柿本人麻呂に関する研究はきわめて多いが、「柿本朝臣人麻呂歌集」から採録されて万葉集に載る364首の歌を含めて人麻呂の全体像を捉えることは、なお十分には成されていない。人麻呂歌集歌がはじめて歌を文字化するという歴史的位置にたつことにふまえて、歌集歌から、人麻呂作歌(題詞に人麻呂作と示す歌)までを通じて、全体として人麻呂のはたしたところを見ることがもとめられるのである。本論文はそうした人麻呂の全体把握を試みようとしたものである。 本論文は、序として「古代和歌史における人麻呂」を置き、以下I〜IVの四部十八編の論考をもって構成する。I「人麻呂の離陸」では歌集歌を対象とし、II「人麻呂作歌への視点」III「人麻呂作品をめぐって」では人麻呂作歌に即して考察し、IV「人麻呂の文学史的周辺」では周辺的問題に眼を及ぼした。序は、それらを概括的にまとめたものである。 Iの諸論考では、歌謡的世界からの離陸という点から歌集歌にアプローチした。歌謡的世界において、歌は場においてなりたつ、集団的なものである。それらの歌は「個」の抒情の歌とはいえない。「共有」される歌というべきである。「共有」というのは、自分の歌がそのまま他人の歌になりうる、逆に、他者の歌を自己の歌になしうるというありようである。ひとつの歌が一回的に特定の個に帰するのではない。ひとつの歌に対して複数の「作者」がありうる。自他の信頼を無前提的に保つところで歌うのであり、自らの心がそのまま他者の思いでもあることを信じうるところで歌うのである。そうした信頼においてなりたった歌として「共有」される歌というのがふさわしいが、人麻呂はそこから離陸する。題詞をもって歌を限定しつつ、自らの心を歌いうる表現の形を、歌集歌における新しい層、非略体歌のなかで獲得していくのである。それは短歌の成熟として捉えられる。文字によるということを本質的にふまえて、巻向歌群と呼ばれる歌や紀伊国での挽歌などにおいて見るべきものである。 その短歌の成熟のうえに展開されたものとして人麻呂作歌は正当に捉えることができるのである。時代は歌に新しい質を要求している。漢詩に対抗しうるる自国の文学形式を、中国に相対して自らひとつの世界であろうとするところで、文化としてもとめるのである。長歌を更新し、時代の文化をになうものとして、これを短歌とならべることによって人麻呂はこの文化の要求にこたえたのであった。それは短歌のなかで得たものを通じてはたされたといえる。近江荒都歌は人麻呂作歌の中で最もはやい時期の作だが、そこでは、自然と人の世とを逆接・対比のなかで歌い、無常というべき悲哀に結びとめて抒情的統一を与えつつ長歌として組織する。それは歌集短歌のなかで得た歌の形の拡大によって成された。こうして長歌にも新たな局面をひらき、和歌の文学的可能性が開示されたが、注目されるのは反歌である。反歌は、長歌のあとに短歌を歌いそえる様式だが、長歌と短歌とを結合したもの、すなわち、歌のもちえた二つの基本形式をくみたてた様式である。長歌と短歌とは、元来、成立を異にし、別個な歌と見るべきものである。これを結合して和歌という一つの文学領域とするものとして、反歌の意義を見ることができる。額田王にもすでに先駆的に見られた反歌を、人麻呂は自覚的に推進した。反歌を定着するとともに、内容的にも、長歌の繰り返しや強調におわるのでなく、複数の反歌へと発展させ、長歌とあわせてひとつの有機的展開を意図するものへとすすめた。長歌にとって、短歌の開いてきた自由な抒情の方法をひきとり新たな展開を開拓することであるとともに、また、短歌にとっては、短歌としてのありようを自覚的にとらえかえして方法化することへ導いた。和歌の文学的可能性はここではじめて全体として開示されたといってよい。人麻呂作歌の諸作品を通じてそのことを見届けていくことができる。特に、吉備津采女挽歌には、反歌の方法という点で問題が集約的にあらわれることに注目した。ここでは、長歌は近江朝の時点にたって采女の死を伝え聞いて嘆くのだが、反歌は時間をずっと後にずらして入水地で回想するものとなっている。長反歌が時間の広がりをつくる構造体として構えられているのである。そうした作品の組織において歌の方法的可能性を追及し、歌の新しい水準を実現したということができよう。(II・IIIの諸論においてこれを論じた。) そのなかで、人麻呂の表現の営為は、その表現をつうじて時代の思想に形を与えるというべきものであったことも留意される。外側にあった思想や神話によって歌ったのでなく、人麻呂の表現をつうじて時代のはらんでいるものがはっきりと形づけられてくるというべきなのである。天皇即神の思想は「大王は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」(万葉集巻3・235歌)という人麻呂の歌によってはじめて表現として獲得されたといってよい。「大王は神にしませば」と歌うものは他にもあるが、人麻呂自身をも含めて(巻3・235歌或本、巻3・241歌)その他の歌との間には決定的な差がある。235歌において「天雲」は天上の神と人とをへだてるのであり、又、「雷の上に│は単に山の名としてではなく「雷」そのものとしていいなされる。その他の歌が現実の具体的な事柄を離れることがないのとは違って、現実の事柄をこえて、非地上的な存在としての現前を表現しているのである。人麻呂自身の歌においても235歌或本・241歌と235歌との間で異なるのであり、それは人麻呂内部の表現史というべきである。天皇即神の表現を獲得する人麻呂内部の表現史である。また、これとは別に、天武天皇をめぐって神話化するところでは王権の神話的根拠付けを与える表現を獲得していく。167歌において、天地の初め、神々が天と地とに分掌せしめたところの、地上の支配を実現すべく神下ってあらわれたのだと、天武天皇を神話化するのは、始祖神話として人麻呂が表現することを通じて始めて形となったというべきであろう。古事記や日本書紀とは違う神話であり、古代王権の多元的神話化の状況として理解することがもとめられる。II・IIIの諸論においては、このような問題を含めて考察した。 IVでは、周辺の問題を扱ったが、上のような人麻呂の見定めを経て、万葉集巻13の長反歌の位置付けや、人麻呂の構成体の試みをうけた大伴旅人ら後の歌人たちの営み(たとえば「松浦河に遊ぶ歌」)の意味が、明らかとなることなどを示した。 以上、本論文は、人麻呂を全体として捉えることのなかで古代和歌文学史の機軸にせまろうとしてきたものである。 |