学位論文要旨



No 211754
著者(漢字) 阪口,豊
著者(英字)
著者(カナ) サカグチ,ユタカ
標題(和) 感覚統合と能動的認識に関する工学的研究
標題(洋)
報告番号 211754
報告番号 乙11754
学位授与日 1994.04.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第11754号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 中野,馨
 東京大学 教授 鈴木,良次
 東京大学 教授 甘利,俊一
 東京大学 教授 吉澤,修治
 東京大学 助教授 石川,正俊
内容要旨

 人間の脳は,多数の神経細胞による並列情報処理,豊かな学習能力,高度な思考能力などの特徴を有し,生理学者,心理学者のみならず,工学者の関心を引きつけてきた.実際,多くの工学者が,脳のもつさまざまな知能のメカニズムを明らかにし,またそれと同様な機能を有するシステムを構成すべく研究を行なってきた。人間のシンボル操作や思考の過程を論理演算によって実現した人工知能や,脳の神経回路網に類似した構造のネットワークを用いて脳機能を説明しようとする神経回路モデルは,そのような工学的研究の代表例である。このほかにも,超並列処理や非線形力学,自己組織化なども脳の情報処理の基本原理と考えられており,それぞれの切り口から脳のメカニズムを解明しようとする研究が盛んに行なわれている.本論文の主題である感覚統合と能動的認識も,そのような脳の情報処理原理の一つである.

 感覚統合(sensory integration)とは,複数の感覚情報を統合することによって外界を理解することである.すなわち,脳は,視覚.聴覚,触覚など各感覚系で捉えた情報をさまざまな観測行為を通じて統合することによって,対象の「像」を内部に形成し,対象を理解する.このように,自分のもつ種々の感覚器からの情報を組み合わせて対象を総合的に理解する機能は,人間が日常的な活動を行なう上で重要な役割を果たしている.

 一方,能動的認識(attentional perception)とは,対象に関する情報を収集する際に,感覚受容器が捉えた情報を受動的に受け取るだけでなく,自分にとって必要な情報を能動的に獲得することによって対象を認識することである.例えば,「網膜には像として映っていても自分に関心のあることしか見えていない」「玄人と素人では眼のつけどころが違う」といったことは,人間が受け取った情報をすべて平等に処理しているわけではなく,自分にとって有用な情報に重きをおいて処理を行なっていることを示唆している.このように,人間は,自分の意図や目的に応じて適切な情報源に「意識」や「注意」を向けることによって,有用な情報だけを抽出し対象を理解している.

 感覚統合と能動的認識は人間の行動を特徴づける重要な要素であり,また,あらゆる感覚情報処理過程において共通に機能する脳の基本的メカニズムである.実際,人間が外界を理解する上で種々の感覚情報を能動的に統合することが重要であることは,古くから哲学や心理学の分野で指摘されてきた.にもかからわず,これらは従来の知能機械研究において正面から捉えられることはなかった.本研究の目的は,これら二つの原理を情報処理的な視点から整理して,そのメカニズムを工学的アルゴリズムとして記述するとともに,構成したアルゴリズムを具体的な感覚情報処理過程に適用してその有効性を実験的に検証することである.

 上記の目的を達成するため,本研究では,人間と同じような振舞いを示すシステムを構成することを通じて,そのメカニズムやアルゴリズムを記述するという構成的方法論を用いた.すなわち,人間を一つの「機械」として捉えた上で,それと同じような振舞いをする機械を,情報理論,制御理論,信号処理論といった工学的な理論に立脚して設計し,製作するという方法を用いた.このような方法論を用いることにより,思想的なモデルとしてではなく現実に動作する機械として脳機能を実現すること,また,これまで蓄積されてきた工学理論の結果を利用してモデルの性能を客観的に評価することが可能になる.

 感覚統合と能動的認識は感覚情報処理における共通原理であるから,その本質は抽象的なアルゴリズムとして表現することができると考えられる.本論文では,まず,このような一般的なアルゴリズムを数理モデル上に実現し,それによってこれらのメカニズムの本質を抽出することから議論を始めた.そして,そのような一般的考察を踏まえた上で,人間の感覚知覚過程を模擬するシステムの構成を通じて具体的アルゴリズムを実現し,その性能を実験的に評価した.以下,本論文の構成に沿って研究の内容について述べる.

 まず,第1章では,研究の背景や位置づけ,またセンサフュージョン(sensor fusion)と呼ばれる工学的方法論との関係を踏まえた上で,本研究の目的や意義,方法論について論じた.この中で,本研究が,脳の情報処理メカニズムの解明という意味だけでなく,「注意」を伴った情報処理技術,直列情報処理と並列情報処理の統合といった点で工学的にも重要な示唆を与えるものであることを明らかにした.

 第2章では,感覚統合と能動的認識に関する数理的議論を行なった.まず,これまで種々の過程が混同して議論されていた感覚統合の過程を独自の視点から整理し,その上で本研究で取り扱う問題を明らかにした.続いて,能動的認識の過程をモデル化するため「内部像に基づく対象の理解」という基本的考え方を提案し,これが人間の種々の行動を説明する上で有用であることを示した.さらに,この考え方に基づいて,感覚統合をBayes推定として,能動的認識を情報量基準に基づく逐次実験計画としてそれぞれ定式化し,そのアルゴリズムを具体的に記述した.また,その発展として,ボトムアップ型の感覚情報選択法と時間的に変化する対象の能動的認識アルゴリズムについて述べた.

 第3章から第5章では,触知覚認識,図形認識,運動計画の三つの題材についてそれぞれ人間の振舞いを模擬するシステムを構成し,その性能を実験的に評価した.

 まず,第3章では,人間の触知覚系を忠実に模倣したシステムを実際に製作し,対象の材質や表面状態を識別するシステムを実現した.人間の触知覚は,皮膚の機械受容器だけではなく,筋紡錘,温覚受容器などさまざまな感覚受容器からの情報を統合することによって得られる感覚であり,また,押す,こする,つまむといった種々の触運動を通じて得られることから,感覚統合と能動的認識について議論する題材として適切である.本システムにおいて能動的認識のアルゴリズムを用いた結果,状況に応じて適切な触運動を選択しつつ,微妙な手ざわりの違いを識別することが実験によって示された.また,システム内部の表現に基づく類似度が,人間の感覚の類似度とよく一致することがわかった.このように,構成したシステムが人間とほぼ同じ挙動を示したことは,人間の触知覚メカニズムおよび触知覚情報の表現様式がシステムのもつそれらとよく一致していることを示しており,したがって,本システムは触知覚メカニズムのモデルとして優れたものであるといえる.

 第4章では,人間が対象を眺めるときに,視点や注意を次々と移動させることに着目して,局所的な情報を逐次的に収集して図形の全体像を構成するシステムを構成した.このシステムにおいては,対象の内部像を構成する際に,感覚情報だけでなく対象に関する知識を利用することについて検討した.その結果,知識だけでは予測できない部分を選択的に観測するという形で,能動的認識のアルゴリズムを自然に導くことができた.また,能動的認識アルゴリズムを用いることによって,図形の内部像が安定かつ速やかに構成されることを数値実験によって示した.構成したシステムの構造は,視覚系の構造と直接対応がつくものではないが,図形の縁や角に視点が移動するという人間の視覚系の性質を,対象の内部像を構成するために有用な特徴を選択的に獲得するための機能として意味づけすることができた.

 また,第5章では,従来別個の問題として扱われてきた運動計画と学習制御を一つにまとめて考察することによって,未学習の状態でも目標の運動をほぼ間違いなく実行し,学習の進行とともにより効率的な運動を行なうシステムを構成した.運動制御の問題は,一見,認識とは異なる問題であるように思えるが,「内部像に基づいて対象を捉える」という点で共通する構造を有している.このシステムの要点は,内部像に基づく運動予測の誤差を自分の内部で評価し,それに基づいて運動を計画するということにあり,これは,内部像に応じて観測行為を定める能動的認識アルゴリズムと共通する考え方から生まれたものである.

 第6章では,以上の章で具体的に検討することのできなかった聴覚認識の問題と,認識のベースとなる内部表現獲得の問題についてそれぞれ議論した.最後に,第7章では,本論文の結論を述べるとともに関連する研究課題について論じた.

 以上要するに本論文では,人間の感覚情報処理のおける感覚統合と能動的認識の役割について情報処理的な視点から明らかにするとともに,そのアルゴリズムを具体的に与え,触知覚認識,図形認識,運動計画の三つの問題についてその性能を実験的に検討した.本論文の成果は,「注意」や「意識」といった人間の高次の情報処理メカニズムについて客観的に議論する土台を与えるとともに,「注意」を伴った情報処理といった新たな情報処理手法を生み出すものである.

審査要旨

 本論文は,感覚統合と能動的認識に関する工学的研究と題し,七つの章から成る.

 人間の脳は,非常に複雑で柔軟性に富んだ情報処理システムである.本論文は,外界から情報を受け取って理解する感覚情報処理過程に着目し,その中で重要な役割を果たしている感覚統合と能動的認識のメカニズムを工学的な視点から解明することを目的としている,

 人間は,さまざまな感覚情報を組み合わせて対象を総合的に理解する.このように,複数の感覚情報を統合することによって,対象の「像」を形成する過程を感覚統合という.一方,自分にとって必要な情報を選択的に獲得することによって対象を認識することを能動的認識という.人間が,受け取った情報をすべて同等に処理するのではなく,目的や意図に応じて有用な情報に「意識」や「注意」を向けながら処理を行なっていることは,人間の感覚情報処理における大きな特徴である.

 人間が外界を理解する上で種々の感覚情報を能動的に統合することの重要性は,古くから哲学や心理学の分野で指摘されてきたが,情報処理メカニズムという視点からの議論は少なかった.本論文では,人間と同じような振舞いをする機械を作ってみることを通じて脳のメカニズムを明らかにするといういわゆる構成的方法論を用いている.すなわち,脳のメカニズムを客観的なアルゴリズムとして記述し,それを具体的な感覚情報処理過程に適用してその有効性を実験的に検証している,

 以下,本論文の構成に沿って研究の内容について述べる.

 まず第1章において,本研究の背景や位置づけを踏まえて,目的や意義,方法論を論じている.その中で,本研究が,脳のメカニズムの解明だけでなく,「注意」を伴った情報処理,直列情報処理と並列情報処理の統合など新しい情報処理方式の開発にも重要な示唆を与えることを述べている,

 第2章では,感覚統合と能動的認識に関する数理的議論が行なわれている.まず,感覚統合の過程が独自の視点から整理され,その上で本研究で取り扱う問題が明らかにされている.続いて,これらの過程を理解するための考え方として「内部像に基づく対象の理解」という概念が提案されている.さらに,この考え方に基づいて,感覚統合がBayes推定として,また,能動的認識が情報量基準に基づく逐次実験計画として定式化され,そのアルゴリズムが具体的に与えられている.

 第3章から第5章では,触知覚認識,図形認識,運動計画の三つの題材についてそれぞれ人間の振舞いを模擬するシステムが構成され,その振舞いが実験的に評価されている.

 まず第3章では,触知覚過程に関して,人間の触知覚系を模倣したシステムを実際に製作することにより,対象の材質や表面状態を識別するシステムが実現されている.このシステムでは,上記のアルゴリズムを用いた結果,目的に応じて適切な感覚情報を選択しつつ,微妙な手ざわりの違いを識別できることが実験によって示されている.このほか,本システムにおける対象の表現は人間の感覚とよく対応しており,本システムが人間の触知覚メカニズムおよび触知覚情報の表現様式を実現していることを示唆している.

 次に,第4章において,局所的な特徴を逐次収集して図形の全体像を形成するシステムを構成している.このシステムにおいては,対象の内部像を形成する際に,感覚情報だけでなく対象に関する知識を利用することが検討されている.その結果,知識だけからでは予測できない部分を選択的に観測するという形で,能動的認識のアルゴリズムが構成される.また,観測位置を能動的に定めることによって,図形の内部像が安定かつ速やかに形成されることが数値実験によって示されている.

 第5章では,運動計画過程に関して,未学習の状態でも目標の運動をほぼ間違いなく実行し,学習の進行とともに効率的な運動を行なうシステムを構成している.このシステムの要点は,内部像の確かさを自分の内部で評価し,それに基づいて運動を計画することにあり,これは,「内部像に基づく対象の理解」という本論文の基本的考え方から導き出されたものである.

 第6章では,関連する問題として,音源分離の問題と内部表現獲得の問題がそれぞれ議論され,最後に第7章では,本論文の結論が述べられている.

 以上要するに本論文は,感覚情報処理における感覚統合と能動的認識の役割を情報処理的な視点から明らかにするとともに,具体的にそのアルゴリズムを導き,触知覚認識,図形認識,運動計画の三つの問題についてその振舞いを実験的に検討している.本論文の成果は,「注意」や「意識」といった人間の高次の情報処理メカニズムについて客観的に議論する土台を与えるとともに,「注意」を伴った情報処理など新たな情報処理手法を生み出すものであり,生体工学および情報工学の研究に貢献するところが大きい.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53861