学位論文要旨



No 129573
著者(漢字) 岩村,尚
著者(英字)
著者(カナ) イワムラ,タカシ
標題(和) 冠循環マルチスケール解析法の開発と医学的応用
標題(洋)
報告番号 129573
報告番号 甲29573
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第918号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久田,俊明
 東京大学 特任教授 杉浦,清了
 東京大学 准教授 陳,昱
 東京大学 教授 酒井,信介
 東京大学 准教授 片桐,孝洋
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

心臓は収縮・弛緩の繰り返しにより, 酸素・栄養素を含んだ血液を全身の臓器へ送り出すポンプとしての役割を持ち, 生命維持の点で極めて重要な臓器である. 一方, 心筋そのものを栄養する循環系が, 心臓の隅々まで発達した冠循環である. 冠循環は冠動脈, 冠静脈, 細胞との物質交換の場である微小循環に大まかに分かれる. 冠血管は心筋の内部を走行するため, 心筋の収縮と弛緩により, 血管壁も変形することが大きな特徴の一つである. これにより収縮期に動脈の流れが阻害されることで逆流を示し, 拡張期には順流を示すという, 拡張期優位な流れが形成される. また冠動脈の狭窄を原因とした虚血性心疾患は, 我が国の心疾患による死亡の4割を占めており, 冠循環の血行動態, 病理解明は重要な課題である.

これまで冠循環の動態解明を目的とした様々な研究が行われてきた. しかし実験的な研究では, 心臓の運動により特に内膜側の測定が困難であり, 克服のためには計算機を用いた数理的研究が必須である. これにはモデリングという, 解剖学あるいは生理学的知見をもとに冠循環の形態を計算機上で再現する研究と, モデリング結果を用いた計算機シミュレーションにより冠循環の血行動態などを分析・予測する研究がある. 冠循環モデリングの従来研究1),2)は, 微小循環を含む全スケールには到達しておらず, またKaimovitz1)らの手法の延長では計算量の観点から忠実な再現は困難と考えられる. 一方, シミュレーションの研究では, 電気回路による流れの簡易なモデル化3), 血管の樹状構造を用いてかつ大動脈圧と心筋収縮力を境界条件として与える4), などが行われてきたが. 1)心筋内圧が力学的なモデルとは無関係に与えられ, 力学的平衡が成立せずに間違った解となる可能性がある, 2)一部のスケールしか扱えず, 冠循環のマルチスケール性が欠如, 3) 1),2)を連成させた解析が必要, という大きな問題があった.

本研究ではこれの問題に対して1)心臓拍動のシミュレータを導入, 2)冠循環マルチスケールモデルの開発, 3) 冠循環マルチスケール解析法を開発し, 開発したシミュレータの有用性と可能性を, 数値計算例を通じて示すことを目的とする.

2.冠循環マルチスケールモデルの作成

開発したマルチスケールモデルの概要を図 1に示す. 本モデルはマクロおよびミクロモデルからなる. マクロモデルは直径約100μm以上の樹状構造の冠動脈と冠静脈であり, 心臓形状に合致した形状を持つ. ミクロモデルは樹状構造を持った動脈と静脈(対称性モデル)とその末端の細血管・毛細血管からなる微小循環モデル(ネットワーク構造)により成り立つ. ミクロモデルの両末端が, マクロモデルの動脈および静脈の各末端に接続する. さらにミクロモデルを心筋メッシュの圧力節点に埋め込み, 心筋内圧をミクロモデル全体に作用させる. マクロ血管には, その両端点を含む心筋要素4点節点の心筋内圧から内挿した値を作用させた.

冠循環の走向は, まず心臓表面を太い血管 (distributing vessel)が走行し, さらに径を減少させながら分岐して内膜に向かう(delivering vessel)ことを特徴としている. これまで冠循環のモデリング(本研究のマクロモデルに相当)について, 主に2種類の方法で研究されてきた. 1つは冠循環の各分岐点間の血管要素に関する径, 長さなどの統計データから乱数により血管の形態を作成し, 心臓形状にマッピングする方法1)である. もう一方は何らかの最適モデルを用いて血管網を構築する手法で, その1つに血管容積の最小化を行うConstrained Constructive Optimization(CCO)2)がある. これは血管の末端点を選択して血管要素を生成し, 血管容積が最小となるように既存血管への接続と接続点の位置を決定する手法である. これらの手法には, 前者では血管の空間的分布に疎密が生じ, また心臓の内壁を這うような血管が現れる, 後者ではまだ現実的な走向が実現されていないという問題があった.

そこで本研究では図 3に示すように, 統計データに基づく手法により生成された血管(赤線)に対し, 末端点を心筋節点としてCCOにより生成した血管(青線)を接続し, 最終的に下流側にCCO由来の血管を持たない統計データ由来の血管を削除する. これにより, 1)血管の空間的疎密が解決, 2)最小容量の導入により内壁を這う血管を無駄な血管として削除, 3)CCO単独では困難な, 現実的な走向を示すモデリング, が実現される. 一方ミクロモデルは, 微小循環モデルを解剖学的統計データから作成した. 対称性モデルは, 異なる分岐パターンを持った複数の対称性モデルを, 血管の接続関係に関する統計データを用いて適切な比で混合して表現し, 分岐の多様性を考慮した.

本手法による冠動脈のモデリング結果を図 4, 図 5に示す.空間的な疎密, 異常な走向の問題が解決されていることがわかる. また本手法のベースとしたCCOには解剖学的統計データに合致させる機構は入っていないが, 参考としてブタ心臓のデータと比較したところ, 一部は合致することを確認した.

3.マルチスケール冠循環シミュレーション

本研究では, 当研究室で開発されてきた心臓拍動シミュレータと連成させることで, マルチスケール冠循環シミュレータを開発した. 図 6は拍動シミュレータの概要と, 冠循環との連成解析における支配方程式を表す. 拍動シミュレータは, 入力されたカルシウムイオン濃度から, 興奮収縮連関モデルによる心筋収縮力と, 心筋および内腔流体の大変形を計算する. さらに肺, 大動脈などを表す体循環回路モデルとも連成する. 支配方程式は, 従来の式に加えて, 冠血管の容積変化についての体積保存則を成立させた. またラグランジュ未定定数が心筋内圧に相当する. 冠血管内の流れについてはポアズイユ流れを用いるが, ミクロおよびマクロモデルの血管は, 血圧と心筋内圧の差から非線形に管径が変化するものとし, 管径変化による血液の貯留と搾り出しを考慮した流量保存則とした.

4.数値計算例と考察

まず正常な心臓での計算結果を示す. 図 7は, 大動脈からの冠動脈流入量が収縮期において2相性の流量減少, 拡張期では順流の増加という拡張期優位な流れを示している. 一拍動あたりの動脈流入量は89.8 ml/min/100gであり, 文献値5)の範囲内であった. 図 8は1拍動あたりの心筋への動脈流量密度の分布を表しており, 左室の外膜と内膜の比が1:1.2-1.3であった. これも文献値6)と一致した. 一方, ミクロモデルの流速であるが, 図 9 は直径約70μmの動脈の流速を示している. 内膜(ピンク)の逆流, 順流ピークが約-20, 60 mm/sであるが, 測定値7)にほぼ一致した. また管径の変化も測定値では拡張期に対して収縮期で20%の減少であったが, これも測定値7)に一致した.

次に, 開発したシミュレータの有用性と可能性を示すために5つの数値計算を行った. その一つとして過去の簡易モデル(コンパートメントモデル)で得られた動脈の逆流に関する2つの説3)の検証について述べる. 1つは, 動脈の2相目の逆流は心筋収縮力(時変エラスタンス)に依存するという説, もう1つは第1相の逆流は心筋圧に依存するという説である. 従来モデルにおける心筋内圧は, 心内膜で心腔圧と等しく, 外膜で0となる分布を持つと定義される. 第1の説に対して, 興奮収縮連関モデルのパラメータ調整により, 収縮力を増強したシミュレーションを行った. 図 10によれば収縮力増強に伴い第2相の逆流が増加し, 本シミュレータの結果は第1の説を支持した. 第2の説に対しては, 体循環回路モデルのパラメータ変更により高血圧の状態を再現し, 心腔圧を上昇させたシミュレーションを行った. このケースでの動脈流入量を図 11に示す. 高血圧の促進に伴う第1相の流量減少量の増加が起こり, 第2の説も支持する結果が得られた. ところで, 図 12は高血圧時の心筋内圧を示しているが, そのピークでは高血圧(黒線)を低血圧(赤線)上回った. 収縮力のパラメータは一定なので, 従来の簡易モデルによれば, 高血圧時の心筋内圧は常に低血圧時を上回るはずである. これは心筋圧と時変エラスタンスを分離した簡易モデルでは説明できない現象であり, 連続体力学に基づいた定式化の重要性を示唆している.

5.結論

・冠循環マルチスケールモデルを開発し, さらにモデリングにおいて従来研究の問題を解決した

・心臓拍動解析と連成した冠循環マルチスケール解析法を開発した

・数値計算例として, コンパートメントモデルによる従来説の再検証と連続体力学による定式化の重要性を示唆した. また本要旨では省略したが, 血管弾性による冠循環特有の波形が形成される過程とその飽和の示唆, 心内膜の血圧データの取得, 狭窄による心内膜の易虚血性の再現を行い, 従来のシミュレーション・実験では得られない知見を生み出す可能性を示した

1) B. Kaimovitz, et. al., Am. J. Physiol. Heart Circ. Physiol., vol.299, pp.H1064-H1076, 20102) W. Schreiner, R., et. al., Medical Engineering and Physics, vol.28, pp.416-429, 20063) 太田ら、電子情報通信学会論文誌、D-II、J77-D-II、2、pp. 441-448、19944) D. Algranati, et. al., Am. J. Physiol. Heart Circ. Physiol., vol.298, pp.H861-H873, 20105) Schlant, R., et. al., Hurst's The Heart, pp.81-124, 19986) Melvin L. Marcus, "The Coroanry Circulation in Health and Disease," 19837) F. Kajiya, et. al., Ann. Biomed. Eng. vol.28, pp.897-902, 2000

図 1 冠循環マルチスケールモデルの概観

図 2 心筋圧と冠循環ミクロモデルの連成

図 3 本研究のマクロモデルのモデリング手法

図 4 動脈のモデリング結果

図 5 直径100μm以上の動脈の断面表示

図 6 拍動シミュレータと, 連成解析の支配方程式

図 7 冠動脈流入量, 冠静脈流出量および大動脈圧と心筋内圧(平均値)の時間変化

図 8 1拍動の流量密度分布

図 9 直径70μmの細動脈の流速

図 10 収縮力と第2相の逆流の関係

図 11 心筋圧(心腔圧)と第1相の流量減少の関係

図 12 心腔圧と心筋内圧(平均値)の関係

審査要旨 要旨を表示する

本論文は全5章から構成される。

第1章は序論である。まず冠循環の解剖学的および血流動態に関する特徴を概説し、次に、冠循環の医学的な重要性と、数値解析の必要性を述べている。そして冠循環に関して従来行われてきた形態モデリングと力学シミュレーションについて問題点を3つ挙げている。1)計算モデルとは独立に心筋内圧が与えられていること、2) 冠循環のマルチスケール性に対する数理的アプローチが欠如していること、3) 1)および2)を連成させた解析が必要であること。そこで本論文の目的を、以上の問題を解決する冠循環マルチスケール解析法を開発し、その有用性と可能性を数値計算により示す、ことと定めている。問題解決の方針は1) 著者の所属研究室で開発されてきた心臓拍動シミュレータを導入、2) 冠循環マルチスケールモデルの開発と従来のモデリング手法の問題解決、3) 拍動シミュレータと冠循環マルチスケールモデルの連成解析法の開発、としている。

第2章は冠循環マルチスケールモデルの生成手法の開発についてまとめている。冠循環マルチスケールモデルは、心室形状に整合する樹状構造のマクロモデルと、その末端に接続するミクロモデル(対称性モデルと微小循環モデルで構成)からなり、またミクロモデルは心室有限要素の圧力節点に埋め込まれる。次にマクロモデルの従来の生成手法として、解剖学的統計データに基づく手法、血管系構築の最適化原理の仮説に基づく手法(CCO)とその問題点が説明されている。それら問題点に対し, 前者の手法により生成した解剖学的特徴を満足する血管網に対して、心室有限要素の節点を末端とするCCOにより血管の生成と接続を行う方法が新たに提案されている。本手法により従来の問題点が解決されたマクロモデルが生成され、またブタ心臓の解剖学的統計データとの比較結果も示されている。

第3章では冠循環マルチスケールモデルと心臓拍動シミュレータを連成させた冠循環マルチスケール解析法についてまとめている。ミクロおよびマクロモデル血管それぞれに対する心筋内圧との連成方法、血圧と心筋圧の圧力差に対する血管径の非線形構成則、赤血球を考慮した実行粘性係数、ポアズイユ流れと血管の体積変化による血液の放出と貯蓄を考慮した流量保存則、さらに導入した心臓拍動シミュレータの概要、並びに冠血管と心筋の体積保存を考慮して拡張した支配方程式が記述されている。最後に、数値計算で現れる巨大な連立一次方程式においては、ミクロモデルに相当する行列計算の主要部がCPUごとに独立に求解可能であり、並列計算機に向いたアルゴリズムであることが示されている。

第4章は開発したマルチスケール冠循環シミュレータによる数値計算例についてまとめている。先ず、コントロールとしての正常かつ安静状態を仮定した解析結果が示され、冠循環特有の血液の流量波形の再現、心筋への流量密度分布、冠動脈への流入量などが文献値に合致したことが示されている。また小血管の流速および細動脈の流速と径変化について測定結果との比較が行われ、前者には多少の差異はあるが測定値に近く、後者は流速、径の変化ともによく一致した結果が得られたことが示されている。次に血管のコンプライアンスと抵抗を変えた時の応答を見るケーススタディを行い、コンプライアンスの存在による冠循環特有の流量波形の形成過程とその飽和が示され、また毛細管などの一部の血管抵抗の変化による冠循環全体の血圧損失の分布変化が調査されている。次に従来から用いられてきた簡易な計算モデルであるコンパートメントモデルによって得られた収縮期での動脈流量減少に関する知見、すなわち第1相は心筋内圧に、第2相は収縮力に依存するとの学説、に対して本論文のシミュレータによる検証が行われ、両説を支持する結果が得られた。ただし前者では体循環回路モデルパラメータにより心内腔圧を制御したが、心筋内圧のピーク値については心内腔圧の低いケースが高圧のケースを上回る結果を示した。これは従来の簡易モデルからは説明がつかない結果であり、本論文のような連続体力学に基づいたアプローチの重要性を示唆している。さらにLCXの狭窄と血管拡張剤投与を模擬した解析では、心内膜の易虚血性の再現と、血管拡張効果は狭窄が進行したケースでは限定的であること、心内膜では拡張効果が期待できないこと、などの医学的知見が得られた。次にスーパーコンピュータ京を用いた、並列性能(ストロングスケール)の測定が行われ、計算量の大部分を占めるミクロモデルについて高い並列性能が得られた。

第5章は本論文の結論と今後の展望についてまとめている。

以上を要するに、本論文により、冠循環の全スケールのシミュレーションが心臓拍動との合理的な連成のもとではじめて実現され、また従来の実験・シミュレーションでは取得困難であった情報や新たな医学的知見が得られる可能性が具体的に示された。今後、このシミュレータはin-silico実験や関連する様々な数理モデルの検証を通じて、冠循環の動態解明の研究基盤になり得るものであり、計算科学、臨床医学、生理学の発展に寄与するところが大きい。

従って、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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