学位論文要旨



No 129625
著者(漢字) 藤原,輝史
著者(英字)
著者(カナ) フジワラ,テルフミ
標題(和) 嗅覚中枢における動的な匂い濃度情報の神経コーディングに関する研究
標題(洋)
報告番号 129625
報告番号 甲29625
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第447号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 知能機械情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神崎,亮平
 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 國吉,康夫
 東京大学 准教授 伊藤,啓
 東京大学 講師 高橋,宏知
内容要旨 要旨を表示する

生物は環境適応的な行動を出力するために,時空間的に分布する質的あるいは量的な感覚信号の差を識別する必要がある.連続的に分布する視覚情報や聴覚情報と異なり,嗅覚情報は匂いの種類と濃度を伴って離散的に空気中に分布する.匂いの濃度は生物が匂い源を特定するために重要な情報である.従って,様々な生物種の嗅覚神経の匂い濃度応答特性がこれまでに調べられてきた.しかし,従来の研究では,そのほとんどが1発の匂いパル刺激に対する嗅覚神経の静的な濃度応答特性を調べており,匂いが断続的に入力してきた際に嗅覚神経の濃度応答特性が時間的にどのように発展していくかは明らかでない.

本研究では,行動学的によく定義され,かつ,非常に単純である,昆虫の雄カイコガのフェロモン情報処理系を用い,1次嗅覚中枢である触角葉の出力情報を担う出力神経(2次神経)が,断続的に入力するフェロモン濃度をどのように表現しているか調べた.

まず,雄カイコガが実環境下で受容し得るフェロモン濃度を触角電図を用いて推定した.その結果,雌が実環境下で放出するフェロモン濃度の上限は本研究で用いた合成フェロモンによる刺激濃度に換算し,1000–5000 ngと算出された.

次に,電気生理計測法を用い,出力神経の推定した範囲内のフェロモン濃度に対するスパイク応答特性を調べた.1発目の刺激に対しては,従来の研究のように,スパイクのピーク瞬間発火頻度は濃度応答依存性を示した.断続的なフェロモン刺激を通して,出力神経のスパイク応答は動的に変化し,各濃度の刺激に対し最終的にそれぞれ一定の応答強度に達した.この定常状態での出力神経のスパイク応答は非濃度依存的になっていた.

この断続的なフェロモン刺激に対する出力神経の濃度応答特性の変換が嗅覚中枢のどこで作り出されているかを調べるために,遺伝子組み換えカイコガを用い,1次神経である嗅受容神経の濃度応答特性を調べた.嗅受容神経は,断続的なフェロモン刺激を通して濃度応答依存性を保持していた.これは,出力神経の定常状態での非濃度応答依存性が1次神経ではなく2次神経である出力神経の段階で作り出されていることを示している.

次に,この非濃度依存性がどのような機構で作り出されているか調べるために,γアミノ酪酸タイプA受容体(GABAa受容体)の阻害剤を投与し,出力神経の断続的な刺激に対する濃度応答特性を調べた.薬理投与後,出力神経のスパイク応答は定常状態で濃度依存的になった.これは,出力神経の定常状態での非濃度応答依存性がGABAa受容体を介した抑制性の入力により作り出されていることを示している.

出力神経は,一定の濃度のフェロモン入力に対し,その絶対濃度に依らずスパイク応答強度が一定に達する一方で,入力濃度に変化があった際に応答強度を大きく変えることが分かった.これは,出力神経のスパイク応答が,従来考えられてきたような,匂いの絶対濃度を表現しているのではなく,むしろ,相対的な濃度の差,つまり,過去に受けた刺激濃度に対する相対的な値を表現していることを示唆している.

このような出力神経の濃度応答特性の変換を作り出す抑制性入力の特性を詳しく調べた.1発目のフェロモン刺激に対し,出力神経のスパイク応答は,薬理投与後に比べ,中–高濃度のフェロモンに対し,応答の後半部が大きく抑制されていた.これは,出力神経が刺激に対し受ける興奮性入力よりも抑制性入力が遅れて生じることを示唆している.この推測を裏付けるために,出力神経の空間的な濃度応答特性を調べた.空間的な活動を捉えるため,局所的な電気穿孔法を用いて,カルシウムイオン感受性色素を出力神経に導入し,カルシウムイメージングを行った.出力神経の興奮性入力の入力領域である樹状突起ではフェロモン濃度依存的に応答が上昇する一方で,出力神経の出力領域に近い細胞体では,低濃度で応答がピークに達し,中–高濃度のフェロモンに対して応答が減少した.GABAa受容体阻害剤投与後では,細胞体でも濃度応答依存性を示した.細胞体でのカルシウムイオン濃度変化の意義を調べるために,同じ細胞体で,電気生理計測とカルシウムイメージングの同時記録を行った.細胞体でのカルシウムイオン濃度変化は,時間的な発展も含め,スパイク情報をよく反映していた.これらの結果は,遅れを伴い生じる抑制性入力が,刺激濃度依存的な興奮性入力に作用し,出力神経の出力情報であるスパイク応答を調節していることを裏付けている.

断続的な刺激に対する出力神経のスパイク応答の結果として,出力神経は,1発目の刺激や入力濃度が上がった直後の刺激に対しに大きな応答を示した後,引き続く刺激に対し,応答の完全な抑制を示した.これは,大きな応答に伴い生じた大きな抑制性入力が長時間持続し,引き続く刺激に対する出力神経のスパイク応答を抑制していることを示唆している.これを裏付けるために,2発のフェロモン刺激の刺激間隔を可変にし,2発目の刺激に対してスパイク応答が観察される刺激間隔を調べた.高濃度のフェロモンに対し,2発目の刺激に対するスパイク応答が観察されるために,時には10 s以上の刺激間隔が必要だった.この結果は,大きな応答に伴い生じた抑制性入力が–10 s程度の長い時間引き続いていることを裏付けている.

最後に,抑制性入力がどこから生じているか検証した.触角葉の介在神経はその多くがGABA差動性であり,嗅覚中枢で抑制信号を生成する最も有力な候補である.従って,介在神経の活動を直接調べた.カルシウムイメージング法を用いることで,介在神経の空間的な活動計測を可能にした.介在神経は,その多くが触角葉全体に幅広く分枝しているにも関わらず,フェロモン刺激に対して,フェロモン情報処理領域の一部が空間局所的に活動した.また,その空間局所的な応答は,中–高濃度のフェロモン刺激に対し大きく上昇した.これは,出力神経の細胞体で,中–高濃度のフェロモン刺激に対し応答が減少していたのと一致している.これは,この介在神経の空間局所的な応答が出力神経の濃度応答特性を調節していることを示唆している.

生物実験結果より得られたこれらの抑制性入力の特性から,本研究では出力神経の濃度応答特性を変換する機構を以下のように考察する.抑制性入力は,興奮性入力よりも遅れを伴い生じるために,現在受けた刺激に対する濃度情報には大きな影響を与えない.一方で,この抑制性入力は長時間持続するために,未来に受ける刺激に対する濃度情報を抑制する.この嗅覚中枢神経内に残留する抑制成分が過去に受けた濃度を表現することで,絶対濃度を表す興奮性入力を抑制し,相対的な値に変換していると考えられる.

最後に,生物実験結果より得られたこれらの抑制性入力の特性の匂い濃度の識別能力に対する効果を検証するために,計算モデルを構築した.その結果,時定数が2–3 sより長く,また,興奮性入力よりも遅れて生じる抑制性入力が濃度識別の向上に有効であることが分かった.また,フィードバック抑制回路モデルが,抑制がない回路モデルやフィードフォワード抑制回路モデルよりも入力刺激間隔や抑制の時定数に対して頑強であった.

本研究では,特徴的な動態の抑制性入力が嗅覚神経回路に作用することで,断続的な匂い入力刺激に対し,絶対濃度を相対濃度に変換し,効率的な濃度情報コーディングを行っているというモデルを提唱した.

審査要旨 要旨を表示する

本論文では,嗅覚中枢神経の動的な匂い入力に対する濃度コーディングを,モデル生物であるカイコガ(Bombyx mori)のフェロモン情報処理系を対象として,神経生理実験と計算モデルをはじめて併用することにより調べている.その結果,嗅覚中枢神経の応答は,従来考えられてきたように匂いの絶対濃度を表現しているのではなく,過去に受けた匂い刺激に対する相対的な濃度を表現していることを明らかにしている.また,その濃度表現を変換する神経回路機構を生物実験と計算モデルを用い提案している.

第一章の序論では,他の感覚系と比較しながら,神経細胞による感覚入力強度の相対表現の普遍性を述べている.また,本論文で用いられたカイコガのフェロモン情報処理系や生体生理応答計測技術が紹介され,最後に本論文の目的と構成が記されている.

第二章の方法では,本論文で用いられた生体生理応答計測法や実験データの解析法,モデルの構築法が詳細に述べられている.

第三章の結果では,まず,本論文の主要な内容である,嗅覚中枢神経が断続的な匂い入力に対する濃度を相対的に表現していることを,電気生理計測法を用いて示している.また,嗅覚神経回路内の抑制成分が匂い濃度の表現変換に寄与していることを薬理学的手法を用いて示している.さらに,その嗅覚神経回路の抑制機構を電気生理計測法と光学計測法を組み合わせることで提案している.最後に,計算モデルを構築し,生物実験では取得が困難なデータについてモデル内で検証し,また,生物実験により提案された特徴的な抑制回路機構が匂い濃度の相対表現に貢献していることを裏付けている.

第四章の考察では,これまでの嗅覚情報処理に関する研究と比較しながら,本論文の新規性を主張している.また,他の感覚系や嗅覚の感覚神経で観察されていた感覚入力強度の相対表現と比較しながら,本論文で見出された嗅覚中枢の匂い濃度の相対表現を位置づけている.さらに,匂い濃度の表現変換に寄与する嗅覚神経回路の抑制機構について,先行研究で調べられてきた嗅覚中枢の抑制機構と比較しながら十分な考察がされている.

第五章の結論では,得られた成果をまとめ,本論文の主要な主張として,匂い濃度を相対的に表現する機構が嗅覚中枢に存在することを提唱している.

本論文では,電気生理計測法と光学計測法を組み合わせることで,ガの嗅覚中枢神経回路を構成する特定の神経細胞群の時空間的な活動を自在に計測した.これらの実験技術は,ガの嗅覚情報処理を対象とした従来の先行研究で用いられてきた方法とは異なり,著者が新たに開発した方法も含まれ,これまでにない計測安定性と特定の細胞群の空間的な応答計測を可能にした.実際に得られた数多くの実験データの提示は,技術的な側面から,この分野の今後の研究の発展に新たな可能性を付加した.

また,それらの実験技術を駆使し,嗅覚中枢神経の匂い応答が絶対濃度でなく相対濃度を表現しているという,嗅覚情報処理全般にわたる研究の中でも新規なモデルを提唱している.このモデルが脳の情報処理に関する研究の中でどのような位置づけにあるのか十分に考察がなされている.さらに,その匂いの相対表現化には嗅覚中枢の特徴的な抑制回路が寄与することを生物実験により示し,その神経回路モデルも提案されている.最後に,計算モデルを構築することで,この生物実験データから推測される神経回路モデルの妥当性を裏付けている.

本論文で提唱された興奮と抑制を用いた入力強度の相対表現化は工学的な制御理論にも共通するものがあり,生物の分野のみならず,広く工学の分野の研究者にも関心を与えるものである.また,本論文で提唱された理論は,昆虫の嗅覚情報処理に限定されるものでなく,生物種に普遍的な機能である可能性を秘めており,他の感覚系とも共通した脳の情報処理の根源的な要素が嗅覚情報処理にも当てはまることを初めて提唱したものといえる.

従って,本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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