本論文は、ショウジョウバエのジアシルグリセロールキナーゼに関する分子生物学的研究について述べられている。ここで主題になっているジアシルグリセロールキナーゼはイノシトールリン脂質情報伝達系の酵素であり、大腸菌から哺乳類に至るまで存在が観察されている。また、イノシトールリン脂質情報伝達系は発生・分化をはじめ神経細胞の機能などの生命現象に関わっており、それを構成する情報伝達酵素の制御や作用機序を明らかにすることは、生命現象を分子レベルで理解する上で重要なポイントになっている。 論文提出者は、イノシトールリン脂質情報伝達系のモデルとしてショウジョウバエの視覚系に注目し、その中で生理機能に不明な点が多かったジアシルグリセロールキナーゼに関して、遺伝学的にその活性が欠損している突然変異であるretinal degeneration A(rdgA)の分子生物学的解析を行い、ジアシルグリセロールキナーゼの機能について研究を行った。本論文で取り上げられた突然変異rdgAは、その視細胞は正常に分化・発生するが羽化後急速に変性する突然変異として今から約25年前に単離された。しかし現在に至るまでの期間rdgA遺伝子に関するクローニングの報告がなく、その変異遺伝子の実体は明らかにされていなかった。また、rdgAは微細形態学的レベルでは、視細胞が変性していないと考えられていた羽化直後既に、リン脂質の輸送に重要なsubrhabdomeric cisternae(SRC)と呼ばれる内膜系が消失していることが知られていた。さらに、生化学的解析から野生型では眼に多量にあるジアシルグリセロールキナーゼの活性が欠損しており、この酵素活性が正常rdgA遺伝子量に比例することから、rdgA遺伝子は視細胞特異的ジアシルグリセロールキナーゼをコードすると推定されていた。従ってrdgAはジアシルグリセロールキナーゼの生理機能を探るのに適した突然変異と考えられる。 論文提出者は、ブタのジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子との相同性を利用して、ショウジョウバエのジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子を2つ単離し、その中の1つがrdgA遺伝子であることを明らかにした。rdgA遺伝子の解析とその抗体を用いた組織免疫化学的解析から、rdgA遺伝子は視細胞特異的ジアシルグリセロールキナーゼをコードすること、視細胞内ではSRC膜に対応する領域に局在することを明らかにしている。このことは従来から示唆されていたrdgA遺伝子がジアシルグリセロールキナーゼをコードするという仮説を証明するものであり、また視細胞の中でSRC膜がジアシルグリセロールキナーゼによるホスファチジン酸産生の最も活発な場所であることを示している。rdgAの表現型を考えると、このホスファチジン酸の産生がSRC膜自身の維持に重要であることを示唆しており、このような情報伝達酵素が特定の膜領域で働くことが、細胞変性と結び付くことは興味深いと共に重要な知見であると考えられる。 また論文提出者は、rdgA遺伝子を単離する過程で得られた別のジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子についても詳細な解析を行っている。この遺伝子は成虫の神経系や筋肉で、また胚の時期では視細胞と腹部神経系の特定の神経細胞で発現している。ショウジョウバエでは視細胞がイノシトールリン脂質情報伝達系のよいモデルとなっているが、このようなrdgAとは別のジアシルグリセロールキナーゼ遺伝子の解析から神経系・筋肉系の分化・発生など様々な生命現象におけるイノシトールリン脂質情報伝達系の役割が明らかになると期待される。 さらに、ヒトではretinitis pigmentosaと総称される視細胞変性遺伝病が知られている。脊椎動物の視細胞においてもイノシトールリン脂質情報伝達系の酵素が多量に存在することと、ショウジョウバエと脊椎動物の細胞内情報伝達系の類似性を考えると、本論文の知見は医学への貢献という点においても高く評価されるべきものと考えられる。 なお、本論文は孤嶋慎一郎氏、細谷俊彦氏、岡崎彰氏、堀田凱樹氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となり本研究を推進したこと、用いた分子生物学的技術の改良を行ったことを考慮すると、論文提出者の寄与が充分であると判断する。したがって、博士(理学)を授与できると認める。 |