学位論文要旨



No 211758
著者(漢字) 小林,功佳
著者(英字) Kobayashi,Katsuyoshi
著者(カナ) コバヤシ,カツヨシ
標題(和) 第一原理的な電子状態計算に基づく走査トンネル顕微鏡の理論的研究
標題(洋) Theoretical study of scanning tunneling microscopy based on first-principles electronic structure calculation
報告番号 211758
報告番号 乙11758
学位授与日 1994.04.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第11758号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安藤,恒也
 東京大学 教授 浅野,摂郎
 東京大学 教授 田中,虔一
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨

 BinnigとRohrerによって発明された走査トンネル顕微鏡(STM)は表面科学の様々な分野に多くの進歩をもたらした。STMは表面の原子像を実空間で直接的に見ることを可能にしただけでなく、最近では表面の原子を一個づつ動かし、表面を原子スケールで加工することも可能になりつつある。

 STMでは表面の原子像を見ることが可能であるが、実際に見えているものの解釈は単純ではない。TersoffとHamannは探針の軌道としてs軌道のみを仮定することにより、トンネル電流が表面の局所状態密度(LDOS)に比例することを示した。これはまた、STMにより表面の局所的なスペクトル(STS)を観測することができることを示すものである。TersoffとHamannの理論は多くの実験を定性的に説明するのに非常に有用なものであるが、すべての実験事実を説明するものではなく不十分な点もある。特に、探針がSTMに及ぼす影響は重要である。探針の影響についてはLangやChenらが簡単なモデルを使って調べていたが、実際に用いられている探針のモデルを使った研究は今までにはなかった。

 本研究では、実際の探針がSTMに及ぼす影響を調べるために、現実的な探針モデルを用い、表面および探針の電子状態を第一原理的に求めてSTM像を計算する新しい理論計算の手法を開発し、それを具体的にグラファイト表面、Si(111)×-B表面に適用した。

 本研究で開発したSTM像の計算方法は以下に述べるとおりである。まず、探針先端部のモデルとして実験で実際に使われているWやPt原子10個程度からなるクラスターを用い、その電子状態を密度汎関数法に基づく第一原理的な計算法により求める。また、試料表面についても通常用いられている薄膜モデルまたはクラスター・モデルで、その電子状態を密度汎関数法により解く。これらの結果から、Bardeenの摂動によるトンネル電流の表式を用いてSTM像やSTSスペクトルを計算する、というものである。本研究では第一原理的な電子状態を求める計算方法としてLCAO基底でのDV-X法を用いた。

 まず最初に、グラファイト表面のSTM像を様々な探針モデルを用いて計算した。最初にs軌道2個から成るH2分子状の探針を用いた。探針の軌道が結合軌道の場合には実験で普通見られる三角格子の像が得られた。これはグラファイト表面のLDOSとほぼ同じである。一方、探針の軌道として反結合軌道を用いた場合にはLDOSとは全く異なる異常像が得られた。これについて詳しく調べるためにグラファイト表面のFermi面付近の波動関数を表す主要な平面波を用い、H2探針との間に流れるトンネル電流を解析的に計算したところ、この異常像が表面と探針の波動関数の干渉効果により生ずることが明らかになった。グラファイトの異常像については従来から、探針の先端に複数の小突起があることによる効果、いわゆるダブル・チップの効果として説明されていた。従来の説明では、複数探針による重ね合わせの効果として説明されていたのに対して、本研究の結果からは、単なる重ね合わせだけではなく、探針と表面の波動関数の干渉効果が重要であることがはじめて明らかになった。

 さらに、実際の実験で見られている異常像を議論するために、探針のより現実的なモデルとしてW原子10個から成るW10[111]クラスターを用いてSTM像を計算したところ、H2分子の探針モデルで得られたものと似た異常像が得られた。このような異常像が生ずる原因は、W10[111]クラスターの分子軌道のうち、トンネル電流に主に寄与している軌道が成分を持たないためであることがわかった。実際の実験で見られているグラファイトの異常像は、W14[110]クラスターから先端の原子がとれて複数の先端原子からなるW13[110]クラスターの様な探針で見ている時に生ずるものと思われる。ただし、この場合にも探針と表面の波動関数の干渉効果が重要である。また、グラファイト表面のSTSスペクトルを様々な探針クラスターを用いて計算したところ、得られたSTSスペクトルと探針先端の形状の間に対応関係があることが分かった。また、STSスペクトルは表面と探針との間の距離によっても変化することがわかった。すなわち、距離が近いときには探針の先端原子の粒子性が顕著に現れるため、異常なスペクトルが得られる場合があるが、遠くなるにつれて粒子性が薄れ、正常なスペクトルへと移り変わることがわかった。

 次に、Si(111)×-B表面についてSTSの計算を行った。この表面ではトンネル電流の一階微分であるトンネル・コンダクタンスが負になる、いわゆる負性抵抗が報告されている。この現象はTersoffとHamannの理論の範囲内では明らかに説明できない。彼らの理論ではトンネル・コンダクタンスは常に正になってしまうからである。この現象は探針の電子状態がSTSに現れる端的な例である。そこで、本研究で開発したSTSスペクトルの計算方法をこの表面に適用した。負性抵抗が観測されているのはSi(111)の×-B表面の欠陥サイトの上であることからSi(111)×-B表面に欠陥を入れたクラスター・モデルを用い、W10[111]クラスターの探針モデルでSTSの計算を行った結果、負性抵抗が現れ、実験で得られている様子を良く再現することができた。また、負性抵抗が生ずるための条件として、試料表面のバンド・ギャップ中に局在状態が存在すること、探針の分子軌道のうちトンネル電流の大部分を受け持つトンネル活性な軌道がフェルミ・レベル付近に存在することが必要であることがわかった。探針として様々なクラスター・モデルを用いてSTSの計算を行った結果、この条件はW10[111]クラスターでは満たされるが、W14[110]やPt10[111]クラスターでは満たされず負性抵抗は現れなかった。このことは、負性抵抗はとの探針でも生ずるわけではなく特殊な条件下でのみ現れることを示している。また、負性抵抗はSi(111)×-B表面に限らず他の表面でも生ずる可能性がある。

 最後に遷移金属表面に成長した単原子層グラファイトの電子状態およびSTM像について研究を行った。この表面のSTMでは下地の影響が吸着層の像に現れるモアレ像が観測されている。また、この表面のフォノン、光電子分光、プラズモンなどではバルクのグラファイトとは異なる現象か観測されており興味深い。そこでTiC(111)表面上の単原子層グラファイトを例にとり、その電子状態を第一原理的なバンド計算により求めてSTM像を計算した。この系は下地とグラファイト層との間か非整合であるため、グラファイト層の格子定数を少し変えてグラファイトの2×2の単位胞でバンド計算を行った。表面の電子状態の計算にはDV-X法を用いた。その結果、グラファイトの占有バンドはバルクのグラファイトとあまり変わらないが、非占有バンドは下地のTiのdバンドと混成して大きく変化することがわかった。得られたバンド分散は光電子分光で得られている結果を良く再現する。また、グラファイト層と下地との電荷移動はないことがわかった。これらの結果は、下地との軌道混成によるグラファイト層内の電子状態の変化として良く説明でき、また、グラファイト層の格子定数の異常な伸びも説明できることがわかった。さらに、グラファイト層と下地との相対的な位置を面に平行にずらして計算してもこれらの結果にあまり変化が見られなかった。これにより非整合系を整合系で置き換える近似が正当化される。

 STM像を議論するために、バンド計算の結果を用いてトンネル電流を計算した。STM像は表面のLDOSより求めた。超周期構造を説明するためには探針の電子状態の影響は本質的でないからである。計算したSTM像からはグラファイト格子の2倍周期の像が得られた。これは実験で得られている超周期構造のうち短い方の周期構造を良く再現する。得られたSTM像はグラファイトと下地との相対的なずれにより変化することがわかった。これは実験で見られている長い方の周期構造、すなわちモアレ像に対応するものと考えられるが、バンド計算で用いた小さな単位胞では明かではない。

 そこで、大きな単位胞についてタイト・バインディング法を用いてSTM像の計算を行った。タイト・バインディングのパラメータは、小さな単位胞について行った第一原理的なバンド計算の結果を再現するように定めた。計算したSTM像からはモアレ像が得られ、実験で見られる2つの超周期構造を良く再現する。さらに、このような超構造が観測されるための条件として3つの条件、すなわち、グラファイト層と下地との相互作用の強さ、探針と試料表面との距離、グラファイトと下地が軌道混成しているエネルギー領域、すなわち、STM像を見ているバイアスが重要なパラメータであることがわかった。

 本研究で開発した第一原理的な電子状態計算に基づくSTM像の計算方法は、今後も様々な表面で見られているSTM像・STSスペクトルの研究、特に、その探針の影響についての研究に役立つものと思われる。また、本研究で行ったモアレ像の研究は他の層状物質のSTMで観測されているモアレ像や吸着層を介在としたトンネル現象の研究にも応用できるものと思われる。

審査要旨

 1982年にBinnigとRohrerにより発明された走査トンネル顕微鏡(STM)は,表面の原子像を実空間で直接的に見ることを可能にし,表面科学の様々な分野に多大な影響を与えた.しかし実際には,STMで見られる表面の原子像の解釈は単純ではない.TersoffとHamannは,探針の電子状態として等方的なs軌道のみを仮定することにより,トンネル電流が表面の局所電子状態密度に比例することを示した.これは,STMにより表面の局所的なスペクトロスコピー(STS)が可能であることを示唆する重要な結論である.確かに,このTersoffとHamannの理論は,多くの実験を定性的に説明するのには有用である.しかし,実験のより定量的で詳細な解析には不十分である.とくに,現実的な探針に対して,このような簡単化が成り立つのかどうかは大きな問題である.そこで,この学位論文では,表面および探針の電子状態を第一原理的に求め,STM像を計算する理論的手法を開発し,具体的な系へ応用することにより,STMが実際にはなにを見ているのかを明らかにすることを試みた.

 この論文は6章よりなる.第1章では問題提起,第2章ではSTMについて,これまでの発展の簡単な解説,第3章ではこの論文で用いるSTM像計算の方法についての概要が説明されている.第4章では,グラファイトの表面を選び,探針の電子状態がSTM像に与える影響を具体的に考察した.第5章では,探針の電子状態のために負性トンネルコンダクタンスが現れる,Si(111)×-B表面の局所スペクトルを取り上げた.第6章では,遷移金属表面に成長した単原子層グラファイトの電子状態とSTM像を計算し,下地との相互作用に起因するモアレ像を議論した.最後の第7章はまとめである.以下に,この論文の主たる業績である第3章-第6章の内容を要約する.

[1]DV-法とBardeenの公式

 この論文で用いた計算方法は以下のようにまとめられる.すなわち,探針先端部に,タングステン原子10個程度からなるクラスターなどを用い,表面には薄膜あるいはクラスター模型を用いる.さらに,局在原子軌道を用いたDV-法により,局所密度汎関近似で電子状態を計算する.この結果を,Bardeenのトンネル電流の表式に代入し,STM像やSTSスペクトルを具体的に計算する.

[2]グラファイト表面と探針モデル

 グラファイト表面のSTM像を水素分子を探針とする模型で計算した.それによると,水素分子の結合軌道をとおしてトンネル電流が流れる場合には,局所状態密度と同じ原子像が見られるが,反結合軌道の場合には,探針と表面の波動関数の干渉により,全く異なる像が得られることが示された.次に,探針にタングステン原子からなるクラスターを用いてSTM像を計算した.その結果,探針先端の電子状態を反映して,水素分子の場合と同様の異常像が現れ得ることを示した.また,計算によると,STS像が探針の電子状態や表面との距離などで微妙に変化する.これはSTM像の解釈が一筋縄ではいかないことを示す格好の例である.

[3]Si(111)×-B表面の負性コンダクタンス

 この表面では,TersoffとHamannの理論では説明できない負性抵抗が実験で観測されており,探針の電子状態の影響が直接STSに現れるよい例である.計算により,バンドギャップ中に表面状態が存在すること,また探針にトンネル活性な準位が存在することを示した.このような表面状態と探針状態の特殊性が相まって,負性抵抗が現れるのである.

[4]単原子層グラファイトのモアレ像

 最近,遷移金属表面の単原子層グラファイトと下地との相互作用が興味を呼んでいる.特に,STMの実験では,下地との非整合性によるモアレ像などが観測されている.この論文では,TiC(111)表面上の単原子層グラファイトを例にとり,その電子状態とSTM像を計算した.その結果,グラファイト層間化合物とは本質的に違い,下地との相互作用が大きいこと,そのためにモアレ像が見られることなどを示した.

 以上,この論文では,表面と探針の電子状態を第一原理的に計算し,トンネル電流を計算した,それによれば,STM像とSTSスペクトルは,探針や表面の電子状態,さらにはその間の相互作用により非常に敏感に変化し,このような第一原理的な計算がその理解に不可欠であることが示された.この研究で開発されたSTM像の計算方法や具体的な計算結果は,今後様々な表面で見られるSTM像の理解に有用と考えられる.このように本論文は博士(理学)の学位論文としてふさわしい内容をもつものとして審査員全員が合格と判定した.

 なお,本論文の内容は,塚田捷氏,島信幸氏,一色信之氏らとの共著の形で公表済み,あるいは公表予定であるが,実際の計算の遂行や結果の解析などにおいて,学位申請者の重要な寄与が認められた.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50650