19世紀ドイツにおける資本主義の発展は、その発端における封建制廃棄のための経済政策、とりわけ工業における営業の自由ならびに農業における農民解放(あるいは市民的土地改革)、によって強力に促進された。その際、営業の自由は各邦独自の政策を出発点としつつも、1871年のドイツ帝国営業法によって包括されるにいたったのに対し、農民解放は各邦独自の政策に委ねられ続け、全ドイツ的な統一立法によって規制されることはなかった。したがって、農民解放史の実証的研究は各邦のレヴェルにおいてのみ可能である。本論文は、こうした事情を踏まえて、ザクセン王国(厳密にいえば、その主要部分としての本領地域)における農民解放を実証的に分析した重厚な成果である。すなわち本論文は、ドイツにおける封建制廃棄過程の重要な一部分をなす「中部ドイツ荘園制」(F.リュトグ)の「地代償却」を通ずる解体過程を、具体的に解明している。著者は封建制から資本主義への移行という伝統的なデーマを受け継ぎつつも、理論的接近を避け、ザクセン州立図書館、国立ドレスデン文書館で収集した資料・文献に基づく「具体的・数量的事実」の提示によりつつ、いわば事実をして語らしめる態度に徹していることが特徴的である。 本論文は第一章「課題の限定」、第二章「地代償却の具体的事例」、第三章「地代償却関係全国統計とその問題点」という三章からなっている。 まず第一章第一節では、ザクセン王国の国制史が概観されている。ザクセン王国は1547年以来のザクセン選帝侯国がライン同盟に加盟することによって、1806年に成立した。その後、九月騒乱(1830年)、三月革命(48年)、ドイツ帝国統一(71年)を経て第一次世界大戦後1920年にヴァイマル共和国の一州となって消滅した。地代償却過程は、三月前期の「ザクセン改革」(1831年の王国憲法、32年の地代償却法 都市自治体法)および三月革命後の「上から」の改革--償却法補充法(51年)、家産裁判所の廃止(56年)--に示されている。 第二節ではザクセン王国における地方行政区域の変遷が跡づけられている。著者は県、郡、管区に関する様々な名称を翻訳、整理し、その上で、1815年以降の行政区域の変遷をたどっている。 第三節ではザクセン王国(ただし、農場領主制が支配するオーバーラウジッツを除く本領地域)に支配的に見られた土地制度である中部ドイツ荘園制の特徴が、リュトグに始る研究史に即して約説されている。第一に、ザクセンの荘園領主は、その身分的構成(領邦君主、騎士領、宗教財団、学校,市参事会)に関りなく、騎士領を所有することを常としその経営のために領民の賦役を必要としたから、貢租収入のみに頼る純粋型荘園は比較的に稀であった。この様に中部ドイツ荘園制は、賦役と裁判権とを結合する点で、荘園領主制から農場領主制への移行類型をなす。第二に、荘園領主権と裁判権との関係についていえば、ザクセンでは荘園領主が下級裁判領主と人的に結合していた。すなわち騎士領所有者は同時に下級裁判領主=家産裁判権所有者であった。第三に、ザクセン農民の地位について見ると、12-13世紀のドイツ人入植以来、農村住民は人格的に自由であり、また16世紀以来の領邦君主の農民保護政策によってその地位が維持されており、農場領主制における農奴制あるいは世襲隷民制を欠如する点が、最大の特徴である。ザクセン農民は領主の人身的支配から自由な存在であり続けた。こうしたフーフェ農民の下に、1500年頃から、零細農(園地農)、農地非所有者(小屋住農と寄留者[間借人、奉公人])が出現し、増加する。彼らは共同体の構成員ではなかった。第四に、近世ザクセンの領主-農民関係は、領邦君主による農民保護政策の結果、農民追放と農場領主制という東エルベ的な状況への転落が阻止され、対物的負担(賃租、賦役、農民地の領主放牧権を含む)を基調とするものにとどまり、農民の土地保有権は良好で安定したものであった。 第四節では、K.ブラシュケの人口史研究が整理され、ザクセン王国の都市と農村における人口動態(1300/1550/1750/1843年、1834/1871/1890年)が示されている。中世盛期の植民活動によって一挙的に創出されたフーフェ農民は、中世末期の農村荒廃にもかかわらず、農民追放がなく、農民保護政策が効果的に行われた本領地域では、基本的に推持されていく。しかし以前は都市に流出した農村過剰人口は、16世紀以降は園地農、小屋住農等として農村で激増していった。彼らは農業賃労働と手工業とによって生計を支えていた。19世紀には彼らを基盤として農村工業が広範に展開し、産業革命の本格化するまでは農村人口の増加率が都市のそれを上回っていた。 次に第二章第一節では、ザクセン地方史研究の膨大な蓄積に依存しながら、個別集落、騎士領レヴェルでの封建地代償却の具体的・数量的事実の整理を行っている。ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツ、ツヴィッカウの四県各郡毎の村落別に(1)償却協定締結ないし承認の年、(2)権利者と償却対象、(3)義務者と年償却地代額、(4)地代の諸形態(賦役、現物貢租、貸幣貢租)毎の償却額、(5)各集落の地方行政上の位置の変遷、裁判権の所属、が逐一確定されている。 例えば1840年に農民33人、園地農5人、小屋住農48人、水車屋2人、居酒屋2人、騎士農場1の土地保有者を持つザイファースドルフ村(721.7ha)では、この騎士領(農場、51.6ha)に対して、230組の連畜、刈取り53日、大鎌刈取り551/2日、麻糸紡糸19巻が当村から、また当村から約半時間のシェーンボルン村から刈取り771/2日、大鎌刈取り25日、麻糸紡糸10巻が賦役として行われていた。1835年にその償却をめぐって、領主側と村民側の算定がそれぞれ提出されるが、両者は算定額でくい違い(後者は前者の半分)、協議に持ち込まれ、結局1842年9月に、賦役・現物貢租・放牧権の償却に関する協定に署名された。騎士領への償却地代総額は776T(ターラー)4G(グロッシェン)6P(ベニッヒ)であり、そのうち738T16G6Pは委託地代銀行に委託され、残額は現金で支払われた。 こうした封建地代の償却は、1832年を起点とし、委託地代銀行による証券発行の形で行われた。それは「九月騒乱」期および三月革命期における農民運動(請願運動)を背景として推進された過程であった。 第二節では、郡レヴェルで同様の分析がなされている。すなわち、北部のグローセンハイン郡全体について、1896年にF.O.グレーセルが刊行した村別、年度別の委託地代額の数値を含む資料集が整理されて紹介されている。著者はそれの分析を通じて、土地負担の構成(村落群別、権利者群別、種目別の実態)を数量的に確定しようとしている。とくに村落群別ないし騎士農場別の耕地面積の確定によって、農民耕地1ヘクタール当たりの土地負担を、また農村人口の確定によって、1フーフェ当たりの土地負担を確定している。その上で、当郡では農民の土地負担は、騎士農場の比重の大きさの故に、全国平均よりも1/4ほど重くなっていると結論している。最後に償却事業の進行過程を全国平均と比較することによって、ザクセンでは三月革命直前期ないし50年代初頭に償却事業が集中していたことが明らかにされている。 第三章では、ザクセン全体に関る全国レヴェルでの二つの統計、すなわち償却件数全国統計および委託地代銀行に委託された償却地代の統計が検討されている。これらは公式の官庁統計であり、旧東ドイツを代表するR.グロースの農民解放史研究の基礎となったものであるが、著者はこれに対して厳密な資料批判を加え、土地負担の権利者・義務者、地域差への配慮、また償却の提議・決済件数について、狩猟権の償却また土地負担種目別の金額等について不正確であると指摘している。 この様に本論文はザクセン王国の国制史、地方行政史、中部ドイツ荘園制史、人口史を概観した後、とりわけザクセン本領地域における封建地代の償却過程を、村レヴェルおよび郡レヴェルに降り立つて、著者の驚くべき勤勉を示す資料・文献の徹底的な博捜と批判の上に、具体的・数量的に跡づけた。こうして本論文の第一の特長は、精密な資料考証に基づく統計資料の整理に立脚してドイツ農民解放史研究を行ったことにある。この様な研究はわが国はもちろん、ドイツにおいても今なお存在しないのであり、かかるものとして本論文はすでに学界において高い評価を得ている。 第二に、従来わが国ではドイツ農民解放史に研究はもっぱら、農場領主制の支配していたプロイセンにおける「調整」(Regulierung)をめぐって行われてきた。それに対して本論文は初めて中部ドイツ荘園制の支配するザクセン本領地域について、封建的土地所有からの農民の有償解放のもう一つの方式である「償却」(Ablosung)の過程を解明した。本論文は「償却」の実態を明らかにしたわが国で初めての本格的な研究である。 以上の二点において、本論文はわが国におけるドイツ農民解放史研究の水準を大きく引き上げるものであると評価することができる。 もとより本論文にはいくつかの問題点が含まれている。第一に著者が、償却に関する信憑性の高いデータの作成と提示に心血を注ぎ、「解釈」を避けて、極力一次資料や統計資料それ自体をして語らしめる態度に徹しようとした結果、償却の具体的な手続き、また償却のみならず共有地分割等をも含む農民解放の全体的な過程についてのバランスのとれた像がかえって不鮮明となり、行論が読みづらいものとなっていることが惜しまれる。 第二に著者は荘園制(グルントヘルシャフト)を優れて領主-農民関係としてとらえ、償却によるその解消過程を跡づけた。そのこと自体は正しい。しかし反面、グルントヘルシャフトの基礎構造をなすフーフェ.・レヴェル、グマインデ・レヴェルでの考察が概説にとどまっているため、フーフェの非所有者としての奉公人階層のフーフェ農民と並ぶ本源的-基軸的意義が見失われ、したがってまた、グマインデの完全メンバーたり得ない園地農、小屋住農、間借人といった農村下層民が、実は奉公人からの上昇階層であることが認識されず、さらに運動史のレヴェルでは「農民」と[農村住民」とがややもすれば同一視され、農村下層民の推進主体としての独自性が見失われ、逆に農民の請願運動が過大評価されるという結果になっている様に思われる。 第三に、J.ヘイナル、II.ハルニッシュ、M.ミッテラウアーらの問題提起を受け止めつつ、人口史と土地制度史との内的関連にメスを入れていたなら、本論文の人口史に関する部分の学問的価値は飛躍的に高まっていたのにと惜しまれる。 第四に、領邦単位での農民解放という事実を強調する著者は、農場領主制が支配的であったとはいえ、1635年以来ザクセン選帝侯領であったオーバーラウジッツをも考察対象に含めるべきではなかったであろうか。 しかしながら、この様な問題点は、先に指摘したドイツ農民解放史研究に関する本論文の開拓的な意義を損なうものではない。本論文はわが国のドイツ経済史研究の水準を引き上げたものであり、博士(経済学)の学位に値すると認められる。 |