学位論文要旨



No 211762
著者(漢字) 政井,一郎
著者(英字)
著者(カナ) マサイ,イチロウ
標題(和) ショウジョウバエ・ジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子の解析
標題(洋) Molecular characterization of Drosophila diacylglycerolkinase genes
報告番号 211762
報告番号 乙11762
学位授与日 1994.04.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第11762号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若林,健之
 東京大学 教授 西郷,薫
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 助教授 桑島,邦博
 東京大学 助教授 陶山,明
内容要旨 【導入】

 最近の細胞内情報伝達に関する研究によって、細胞刺激後イノシトールリン脂質の分解が引きがねとなってカルシウムイオンの上昇が起こる情報伝達系が存在することが明らかになってきた。私は、このイノシトールリン脂質情報伝達系のモデルとしてショウジョウバエの視細胞に注目し、情報伝達酵素のひとつであるジアシルグリセロールキナーゼについて分子生物学的な研究を行なった。ショウジョウバエでは視覚異常突然変異が多数分離されているが、そのうち視細胞の機能に関わる突然変異については、視細胞の形態は正常であるが網膜電位を発生しないものと、視細胞自体が変性する突然変異とに分けることができる。一般に、前者は光受容機構に関わる、また後者は視細胞の形態の維持に関わる突然変異と考えられる。生化学的解析からイノシトールリン脂質情報伝達系がショウジョウバエの光受容機構に関して重要な働きをしていることが明らかにされ、近年可能になった遺伝子クローニングによって遺伝的にも証明されてきた。一方、視細胞変性に関してはショウジョウバエにおいで現在4種類の突然変異が単離されている。これらもイノシトールリン脂質代謝回転の調節に関わる酵素に欠損があり、イノシトールリン脂質代謝回転と視細胞変性の分子メカニズムとの関係が解決すべき重要な問題となっている。それら4種類の中で、視細胞変性突然変異retinal degeneration A(rdgA)は、視細胞は正常に分化・発生するが羽化後急速に変性する表現型を示す。さらに微細形態学的レベルでは、まだ変性していないと考えられていた羽化直後既に、リン脂質の輸送に重要なsubrhabdomeric cistemae(SRC)と呼ばれる内膜系が消失している。また、生化学的表現型として、野生型では眼に多量にあるジアシルグリセロールキナーゼの活性が欠損しており、この酵素活性が正常rdgA遺伝子量に比例することから、rdgA遺伝子は視細胞特異的ジアシルグリセロールキナーゼをコードすると推定されていた。この論文では、rdgA遺伝子を単離することで上記の仮説を証明し、rdgAタンパク質の分子的実体を明らかにした。また、rdgA遺伝子を単離する過程で得られた別のジアシルグリセロールキナーゼをコードするDGK1遺伝子についても解析を行なった。

【方法】

 我々はショウジョウバエのジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子をスクリーニングして、染色体上rdgA突然変異の位置にマップされるジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子を単離する方法をとった。具体的には、ブタのジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子との相同性を利用して、ジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子(DGK1)を単離し、さらにそのDGK1遺伝子の相同性の高い箇所をプローブにして、新たなジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子(DGK2)を単離した。

【結果】

 (I)最初に単離したDGK1遺伝子は第二染色体上43F1にマップされ、rdgAとは異なるアイソザイムであることが明らかになった。DGK1遺伝子は成虫で眼や脳など神経系と筋肉で発現している。胚の時期では主に神経系で発現しており、特に視細胞と腹部神経系の一部の神経細胞で強く発現していた。この腹部神経細胞における発現は、各体節ごとに相同の位置にある3グループの細胞で見られ、そのうち1つは従来から昆虫で解析されてきたパイオニアニューロンであるventral unpaired median(VUM)neuronsと思われる。

 (II)次にDGK1遺伝子をプローブに単離したDGK2遺伝子は、染色体上rdgAの座位(8C1)にマップされた。遺伝子の予想アミノ酸配列からジアシルグリセロールキナーゼの触媒ドメインと考えられる領域のほか、ブタのジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子に存在したプロテインキナーゼC様システイン・リッチ・Zn・フィンガー・モチーフを持っていた。また、DGK2のC末端には4つのアンキリン・リピートが存在していた。ノーザンブロットの結果9kbのmRNAが頭部のみに存在しており、そのmRNAの組織レベルでの発現は視細胞に特異的であった。このことはrdgAの突然変異では視細胞以外の神経細胞にはほとんど変性が観察されないことと一致する。さらに、最も変性が強い突然変異系統rdgABS12ではDGK2遺伝子にナンセンス変異が存在していた。他のアリルのrdgAKO14では、他のジアシルグリセロールキナーゼとの間で保存されているグリシン残基にアミノ酸置換変異(Gly-869->Asp)がおこっていた。次に、DGK2タンパク質の細胞内局在を調べる目的でDGK2に特異的な合成ペプチドに対する抗体を作製した。これを用いた免疫化学的実験から、DGK2タンパク質の発現は、すべての視細胞(R1-R8)に発現しており、視細胞のSRCが存在する領域に強く局在していた。また、ウエスタンブロットから、DGK2タンパク質は110kDaであることが明らかになった。

【考察】

 以上の研究により、DGK2がrdgA遺伝子であることが明らかになり、ショウジョウバエの視細胞においてジアシルグリセロールキナーゼの欠損により、変性が起こることが明確になった。今後の課題としては、視細胞でのDGK2の機能とその欠損がいかにして変性を引き起こすかいうことが重要である。DGK2の欠損によって、基質であるジアシルグリセロールの蓄積と生成物であるホスファチジン酸の欠損がおこるものと考えられる。前者はプロテインキナーゼCを過度に活性化し、それが視細胞変性の原因となる可能性がある。しかし、プロテインキナーゼCの活性化にジアシルグリセロールの他に細胞内にCa2+の流入が必要なこと、さらにホスホリパーゼCとの二重突然変異でジアシルグリセロールの蓄積を抑制しても変性が起こることから、後者のホスファチジン酸の欠損のほうがより可能性が高いと思われる。実際、ホスファチジン酸の欠損はrdgAの視細胞で生化学的に観察されている。

 rdgAにおいて羽化直後に欠損しているSRCはリン脂質の輸送に重要であると考えられている。実際、ショウジョウバエの別の視細胞変性突然変異であるrdgBはホスファチジルイノシトール輸送蛋白質をコードし、SRCに局在する。rdgAタンパク質がSRC領域に局在することは、SRCが視細胞のなかでホスファチジン酸合成の活発な器官であることを示唆している。rdgA突然変異ではホスファチジン酸が欠損するため、イノシトールリン脂質の合成が阻害され、その結果として視細胞変性がおこることが考えられる。また、ホスファチジン酸はSRCのような分泌の活発な内膜系にとって構成成分として重要な働きをしているのかもしれない。

 遺伝子から予想されるアミノ酸配列から、DGK2はジアシルグリセロールキナーゼの触媒領域の他に、そのC末端に4つのアンキリン・リピートを持っている。アンキリン・リピートはアンキリンをはじめ、分化に関わるリセプターや転写調節因子などにひろく見られるモチーフで、その機能としてはタンパク質-タンパク質の相互作用部位と考えられている。rdgAタンパク質は生化学的に膜に弱く結合していることが示されていたが、このアンキリン・リピートを介して視細胞のSRCに局在することで機能していると考えられる。実際、最も変性が強い変異系統であるrdgABS12では、ナンセンス突然変異のために触媒領域は正常であるがアンキリン・リピートが欠損したタンパク質となることから、アンキリン・リピートを介するSRCへの局在が機能上重要と考えられる。

 rdgAを単離する過程で得られた別の遺伝子であるDGK1も特異的ではないが視細胞でも発現している。このことは異なるジアシルグリセロールキナーゼが視細胞で機能別に使い分けられている可能性を示している。眼以外では、胚の神経系で発現しているが、この発現時期は分化した神経細胞が軸索を伸ばし神経回路を形成する時期と一致している。DGK1はこのような神経発生の過程での情報伝達に関わるのかもしれない。現在のところショウジョウバエでは、視細胞がイノシトールリン脂質情報伝達系の最も良いモデルとなっているが、DGK1のようなrdgA以外のジアシルグリセロールキナーゼの解析によって、さらに神経系・筋肉系の分化・発生など様々な生命現象におけるイノシトールリン脂質情報伝達系の役割が明らかにされると思われる。

 最後に、視細胞変性に関して、ヒトではretinitis pigmentosaと総称される遺伝病が知られている。これらの遺伝病の原因遺伝子の単離と脊椎動物(マウス)の視細胞変性突然変異の解析から、脊椎動物の光受容機構であるcGMP情報伝達系に欠損があると視細胞変性が起こることが明らかになってきた。このことはショウジョウバエにおいて、光受容と関わるイノシトールリン脂質代謝回転の調節酵素の欠損によって、視細胞変性が起こることと類似している。また、脊椎動物においても、ショウジョウバエと同様に、イノシトールリン脂質情報伝達系の酵素が視細胞に多量に存在することが観察されている。現在のところ人間では、まだイノシトールリン脂質情報伝達系の酵素の欠損によって視細胞変性が引き起こされる例は報告されてないが、上記の類似性から、ショウジョウバエの視細胞変性突然変異の解析は一般的な視細胞変性の分子メカニズムの理解にも近い将来貢献すると考えられる。

審査要旨

 本論文は、ショウジョウバエのジアシルグリセロールキナーゼに関する分子生物学的研究について述べられている。ここで主題になっているジアシルグリセロールキナーゼはイノシトールリン脂質情報伝達系の酵素であり、大腸菌から哺乳類に至るまで存在が観察されている。また、イノシトールリン脂質情報伝達系は発生・分化をはじめ神経細胞の機能などの生命現象に関わっており、それを構成する情報伝達酵素の制御や作用機序を明らかにすることは、生命現象を分子レベルで理解する上で重要なポイントになっている。

 論文提出者は、イノシトールリン脂質情報伝達系のモデルとしてショウジョウバエの視覚系に注目し、その中で生理機能に不明な点が多かったジアシルグリセロールキナーゼに関して、遺伝学的にその活性が欠損している突然変異であるretinal degeneration A(rdgA)の分子生物学的解析を行い、ジアシルグリセロールキナーゼの機能について研究を行った。本論文で取り上げられた突然変異rdgAは、その視細胞は正常に分化・発生するが羽化後急速に変性する突然変異として今から約25年前に単離された。しかし現在に至るまでの期間rdgA遺伝子に関するクローニングの報告がなく、その変異遺伝子の実体は明らかにされていなかった。また、rdgAは微細形態学的レベルでは、視細胞が変性していないと考えられていた羽化直後既に、リン脂質の輸送に重要なsubrhabdomeric cisternae(SRC)と呼ばれる内膜系が消失していることが知られていた。さらに、生化学的解析から野生型では眼に多量にあるジアシルグリセロールキナーゼの活性が欠損しており、この酵素活性が正常rdgA遺伝子量に比例することから、rdgA遺伝子は視細胞特異的ジアシルグリセロールキナーゼをコードすると推定されていた。従ってrdgAはジアシルグリセロールキナーゼの生理機能を探るのに適した突然変異と考えられる。

 論文提出者は、ブタのジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子との相同性を利用して、ショウジョウバエのジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子を2つ単離し、その中の1つがrdgA遺伝子であることを明らかにした。rdgA遺伝子の解析とその抗体を用いた組織免疫化学的解析から、rdgA遺伝子は視細胞特異的ジアシルグリセロールキナーゼをコードすること、視細胞内ではSRC膜に対応する領域に局在することを明らかにしている。このことは従来から示唆されていたrdgA遺伝子がジアシルグリセロールキナーゼをコードするという仮説を証明するものであり、また視細胞の中でSRC膜がジアシルグリセロールキナーゼによるホスファチジン酸産生の最も活発な場所であることを示している。rdgAの表現型を考えると、このホスファチジン酸の産生がSRC膜自身の維持に重要であることを示唆しており、このような情報伝達酵素が特定の膜領域で働くことが、細胞変性と結び付くことは興味深いと共に重要な知見であると考えられる。

 また論文提出者は、rdgA遺伝子を単離する過程で得られた別のジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子についても詳細な解析を行っている。この遺伝子は成虫の神経系や筋肉で、また胚の時期では視細胞と腹部神経系の特定の神経細胞で発現している。ショウジョウバエでは視細胞がイノシトールリン脂質情報伝達系のよいモデルとなっているが、このようなrdgAとは別のジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子の解析から神経系・筋肉系の分化・発生など様々な生命現象におけるイノシトールリン脂質情報伝達系の役割が明らかになると期待される。

 さらに、ヒトではretinitis pigmentosaと総称される視細胞変性遺伝病が知られている。脊椎動物の視細胞においてもイノシトールリン脂質情報伝達系の酵素が多量に存在することと、ショウジョウバエと脊椎動物の細胞内情報伝達系の類似性を考えると、本論文の知見は医学への貢献という点においても高く評価されるべきものと考えられる。

 なお、本論文は孤嶋慎一郎氏、細谷俊彦氏、岡崎彰氏、堀田凱樹氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となり本研究を推進したこと、用いた分子生物学的技術の改良を行ったことを考慮すると、論文提出者の寄与が充分であると判断する。したがって、博士(理学)を授与できると認める。

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