学位論文要旨



No 211741
著者(漢字) 吉田,智一
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,トモカズ
標題(和) 能動制御による作業者耳元騒音の低減に関する研究
標題(洋)
報告番号 211741
報告番号 乙11741
学位授与日 1994.04.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第11741号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木谷,収
 東京大学 教授 高野,直
 東京大学 教授 瀬尾,康久
 東京大学 助教授 岡本,嗣男
 東京大学 助教授 坂井,直樹
内容要旨

 昭和30年代からの稲作を中心とした農作業の機械化により,農作業従事者の労働負担軽減,労働時間短縮が達成されてきた。稲作については機械化作業による一貫体系がほぼ確立され,近年は果樹・野菜作についても盛んに機械化が推し進められている。

 このように,人に代わって農作業を行うという機能的な面で,農業機械の果たした役割・効果は甚大であるが,それらを使用する作業者の立場からみた場合には,農業機械が作業者に与える粉塵や騒音,振動といった作業環境の問題が,まだ十分には解決されないまま残されていると考えられる。

 そのような中,筆者の所属する生物系特定産業技術研究推進機構・基礎技術研究部・安全人間工学研究単位では,従来より人-機械系の諸問題について人間中心の観点から機械に対する研究アプローチを行っている。

 この観点から,既存の人-機械系を見直していくことにより,機械作業から危険要素や健康障害発生要素を取り除くとともに,機械作業を作業者にとってより快適で安全なものに改善していくことが,本研究の背景にある大きな目標である。

 本論文では,このような人-機械系の諸問題の一つとして,農業機械作業者が被曝する騒音の問題を採り上げ,これを低減することを目的としている。

 騒音低減手法としては,これまでの遮音や吸音といったある意味でパッシブな手法ではなく,近年の電子技術の進歩を受けて実現可能となった「音を以て音を制す」式のアクティブな手法(能動騒音制御,アクティブノイズコントロール,ANC:Active Noise Control)を採用して,これを作業者耳元空間に適用しているところに大きな特徴がある。

 1章では,以上のような背景を説明するとともに,騒音に関する基本概念や,作業環境騒音に関する法的規制を概説し,それと農業機械騒音との関係について議論した。具体的には,いくつかの法的規制を勘案して,農業機械における騒音低減の目安として騒音レベル85dBを設定するとともに,この基準を満足している農業機械がわずかであり,改善の余地があることを示した。

 続いて,本論文で採用した新しい騒音低減手法であるANCについて,その原理や研究状況を概説するとともに,適応ディジタルフィルタ(ADF:Adaptive Digital Filter)を用いたANCシステムの基礎理論について整理した。

 そして最後に,本研究で供試した2機種の乗用型トラクタについて,作業者耳元騒音に着目した機関騒音の分析を行った。供試した2台のトラクタはともにキャブなしであり,音場条件としては半自由音場に該当する。また,2台の年式が離れていることから,騒音特性について,特に高周波域で音圧レベルに大きな違いが見られたものの,低周波域においては両者とも大きな音圧ピークが存在していることを示し,それがANCの制御対象になることを示した。

 2章では,ANCをトラクタの作業者耳元騒音に適用するための前段階として,ANCシステムの適応動作シミュレーションを行い,騒音低減の可能性を検討した。検討の要点は,ANCシステムで用いられる(1)参照騒音の入力位置,(2)適応アルゴリズムの2点である。

 この2点に着目して行った適応動作シミュレーションの結果,(1)参照位置については,耳元騒音との関係において相関が高い位置を参照しなければ,十分な消音(騒音低減)が得られないことを定量的に示した。すなわち,今回供試したトラクタの例では,適切な参照位置を設定することにより,音圧レベルにして約15dB,音圧比にして1/6程度の消音が可能であることを示した。

 3章では,消音を目的としたANCシステムを別の側面,すなわち,2章で議論となった参照信号と目標信号の関連度(コヒーレンス)を時間領域で適応処理によりリアルタイムに求めるという,予測・評価を目的とした計測システム的側面から捉えた。

 具体的には,2章で行ったANCシステムの適応動作シミュレーションを一歩進め,DSP(Digital Signal Processor)を用いることでリアルタイム処理を可能とするとともに,予測システム,予測手法,さらには任意の信号間の関連度計測システムまたは計測手法としての可能性を示した。

 まず,適応システムの特性を吟味し,定性的に予測・計測システムとしての可能性を示した。次に,具体的なデータを用いてこの考え方の妥当性を示した。特に,トラクタAについての予測結果は,2章で行った適応動作シミュレーションの結果と一致し,その場合の消音量は約10dB,音圧比にして約1/3であることを示した。

 4章では,これまでのシミュレーション手法による検討結果を踏まえて,実際に消音を行うことで,ANCの性能評価を行った。

 作成した実際に消音を行う評価システムは,DSPと2チャンネルずつのオーディオレベル・アナログ入出力を持ち,参照入力:1,制御出力:2,誤差入力:1チャンネルの構成とした。また,実際に消音するためには実音場を制御空間として使用するため,付加音源(制御用スピーカ)から参照入力用および誤差入力用のマイクロフォンまでの音響特性を予め同定した上で,B.Widrowらの提案したFiltered-X LMSアルゴリズムを用いて消音を行った。

 評価システムの動作確認試験では,ANCシステムの基本的な消音動作を確認するとともに,付加音源から参照マイク,誤差マイクまでの音響特性の同定結果や制御(消音)用フィルタの適応状態について考察した。その結果,同定用フィルタについては10秒程度の適応時間で,十分な精度の同定結果が得られたことを示した。

 次に,トラクタA,Bの機関騒音に対して,評価システムを機関部側方に設置して供試した結果,誤差マイク位置において,最大10dB程度の消音量が得られた。また,誤差マイクを含む水平面内について,消音量分布を調査し,誤差マイクを中心に消音空間が拡がっていることを確認した。

 5章では,4章までの検討結果を踏まえて,トラクタ上の作業者耳元に対して消音を行うための搭載型ANCシステムを3種類作成し,その特徴をまとめた。

 タイプIは4章までの検討で用いてきたフィードフォワード制御を行う形式であり,理論上任意の騒音に適用できる反面,参照信号とのコヒーレンスや騒音の到達時間に注意しなければならなかった。

 これに対し,タイプIIは適用が周期性騒音に限定される反面,タイプIにおける参照信号を不要とし,かつコヒーレンス問題をクリアできる特徴を持っていることを示した。

 また,タイプIIIは,これも周期性騒音に適用が限定されるが,騒音の周期に同期したパルス信号を参照することにより,ハウリングの問題を回避すると同時に,制御音生成時などに必要な畳み込み演算を省略できるという高速処理に適した形式であることを示した。

 これら3種類の搭載システムを作成し,供試乗用型トラクタ2機種の機関騒音に対して,動作確認および性能評価を行った。

 その結果,タイプI,IIについては,消音動作を確認するとともに,500Hzまでの帯域において最大10dB程度の消音量を得ることができた。また,作業者耳元位置において全帯域で4〜6dBの消音量が得られた。

 付加音源と誤差マイクの個数や配置については,制御しようとする騒音の特性やシステムの置かれる音場空間の特性に応じて適切な個数やその配置があること示した。具体的には,トラクタBの場合,2個ずつの誤差マイクと付加音源で十分な消音空間を得ることができた。

 また,このことに関係して,制御対象となる騒音の周波数が低い場合は,それだけ波長が長くなるため,誤差マイク数が少なくても一定の消音空間を得ることができ,空間的には有利であることを強調した。

審査要旨

 農作業の機械化によって農作業従事者の労働負担軽減,労働時間短縮が達成されてきた。人に代わって農作業を行うという機能的な面で,農業機械の果たした役割・効果は大きいものがあるが,それらを使用する作業者の立場からみた場合には,農業機械が作業者に与える粉塵や騒音,振動といった作業環境の問題が残されている。そのような中で既存の人-機械系を見直していくことにより,とくに騒音を伴う機械作業から健康障害発生要素等を取り除くとともに,機械作業を作業者にとってより快適で安全なものに改善していくことが,本研究の最終的目標である。

 本論文では,騒音低減手法として,これまでの遮音や吸音といったパッシブな手法ではなく,近年の電子技術の進歩を受けて実現可能となった「音を以て音を制す」式のアクティブな手法(能動騒音制御,ANC:Active Noise Control)を採用して,これを作業者耳元空間に適用し,これまでのパッシブ手法では難しかった高エネルギーの低周波騒音の低減の可能性を明らかにしている。

 1章では,騒音に関する基本概念,作業環境騒音に関する法的規制,それと農業機械騒音との関係や,とくに本論文で採用した新しい騒音低減手法であるANCを中心として,これまでの研究にふれ,適応ディジタルフィルタを用いたANCシステムの手法について整理している。

 2章では,本研究で供試した2機種の乗用型トラクタについて,作業者耳元騒音に着目した機関騒音の分析を行い,低周波域に存在する大きな音圧ピークがANCの制御対象になることを明確化している。

 3章では,ANCをトラクタの作業者耳元騒音に適用するための前段階として,ANCシステムの適応動作シミュレーションを行い,騒音低減の可能性を検討している。特に,ANCシステムで使用する参照位置については,制御したい耳元騒音との相関が高い位置を参照しなければ,十分な消音(騒音低減)が得られないことを,実際のデータをもとに定量的に示している。

 4章では,消音を目的としたANCシステムを別の側面,すなわち,3章で議論となった参照信号と目標信号の相関(コヒーレンス)を時間領域で適応処理によりリアルタイムに求めるという,予測・評価を目的とした計測システム的側面から捉えている。具体的には,3章で行ったANCシステムの適応動作シミュレーションを一歩進め,DSP(Digital Signal Processor)を用いることでリアルタイム処理を可能とするとともに,ANCを適応する場合の消音量予測手法,さらには任意のシステムにおける信号間の相関計測手法としての可能性を示している。

 5章では,これまでのシミュレーション手法による検討結果を踏まえて,実際に消音を行うことで,現実の騒音に対するANCの性能評価を行っている。特に,実際のトラクタ機関騒音に対してANCを適用した場合の消音効果(消音量と消音空間)について,具体的なデータを示すとともに,ANCの基本的な動作特性について,理論と実際面からの検討を行っている。

 6章では,5章までの検討結果を踏まえて,トラクタ上の作業者耳元に対して消音を行うための実機搭載型のANCシステムを3種類(タイプI〜III)作成し,その性能評価を行っている。特に前章までに検討してきたタイプIに加え,周期性騒音を対象としたタイプII,高速動作をねらったタイプIIIの検討を行うことにより,ANCを適用する場合の実際的な問題(制御用音源とマイクの数やそれらの配置,制御する騒音の周波数)に対して,具体的なデータをもとに分析を行っている。

 7章では,まとめとして,本論文での到達点と残された問題点,今後の展望について簡潔に述べている。

 このように本研究は,トラクタ操縦者の耳元騒音を能動制御によって低減する方法を追求し,その技術的基礎を明らかにしたもので,学術上,応用上寄与するところが少なくない。よって審査員一同は,博士(農学)の学位を与えてしかるべきものと判定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50881