものと考えられ、妊娠初期の環境レベルでのOH-PCBs曝露であっても出生児の甲状腺ホルモンレベルに影響を及ぼす可能性が示唆された。出生児のfT4を従属変数とした場合、2つのOH-PCB異性体で、児のfT4濃度と正の関連を示した:3-OH-CB118(β=0.241, p=0.037), 3-OH-CB187 (β=0.232, p=0.045)。これは、これらOH-PCB曝露により低下したfT4レベルをTSHの分泌によって維持しようとしたため、fT4濃度が上昇した結果が反映されたものと考えられた。

一方、出生時体格への影響評価では、OH-PCBs, PCBs,各異性体濃度のいずれとも出生時体格と有意な関連はみられなかった。その理由に、OH-PCBs, PCBsの血中レベルが低いこと、PCBsの主な曝露源である魚摂取により、魚に含まれる栄養成分による胎児期の発育にプラスの影響を及ぼし、PCBsによる出生児の発育への影響を抑制した可能性も考えられる。以上より、環境曝露レベルでのOH-PCBs曝露は、出生時体格に影響を及ぼす可能性は低いが、出生児の甲状腺機能へ影響を及ぼす可能性が示唆された。

第六章 OH-PCBs, PCBs曝露による出生児発達への影響調査

6.1 目的

妊娠期/胎児期のOH-PCBs, PCBs曝露が出生児の脳神経系の発達に影響を及ぼしているかについて調査を行うことを本コホート調査での最終目的としている。しかし、出生児の発達調査は現在進行途中であり、発達調査の結果が得られた対象児は少数のため、本章では今後完了する調査のパイロット研究として結果を述べる。

6.2 方法

進行中のコホート調査のうち、現在までに発達評価ブラゼルトン新生児行動評価(NBAS), 乳幼児発達スケール(KIDS)調査の結果が得られたそれぞれ33組を対象とした。本調査では、対象者数が少ないため、重回帰分析の実施を避け、NBAS, KIDS調査の結果はそれぞれ、妊婦の血中OH-PCBsまたはPCBs濃度と単相関分析を行った。

6.3 結果と考察

生後3-4日目で実施したNBAS評価のうち、運動系、状態の組織化、状態の調整指標と、複数のOH-PCB異性体濃度と有意な負の関連がみられ、OH-PCBs曝露が胎児期の神経系の生理学的な発達に影響を及ぼす可能性が示された。また、出生児1歳半でのKIDS評価では、概念、対成人(社会性)指標とOH-PCB異性体濃度と有意な正の関連がみられた。

本章に示した結果は、現在進行中の胎児期のOH-PCBs, PCBs曝露と出生児の発達との関係についての調査の予備的結果であり、対象者数が少ない点、共変量・交絡因子等の考慮が出来ていない点で不十分である。しかし、今回の予備検討で、複数のOH-PCBs異性体で発達指標との有意な関連がみられたことから、今後はより詳細な調査を実施する必要性を示すことができた。

第七章 結言

日本人の環境レベルの妊娠期のOH-PCBs, PCBs曝露は、母体の甲状腺ホルモンレベルには影響を及ぼさないが、出生児の甲状腺機能に影響を及ぼす可能性を示唆し、出生後の発達との関係調査を行う必要性を示すことができた。

本研究は、疫学調査では研究例の少ない妊婦のOH-PCBs曝露に着目した調査である。また仮に、OH-PCBsによる脳神経系への影響が認められれば、ヒト集団として大きな影響を及ぼす可能性があり、今後は本コホート調査のみならず、同様の疫学調査によるデータの積み重ねが重要であると考えられる。その際、本研究で得られた甲状腺機能および児の体格、発達指標との関係に関する知見が、今後の調査に必ず役立つと考えられる。

(1)Jacobson and Jacobson, 1996, New Engl J Med 335:783-789. (2)Haddow et al., 1999, New Engl J Med 341:549-555. (3)Zoeller et al., 2002, Environ Health Persp 10:355-361. (4)Meerts et al., 2004, Toxicol Sci 82: 207-218.

図1 前向きコホートの流れ

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、妊婦の水酸化ポリ塩化ビフェニル(以下OH-PCBs), ポリ塩化ビフェニル(以下 PCBs)曝露と母子の甲状腺機能との関連について調査することを主たる目的とした論文であり、全7章で構成される。

第一章では、妊娠・胎児期におけるOH-PCBs, PCBs曝露による小児発達への影響評価の重要性と課題を、既往文献に基づいて論じ、本研究の目的を述べている。

第二章では、本研究の目的に沿った調査には、前向きコホート調査が必要であることを明らかにした上で、コホート調査体制の構築と、試料採取および各種テストの実施時期の設定、検査項目やテスト内容などについて示している。

第三章では、前向きコホート調査に用いた各指標の試料中濃度分析の方法について述べている。血清中OH-PCBs, PCBs、尿中ヨウ素、血清中甲状腺ホルモン類、ろ紙血中甲状腺ホルモン類濃度の分析方法について、その精度や、分析機器での対象物質の感度が十分であることを確認し、本コホート調査の対象指標として使用可能であることを示している。

第四章では、妊娠初期における母体血中OH-PCBs, PCBs濃度と甲状腺ホルモンレベルとの関係についての評価を行っている。妊婦の血中OH-PCBs, PCBs濃度は、諸外国の曝露レベルよりも低いこと、妊婦の血中OH-PCBs, PCBs濃度と甲状腺ホルモン濃度との関係について尿中ヨウ素やその他共変量を考慮した解析では、総OH-PCBs, PCBsおよびいずれの異性体濃度についても、甲状腺ホルモン類濃度との間に有意な関連が見られないことを示し、本研究で対象とした妊婦のOH-PCBs, PCBs曝露は、母体の甲状腺ホルモンレベルに影響を及ぼしていないことを示している。

第五章では、妊娠期のOH-PCBs曝露による、出生児の甲状腺機能または出生時体格への影響について評価を行っている。妊婦血中の複数のOH-PCBs異性体濃度と出生児の甲状腺刺激ホルモン(TSH)、遊離サイロキシン(fT4)レベルとの間では有意な正の関連を見出し、OH-PCBs曝露は母体側での甲状腺ホルモン運搬阻害、もしくは児側の甲状腺機能の発達にOH-PCBsが直接の影響を及ぼしている可能性を示している。一方で、血中PCBs濃度と出生児甲状腺ホルモンレベルとの間では有意な関連は認められないことを示し、これまでに報告されているPCBs曝露による児の甲状腺ホルモン類濃度の変動は、PCBs類そのものではなく、その代謝産物であるOH-PCBsによる影響の可能性があることを指摘している。妊娠中の甲状腺機能は胎児の脳神経系の発達に重要であることから、今後、妊娠期/胎児期のOH-PCBs濃度と出生児の甲状腺ホルモンとの関係と、その後の出生児の発達との関係について総合的に調査する必要性が高いことを述べている。

第六章では、妊娠期/胎児期のOH-PCBs, PCBs曝露が出生児の脳神経系の発達に影響を及ぼしているかについて調査することを企図し、そのパイロット調査として、胎児期のOH-PCBs, PCBs曝露と出生児の発達指標との関係について検討している。この調査では、ブラゼルトン新生児行動評価や、乳幼児発達スケールの複数の発達評価指標と複数のOH-PCB異性体、PCB異性体濃度との有意な関連を見出し、妊娠期/胎児期のOH-PCBs曝露が胎児の脳神経系の発達に何等かの影響を及ぼしている可能性を示すとともに、今後、より詳細な調査を実施する必要性を強く指摘している。

第七章では、妊娠期のOH-PCBs, PCBs曝露が母子の甲状腺機能に影響を及ぼす可能性についてまとめるとともに、今後の妊娠期OH-PCBs, PCBs曝露と小児発達との関係調査を実施することの重要性を指摘し、今後の展望について述べている。

以上、本論文は、これまで着目例の少ないOH-PCBsと母子の甲状腺機能および発達への影響について調査したものであり、前向きコホート調査体制の構築と、妊娠初期における母体のOH-PCBs, PCBs曝露と甲状腺機能への影響評価、出生児の甲状腺機能への影響評価、発達影響評価を通じて、妊娠期のOH-PCBs曝露が胎児甲状腺機能および発達に影響を及ぼす可能性を示唆し、疫学調査での今後の課題として、妊娠期のOH-PCBs曝露に着目した発達調査実施の重要性を提起しただけでなく、今後の妊婦の化学物質曝露に関する調査および対策に向けた重要なデータを提供している。よって、本論文の内容は、環境学への貢献が大きいと考える。

なお、本論文第四章は、吉永淳、加藤進昌、岡井崇、下平和久、白川美也子、髙菅卓三、渡邉清彦、嶽盛公昭、第五章・六章は、吉永淳、加藤進昌、岡井崇、下平和久、有木永子、松下洋子、白川美也子、髙菅卓三、渡邉清彦、嶽盛公昭、鈴木恵美子、渡辺倫子、小山舞子との共同研究であるが、論文提出者が主体となって本調査体制の構築、試料の収集、分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(環境学)の学位請求論文として合格と認める。

UTokyo Repositoryリンク