学位論文要旨



No 211771
著者(漢字) 櫻井,靖久
著者(英字)
著者(カナ) サクライ,ヤスヒサ
標題(和) H215O-PETによる漢字および仮名文字の読字過程の解析
標題(洋)
報告番号 211771
報告番号 乙11771
学位授与日 1994.04.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第11771号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 佐々木,康人
 東京大学 教授 桐野,高明
 東京大学 教授 桐谷,滋
 東京大学 助教授 西川,潤一
内容要旨

 読字過程の神経機構に対するアプローチには,失読を対象とした臨床神経心理学,正常者,難読症者を対象とした認知心理学,positronemission tomography(PET)によるactivation studyの3つの流れがある。本邦における臨床神経心理学的研究によると,角回病変による失読失書では仮名読みの障害が強く,側頭葉後下部の損傷で漢字に比較的選択的な失読失書を生じ得るという。このことから漢字と仮名とは読み取りの神経機構(形態,意味,音韻処理)が異なることが予想される。英語圏でのPET studyは,単語の視覚入力で両側一次視覚野,視覚連合野,右の側頭・後頭移行部が賦活されることを明らかにした。ところが,日本語の漢字または仮名を読ませた場合,どこがどの程度賦活されるのかは,全く知られていない。この問題を明らかにすることは,読字の神経機構を考えるうえで,また言語獲得の比較文化的な研究の意味でも,極めて重要なことと思われる。そこで本研究では,H215O bolus静注法によるPETを用いて,漢字および仮名文字の読字中の局所脳血流の変化を測定し,臨床的に明らかにされている読字に関わる部位を中心に,読字過程のメカニズムを明らかにすることを目的とする。

 被検者:日本人の文学部学生で,強度の右利きと判定された者15人(男9人,女6人)。漢字単語音読,仮名単語音読,無意味仮名音読の3つの課題条件に5人ずつ無作為に割り当てた。

 方法:被検者に1.4m前方の黒いスクリーン上に投影された白抜きの刺激(点または文字)を凝視するが,音読するよう教示した。課題内容は,1)スクリーンの中央に映し出された凝視点の固視(コントロール課題),2)縦に並べた刺激文字(2文字の漢字単語,または3文字の仮名単語,3文字の無意味仮名)の音読,の2種類である。刺激呈示時間は300ms,刺激間隔は1700msで,1 scanの間に全部で80の刺激を連続して呈示した。凝視点固視課題,文字音読課題を交互にそれぞれ3回ずつ,計6回行い,各課題の間に20分の休止時間をおいた。刺激呈示は,H215O静注およびPET scanningの60秒前から行い,90秒間のscanningが終わるまで続けた。

 局所脳血流(regional cerebral blood flow,rCBF)の値は各scanごとに全脳平均血流(mean whole CBF)が一定(40ml/100g/min)となるようにnormalizeした。subtraction画像は,個々の画像をnormalizeした後,文字音読課題3回の加算平均から凝視点固視課題3回の加算平均を引いて作成した。定量的に評価するため,各scanごとに直径16mmの円形の関心領域(region of interest,ROI)を左右対称にいくつかのスライス上に置き,rCBFを計測した。 統計的有意性はactivation scanとその直前のfixation scanのデータの組(5人×3回の繰り返し,計15個)について,対応のあるt-検定で繰り返しのあるものを用いて検討した。

 結果:漢字単語,仮名単語,無意味仮名いずれも共通して賦活されたのは,左側頭葉後下部,左Heschl回,Broca野,左基底核であった。仮名単語,無意味仮名ではさらに両側後頭葉内側面・外側面,右Heschl回,右下前頭回後部,補足運動野,右視床も賦活されていた。漢字単語,仮名単語では右側頭葉後下部,右基底核も賦活された。それ以外に,漢字単語では右上側頭回後部,左視床,仮名単語では右小脳,無意味仮名では左小脳も賦活されていた。

 一方,頭頂葉は全く賦活されず,むしろ活動性が有意に低下(deactivated)していたところがあった。即ち,左角回がいずれの課題でも低下し,両側縁上回が無意味仮名で,右縁上回および両側上頭頂小葉が,漢字単語で低下した。

 無意味仮名と仮名単語とで,後頭葉内側面・外側面,側頭葉後下部におけるrCBFの増加量を定量的に比較してみると,後頭葉内側面・外側面でrCBFの増加量にほとんど差がなかったが,側頭葉後下部では,左において仮名単語が無意味仮名より有意に多くrCBFを増加させた。漢字単語課題では,側頭葉後下部で血流増加が左でやや多いが,左右差は有意でない。rCBFの増加量が左優位(左右差が統計学的に有意)であったのは,仮名単語課題のみであった。

 つぎにBroca野を含む下前頭回後部についても各課題で左右差の有意性を検定したところ,左優位が認められたのは,漢字単語音読課題のみであった。

 考察:

1.方法論的考察

 本研究で我々がとった方法は,各個人ごとにROI baseで解析する方法(ROI法)である。ROI法は同じスライスレベルのMRI画像との重ね合わせを行えば,賦活された領域を正確に決定できるという利点がある。また標準化アトラスに一致させるような画像の変形は行っていないので,賦活部位における血流変化を定量的に評価できるという長所もある。難点は,ROIのとり方に由来するもので,ROIの大きさ,設定する数,とる場所によってカウント数は容易に変化する。即ち,客観性を期するのが難しい点が,この方法の最大の難点である。このROI法の限界を認識したうえで,結果を考察する。

2.漢字,仮名の賦活領域とrCBFの増加量

 漢字単語音読課題で賦活されたのは後方領域では両側(左優位)側頭葉後下部のみであったが,仮名単語音読課題では両側後頭葉内側面(一次視覚野),外側面(視覚連合野)から両側(左優位)側頭葉後下部を含む広い範囲が賦活された。無意味仮名の賦活領域も同様であったが,仮名単語と異なり,右側頭葉後下部の有意な賦活は得られなかった。臨床的に,左側頭葉後下部病変による失読失書で急性期に仮名に強い失読を示すものでは,病変が側頭葉後下部から後頭葉外側面に及ぶのに対し,漢字に強い失読を示すものでは,病変が側頭葉後下部にとどまるか,あるいは側頭葉の前方または内側まで及んでいるかのどちらかであることが指摘されている。これは本研究の結果に一致するものである。

3.側頭葉後下部におけるrCBFの増加量

 側頭葉後下部は,英単語や英語のつづりの規則に従う無意味語(regular non-word)の視覚呈示では賦活されないが,顔や形の弁別課題では両側ともほぼ等しく賦活されることが明らかにされている。このことから,側頭葉後下部は文字の形態的特性に対して反応していると考えられる。漢字が仮名に比べ,血流増加の左右差が著明でなかったという事実は,漢字が仮名より形態的に複雑であり,従って漢字の読みに形態処理がより多く関わっていることを示唆している。

 また,側頭葉後下部における仮名単語と無意味仮名のrCBFの増加量を比較すると,左で仮名単語が無意味仮名より有意に多くrCBFを増加させ,またこの仮名単語においてのみ左右差が有意であった。この事実は,仮名単語の意味的属性が側頭葉後下部を左優位に賦活させること,言い換えると左側頭葉後下部は形態処理以外に意味処理も行っていることを示唆している。

4.Wernicke野,角回/縁上回の血流変化

 漢字,仮名いずれの条件でもWernicke野は賦活されなかった。角回/縁上回に関しては,頭頂領域はむしろ血流が有意に低下していた。即ち,左角回がいずれの課題でも低下し,さらに無意味仮名では両側縁上回が,漢字単語では右縁上回および両側上頭頂小葉が低下していた。この活動性低下の意味は,現時点では不明である。

5.言語出力系の賦活

 言語出力系に関しては,Broca野を含む左下前頭回後部,左基底核(主要構造は被殻)がすべての課題で賦活され,仮名単語および無意味仮名課題では,右の下前頭回後部,両側補足運動野が,漢字単語および仮名単語課題では,右基底核も賦活された。また,仮名単語で右小脳が,無意味仮名で左小脳の血流も増加した。その他,漢字単語で左の視床が,仮名単語および無意味仮名では,右の視床が賦活された。概して,音読課題では左または両側下前頭回後部,左または両側基底核,両側補足運動野が同時に賦活され,また,時に左または右の小脳,左または右の視床の賦活を伴うといえる。

 Broca野の賦活に関しては,本研究では漢字単語音読課題で,左下前頭回後部のみ有意に賦活されたが,仮名単語および無意味仮名音読課題では,両側下前頭回後部が賦活され,必ずしもBroca野のみが賦活されるわけではなく,対側のBroca野相当領域の賦活も伴い得ることがわかる。また,rCBFの増加量の左右差が有意であったのは,漢字単語音読課題のみであった。subtraction画像上は,15名中13名の被検者で左のBroca野を含む領域が対側より広範または明瞭に賦活されていた。画像上の左右差が必ずしも定量的評価に反映されていないのは,ROIの範囲が狭かったからと思われる。

 最後に,今回は読字の音韻処理がどこで行われているかは,明らかにすることができなかった。これは今後の課題である。

審査要旨

 本研究は日本人の失読失書症者でしばしば見られる漢字または仮名の選択的障害の神経学的基盤を明らかにするため,H215O静注法によるPET(Positron emission tomography)を用いて,漢字単語,無意味仮名文字列,および仮名単語の音読課題遂行時の局所脳血流変化を比較検討したものであり,以下の結果を得ている。

 1.無意味仮名文字列,仮名単語が両側後頭葉内側面・外側面,左側頭葉後下部を含む広い範囲を賦活したのに対し,漢字単語は両側側頭葉後下部を賦活したにとどまった。

 2.仮名単語と無意味仮名文字列とでは,両側後頭葉内側面・外側面が同程度に賦活されたが,側頭葉後下部は仮名単語で両側が左優位に賦活され,しかも左側頭葉後下部における血流増加量は無意味仮名のそれを有意に上回っていた。

 3.頭頂領域で賦活されたところはなく,左角回はいずれの課題でも血流が有意に低下していた。

 4.発語に関わる領域では,左または両側下前頭回後部(Broca野を含む)が賦活された他,両側補足運動野,左または両側基底核が賦活され,時に左または右の視床,小脳の賦活も伴っていた。Broca野の左優位の賦活が見られたのは,漢字単語音読課題のみであった。

 以上,本論文は漢字単語および仮名単語の読みに働く脳の領域が両者で異なり,また同じ領域でも,読字中の血流変化量が漢字単語,無意味仮名文字列,仮名単語の間で異なることを明らかにした。欧米では同種の研究は単語のレベルでの解析が進んでいるが,本邦においては日本語の漢字単語,仮名単語を視覚刺激に用いた研究はほとんどなく,本研究で得られた結果は,これまで全く明らかにされなかったことである。本研究は日本人の失読症者における読字障害発症のメカニズムに理論的基礎を与えるものであり,また言語獲得の比較文化的研究にも重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク